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煙草と詩情

煙草と詩情という、無理なタイトルの小文を書こうとしているのだが、要するに、詩情とは食い物の味ではなく、煙草の味のようなものだ、という説である。つまり、生存や生活に何が何でも必要な要素ではない。しかし、それが無い生活というのは、実に索漠たるものだと愛煙者なら感じる、そういうものではないだろうか、ということだ。
そして、現代の社会から煙草が駆逐されつつあるのと同様に、あらゆる芸術から詩情という要素が消えつつある、というのがこの説のもうひとつのポイントだ。その代用が恋愛なのだろうが、恋愛からも詩情が駆逐されたなら、それは恋愛なのかどうかである。つまり、相手と寝れば、それで目的達成、という恋愛ははたして恋愛なのかどうか。
では、詩の中に詩情はあるのか、というのが大問題で、私は現代詩をまったく読まないのだが、それは現代詩の中に詩情は無い、と思っているからだ。poemと poetryはまったく別物で、poetryを欠いたpoemはゴマンとあるし、日常生活の中の日の陰りや草の上の露にもpoetryはある。
吉本隆明の晩年の本の中に、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」は大文学だが、ヘミングウェイの作品はそうではない、といった感じの言葉があって、一応は詩人でもあった吉本隆明の「文学」の定義は何なのか、と思ったのは、ヘミングウェイの作品とは散文で書かれた詩であり、そのpoetryこそが彼の作品の価値だろう、と私は思っているからである。彼の時代の作家は、作品の中にpoetryを持った作家が多かったと思う。まあ、現代作家はほとんど読まないし知らないので、私は単に、映画やテレビドラマなどから、現代の創作物からは詩情がほとんど無くなった、と判断しているだけである。

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「面白い」だけの映画と「栄養になる」映画

お笑いの原則は人間を類型化し、一部の人間像を誇張して笑いものにすることだろうから、繊細な描写の多い文芸映画の理解はできなくて当たり前だろうし、蒼井優も結婚相手に芸術鑑賞能力は求めていなかっただろう。しかし、問題は、そういう鈍感な人間が自分に理解できないものは無価値だと断定することで、現在はお笑い界の人間のその種の言説が社会的影響力を持っている。つまり、馬鹿(お笑いの才能はあるから馬鹿ではないが、無教養な人間)が世論をリードする社会になっているわけだ。
山里亮太は妻との会話で自分に欠如した部分、他より劣った部分を認識できたのだからまだマシなのではないか。
などと言いながら、私も嫌いな映画が多く、アクション映画だろうがSFだろうがホラーだろうが、「自分の好みには合わないだろうな」と予測できるので、世間で大評判の映画もほとんど見ていない。「マッドマックス怒りのデスロード」などもそのひとつで、ネットテレビで無料で見ることができるので見たが、半分ほど我慢して見ただけで途中放棄した。自分の興味の無い映画を見るのは時間の無駄である。
ただ、四十年代五十年代六十年代の昔の映画はだいたい好みである。七十年代が限界か。恋愛映画など大嫌いだったが、昔の名作だとやはり素晴らしい。まあ、アクション映画、SF映画、ホラー映画などは若いころに見るべきだと思う。年を取るとジュースよりはお茶や水のほうが美味く感じるようなものだ。
ただし、若いころでも理解できる優れた「人生映画」「文芸映画」もある。「第三の男」などはまさに「人生映画」だと私は思っている。正義感に溢れた誠実な人間が女性に愛されず、その女性は彼女をただの使い捨ての玩具と思っているとんでもない悪党に心から惚れる、そういう映画である。ちなみに、泣いたり喚いたりの場面はひとつもない。名セリフに溢れ、ユーモアもあり、映像も音楽も素晴らしい。
「人生映画」としては、「野いちご」と「東京物語」と「道」もお勧めだ。その世界に没入できれば、見た人は見る前と見た後では紙一枚分くらい別の人間に変わる、あるいは世界を見る角度が一度くらい変化する、というのが名作である。これは文学でも同じだ。それが教養というものだろう。つまり、単に「知っている」のではなく、知ったことが当人の血肉となっていることだ。



山里亮太 蒼井優との映画デートで弱点発覚「映画を見る人の優劣っていうのがあるのかな?」


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スポニチアネックス

「南海キャンディーズ」の山里亮太


 お笑いコンビ「南海キャンディーズ」の山里亮太(43)が、22日深夜放送のTBSラジオ「JUNK 山里亮太の不毛な議論」(水曜深夜1・00)に出演し、妻で女優の蒼井優(34)との映画デートで気づいた自分の“決定的な弱点”を明かした。 【写真】まさに美少女!10代の頃の蒼井優  山里はTBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」で共演している映画ジャーナリスト町山智浩氏の勧めで、公開中の映画「はちどり」を蒼井と見に行ったという。家族や友人たちとの複雑な関係に悩む思春期の少女の心情を、丁寧な描写で描いた傑作。だが、「繊細な感情のちょっとした揺らぎとかを中心に見せる映画というものを感じ取れる能力が、自分にない」という山里は、その魅力を感じ取れないままだったという。  蒼井は「すごい楽しかった」と感激していたといい、2人で感想戦に突入したものの、山里は「これをいいって言わない人って、映画とか分からない、センスがない人って思われるのがいやで」と見栄を張り、「いい映画だったわ~」と答えたという。しかし、蒼井から「どのへんが?」と突っ込まれ、「大きい声を出してなかった主人公の人」と、ピント外れな答えをしてしまったという。  観念した山里は、「どういうふうにおもしろがればいいの?」と聞いたところ、蒼井から「細かいところを描写している、『ここをこれだけにゆっくり描写するのか!』っていう楽しみ方だよ」とアドバイスを受けたという。日本映画界を代表する大女優を妻に持ちながら、映画を見るセンスの欠如に気づいた山里は、「映画を見る人の優劣っていうのがあるのかな?」と自問自答していた。  山里の好みは、理解しやすい勧善懲悪ものという。「俺はもう、『悪いやつがいる、いいやつがいる。悪いやつ、負ける』。これ以外は無理。分からないんだもん。悪いやつが倒されないと分からない。いつ悪いやつが出てくるの?って思う。『こいつ、悪いやつっぽいな』と思ったら、いねえなみたいな。必殺技が出ないと」と開き直っていた。








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「演繹型思考」の陥りやすい罠

私の「ネットゲリラ」常連中のごひいきのtanuki氏だが、氏の欠点のようなものが分かってきた気がする。それは、「結論から出発して、それに合う事例を探す」という、「演繹型」の思考法(最初に結論ありき、の思考法)ではないかと思う。それが、以前に書いていたハリウッド映画への底の浅い(私にはそう思えただけだが)感想に出ていたようだが、その時には、「たまたまだろう」と思っていた。
しかし、下のコメントの事例として挙げた「あしたのジョー」の主人公矢吹丈の行動原理の解釈はまったく的外れだと思う。原作者の梶原一騎自体は女好きだったようだが、作者と作品は別だ。梶原一騎の理想としていたのは昔の「ビルドゥングスロマン」(主人公が苦難を通して自分の理想に近づいていく、あるいは破滅する生き方を描く小説)だったと思う。(「破滅」は実人生では失敗だが、美学的には大きな達成なのである。)
「あしたのジョー」に関して言えば、主人公のジョーの頭の中には女性はほとんど存在せず、むしろ邪魔な存在と見ているのである。彼は、いつも「ここではないどこか」が心の底にあり、彼にとっての理想を実現できる世界がボクシングにあることを発見してボクシングに、いや、「最強の男たちと戦える世界」に自分の生命を賭けるのである。つまり、彼にとって最愛の存在は乾物屋の娘のような善良で世話焼きの優しい娘でもなく、白木葉子のような大金持ちの高慢な美女でもなく、命を賭けて戦った力石徹であり、ホセ・メンドーザなのである。それはホモ的な愛情とはまったく別の、「偉大な敵への尊敬」と、「それを自分以外には倒させたくない」という気持ちなのだ。
要するに、その戦いを通して、自分の生命を燃焼し尽くし、真っ白に燃え尽きることが彼の望みだったのであり、「あしたのジョー」のラストシーンは、まさに彼が自分の理想を達成した瞬間を描いた名シーンだったわけだ。
どこをどう見ても、ジョーの中には、「女とやるためにボクシングをやる」という部分はカケラもないのであって、tanuki氏が自分の持論(若い男の望みは女とやることしかない)の事例に挙げるにはもっとも不適当な例を出してしまったということである。

私は原作者梶原一騎の人間性は「お近づきになりたくない」と思うが、その作品の数々にはやはり天才性がかなりあったと思っている。

なお、私は漫画は文学のひとつ(絵画と結合した文学)であり素晴らしい芸術だと思うので、そのジャンルにこの小文(漫画評)を入れた。


(以下引用)


男の夢のうち闘争に勝つ(腕力も金も名誉も)というのは結局女のためなんで、まあ人間も動物と変わらん。


まあそのあたり「あしたのジョー」なんかの隠されたテーマですな。
ジョーは結局深窓の令嬢白木葉子とやりたかっただけのこと。で次々と難敵用意してやらせてくれなくて最後にぶっ壊されちまうという。
最終回では葉子が車椅子のジョーを押して散歩するシーンという案があったらしいんだが、そちらの方がふさわしかったかもしれませんな。


まあ若い間に女と遊びたいのは本能。メスもオスの匂いにつられて集まる。
しかし鳳啓介みたいに年取ってから危篤の病床に過去の女全員集合なんてのが本当の艶福家かもしれませんな。石田純一なんかも正月祝いの自宅に過去の女(松原千明とか)集合で、東尾が呆れてましたなあ。
まめなだけかもしれんが。






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黄金のまどろみ

ビートルズに「ゴールデンスランバー」という歌があるようだが、私は聞いたことがない。しかし、サイモンとガーファンクルの「アイ・アム・ア・ロック」の中に「I wont(will not)disturb the slumber」という一節があって、前後関係から「眠り」か「静謐」の意味だろうな、と想像していた。で、気になって調べてみた。
まあ、予想は当たっていたと言えるかと思うが、「黄金のまどろみ」はいい言葉である。大島弓子の何かの作品にあった「思い切り自堕落な午後」を連想させる。

slumber

音節slum・ber 発音記号・読み方/slˈʌmbɚ‐bə/発音を聞く 《文語》
動詞 自動詞

2


火山などが〉活動休止する.


His talents had slumbered until this time. 彼の才能この時まで眠っていた.
他動詞
名詞

1


不可算名詞 [具体的には 可算名詞; しばしば複数形で] 眠りうたた寝まどろみ.



2


不可算名詞 無気力状態沈滞.


slumberer 名詞

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「ポエム」が嘲笑の対象になったこと

小田嶋師が自分のツィートを引用したものだが、広告コピーの文体についての実に素晴らしい分析である。(この「コピー」という言葉自体、何とかならないか。複写の意味の「コピー」と紛らわしくて困る。)ただし、「ポエム」という言葉の価値を低下させた責任の一端はそれを揶揄的な意味で使ってきた小田嶋師にもあり、それは本来のポエム(詩)にとっては非常に迷惑なことのはずだ。小田嶋師も本来のポエムというものが好きだからこそ大衆芸術の中のポエム(ポップスの歌詞など)はよく引用し、活用してきたはずである。
なお、糸井重里の「責めるな。じぶんのことをしろ」は、「責める」という行為自体を責めることで「(政権や上級国民の)犯罪や不道徳性を責める」ことまでも禁圧するという後世に残る名コピーかもしれない。彼の最高傑作ではないか。いや、あの戦争中のさまざまな戦争遂行コピーと同様に後世に残るという意味である。

(以下引用)



「責めるな。じぶんのことをしろ。」もポエム的なもの言いで、誰が誰に対して「責めるな」と言っているのかが明示されていない。誰のどんな行動を責めてはいけないのかも説明していない。「じぶんのこと」が、誰にとっての「じぶん」のどんな「こと」なのか。解釈はすべて受け手に丸投げされている。
引用ツイート
小田嶋隆
@tako_ashi
·
主語や目的語を省略することで、明快な論理とは別建ての情緒や感覚のための余白を確保するのが、日本語における詩的な文章の伝統だった。その曖昧さを商品の宣伝に応用したのが広告文案業者で、彼らが洗練した発話者と受話者をボカす用語法が、いま「ポエム」という言い方で揶揄されている。





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「味覚については議論はできない」

私ごひいきのtanuki氏の映画論だが、どうも理解できない。全盛期のハリウッドの名作映画がことごとくくだらないと言うのなら、氏が評価するのはどのような映画なのだろうか。
オードリー・ヘップバーンを下品で醜いと言う、氏のごひいきの女優は誰なのか。
「ローマの休日」を「どこが面白いのか」と言う、氏が面白いと思う映画はたとえばどういう作品か。
ちなみに、「ローマの休日」を撮ったウィリアム・ワイラーは、私が世界最高の映画監督と考える監督で、それ以外にも「大いなる西部」や「西部の男」など、あまり知られていない名作もあり、有名なところでは「ベンハー」などの監督でもある。どのようなジャンルでも見事に仕上げる点で、「世界最高の(職人)監督」だと考えるわけだ。
なお、フェリーニやベルイマンや黒澤やキューブリックもすべて凄い監督だと私は思っているが、ハリウッド映画(娯楽作中心)が名作映画を生み出していないとはまったく思わない。観客を楽しませることを第一義としている点を、私は逆に評価する。映画に芸術性があってもいいが、一般大衆が求めるのは何よりも娯楽性だろう。黒澤明などは、娯楽作品を作る能力が非常に高く、「椿三十郎」や「用心棒」や「七人の侍」が彼のベストだと思う。
まあ、「There is no arguing for taste」だから、tanuki氏の味覚は私の味覚とは違うというだけの話ではある。
なお、オードリー・ヘップバーンは私が一番好きな女優であるが、マリリン・モンローも好きであるwww 乳高きがゆえに尊からず。作り物でも、その可愛さが芸術の域に達していれば芸術だ。グレース・ケリーもモーリン・オハラも淫乱だったという話もあるが、映画の中で可愛ければいい。ビッチだろうが何だろうが、それを可愛く見せるのが監督の腕だ。(昔は、映画界の内部情報があまり外に漏れなかったので、ハリウッドは「夢の王国」であり得たのだろう。)

(以下「ネットゲリラ」読者コメントから転載)


あたしゃ最近ハリウッド全盛期の映画を録画してよく見てるんだが、今見るとどれも本当に下らない。アメリカ人のオナニー映画ばかりですな。


ローマの休日なんてどこが面白いのか。
オードリーヘップバーンというのは典型的なカマトトオヤジキラーで頭の悪いふしだらで下らない女しか演じられない。シャレードもティファニーも基本皆同じですな。態度や喋り方もいちいち下品な醜い女で、マイフェアレディのイライザは地ですな。
だがヨーロッパ貴族の血を引く若い女を中年アメリカ男が色女にしちまうといシチュエーションが田舎者に受けて、何度も似たようなのばかり作ってたというわけで。ケリーグラントとかハンフリーボガードなんてのもカッコばかりつけて傲慢で下らないアメリカ男の典型で反吐が出る。こんなものありがたがってた日本人が馬鹿なのです。


さて、ハリウッド流というのはたくさんユダ菌から金借りて、テレビコマーシャルとメディア買収して「面白い」詐偽で観客集めるだけの商売ですな。だが金使ったから面白い映画になるというわけではない。反語的だが金使ってなくても面白い映画は面白いんですな。
問題は上映館やメディアを抑え込んで新しい才能を潰す既成産業。アメリカの音楽もそれで終わっちまった。今回のはそれがめぐりめぐってユダ菌商売が終わっちまったと言うことです。


まあメディアミックスを最初にやったのは実は角川春樹なんですがね。商売のやり方までパクった挙句の死亡。目出度い話です。














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謎の旅人

災厄をもたらす「旅人」で想起するのは、ウィリアム・ブレイクの「Never seek to tell thy love」で、この「thy」はyouの所有格の古語だから、「あなたの」などという訳語ではなく「汝の」とでもすべきだろう。私は「愛について語るな。汝の愛を」と訳している(まあ、誤訳である。つまり、きちんと訳すなら、「お前の愛を(彼女に)語る手段を探そうとするな」ということだろう。つまり、「thy」の訳し方以外は、下の訳が正しいと思う。)が、ここでは誰かの訳文を載せる。
この最後の連に出てくる「旅人」が何者か、研究者の議論の的になっていると言う。
「時」とか「忘却」の比喩だとしたら、「彼女が去ってすぐ後に」と矛盾する。しかし、「目に見えない」存在なのだから、人間ではない。何者なのだろうか。


(以下引用)



Love's secret    
  Three Blake Songs
愛の秘密  
     3つのブレイクの歌

詩: ブレイク (William Blake,1757-1827) イギリス
    The Rossetti Manuscript  LNever seek to tell thy love

曲: バントック (Granville Ransome Bantock,1868-1946) イギリス   歌詞言語: 英語






Never seek to tell thy love
Love that never told can be;
For the gentle wind does move
Silently,invisibly.

I told my love,I told my love,
I told her all my heart,
Trembling,cold,in ghastly fears --
Ah,she doth depart.

Soon as she was gone from me
A traveller came by
Silently,invisibly --
He took her with a sigh.
あなたの愛を伝ようとしてはいけません
愛は語ることができないものです
穏やかな風が吹く時でも
黙って 目に見えないでしょう

私は自分の愛を告げ 私の愛を語りました
私は彼女に私の心のすべてを伝えたのです
震え 凍り付き 恐れおののいて -
ああ なのに彼女は去って行くのです

彼女が私から去っていったすぐ後
ひとりの旅人がやって来ました
黙って 目に見えないように -
彼は彼女を連れ去ったのです ため息と共に

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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