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曽野綾子話法

「ハフィントンポスト」のブログから転載。
東大話法ならぬ、「曽野綾子話法」というのが明確に分かりますwww

曽野綾子の文章は、何十年も前からまったく読まなくなったので、最近の彼女の妄言は二次情報を経由してのものしか知らない。読めば不快になるのが分かり切っている文章を読む気力など私には無いのである。
だからこそ、彼女の妄言が妄言であることを論理的に解析した下記記事は、私にとっては有り難い。それは、私が曽野綾子の文章を読まなくてよかった、という確証を与えてくれたからである。
もっとも、世間の大半の人々はこの武田氏のように分析的に文章を読む能力は無いから、残念ながら曽野綾子の「浮薄な噂程度の情報を元にし、何の論理性も無いものだが、自分は選ばれた人間だと信じる人間たちを満足させるような、社会の下層の人々を見下した論断」こそが、彼らを大満足させるものではないか。いや、社会下層の人々さえ、彼女の言葉に頷いて、「自分の不幸は自分の努力不足のためだ。もっと頑張らねば」と考え、努力に努力を重ねて社会の消耗品としての人生を送るかと思う。まあ、努力の結果、多少の地位の向上はあるだろうから、彼女のような「辛口」の言説の意義も少しはあるわけだ。イワシの頭を信心する程度の意義だが。
かくして、虐げられた人々、努力しても報われる余地の無い人々の悲鳴は埋もれ、谷間の百合さんではないが、「すべて世は事も無し」が続いていくのである。


(以下引用)後半(難病者の問題)はやや詳細すぎ、いささか冗長に思うので、「曽野綾子論」の大筋だけ知りたい人は前半だけ読めばいいかと思う。



        

「誰かを叩きたい欲求」を誘発し続ける古びた論客

投稿日: 更新:

■曽野綾子氏にとって成熟とは何か


曽野綾子氏の『人間にとっては成熟とは何か』は「2013年・年間ベストセラー」の総合7位を記録した(トーハン調べ)。曽野氏の言い分のテッパンである「戦争中に比べれば今はなんて贅沢」「途上国に比べれば日本は恵まれている」「若者や女性はなんでも社会に権利を求めるな」というテーゼは、どの本でも共通している。チェーン店のように、どこで何を開いても同じ味を出してくる。最近の日本人(特に若者)は甘やかされている、とする彼女のスタンスが暴走したのが、この夏の週刊誌で物議をかもした「女性社員は子どもが産まれたら会社をお辞めなさい」という時代錯誤も甚だしい見解だった。さて、年の瀬、『週刊ポスト』新春合併号に掲載された曽野氏の年頭エッセイ「浅き夢見て」を読んで卒倒、浅い夢なら醒めてくれと個人的な卒倒だけでなんとか済ませようと踏ん張ったのだが断念、曽野氏の薫陶が世に受け入れられている現状を知れば、そこに懸念を向けて、年末の挨拶に代えさせていただくことをお許し願いたい。


■「原発を承認して住んだのだから」とはいかなる意味か


今もなお、全国で27万8000人(復興庁・11月27日発表)を数える避難者の頬をいたずらに引っぱたくような発言が繰り返される。
「不運や不幸を社会が補償するのが当然だ、というような発想は全く最近のものである。厳密に言うと、今回の事故でも、原発ができる以前からあの土地に住んでいた人はほんとうにお気の毒であった。しかし原発ができた後であの土地に移り住んだ人は、原発を承認して住んだのだから、補償の額も違って当然だろう」。
この手の「ズバリ言うわよ!」的な妄言が、一部で「よくぞ言ってくれた」と受け入られる可能性は高い。原発事故は地域を引き裂き、個人を孤立させた。孤立した個人は、共に歩んできたはずの隣人との「差」を気にし始める。曽野氏は、その「差」の傷口に塩を塗っていく。意識の変化や立場の差は実際に生じているのだから、効果はある。出産発言と同様、ここでも個々人で生じているわだかまりに向かって、争いを誘発する言葉を撒く。個々の声に寄り添うならまだしも、塩を撒くのは、ヘリコプターの上からだ。


問いたい。「原発を承認して住んだのだから」の「承認」とは具体的に何を指しているのか。福島県の不動産のチラシに「そのうち爆発しますのでお安くしておきます」と書いた物件が一軒でもあったろうか。絶対安全です、と呪文のように唱え続けることで騙し倒してきただけではないか。経済産業省・総合資源エネルギー調査会基本政策分科会は、年明けに閣議決定する「エネルギー基本計画」で、原発について「基盤となる重要なベース電源」であると明記するという。原発輸出で外貨獲得に勤しもうとする政府が、国内で原発を稼動してなければ売りにくいっしょ、と企んでいるわけだ。こういった「国家的詐欺の再稼動」を後押しするかのように、馴れ合いの人生訓を染み込ませて「そもそも人生は苦悩に満ちたもの」と悟られると、反論のために用意する言葉がどこまで汚くなっていくのを抑えることができない(必死に抑えた)。


■具体例の無い人生訓に付き合っているだけではいけない


生活保護バッシングで繰り返された典型例、「生保(ナマポ)なのに、パチンコ屋に通ってる」に始まる、「意外と悠々自適なんだよアイツら」と同じような風説を、曽野氏は被災地にも持ち込んだ。
「自宅に戻れなくなった地域の人が、(中略)補償として大人から子供まで月十万円の補償を受けるようになった。そのような家の子供が、転居先の町で、タクシーを乗り回していると先日教えてくれる人がいた」と書く。ひと呼吸置いて「この手の話は無責任な噂話かもしれない」としているのもかかわらず、最終的にエッセイを「苦悩に満ちているのが人生の定型だと認識して一生歩き通すのだ、という覚悟を決めたほうがいい」という訓示で締めくくる態度には、1ミリも心を寄せたくない。補償金によって、地域住民が分断されているのは確かだ。では、分断したのは誰か、という主語を探す時に、その主語が受け取る側にはないことくらい、お気づきいただけないものか。


世代論を、結局のところ建設的な議論を育めないから、と避ける人が多いが、下記のように言われれば、なかなか黙ってはいられまい。
「今、私たちの世代(注:曽野氏は現在82歳)が集まると、社会はどうしてこれほどに、世間を甘やかすようになったのだろう、と言う。若者を甘やかし、年寄りを持ち上げ、障害者の言うことなら何でも正しい、とする。怠け者の貧困さえも人間的なことになったのだ。こんな甘やかしの時代を、私たちは見たこともない」。
これほどまでに暴力的な見解をそのまま載せて年頭挨拶とさせる甘やかしをこれまで読んだことが無い。ちっとも具体例の無い人生訓に付き合っているだけでは何だかこちらまで軽薄と思われてしまいかねないので、なかでも許し難い横暴な言質「障害者の言うことなら何でも正しい(とするなんて)」に関連して、具体的な反論を投げてみることにしよう。ちょうど今、「障害者の言うこと」が切実に問われている案件がある(なお、難病と障害者の言葉の用い方については、難病情報センターHPにあるこちらの見解を参照した)。


■医療費助成制度改正により、全ての難病に自己負担


厚生労働省は2015年1月から難病の医療費助成制度を改めようとしている。骨子としては、助成対象になる難病を現状の56から約300に広げ、現状自己負担ゼロだった重症者にも負担を求めていくという。難病指定を広げることで、助成を受けられる患者が現在の78万人から100万〜150万人ほどに拡大されるのは歓迎すべきだが、逆に、これまで負担なしで治療を受けてきた難病患者に対しても負担を求めることになる。厚労省は当初、自己負担の上限を月3000円~44400円としていたが、患者団体などからの負担増への懸念を受け、月1000円~30000円へと下方修正した。


難病とは文字通り、治すことが難しい病であるから、半永久的に負担を強いられることになる。具体的に下方修正される前の記事(朝日デジタル)で、日本難病・疾病団体協議会の伊藤たてお代表理事が「重症の定義があいまいで、どの程度負担が軽くなるのかわからず、現時点で評価できない」と慎重になっているように、膨れ上がる医療費を何とかして抑制しようと試みる政府の思惑に翻弄されないように注視していく必要がある。なお、生活保護を受けている人はこれまで通り負担なし、負担額は世帯年収に応じて決まるという。この辺りの「曲解」も不安ではある。


■「この法案は、人間の個人的な『死』に関して国家が介入するという政治的なもの」


難病患者には、もうひとつのプレッシャーが重なった。尊厳死に関する法案を検討する自民党のプロジェクトチームが今月3日に初会合を開き、尊厳死の法案化について、来年の通常国会提出を目指すとしたのだ。「法案では、患者の事前の意思表示があり、医師が回復の可能性がなく死期が間近と判断した場合に、医師が延命措置をしなくても『刑事上などの責任を免除される』としている」(毎日新聞)というのだから、この法案によって醸成されるであろう世論は、難病患者にとっては大きな心理的負担となる。「尊厳死の法制化を認めない市民の会」は極めて明確な反対声明を出している。「この法案は、人間の個人的な『死』に関して国家が介入するという政治的なものです。(中略)法制化の動きは増大する医療費の圧縮や臓器移植への期待などを背景にして活発になってきております。わたしたちは、本来の意味での『死の尊厳』を守るためにこれを阻止しなければならないと考えております」。
石原伸晃氏は、胃ろう措置で暮らす患者を視察して「人間に寄生しているエイリアンが人間を食べて生きているみたいだ」と言ってのけたし、麻生太郎氏は終末医療について語る際、患者を「チューブの人間」と呼び、「私は遺書を書いて『そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから』と渡してある」とした(ロイター)。尊厳死の法制化は、こうした「重い障害のある者は去れ」と言わんばかりの雰囲気作りとリンクさせて考える必要がある。


■「誰かを叩きたい」欲求に対してこれほど速効性のある餌まきは無い


曽野綾子氏の「障害者の言うことなら何でも正しい(とするなんて)」という言い様は、何もこの記事だけではなく繰り返されてきた。(これはこれで差別的な言葉だが)彼女の論旨を「老害」の一言で片付けてしまう人も多い。確かに、そうやって片付けてしまいたくもなる。しかし、彼女の「成熟」とやらがここまで世間に受け入れられ、世間の「雰囲気作り」に一役買っているのだとすれば、やっぱりこうやってわざわざ断じておきたくなる。この10月まで、道徳の教科化を提言してきた、政府の教育再生実行会議の有識者メンバーだったことも敢えて記しておきたい。


最近読んだ傑作ノンフィクションに、清水潔『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続誘拐殺人事件』があるが、この本の中で著者は「最も小さな声に耳を傾ける」ことを自分に課し続ける。とても心に刺さるテーゼ、だった。大きな声、つまりは、雰囲気だけで大勢をさらっていくような、分かりやすくインパクトのある声や姿勢は、確実に小さな声を揉み消していく。被災者は補償金で潤っててタクシーに乗ってる子供までいるそうよ、障害者も女性も権利ばかり叫んでるけども人生とはそもそも苦労の連続なのよ、若者たちは甘えてるわね私たちの頃やアフリカの子どもたちとは違って......こういった大胆な言動がウケるのは分かる(いや、ホントはちっとも分からないんだけど)。今年、だいぶその手の方々から乱暴なメールを頂戴したが、あちこちから湧く「誰かを叩きたい欲求」に対してこれほど速効性のある餌まきは無い。この手の餌まきは特段彼女だけがしているわけではない、あちこちで繰り返されている。小さな声を発しようとする人たちの口を黙らせようとする強引な言葉遣いを「成熟」とは呼ばせない。

                    
 
     
 
           
消費者が選ぶ2013年の時事・世相ランキング
1 / 11
時事通信社
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10位 きゃりーぱみゅぱみゅ
▽きゃりーぱみゅぱみゅ 
歌手、モデル 
(東京・恵比寿ガーデンホール) 

撮影日:2012年02月07日
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外国マスコミを通じて日本の現実を知る

二つの記事はどちらも「イランラジオ」から転載。
はたして、日本の大手マスコミは沖縄に関するこういう記事を取り上げるか?
日本のことを知るのに、外国(特に非西側)のマスコミに頼らざるをえない、という現実。


(以下引用)



2015/02/15(日曜) 18:57

アメリカ国防総省元関係者、沖縄米軍基地移設を批判


アメリカ国防総省のカレン・クイアトコウスキ元分析官が、沖縄のアメリカ軍基地の移設を批判しました。



クイアトコウスキ氏は、14日土曜、プレスTVのインタビューで、「沖縄のアメリカ軍基地の移設は、明らかにアメリカの誤った考えであり、この地域に混乱をもたらすだろう」と語りました。
また、サンフランシスコ連邦地裁が沖縄のアメリカ軍基地の移設中止の訴えを棄却したことについて、「これは、アジアでの中国の強大化に対するアメリカの懸念を物語っている」と語りました。
クイアトコウスキ氏は、「アメリカは、アジアの状況や中国の力を懸念しているため、アジアに軍事基地を設けようとしている」としました。
サンフランシスコ連邦地裁のエドワード・チェン判事は、沖縄のアメリカ軍基地の移設中止を求める訴えを棄却しました。
この訴訟は、日本の市民団体や環境保護団体を原告とし、2003年から始まりました。
この訴状には、アメリカのヘーゲル元国防長官の名前が挙げられています。
この訴状では、「この基地の移設が、地域の生態系を危険に晒している」とされています。
沖縄の住民は、これまで何度もデモを行い、アメリカ軍基地の撤収を求めてきました。
アメリカ軍は第二次世界大戦後、日本に配備され、現在、沖縄には2万6000人のアメリカ兵が駐留しています。


 
2015/02/15(日曜) 18:41

アメリカ連邦地裁、沖縄の米軍基地の移設中止の訴えを棄却


アメリカ・サンフランシスコの連邦地裁のエドワード・チェン判事が、沖縄のアメリカ軍基地の移設工事中止の訴えを棄却しました。



プレスTVが14日土曜、伝えたところによりますと、チェン判事は、この訴えを棄却すると共に、「アメリカ軍基地の移設計画を中止させる権限はない」と語りました。
また、「サンフランシスコ地裁は、アメリカ軍の国外の施設の移設に介入する力はない。この基地は、日本政府の協力により、すでに締結されたアメリカの取り決めに基づいて移設される」としました。
この訴訟は、日本の市民団体や環境保護団体を原告とし、2003年から始まりました。
この訴状には、アメリカのヘーゲル前国防長官の名前が挙げられています。
この訴状では、「この基地の建設が、地域の生態系を危険に晒している」とされています。
原告の一人である生物多様性センターのピーター・ガルビン氏は、控訴の意志を示しています。
環境保護活動家は、「基地建設のために辺野古を埋め立てれば、地域の農地や住民が大きな被害を蒙る」としています。
沖縄の住民は、これまで何度もデモを行い、アメリカ軍基地の撤退を求めてきました。
アメリカ軍は第二次世界大戦後、日本に配備され、現在、沖縄には2万6000人のアメリカ兵が駐留しています。



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「グローバル標準の米国式経営」の馬鹿馬鹿しさ

「リテラ」記事から抜粋転載。
「グローバル標準の米国流経営」というものがいかに馬鹿げたものかを如実に示している。
誰が考えても、

ROAを高めるには、経営指標の分母となる手持ちの総資産を圧縮するか(直営店の売却)、分子となる純利益を高めるか(価格の引き上げ、コストカット)のどちらか、もしくはその両方を行うことになる。


とある、このROA(総資産利益率:企業が保有している資産の活用効率を示す財務指標)を高める手段の「直営店の売却」と「価格の引き上げ、コストカット」が経営破綻への道であることは分かるだろう。コストカットとは、冗費のカットという限度を超えた場合、「お客に出す商品の品質を落とす」「従業員の労働条件を悪化させる」ことでしかなくなるものだ。直営店の売却(フランチャイズ制の推進)とは、店舗管理の目が行きとどかなくなることだ。そのどちらも事業そのものの品質低下につながる道であることは少し考えれば分かることである。
だが、原田泳幸は、下の者(社員)には高圧的に命令できても、上の者(株主)に対してはすべてご無理ごもっともでへいこらし、従う人間だった。その結果、現在の日本マクドナルドの凋落の原因を作り、さっさとベネッセに逃げていったわけである。
なお、原田氏が、ファストフードはスピードが大事とか言って、様々な新商品発売や店舗設備その他の改善を行ったのも、従業員にとっては労働強化以外の何物でもない。しかも、それで客が喜ぶのはほんの一時のことである。
人間は食い物には保守的なものだ。ファストフードでもそれは同じであり、原田氏の考え方は、それ自体根本的におかしいのである。本体のベイシックなハンバーガーさえ美味ければ客は来るものであり、奇抜なハンバーガーを作って話題になっても、長続きはしない。マクドナルドのベイシックなハンバーガーは、医学的・健康的には問題はあるにしても、一般大衆の味覚からすれば美味いものであったことは確かだ。その味に自信があれば、ほとんどそれ一本で押し通すのが本来だろう。それがブランドというものではないか。マクドナルドがやたらに新商品を出すのは、自分のブランドを自己否定しているようなものだ。ファストフードはファッション業界ではないのである。
それに、扱う商品の数や業務の種類が少ないほど従業員の負担は減り仕事の事故も減るものだ。仕事の負担が少なければ、給与は低くても仕事に応募する者はいる。低給与で高負担の仕事を喜ぶ人間がどこにいるものか。仕事量を増やして従業員を苦しめること(いわゆる労働強化)は、「すき家」の例などからも分かるように、長期的には経営破綻の要因になるものだ。
彼が「新商品や店舗改善によって業績回復した」と言うのは勘違い(または自画自賛の強弁)であり、彼が就任した直後の業績回復は、まったく別の要因によるものだ、と私は見ている。統計数字の操作と同じことで、数字など、基準変更などの操作でどのようにでも変えられるものである。まあ、業績回復が数字操作によるものだとは言わないが、要するに、「24時間営業」(原田氏がやった、ほとんど唯一の実効的「改革」)にしたら、売上の数字が上がるのは当然の話であり、新商品やくだらないイベント(これは経営責任者が「私は猛烈に働いています」という、株主アピールのためのポーズ。実際に「猛烈に働かされる」のは部下や従業員。)などまったく無関係だ、と私は思っている。営業時間の延長など、どこの阿呆でも考えられる、売上強化のための「業務改善」の初歩の初歩だ。だが、個人商店ではそれがすぐに自分自身の負担となるからやらないだけのことだ。その負担を命令一つで他人が負ってくれるなら、「業務改善」など簡単な話である。




(以下引用)


 法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科教授である著者が、経営学の視点から、日本マクドナルドの失敗の本質に迫っている。著者によれば、日本マクドナルドが凋落しはじめる転機は、2007年だという。04年にCEOに就任した原田氏はそれまでのマクドナルドを日本に輸入した故・藤田田氏の「マクドナルドの日本式ローカルモデル」経営から「グローバル標準の米国流」経営に変更。店舗効率の改善、商品品質の向上(メイド・フォー・ユーの早期導入)、ドライブスルー型の店舗と24時間営業の推進といった改革を矢継ぎ早に繰り出し、メガマックのヒットやマックグリドルの導入もあり、07年は売上高も利益率も急上昇。既存店の売上高は、前年を10.2%も上回り、売上高営業利益率も4.2%に上昇した(前年は2.1%)。ここから、高級アラビカ豆を使用した「プレミアムローストコーヒー」の販売を開始したり、携帯電話やスマートフォンの「eクーポン」を導入し、顧客の囲い込みをするなど、原田改革が絶好調に見えた時期だった。


 しかし、米国流経営の視点から見ると、まだまだ物足りないものだった。
「米国流の経営ではROE(株主資本利益率:自己資本に対してどれだけのリターンが生み出されているかを示す財務指標)を重視する見方が主流になってきている。米国は株主資本主義の国だから、一般的な経営指標としては、売上の伸びよりは収益性が優先される。原田氏がCEOに就任して、売上高は伸びた。経常利益率(4~5%)もまずまずの水準だ。」「ところが(略)ROEは、2005年では、水面下すれすれの水準で0.04%。2006年では1.2%。株主の立場(投下資本に対する収益率)からすれば、日本マクドナルドは残念ながら大きな利益を生み出しているわけではない。」「さらに、もう一つの指標であるROA(総資産利益率:企業が保有している資産の活用効率を示す財務指標)は2006年に3%、2007年に7.9%と、それほど儲かっていなかったのである。」



 世界のマクドナルドの中で、日本の売上高は米国に続いて第2位と、米国マクドナルド本社が海外オペレーションから得ている利益のおよそ3分の1を稼いでいる存在だ。米国本社はこれまではロイヤルティの対象となる売上高を見ていればよかった。


 だが07年には保有株数の約半数を米国本社グループが保有するまでになっており、米国流株主としての視点で、ROAを高めるように、経営に関与をするようになった。


 ROAを高めるには、経営指標の分母となる手持ちの総資産を圧縮するか(直営店の売却)、分子となる純利益を高めるか(価格の引き上げ、コストカット)のどちらか、もしくはその両方を行うことになる。



 米国マクドナルド本社でも、同様に、アクティビスト(物言う株主)と呼ばれる有力なヘッジファンドから、直営店の売却と経営効率の改善を迫られ、直営店の売却(フランチャイズ化)が進んでいた。このため日本マクドナルドでも、直営店の売却とコストカットが吹き荒れることになったのだ。08年から直営店の売却(フランチャイズ化)が加速し、「2年間で、直営店からフランチャイジーに区分移行した店舗は948店舗に及び、売却益は86億円にもなっている。そして、この年、FC店が2010店に対し、直営店が1705店となり、数の上ではFC店が直営店を抜いた」。ROAは08年には9.1%、09年には11.6%と改善する。そして、486店舗(直営店278店、FC店208店)の一斉閉店をした10年には13.5%にまで上昇したのだ。


 その結果はどうなったか。一斉閉店により、不便になった顧客はマクドナルド離れを起こすようになった。

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これが最後の記事かも

今日の徽宗皇帝のブログにISIS人質事件関係の記事をUPした直後に、記事の訂正をしようと思って管理ページを開こうとすると、管理ページへのアクセスができなくなっていた。その記事は「世に倦む日々」記事を引用したものだったから、おそらく「世に倦む日々」を引用するブログに対する妨害工作が行われているのだと推測する。何しろ、「世に倦む日々」のISIS人質事件に関する検証は、ネット世界で大きな反響を呼んでいたようだから。
で、「世に倦む日々」そのものを強制閉鎖させればネット弾圧が行われていることが明らかになるので、その引用を邪魔することで間接的弾圧をしているのだろう、というのが私の推測だ。
というわけで、私自身の「徽宗皇帝ブログ」管理ページへのアクセス不可能という事態がいつまで続くか、あるいは永遠にアクセス不可能かは分からないので、この「酔生夢人ブログ」を通じて、事情だけ伝えておく。こちらのブログも閉鎖される可能性も高いので、突然更新が無くなったら、そういう事情だとご理解願いたい。
いやはや、である。
なお、「徽宗皇帝のブログ」の最後の記事(になるかも)に、「大政翼賛会」を「体制翼賛会」とうっかり書いて、見直しをせずにそのままアップしたのが私にとっては痛恨事である。お恥ずかしい。パソコンで書く文章(漢字の自動変換)というものは、思わぬところで恥さらしの種を作っている。これからは、そういう恥だけはかかずに済むことになるのかもしれない。(笑)


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ISISはまもなく壊乱するか

「播州武侯祠偏照院」から転載。
なるほど、ISISは腐敗、淫溺、惑乱の果てに壊滅状態になる、ということか。
まあ、これまでの彼らの行状からしてそうなって当然なのだが、問題は、彼らの背後にいる連中、英米イスラエル(あるいはユダ金)が今後どう動くかである。このままISISを操って西側世界を動かそうにも、その西側世界ですら、庶民はその詐術に気づき、欧米諸国の指導者たちの足並みも揃わなくなりつつある。
しかし、ISISが、「皿の上に虫(蟲)がたかっている」とは、絶妙な表現である。この「蟲」の字の気持ち悪さは、まさしく「イスイス団」の印象だ。易経全体から意識的に探しても、この「山風蟲」の卦ほどISIS団を表現するのに絶妙の卦は他に無いだろう。それが天のお告げとして出てくるのだから、混沌堂さんのおっしゃるとおり、「易すさまじき!」である。
変卦「山天大畜」も面白い。

「また、六五の君と六四の宰相が共に志を同じくして、下卦乾の剛強の下民のなりふり構わず進むのを制し止める様子でもある。」

この場合、「剛強の下民」はユダ金、「君、宰相」は政治的指導者と解釈するのはどうか。(もちろん、前の卦からの流れで、「剛強の下民」=「ISIS」でもいいのだが。)
そして、

「しかし六五の君は陰柔にして泰平の主であり、左右の群臣も皆陰柔である。
このままだと、陰に流され、君は逸楽に興じ驕奢に耽り、剛強な民衆はそんな君上をないがしろにして、やりたいように冒し進む可能性がある。

それでは秩序は崩壊し、国はまとまらない。

憂い危ぶみ、それを止める者がいなければいけない。
そこで、上九の一陽剛が、卦の外から上り往き、上爻に居て、艮の止めるの主爻となり、成卦の主として、下卦乾の剛強にして冒し進むのを止める者となった。

これは、王者の賢師が、君上が非道に向かうのを制し止め、正しい道を訓導する様子でもあり、賢を尊び徳を養う様子である。」

の「上九」の「王者の賢師」はプーチン、「六五」の「陰柔の君」はオバマ、同様に陰柔の「左右の群臣」はUE中心諸国の指導者たち、と解するのも面白いだろう。

この「山風蟲」と「山天大畜」の卦の解釈如何によるが、ISISの命運は長くはなく、その後の世界の進展も希望が持てそうな気がする。まあ、そういう希望を持たせてくれるだけでも、易に問うことのメリットはあるというものだ。

思うに、希望とは道のようなものだ。最初から道があるのではない。歩む人が多くなれば、そこが道となるのである。」(魯迅)




(以下引用)





イスラム国ことISIS団の顛末を易に聞きました。

山風蠱 の 初爻 


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-23.html

上記文抜粋
・・・・・・・・
山風蠱(さんぷうこ)
sanpuu.gif蠱 巽下艮上(そんか ごんじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、gonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

蠱は、腐敗・壊乱・淫溺・惑乱といった意。

この卦は、巽を長女とし、艮を少男とすれば、長女が少男に先立ち、長女の色情をもって少男を媚い惑わす様子となる。

だから、蠱と名付けられた。
また、巽風をもって艮山を粛殺(しゅくさつ=秋の厳しい風で草木を枯らすこと)する様子である。

だから、蠱と名付けられた。

また、上卦の艮を止める、下卦の巽を服従とすれば、上の恵みが止まって下に及ばず、下は巽従に過ぎて佞媚に流れる様子となる。
このようでは、国家は必ず壊乱する。

だから、蠱と名付けられた。

また、艮は一陽が上に在り二陰が下に居て、巽は二陽が上に在り一陰が下に居るわけだが、これでは上下共に陰陽交わらず、陰陽交わらなければ、必ずや物事は壊れる。

また、艮は一陽が上に止まり、巽は一陰が下伏せている形だが、これでは剛柔交わることがなく、剛柔交わらなければ、必ず物事は壊れる。
だから、蠱と名付けられた。

また、巽を臭いとし気とし、艮を止めるとし覆う蓋とすれば、蓋で覆った中に臭気が発生してい
る様子となる。

臭気が発生すれば、必ず腐敗して虫=蟲が生じる。

だから、蠱と名付けられた。

蠱は皿の上に蟲がたかっている様子の文字である。

また、交代生卦法によれば、元は地天泰から来たとする。

地天泰の初九の陽が上に往き、上るに過ぎて不中の高き極みの上爻に居り、上六の陰が下り来て、下るに過ぎて不中の最下の底の初爻に居る形である。

これでは陰陽交わらず壊れを生じる。
だから、蠱と名付けられた。

卦辞
蠱、元亨、利渉大川、先甲三日、後甲三日、
蠱(こ)は、元(おお)いに亨(とお)る、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、甲(こう)に先(さき)だつこと三日(みっか)、甲に後(おく)れること三日、

この卦は、敗壊の意であり、そんなときに元いに亨ることはない。
しかし、だからと言って、敗壊を放っておくわけにはいかない。
折りを見て、いつかは修復する必要がある。
としても、修復するには、そのことについて深い知識と技能が必要である。
要するに、その蠱の敗れたことについて、元いに亨通している必要があり、そういう人物であればこそ、敗壊を修復可能なのである。
だから、蠱は元いに亨る、という。
例えば、パソコンが壊れたとき、パソコンのことをよく知らなければ、修理に出すしかないが、パソコンに精通していれば、自分でどこが壊れたかを調べ、部品を取替えて直せるのと、同じことである。

また、巽を従うとし艮を止めるとすれば、従って止まる様子である。
大きな川を渡るときは、人命に係わる大事であり、逆を慎み順を尚ぶことが第一である。
無理せず時に従って止まり、風、波、水嵩の利ろしきを得て渡れば、過失も少ない。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

また、甲(こう=きのえ)は十干の始めである。
だから、甲の日を事の始めとする。
甲に先立つこと三日は辛(しん=かのと)の日であり、辛は新と同音同義である。
甲に後れること三日は丁(てい=ひのと)であり、丁は丁寧の義である。
壊れ極まって、今これを修復する道は、先ず既往の敗壊の原因を悉く改めて新しくし、改新した以後は丁寧に扱い、再び壊れないようにしないといけない。
だから、甲に先だつこと三日、甲に後れること三日という。

・・・・・中略・・・・・

初六、幹父之蠱、有子、考无咎、終吉、

初六(しょりく)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、子(こ)有(あ)れば、考(亡父=なきちちも)咎(とが)无(な)し、(あやう)けれども終(つい)には吉なり、

幹とは木の幹(みき)のことにして、枝葉花実はこの幹の力ひとつで維持されているのである。
したがって、よくその任に堪え、その事を行う義とする。
今、蠱のときに当たり、初六は子にして、父の蠱=失敗を後から修復する者である。
初六は陰爻なので、その性質柔弱にして才力不足ではあるが、幸いに蠱の初めに当たるので、その敗れは未だ大きくはない。

したがって、陰柔であっても、その任に堪えられるのである。

だから、父之蠱れに幹たり、という。

およそ、事の大小となく、失敗するときは、何らかの咎が有るものである。
しかし、よく蠱れに幹たる子が有れば、その父親が失敗して命を落としても、その後を修復して治め補い繕い、亡き父もその咎を免れることを得るのである。

しかし子がいないときは、誰もなかなかその失敗を修復してはくれないので、その咎は永く消えることがないものである。 だから、子有れば、考も咎无し、という。
考とは亡父のことを指す。
この爻は蠱の初六なので、その失敗は浅く小さいものだが、同時に初六は陰柔なので、これを修復して治めるには艱難労苦するので、さもある。
しかし、怠慢なくよく務める時には、終に成功を得て吉となるものである。
だから、けれど終には吉なり、という。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

あとは崩壊だけか・・・


易すさまじき!


すでにクソコラやイラストがそれを暗示してきたか。

変卦は、

山天大畜 の初爻


上記文抜粋
・・・・・・・・
26 山天大畜(さんてんたいちく)
santen.gif大畜 乾下艮上(けんか ごんじょう)

八卦のkenten-n.gif乾(けん)の上に、konchi-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

大畜とは、大きく止める、という意。
また、大きく蓄える、養う、集める、といった意もある。
この卦は、上卦の艮を以って、下卦の乾の進むを止める様子である。

だから大畜と名付けられた。

また、六五の君と六四の宰相が共に志を同じくして、下卦乾の剛強の下民のなりふり構わず進むのを制し止める様子でもある。

だから大畜と名付けられた。

また、乾天が艮山の中にある様子である。
天と山では、天は大にして、山は小なる者である。これは小を以って大を蓄える様子である。
だから大畜と名付けられた。

また、乾の剛健と艮の篤実を備えるときには、その徳は大いに蓄え集まるものである。
だから大畜と名付けられた。

また、来往生卦法によれば、もとは地天泰から来たとする。
地天泰のときには、天地陰陽の二気相交わり、上下が志を合わせるので、その国は繁栄し安泰である。

しかし六五の君は陰柔にして泰平の主であり、左右の群臣も皆陰柔である。
このままだと、陰に流され、君は逸楽に興じ驕奢に耽り、剛強な民衆はそんな君上をないがしろにして、やりたいように冒し進む可能性がある。

それでは秩序は崩壊し、国はまとまらない。

憂い危ぶみ、それを止める者がいなければいけない。
そこで、上九の一陽剛が、卦の外から上り往き、上爻に居て、艮の止めるの主爻となり、成卦の主として、下卦乾の剛強にして冒し進むのを止める者となった。

これは、王者の賢師が、君上が非道に向かうのを制し止め、正しい道を訓導する様子でもあり、賢を尊び徳を養う様子である。
だから大畜と名付けられた。

卦辞
大畜、利貞、不家食、吉、利渉大川、

大畜(たいちく)は、貞(ただし)きに利(よ)ろし、家食(かしょく)せざれば吉(きち)、大川(たいせん)を渉(わた)るに利ろし、

誰かの行動を止めようとするときには、自分はそのことについて正しくなければ説得力がない。
だから、大畜は貞きに利ろし、という。

もとよりこの卦の主意は、進む者を止めるにある。

進む者を止めるときは、その情は背き、その志は違い、その事は逆らい、その言は争うことになる。
だからこそ、貞きに利ろし、と警鐘を鳴らすのでもある。

さて、大畜には、集め養うという意味もあるわけだが、人に使われる者はその人に養われ、人を使う者はその人を養っているのである。

とすれば、人を養う者は、収入のすべてを自分の好き勝手に使い果たしてはいけないし、同じ養うのなら、賢者を養うことこそ大切である。
家食とは、養うことを疎かにして、言うなれば食道楽にばかり収入うことである。
だから、家食せざれば吉、という。

また、大川は険難の場所であり、渡るときは、人命にも係わる大事である。
剛健豪強だからといって、自分の力を過信して、不用意に渡ろうとすれば、溺没の恐れもある。
よく止まり、状況を冷静に観察する慎重さが必要である。
大畜には、大いに止まる、という意もある。
大川を前にして、大いに止まる慎重さがあれば、流れや風をよく観察し、安全に渡れる時を選んで渡ることになる。
だから、大川を渉るに利ろし、という。


・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり




誰が「家食」せず、外で成功するのだろうか?

難題解決をするのだろうか?


日本?可能性もある。けど、それは後ででも。

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日本戦後史を一言で言えば

私などが書く長々しい文章など不要だなあ、と思わせる一言である。


(以下「阿修羅」から引用)



10. 2015年2月10日 10:37:29 : u41ShKyHb2



日本の政治は戦犯の孫とか戦後ドサクサの時に金儲けをした子供や孫たちがずっと権力を持ち続けてきた事が日本の独立を阻んでいる。売国奴が富を得て出世出来る社会である。

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犯罪と合理的思考

前回の記事の「毒消し」として、「紙屋研究所」から次の記事を転載しておく。
ただし、世界的に犯罪自体が減っているわけではなく、「粗暴犯」が減っている、ということであり、知能犯、特に社会上層部の犯罪行為は、むしろ増加しているのではないか。もちろん、そうした権力者・権力階級の犯罪の大半は隠蔽されるのが当然であって、水面下で行われる犯罪は膨大なものだろう。
要するに、暴力的犯罪、特に殺人などというものは「割に合わない」から、時代精神が合理性に傾けば傾くほど粗暴犯は減るのが当然だ、というだけの話ではないか。それは慶賀すべきことだが、逆に言えば、殺人が経済合理性に合致すれば、「神無き時代」の合理的人間はためらわずに殺人を選ぶ、ということである。その種のニュースはマスコミ上でも枚挙に暇が無いだろう。しかも、東電による「放射能殺人」やアメリカによる「テロとの戦争」名目のイラク、リビア破壊に伴う殺人などは、誰からも裁かれないのである。
下記記事の後に、「余談」として、高齢者の犯罪が増えていることが書かれている(ここでは省略した。)が、これも「経済合理性」による犯罪がほとんどだろう。罪を犯して刑務所に入れば、飢え死にしなくて済む、という貧困老人が犯罪を行うのは、この上なく合理的な行動ではないか。


(以下引用)

2015-02-08 暴力はなぜ減っているのか? 『犯罪社会学研究』第38号

『犯罪社会学研究』第38号Add Starzakincogureneko




 保育園がいっしょだった親御さんと話していて、また地域で不審者情報が出たというので不安がっていた。その前日、ぼくはある学習会の講師で「犯罪は激減しています」としゃべっていたのであるが、その親御さんの意見をふんふんとうなずいて聞いていた。




 そういう話をしていたら福岡県で女子小学生が殺害され、この文書を書いている最中に和歌山県で男子小学生が殺された。「数十秒目を離したスキに…」「自宅のすぐそばで…」と報じられるので、うちのつれあいとかはもう四六時中娘に張り付いてないといけないかのような思いにとらわれている。



日本中、そして先進国で犯罪は減っている

 福岡市では犯罪が減っている。2002年をピークにして半分くらいに減っている。


 日本全国で同じような傾向をたどっている。


 さらにいうと先進国全体で犯罪は減っている


犯罪社会学研究 第38号(2013) 課題研究「犯罪率の低下は、日本社会の何を物語るのか?」 最初にそのことを知ったのは2013年7月3日の英誌「エコノミスト」の記事だった。それで関心をもって『犯罪社会学研究』という専門誌の竌38「犯罪率の低下は日本社会の中を物語るのか?」という特集(課題研究)を読んだ。





主要犯罪全体の発生率が低下しているのは、主要先進国に共通の現象である。(宮澤節生/同誌p.11) 


 ただ、先進国全体のこの傾向については、その原因は今一つよくわかっていないというのが結論のようだった。




結局、「国々の間での異同」と「各国の犯罪発生率の変化」を同時に計測する研究が現れるまで、多くの先進国において犯罪発生率が低下しているという現象に対する説得力のある説明は、得られないように思われる。(同前p.17)


 同誌では日本だけについていえば、いくつかの仮説が検証されている。研究者の文書なので「これがその原因だ!」みたいにセンセーショナルには書いてないけど、だいたいこんなところがその原因かな、というふうににおわせる、あるいは一定の結論を出している(以下はぼくの主観的なまとめなので、正確には同誌および個別の論文そのものを読んでほしい)。



警察のカウントの仕方

 一つは統制主体の問題。簡単に言うと、警察の側の方針変更で、統計数字がかわったんじゃないかということ。


 2000年代前半をピークに減っているのは刑法犯の「認知件数」である。


 認知は被害届を受理することによって変わる。だから、積極的に被害届を出すように促し、積極的に受理すれば増えていくのである。もう一つは、数え方。被害が連続して起きた場合にそれを1とするか2とするかは警察の裁量がはたらく。




 同誌の浜井浩一論文「なぜ犯罪は減少しているのか」では検挙人員がほとんど減っていないことを指摘する。




認知件数は、犯罪統計としての妥当性は高いかもしれないが、被害届の取り扱いなど、その時々の警察の事件に対する取り組み方針の影響を受けやすい。常に同じ対象を安定的に計測しているのかという信頼性からの観点から見ると、最も信頼性が高いのは実は検挙人員である。認知は、被害届を受けて事件を受理・記録しただけだが、事件ではなく人を検挙するためには、当該被疑者が罪を犯した事実を確認するなどきちんとした手続を踏まねばならないからである。(浜井/同誌p.56)




 1986年からの長期的な推移のグラフをみると、検挙人員はあまり動きがなく、認知件数だけが突如山をつくるように2000年代前半前後にもりあがり、元に戻り、やや減っていく傾向を示している。


この警察の方針の変化については、同誌で石塚伸一論文「日本の犯罪は減ったか? 減ったとすれば、その原因は何か?」のなかで少し触れている。また、浜井論文では4つの新聞沙汰になった事例をあげて、警察で統計の「操作」をしていたことを示している。




 警察の影響を除いた、本当のところはどうなのか。


 浜井は、「守備範囲は狭い」と断りながら、「犯罪被害調査」という統計を紹介する。この統計は、市民に対して犯罪に遭ったかどうかを調査して回り、そのサンプルから犯罪の発生率を推測するものである。これだと被害届を出したかどうかにはかかわりなく、被害の実態が浮かび上がることになる。街頭犯罪についていえば、次のようになっているという。




認知件数では、器物損壊を含めて街頭犯罪の多くにおいて2002-2003年をピークとして急上昇、急降下しているのに対して、実際の被害率は一貫して減少していることが確認できる。(浜井/同誌p.59)




 つまり、まあ、認知件数ほどじゃないけど、こうした犯罪は減少しているよっていうことになる。警察の方針変更とか統計いじりの影響をうけながらも、犯罪は減少しているとみていいってことだとぼくは感じた。



防犯技術の向上

 じゃあ、やっぱり、「なぜ犯罪は減ったのか?」。


 警察ががんばったとかいうことはあるだろうか。


 浜井論文では、警察白書で認知件数減少に大きく寄与している犯罪として、車上ねらい(29.6%)、自転車盗(15.7%)、自動販売機ねらい(14.8%)、オートバイ盗(13.1%)があげられていることを紹介している(認知件数の減少に対して、街頭犯罪全体が占める寄与率は85.6%で、つまり車上ねらいなどの街頭犯罪が減ったことがほぼそのまま認知件数全体の減少につながっているとしている)。


 浜井論文では、自動販売機堅牢化と駐車場における防犯カメラの効果についてのべている。自動販売機堅牢化は、2006年ごろに堅牢化が完了し、自動販売機ねらいの認知件数は他の犯罪と違った増減を示したという。




他の街頭犯罪とは明らかに異なる動きをしている。そして、それが自動販売機に占める堅牢化率と相関しており、自動販売機ねらいの認知件数の減少には、一定程度以上に堅牢化の効果があったものと推認できる。(浜井/同誌p.60)




 防犯カメラの効果については、浜井論文では、特に統計的な指摘はされていない。防犯カメラは導入に賛否があるものだが、浜井はキャンベル共同計画のレビューを参照し「防犯カメラは唯一駐車場における車両関係犯罪の防止に効果があることが確認されており」と述べている。この指摘は斉藤貴男『安心のファシズム』でも見られた。


 このような防犯技術の向上、それへの投資によって犯罪が減少していくことについては、「エコノミスト」にも指摘があった。




先進国で犯罪が急激に減少している。…最大の要因は、単純に警備対策が向上したことかもしれない。自動車のイモビライザ―は遊び半分の盗難を防いでいる。銀行強盗は、防弾スクリーン、警備員、印付き紙幣でほぼ姿を消した。警報機とDNAデータベース強盗の逮捕率を高めている。…小規模な店舗さえ、監視カメラセキュリティタグに投資している。一部の犯罪は今や極めてリスクの高いものとなっている。(「エコノミスト」2013年7月20日号)




 警察白書は、警察の側のさまざまな取り組みの強化を認知件数の減少と結びつけているが、それについての言及は浜井論文にはあまりない。



少子高齢化が影響

 浜井論文では「1960年以降1990年代半ばくらいまで殺人、強盗強姦、傷害などほとんどの伝統的暴力犯罪の認知件数は減少していた」(浜井/『犯罪社会学研究』第38号p.64)という事実の原因の一つを「少子・高齢化」ではないかとしている。




実は、年齢と犯罪は密接な関係があり、その関係を調べて見ると一般的な犯罪の過半数以上は30歳未満の若者によって行われるということがわかっている。…先進国のほとんどにおいて年齢階層別の検挙人員を人口比で見ると、10歳くらいから非行が始まり15-20歳でピークを迎え、就職・結婚とともに次第に減少していく現象が見られる。日本においても1990年までは、一般刑法犯(検挙人員)の約7割は30歳未満の青少年によって行われていた。つまり、少子・高齢化によって青少年人口が減少すれば、人口構成的に犯罪の担い手が減少することを意味している。(浜井/同誌p.64、強調は引用者)




 少子化は多くの先進国に共通する特徴であるから、これが原因の一つであるというのはうなずける。



人類史上最も暴力の少ない社会に生きている」

 ぼくが『犯罪社会学研究』の当該号を読んで一番びっくりしたのは、ここ千年近くのスパンでみると、暴力による殺人が減っていること、「人類史上最も暴力の少ない社会に生きている」(浜井/同誌p.66)という規定だった。




世界的に著名な心理学者であるピンカーは、様々な資料を駆使してヨーロッパでは西暦1200年ぐらいから、人口あたりの殺人率が減少していることを明らかにしている。(浜井/同誌p.66)




 ピンカーの議論は次のようにさらにくわしく紹介されている。




こうした長期的な暴力の減少は、殺人といった犯罪に限らず、戦争での死亡者数、死刑、拷問や奴隷においても同じように見られることを例示しながら、これらの人の生命身体や尊厳を傷つけるような力の行使の減少は、人類が種としても(文明)社会としても発展し続けていったことによって、あらゆる意味で暴力を回避する傾向が高まっていった結果であると主張している。(浜井同前)




 「いやあ第二次世界大戦で大量に人が死ぬ時代は別でしょう」とか思っていたので、なおびっくりした。さらに、最近の武装組織によるテロ事件の「頻発」などを連日のように聞けば「死亡者数、死刑、拷問や奴隷においても同じように見られる」という限定はとても重要だし、目を見開かされる思いだ。


 このデータが正しいと前提して、なぜこうした成果がかちとれたのか。




ピンカーは、人類の中で暴力が減少しているのは、私たちの中にある「内なる悪魔(inner demons)」と「より良き天使(better engles)」の戦いの結果、私たちを暴力へと駆り立てる「内なる悪魔」を、私たちを暴力から遠ざける「より良き天使」が凌駕した結果だと主張している。(浜井/同誌p.66-67)




 え? 「内なる悪魔」? 「より良き天使」?




ここで「内なる悪魔」と呼ばれているものは、個人レベルでは復讐心やサディズム、社会レベルではイデオロギーであり、「より良き天使」と呼ばれているものは、共感性、セルフコントロール、モラル感覚、理性といったものである。(浜井/同誌p.67)




 えー、人間の心が発達したっていうの? それはちょっとにわかに信じられないなあとこの浜井の要約だけ見るとそう感じる。


 しかし、ピンカーがこの結論を出すうえで、前提となる事実を述べている。そのことについて浜井は次のように要約している。




具体的には、統治機構、教育、貿易・経済、国際化といったものの発展が、復讐・暴力への衝動・情動や有毒なイデオロギーを制御し、理性の力によって暴力への誘惑を減退させることに成功したというのである。ピンカーは、これを文明化プロセス(civilizing process)や人間性の進化(humanitarian revolution)等の概念で説明している。(浜井/同誌p.66)




 これならわかる。というか、実感に沿っている。


 たとえば、戦争という巨大な暴力を発動させることを食いとめる条約、国家機構、国際機構がある。教育が浸透することで暴力をあおる団体がある日やってきてこれを煽動してもそれによって暴力には駆り立てられないような素地が生まれる。貿易や国際化がすすむことでお互いの国に依存するようになるし、お互いの民族や国を知る機会もふえる。


 日本だけを考えてみても、戦前と戦後ではこれらが果たしている役割は大きいだろう。 戦前には戦争を制御する装置が弱い国家機構と憲法しかなかった。戦後、これらは国家から起こるあらゆる戦争の原因を除去する構造をそなえた憲法にすげ替えられた。教育も日本という国家や「民族」を誇大視する偏狭な教育が反省された。貿易や交流の発展でとりわけ中国韓国の人たちがどのような人たちかを知る機会は増えている。いまヘイトスピーチのような煽動がされて暴力事件も起きているが、国全体が暴力へと駆り立てられるという事態にはいたっていない。予断は許されないが




 いずれにせよ、この千年、数百年の間に世界規模で殺人や暴力が減っているというのは、実にものすごいことではないだろうか。いや、素直に感動しない? 暴力によって人が殺されないということに人類は成功しつつあるっていうんだから。


 いま中東アフリカから大量に人が殺されたり死んだりしているニュースが頻繁に伝わってくる。テロ、内戦、暴力による死ばかり。


 しかし、ぼくらはそれに絶望しなくてよい、ということだ。いや、もちろんだからといって「いやー、よかった。めでたしめでたし」というわけではないが…。


 幸いにも、日本にいるぼくらは中東アフリカの出来事を距離をもって眺められる位置にいる。そこで起きている暴力を抑えるために、冷静なアプローチができるということだ。ピンカーが指摘したように「統治機構、教育、貿易・経済、国際化といったものの発展が、復讐・暴力への衝動・情動や有毒なイデオロギーを制御し、理性の力によって暴力への誘惑を減退させることに成功した」という確信にもとづいて、その道を強化していけばいいのである。


 この確信は、フランス風刺画事件や日本のヘイトスピーチのようなものも、克服できるのではないかという楽観を与えてくれる。


 もちろん、中東をどう平和にするか、ヘイトスピーチをどうなくしていくか、専門家でもないぼくには具体的な妙案があるわけではない。


 しかし、さっきあげた確信は、むちゃむちゃアホっぽい言い方になるけど、みんなでいろいろ知恵を出していけば何とかなっていくよ、という楽天的な気持ちをわかせてくれるのだ。




 ぼくはマルクス主義者なので、根本的にヘーゲルと同じような歴史観をもっている。つまり人間の歴史というのはジグザグはあっても対極的には理性が勝利していく、というものだ。*1


 この浜井論文に描かれていることは、犯罪学者の中では“常識”のようなものかもしれない。しかし、単なる犯罪の統計・傾向の問題だけでなく、この論文はぼくの歴史観まで裏打ちしてくれるものだった。


暴力の人類史 上 特にピンカーの著作は非常に興味深かった。注をみると、まだ日本語訳は出されていないようである。*2誰かやってくれないだろうか。……と思っていまググったら、あるな! 邦訳が! しかもつい最近! 


 タイトルが『暴力の人類史』。あー、売ることだけ考えたら原題のサブタイトル「暴力はなぜ減ってきたのか」がよかったかもねー。「なぜ世界から暴力は減ってきたのか」くらいにしたらバッチリでは。


 いや、まあこんな大部の本、『暴力の人類史』みたいなカタくて大仰な感じのタイトルにした方がいいのかな。ケチつけてすんませんでした。




 邦訳が出てるんだったら、上記にぼくが述べたことはピンカーの意図を正しく言い表しているかどうかわからんので、とりあえず読んで確認することにしよう。


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