忍者ブログ

形は、動きを遮られた音である

(引用2)は、「フランス文学と詩の世界」というサイトから転載。
「in deep」の今日の記事の中の、次の一節を見て、ボードレールの「万物照応(コレスポンダンス)」という詩を想起したので、引用するために(私は蔵書というものがほとんど無い。)ネットで調べて、上記サイトを知った。いい訳だと思う。「悪の華」は堀口大学訳が有名だが、その文語的翻訳は、現代人には「文語日本語訳の現代口語訳」が必要になるだろう。
さて、「in deep」の記事中にあるノヴァーリスの

人間だけではなく、宇宙も言葉を話す。すべてのものは言葉を話している。無数の言葉を。


という言葉は、何か深遠な思いに人を誘うのではないか。
そういえば、ランボーも「母音」という詩で母音にさまざまな事象を当てはめていた。たとえば「0」という母音は、「o、オメガ、あの人の目の紫の光芒!」だったか。万物は照応する、というのは、ある種の詩人的感性の持ち主には自然な感覚なのかもしれない。
我々が花や木を見て慰められるのは、それらが実際に言葉を語りかけているからだ、とすれば、「星の王子様」が、高慢だがきれいな薔薇と会話を交わし、薔薇に恋をしたのも頷ける。(「星の王子様」は寓話の形の恋愛小説だから、実は子供が読んでも面白いものではない。)


(以下引用)


たとえば、ドイツの詩人であり哲学者にノヴァーリスという人がいるそうですが、以下のような言葉を残しています。


ノヴァーリスの 1968年の記述より

すべての空間に存在する形は、水晶から人間に至るまで、動きをさえぎられた音として説明できないだろうか? したがって空間的な形は音楽の表象的な表れにすぎないのでは?

これ・・・ノヴァーリスという人が何を言おうとしているのかおわかりになりますでしょうか。

> 空間に存在する形は、水晶から人間に至るまで、動きをさえぎられた音

これは、多分は、

この世にある「形は音そのもの」なのではないか

と言っていると考えてよいのだと思います。

もっといえば、現実の世界の中では「私たちは形があるものを『モノ』として認識する」と思います。もちろん「形 = 存在」ではないのですが、現実的な問題として、

「モノは音そのものだ」

と言っていると考えていいのではないかと思います。

さらに、ノヴァーリスは、『断章1』という著作の中で、


人間だけではなく、宇宙も言葉を話す。すべてのものは言葉を話している。無数の言葉を。

というようなことを記していますが、(以下略)


(引用2)

交感(ボードレール:悪の華)



交感

  自然は荘厳な寺院のようだ
  列柱は厳かな言葉をおりなし
  人は柱の間を静かに歩む 
  象徴の森をゆくが如くに

  遠くから響き来るこだまのように
  暗然として深い調和のなかに
  夜の闇 昼の光のように果てしなく
  五感のすべてが反響する

  嬰児の肉のような鮮烈な匂い
  オーボエのようにやさしく 草原のように青く
  甘酸っぱく 豊かに勝ち誇った匂い

  無限へと広がりゆく力をもって
  こはく 麝香 安息香の匂いが
  知性と感性の共感を奏でる
    
「交感」 Correspondances は、ボードレールの詩の中でも、もっとも議論を呼んだものであって、多くの批評家によって、夥しい言及がなされてきた。それらにほぼ共通するのは、この詩が、ボードレールの象徴主義的考えを、もっとも良く示していると見る点である。

Correspondances (万物照応とも訳される)は、自然と人間との共感であり、視覚や臭覚など人間の感覚器官相互の共感であり、また理性と感性との共感でもある。人はこの何重にもわたってめぐらされた共感の森の中で、自然の一部としての生を生きる。

この詩はボードレールの比較的若い頃に書かれていたとする説もあるが、1855年に「両世界評論」に発表した18篇の中には含まれていない。おそらく、初版の刊行に併せて、新たに書いたものだと思われる。

拍手

PR

骸骨の隠れているのは、寺か

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
最初にぱっと見て、妙な印象の絵だな、と思い、しばらくその理由を考えた。
きれいな絵のようにも見えるが、そうとだけも言えないのである。
一番目立つのは、画面近景中央のやや右にある「白骨が手足を左右に伸ばしている」「白い妖怪か亡霊が踊っている」かのような枯れ木だ。なぜ、この自然の中に枯れ木を置く必要があるのか。枯れ木自体が美しくないというのではないが、自然の持つ生命感を否定するものではあるだろう。
次に目につくのは、中景の野原の渦のような模様だ。この渦(を半分にしたもの)の意味も分からない。実際にそういう景色だったからそう描いたのかもしれないが、このためにムンクの「叫び」を印象派風に描いたような雰囲気が生じている。中景右手の川(?)の色もおかしい。なぜ肌色なのだろう。道かもしれないが、中洲のようなものも見えるから川だろう。しかし、川の色ではない。曇り空の下だから青や水色や緑色ではなくてもいいが、肌色の川は異常だ。
最後に、全体の色使いである。全体が、くすんだような色だ。近景には青が多く、中景は黄色、後景には褐色が目立つ。空の色は灰色に近い青だ。つまり、生命感のある色がほとんど使われていない。
画面中央に立つ、後ろ手を組んだ若い女性は、顔を見せていない。風景を眺めている女性の後姿、という設定だから顔が見えないのは当然だが、彼女の顔が見えないことも絵を見る者に不安感を与える。
作者は、これらのことを意図的に描いたのなら、達者なものだ、と思うが、自宅には絶対に飾りたくない絵である。
題名も奇妙だ。なぜこの絵の題が「寺」なのか。
「寺」という題名を知ってこの絵を見直すと、最前景の花々が仏花に見えてくる。あるいはこの後姿の女性も死者かもしれない。

(編集画面と掲載画面で、絵のサイズが違うので、掲載画面では絵の右側が見えなくなっているようだ。興味のある方は、元記事の方に行かれたい。)

 画は ARON WIESENFELD アーロン・ウィーセンフェルド

 Aron (born.1972, Washington D.C.) currently lives in San Diego, California.

 人間の暗い側面を表現し続け、U.S.の終末を見据えるアーティスト。

 ☆http://www.aronwiesenfeld.com/              作


  「The Temple 2014」です。

拍手

仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む(その4)

(前回の続き。これで全部終わり!)



生徒B「次行きます。『He knew everybody in Puddlebyand he knew all the dogs and all the cats.』」



生徒C「『彼はパドルビーのすべての人間とすべての犬や猫を知っていた。』」



生徒A「次行きます。『In those times being a catsmeetman was a regular business.』」



生徒B「『その当時、猫肉屋はありふれた商売だった』」



生徒C「次行きます。『And you could see one nearly any day going through the streets with a wooden tray full of pieces of meat stuck on skewers and crying ,“Meat! Meat!”』」



生徒A「『そして、ほとんど毎日のように、その猫肉屋が、木の盆の上に『stuck on skewers』された一杯の肉を手にして『肉! に、い、く、う!』と叫びながら大通りを行くのを見ることができた』」



先生「苦心の訳だな。でも、『skewers』は、多分荷車か何かだな。つまり、木の盆の上にあるものじゃなくて、逆に木の盆が『skewers』に『stuck』されているわけだ。」



生徒C(辞書を引いて)「先生、間違ってます。『skewer』は『串に刺す』ですね」



先生「あれ、そうだっけ? 僕の頭の中には猫肉屋が荷車を引いているイメージがあったんだけどな。じゃあ、そういうことで訳して」



生徒A「『そして、ほとんど毎日のように、その猫肉屋が、木の盆の上に載せた、肉の串刺しを持って『肉! に、い、く、う!!』と叫びながら大通りを行くのを見ることができた』」



 生徒B「次行きますよ。『People paid him to give this meat to their cats and dogs instead of feeding them on dog biscuits or the scraps from the table.』」



 生徒C「『人々は自分たちの猫や犬に犬用のビスケットやテーブルの残飯をやる代わりに、彼に金を払ってその肉を買うのだった。』」



 先生「いい訳だね。『買う』という言葉は原文にはないけど、確かにここでは、それを入れた方が原文の意図を伝えている。『犬用のビスケット』は、現代なら『ペットフード』となるところだけど、時代色を出すためには、『犬用のビスケット』の方がいいね。『scraps』を『残飯』としたのもいい」 



 生徒A「次行きます。段落が変わります。『My third great friend was the Luke the Hermit.』」



 生徒B「『私の三人目の友達は、ルーク・ザ・ハーミットであった。』……先生、『Hermit』って何ですか?」



 先生「さあ、何だろう。辞書を引いてみようか。『隠遁者、隠者』とあるな。『隠者のルーク』とでもしておくか」



 生徒C「先生、隠者って何ですか?」



 先生「世を逃れて孤独に住んでいる人間だ」



 生徒C「乞食ではないんですね?」



 先生「乞食は生活の手段だから、関係ないね。まあ、隠者が乞食をすることもあるだろうけどね」



生徒C「段落が変わります。『I did not go to schoolbecause my father was not rich enough to send me.』」



生徒A「『私は学校には行っていなかった。なぜなら、私の父は、私を学校にやるほど金持ちではなかったからだ。』」



生徒B「先生、この話はいつ頃の話なんですか?」



先生「さあ、19世紀の終わり頃じゃないかな。つまり、シャーロック・ホームズと同じ頃だ。20世紀初め頃かもしれない」



生徒B「イギリスでは義務教育制度はなかったんですかね」



先生「まあ、そうかもしれないね。後進国の日本が義務教育制度を実施したのは英断だったと思うよ。そのおかげで日本は20世紀に先進国の仲間入りできたんだ。それより、もう少し進めておこうか」



生徒B「『But Ⅰ was extremely fond of animals.』」



生徒C「『しかし私は特別に動物が好きだった。』…うーん、あまりいい訳じゃないな。」



先生「悪くはないさ。『でも、私はとても動物が好きだった』とすれば口語的な自然な感じにはなるけどね」



生徒A「『So Ⅰ used to spend my time collecting birds egg and butterflies , fishing in the river , rambling through the countryside after blackberries and mushrooms and helping the musselman mend his nets .』」



生徒B「『だから私はいつも鳥の卵や蝶々を集めたり、川で釣りをしたり、田舎でブラックベリーやマッシュルームを探してぶらぶらしたり、貝掘りが彼の網を修繕するのを手伝っては時間を過ごしていた。』」



先生「いいところとわるいところがあるね。全体的にはこなれた訳だけど、『countryside』を田舎とするのはおかしいだろう。子供の足でいきなり町から田舎に行くのは変だから、ここは『町のひなびたところ』くらいがいいんじゃないかな」



生徒B「『ひなびた』ってどういう意味ですか?」



先生「田舎じみたところってことさ」



生徒B「うーん、あまり変わらないような気がするけど……」



先生「そうかい? まあ、じゃあ今日はここまでにしておこう」


拍手

仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む (その3)

(前回の続き。全3回ではなく全4回になりそうです。)




第二回目の授業 (第一章の続き)



 



先生「じゃあ、前回の続きを行こうか。前回は、語り手の少年、トミー・スタビンスが、



見たことのない世界にあこがれていた、という所までだったね。例によって、A君、B君、Cさんの順に、一文ずつ読んで、訳してもらおうか」



生徒A「『Three great friends I had in Puddleby in those days.』」



生徒B「『三人の偉大な友人を、その当時私はパドルビィの町で持っていた。』?」



先生「『great』は、『偉大な』ではなく、『大人の』か、『大きな』がいいだろうね。後でわかるけど、その三人のうち二人はまったくの貧民だからね。英語の『great』には、我々が思うほどの賛嘆の気持ちは無いようだよ。プラターズの歌にも、『great pritender』ってのがあるけど、これも『偉大な嘘つき』とすると変だしね.次行こうか」



生徒C「『One was Joe ,the musselman ,who lived in a tiny hut by the edge of the water under the bridge.』」



生徒A「『そのうちの一人はジョーで、彼は『mussel-man』で、川沿いの、例の橋の下の小さな『hut』に住んでいた。』」



先生「A君、『hut』は何だと思う?」



生徒A「小屋でしょうね。橋の下にあるんだから」



先生「多分ね。『mussel-man』は私も分からない。ええと、辞書では『mussel』しかないけど、『イガイ科二枚貝の総称』となっている。わけがわからないね。しゃくだけど、本の後ろの注釈に頼ろう。ええと、『貝を掘る男』だって。なあんだ。でも、なあんだ、と言っちゃあ、本当はいけない。「解体新書」の「フルッヘンド」の話にもあるように、初めて翻訳する時は、意外な、単純なところに苦労するものだし、後から来た人間がそうした先人の苦労の遺産の有難味を忘れてはいけないんだ。おっと、次に行こう」



生徒B「『This old man was simply marvellous at making things.』」



生徒C「先生、この『simply』は、『単純に』と訳していいんですか?」



先生「よくないだろうね。次の『marvellous』と矛盾する。これは強調の副詞だろうから、『とても』とでもすれば?」



生徒C「『この老人は物を作ることにかけてはとても素晴らしかった。』」



先生「OK、次」



生徒A「『I never saw a man so clever with his hands.』」



生徒B「『手仕事については、これほど優れた人間を私はかつて見たことがない』」



先生「いいね。『clever』を『賢い』としなかったところは偉い。多くの生徒の欠点は、自分が知っている訳語にこだわって、文脈をまったく考えない訳をしてしまうことだ.『hands』を『手仕事』としたのもいい」



生徒C「『He used to mend my toy ships for me which I sailed upon the river ;he built windmills out of packingcases and barrelstaves ; and he could make the most wonderful kites from old umbrellas.』」



生徒A「『彼は私のために、私が川の上を走らせるためのおもちゃの船をいつも修繕してくれたし、荷箱や『barrelstaves』から風車を作ってくれたし、古い傘から最高に素晴らしい凧を作ってくれた』」



先生「『stave』は『樽板』だと辞書にはあるね。まあ、『barrel』が樽だということくらいは分かっていただろうけど。ここで、“out of”を『~から』としたのはいいね。まあ、常識だろうけど、“of”自体が、“out”を起源としているという説があるね。つまり、その物が何から出て来たかを表す前置詞だ。“チーズは牛乳から出来る”とかね。だから、ある人間の出身地や、帰属する集団なども“何とかof何々”というように表すね。……これは脱線だな。次いこうか」



生徒B「段落が変わります。『Another friend I had was Matthew Muggthe catsmeetman.』」



生徒C「『catsmeetman』の訳は『猫肉屋』でいいんですね?」



先生「それしかないね。井伏先生の名訳だからね。これを『ペットフード屋』としちゃあ、この話の雰囲気が変わってしまう」 



生徒C「『私の持っていたもう一人の友人は、猫肉屋のマシュー・マグであった。』」



生徒A「続けますよ。『He was a funny old person with a bad squint.』」



生徒B「『彼は『bad squint』な面白い老人だった』」



先生「辞書では、『squint』は斜視、やぶにらみの事だな。それに、ここでのoldは、語り手のトミーから見ての話だから、『老人』とするよりは『大人』とするほうがいい」



生徒B「『彼は、ひどいやぶにらみの面白い大人だった』」



生徒C「続けます。『He looked rather awful but he was really quite nice to talk to.』」



生徒A「『rather』は『やや』ですか、『かなり』ですか?」



先生「困ったな。辞書には両方出ている。『やや』と『かなり』は正反対だのに、二つとも『rather』の訳になるってのが問題だよな。こうしたことから英語が嫌いになる生徒も多いんだけどね。まあ、『ひどい斜視だ』とあるから、『かなりawfulだ』にしておこう」



生徒A「『彼はかなり恐ろしい顔をしていたが、話してみるととても素敵な人間だった』それとも『話すには素敵な人間だった』がいいですかね」



先生「どっちかな。まあ、どっちでもいいさ。それより、『nice』を『素敵』とするのはどうかな。どうも女性的な感じの表現だから、『感じのいい』くらいがいいかもしれない」



生徒B「先生、『nice』には、『愉快な』という訳もありますよ」



先生「えっ、そうなの? なら、マシュー・マグのキャラクターなら、そっちがいいな」



生徒A「『彼はかなり恐ろしい顔をしていたが、話すととても愉快な人間だった。』」





 

拍手

仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む(その2)

(前回の続き。全部で3回の予定です。)




生徒A「『Sailing ships came up this river from the sea and anchored near the bridge.』」



生徒B「『Sailing ship』は帆船でいいんですか?」



先生「いいんじゃない?」



生徒B「『帆船がこの川を海から遡ってきては、この橋の近くに錨を下ろすのだった。』」



先生「いいねえ。『おろした』ではなく、『おろすのだった。』というところがいい。――日本語の困るのは複数表現がしにくいところだな。『帆船』を『帆船たち』とするわけにはいかないからねえ。もっとも、最近では、物にも『何々たち』という言い方をする表現者も多いようだけど、まだ日本語としては熟していない表現だな。次行こう」



生徒C「『I would sit on the riverwall with my feet dangling over the water and watch the sailors unloading the ships and listen to their songs until I too could sing them by heart.』」



生徒A「このwouldは習慣を表すのですね?」



先生「まあ、そうだろうね」



生徒A「『私はその川の壁に……』先生、川の壁って何ですか」



先生「堤だけど、挿絵で見ると、ブロック造りの、文字通りの壁だな。でも、どう訳そう。そのまま『川壁』としておいて。井伏先生だって、後に出てくる『catsmeetman』を『猫肉屋』と訳していたからね」



生徒A「『私はその川壁に座って、足を水の上で『danglimg』させながら,水夫たちが船を『unloading』しながら歌うのを、それを私自身も覚えてしまうまで聞いていた。』」



先生「ここは辞書に頼らないで考えてみようか。こういうのも翻訳の楽しみだからね。A君、『dangling』はどういう動作だと思う?」



生徒A「挿絵から見て、『ぶらぶらさせる』ですかね」



先生「そうだろうね。挿絵のある本は、こういう時、本当に助かる。もっとも『川壁』に座って、足のできる動作と言えば、ぶらぶらさせるしかないけどね。でも、英訳の際に、その程度の頭さえも使わない生徒は結構いるよ。じゃあ、『unloading』は?」



生徒A「『荷下ろし』ですかね。loadigが『負担する』とか『負荷する』だし、それに否定の『un-』がついているわけだから」



先生「いいねえ。頭ってのは、そういう具合に使うんだ。ゲームをする人間なら、『now loading』という表示はおなじみだけど、そういう身近な英語も、ちゃんと意味を調べる生徒は少ないよ。これでこの段落は終わりだ。じゃあ、次の段落に行こう」



生徒B「『When they set sail again I longed to go with them and would sit dreaming of the wonderful lands I had never seen.』」



生徒C「『その船たちが再び出帆する時は、私は彼らと一緒に行きたいと心から願い、そして、私のまだ見たことのない素晴らしい世界を夢見ながら座っていたものだった。』」



先生「おっと、『物―たち』表現で来たね。まあ、それほど違和感もないからいいか。『wonderful』は、まあ、『素晴らしい』が一般的な訳だろうけど、ここは文字通り『wonderful』な、つまり、驚異に満ちた世界のイメージだろうね」



生徒A「次行きますよ」



先生「ちょっと待って。この段落は、この一文だけで一段落だ。つまり、ここでのトミー・スタビンスのこの述懐が、『ドリトル先生航海記』の、素晴らしい、『wonderful』な航海を予告していることに注意しておこうか。おっと、だいぶ、時間もたった。今日はここまでにしておこう。じゃあまた」









 



 



 



 


 


 

拍手

仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む

古いフラッシュメモリーの中で、内容が無事に保存されているものが少々見つかり、それをこの前から読んでいるのだが、中には我ながら面白いと思うものもある。下の文章は例によって三日坊主に終わった試みの一つであるが、今読んでも結構面白く、続けなかったのが悔やまれる。と言っても、京都への引っ越しの際に英語の原書は処分したので、今さら再開もできない。しかし、せっかく書いたのを死蔵し、誰も知らないまま消え去らせるのも空しいから、ここに公開しておく。自分が高校生くらいの頃に、こんな形で英語の勉強をしたかったと思う。






   仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む   2006年3月12日開始



 





 



 私の夢は、英語の原書をすらすら読めるようになることであるが、これはまさしく夢であり、ろくに勉強もしていないのだから、その夢は50歳を過ぎた今でも実現していない。兼好法師は、「齢40になるまでに物にならない技芸は捨てよ」と言っているから、そろそろあきらめてもいい頃ではある。それに、ほとんどの本は日本語訳で読めるのだから、無理して今さら英語の勉強をする必要も、本当は無いのである。しかし、今でも「英語で」読むこと自体は嫌いではないから、楽しみのための勉強(「勉強」とは、「勉め、強いる」ことだから、これは矛盾だが)として英語の本を読むことは少しはやっている。古本屋に行けば、面白そうな英語の本が良く見つかるから、それを少しずつ読むのが私の趣味の一つだ。そうした本の一つにヒュー・ロフティングの「ドリトル先生航海記」があった。



 この「ドリトル先生航海記」は、おそらく現在の大人の多くが、子供の頃に夢中になって読んだ本の一つだろう。動物と会話が出来る人間の話というアイデアも素晴らしいが、ストーリーの細部に見られるドリトル先生の温かな人間性の魅力は、凡百の児童文学には見られないものである。もう一つ、この作品が日本で迎えられたのは、井伏鱒二の名訳のおかげもあると思う。これは石井桃子が戦争中に、井伏鱒二に頼み込んでやらせた仕事らしい。私の考えでは、井伏鱒二の仕事の中で、一番長い生命を持つのは、「山椒魚」以外では、この翻訳ではないかと思う。



 さて、これから私がやろうとしているのは、この「ドリトル先生航海記」を教材とした架空授業である。授業というよりは、セミナーというか、雑談形式あるいは、輪読のような感じで、原書を読み解いていこうという趣向だ。それを架空授業の形で文章化していけば、私自身が飽きないでできるのではないかという狙いである。原書を読みながら、私自身が疑問に思ったことを記録し、それを後で井伏鱒二の訳と対照すれば、私は井伏鱒二から英訳の授業を習うという、素晴らしい体験ができることになる。これは英語の学習法としても、相当に面白い趣向ではないだろうか。もちろん、私の英語の学力は高卒レベルだから、とんでもない間違いを人前にさらすことになるが、この年になれば、恥をさらすことへの恐れはあまり無い。それが年をとることの一つのメリットだ。では、始めよう。



  



第一回目の授業  ( 第一章 The cobblers son )



 



 先生「まず、第一章の題名からして、分からないね。Cobbler って何だろう。辞書を引いてごらん」



 生徒A「靴の修繕屋ですね。靴直し。ついでに言うと、Cobbleには舗道の丸い敷石の意味があります」



 先生「そういえば、確か、サイモンとガーファンクルの歌の何かに、cobble stoneってのが出てきたな。第一章の題名は、そうすると、『靴屋の息子』かな」



生徒A「『靴屋』と『靴の修繕屋』は違うでしょう。靴の修繕屋の方が、より貧しい感じではないですか?」



先生「そうだな。井伏先生がどう訳しているかは後で見ることにして、ここは『靴直しの息子』にしよう。では、とりあえず本文を、一文ずつ読んでいこうか。B君、読んでごらん」



生徒B「First of all I must tell you something about myself.」



先生「特に問題は無いね。A君、訳してごらん」



生徒A「『まず最初に、私は自分自身について何かを言わねばならない。』」



先生「うーん、間違いじゃないけど、硬いね。いちいち、原文に忠実に訳すと、かえって原文のニュアンスが失われてしまうこともあると思うよ。このmustは、それほど重々しい感じは無いと思う。単に、語り手が読み手に、物語の進行のために必要な情報を語っておこう、というだけだろう。B君、訳し直して」



生徒B「『まずはじめに、私は自分自身のことを語っておこう。』くらいのものですかね」



先生「『まず』と『はじめに』は同じ意味だから、いわゆる『馬から落馬した』式の重言になるけど、これは日常的によくでてくる言い方だし、細かいことにこだわりすぎても話が長くなるから、あまり細かいことは言わないで先に進もう。Cさん、次を読んで」



生徒CMy name is Tommy Stabbinsson of Jacob Stabbinsthe cobbler of PuddlebyontheMarshand I was nine and a half years old when I first met the famous Doctor Dolittle.」



先生「A君、訳してごらん」



生徒A「ええと、『私の名前はトミー・スタビンス、パドルビー・オン・ザ・マーシュという町の、ジェイコブ・スタビンスの息子で、あの有名なドリトル先生に最初に会った時は九歳半であった。』」



先生「なかなかいいね。井伏先生はこの町の名前を『沼の上のパドルビー』と訳していたけど、Marshを一応調べてみようか。Cさん、辞書を引いてごらん」



生徒C「『低湿地、沼地』とありますね」



先生「じゃあ、やはり『沼の上のパドルビー』だ。でも、ここで『上』というのは、『ほとり』の意味だから気をつけてね。それから、トミーの父親の名前は、ジェイコブでもいいけど、ヤコブと読めば、この家族が多分ユダヤ系だということがわかりやすい。ユダヤ人というと、我々は、ロスチャイルドみたいな金持ちを想像しがちだけど、一般のユダヤ人は、この家族のような貧しい人々が多かったのではないかと思われるね。ここで第一段落は終わりだ。では、第二段落の第一文をB君、読んでごらん」



生徒C「先生、ちょっといいですか」



先生「何かな、Cさん」



生徒C「セミコロンにはどういう意味があるんですか。コンマやコロンとの違いが良く分からないんですけど」



先生「難しいことを聞くなあ。ぼくがそんなの知ってるわけはないでしょう。とりあえず、推測で言うけど、コンマは短い句を並列する場合、セミコロンは、長めの句を並列する場合って感じじゃない? コロンは文章の区切り目というよりは、時刻の時と分の区切り目とか、算数の比の何対何の対の記号に使うんじゃないのかな」



生徒C「……」(疑惑の眼差し)



先生「先に行こう。B君、読んで」



生徒BAt that time Puddleby was only quite a small town.」



先生「問題ないな。『その当時、パドルビィはただの、とても小さな町だった。』。A君、次を読んで」



生徒A「A river ran through the middle of it ; and over this river there was a very old stone bridgecalled Kingsbridge.」



先生「Cさん、訳してごらん」



生徒C「『一本の川がその間を流れていた。そして、その川の上にはとても古い石の橋がかかっており、それはキングスブリッジと呼ばれていた。』」



先生「いいね。でも、『その間を』というところは、『町の中を』としたほうがいいかもしれない」



生徒C「先生、私、やっぱりセミコロンが気になるんですけど、ここ、2文に分けていいんでしょうか」



先生「いいんじゃないの。まあ、1文でも訳せそうだけどね。細かいことは気にせず、次にいこう。次は第三段落だな。面倒だから、もう、いちいち指示はしないよ。A君B君Cさんの順に一文ずつ読んで訳してもらおうか。次はA君が読んで、B君が訳す番だ」


 

 


拍手

ハリーはなぜホリーを呼んだのか

「第三の男」はもっとも好きな映画の一つなので、こういう問題提起には黙ってはおられない。この問題は考えたこともなかったが、単純に、(まあ、今さらネタバレを気にすることもない古典だからネタバレしてしまうが)ハリーは自分の死亡(実は偽装死)の証人を「一般市民」から作っておきたかっただけではないか。麻薬密売仲間や偽パスポートによる不法滞在中の愛人以外にも「普通の」葬儀参列者がいたほうが本物の葬式らしい、という判断だろう。ところが、自分が馬鹿にしていたホリー・マーチンスが、意外に頭が良く、しかも友達思いで、この偽装死を詮索しはじめてしまったために本当に自ら「墓穴を掘った」という皮肉である。


(以下引用)


竹熊健太郎《編集家》 @kentaro666  ·  5 時間

久し振りに『第三の男』をDVDで鑑賞しましたが、ひとつ腑に落ちないことが。何故ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)は旧友のホリー(ジョセフ・コットン)を冒頭ウィーンに呼び寄せたのでしょう? わざわざ呼ばなければ、ホリーがあれこれ詮索せず、最後は下水道で死ぬこともなかったのに。


拍手

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
27 28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析