「また立ち返る水無月の……」
が有名かと思うが、彼の「相聞」は別にもあって、これもなかなかいい。
先に、「また立ち返る」の方の全文を載せる。
相 聞
芥 川 龍 之 介
また立ちかへる水無月の
歎きを誰にかたるべき。
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
私は、これの第四行を「恋しき人の」と覚えていたが、この「かなしき人」は、漢字表記すれば、おそらく「悲しき人」ではなく「愛(かな)しき人」と書かれたのではないか。だからこそ「相聞歌」(=「恋歌」)なのである。
なんで、この歌の話をするかと言えば、言うまでもなく、「水無月」となれば、この詩をいつも思い出すからである。(特に「また立ち返る水無月の」の調子の良さには惚れ惚れする。「花」と「目」の重ね合わせのイメージも素晴らしい。[注:旧暦では今年の水無月は7月16日からで、今はまだ卯月らしいが。]
さて、もう一つの芥川の「相聞」だが、
風に舞ひたるすげ笠の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
というもので、一読して「梁塵秘抄」の有名な歌の影響が感じられる。
それはこういうものだ。
君が愛せし綾藺笠、落ちにけり、落ちにけり
賀茂川に、川中に、
それを求むと尋ぬとせし程に、
明けにけり、明けにけり、
さらさらさやけの秋の夜は。
まあ、森村誠一の「人間の条件」で有名になった西条八十の詩などもそうだが、これまであったものが無くなったという喪失感をもっとも感じさせるのが、笠などが風に奪い取られる瞬間なのだろう。
芥川龍之介の「朱儒の言葉」(「朱儒」は「小人」の意味で、芥川が自分自身の臆病な一面を自嘲したものだろう。)の中に、「老練家」というのがあって、「彼は恋をしそうになると、叙情詩を作って、それを忘れることにしていた」とかいう風な内容だったと思うが、下の回答中の
「彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の叙情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。」
が、まさにそれで、面白い。恋愛についての男女の意識の違いというものもあるが、芥川個人の性格が分かる。恋愛詩を作る人間が恋愛に有能なわけではないようだ。
もっとも、創作物と作者の実人生(人格や生き方)は別物だ、というのは当然である。創作物(小説や詩)は作者のイデア(理想、アイデア)であって、彼自身の人格水準とは別問題だ。言葉は言葉として優れていれば、それでいいのである。作者の実生活など、作品の価値とは無関係なのだ。(とは言っても、私はかつていじめっ子だったと自白している人間の書く、「上手い」人情話など、嫌悪感が先立って読む気もしないのだが。人間の心には『一杯のかけそば』的な「感動のポイント」があって、それを利用すれば、泣ける話は筆達者な人間なら容易に書けるようだが、そういう「相手の手の上で踊らされる」ような感動というものは、御免蒙りたい。まあ、良寛が「嫌いなもの」に「書家の書」を挙げるようなもので、「上手いけど嫌いだ」ということはあるのである。)
(以下「教えてgoo」より引用)
芥川の相聞
- 質問日時:2010/01/07 11:03
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芥川龍之介作『相聞《そうもん》』の「風に舞いたる菅笠の/なにかは路《みち》に落ちざらん。/わが名はいかで惜しむべき。/惜しむは君が名のみとよ。」
この詩の意味、背景をご存じの方おられましたら教えてください。
No.1ベストアンサー
- 回答日時:2010/01/07 22:35
大正14年4月に発表された「澄江堂雑詠」 では
恋人ぶり
風に舞ひたるきぬ笠の
なにかは道に落ちざらむ。
わが名はいかで惜しむべき。
惜しむは君が名のみとよ。
とあります。
しかしその前月 大正14年3月発表の「越びと」には 収録されていません。
ところが 自死後に 発見された 「或阿呆の一生」 には
三十七 越し人
彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の叙情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍った、かがやかしい雪を落すように切ない心もちのするものだった。
風に舞ひたるすげ笠の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
とありますから
越し人 は 歌人の 片山広子であり アイルランド文学翻訳家の松村みね子である となります。
芥川龍之介は 若い頃 同人誌の新思潮に 片山広子時代の歌集「翡翠」の 書評を書いている。
また、堀辰雄の「聖家族」は 芥川龍之介と片山広子(松村みね子)の および 堀辰雄のことなどを 描いたものとされている。
以上が背景など。
意味は、「叙情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍った、かがやかしい雪を落すように切ない心もちのするものだった。」で、充分でしょう。