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自由

某サイトから借用。
大島弓子の「リベルテ144時間」で知った詩である。
144時間は、6日間。




Liberté

Sur mes cahiers d’écolier
Sur mon pupitre et les arbres
Sur le sable sur la neige
J’écris ton nom


自由

ぼくの学校時代のノートの上に
ぼくの机と木々の上に
砂の上に 雪の上に
ぼくは書く 君の名前を


ジェラール・フィリップの素晴らしい朗読を聞くと、この詩をフランス語で読む喜びを実感できる。約3分の間、美しい朗読に耳を傾けてみよう。






Sur toutes les pages lues
Sur toutes les pages blanches
Pierre sang papier ou cendre
J’écris ton nom

Sur les images dorées
Sur les armes des guerriers
Sur la couronne des rois
J’écris ton nom

Sur la jungle et le désert
Sur les nids sur les genêts
Sur l’écho de mon enfance
J’écris ton nom


読み終えた全てのページの上に
白い全てのページの上に
石 血 紙 あるいは灰
ぼくは書く 君の名前を

金色の挿絵の上に
兵士たちの武器の上に
王様たちの王冠の上に
ぼくは書く 君の名前を

ジャングルと砂漠の上に
巣の上に シダの上に
ぼくの子供時代のこだまの上に
ぼくは書く 君の名前を



Sur les merveilles des nuits
Sur le pain blanc des journées
Sur les saisons fiancées
J’écris ton nom

Sur tous mes chiffons d’azur
Sur l’étang soleil moisi
Sur le lac lune vivante
J’écris ton nom


夜々の素晴らしい出来事の上に
日々の白いパンの上に
婚約した季節の上に
ぼくは書く 君の名前を

ぼくの全ての紺碧のぼろ切れの上に
池の上に カビの生えた太陽
湖の上に 生命感あふれる月
ぼくは書く 君の名前を



Sur les champs sur l’horizon
Sur les ailes des oiseaux
Et sur le moulin des ombres
J’écris ton nom

Sur chaque bouffée d’aurore
Sur la mer sur les bateaux
Sur la montagne démente
J’écris ton nom

Sur la mousse des nuages
Sur les sueurs de l’orage
Sur la pluie épaisse et fade
J’écris ton nom

Sur les formes scintillantes
Sur les cloches des couleurs
Sur la vérité physique
J’écris ton nom


野原の上に 地平線の上に
鳥たちの羽根の上に
そして、陰の風車の上に
ぼくは書く 君の名前を

曙の一つ一つの息吹の上に
海の上に 船の上に
狂った山の上に
ぼくは書く 君の名前を

雲の泡の上に
嵐の汗の上に
厚く色あせた雨の上に
ぼくは書く 君の名前を

きらきらときらめく形の上に
様々な色の鐘の上に
物理的な真実の上に
ぼくは書く 君の名前を



Sur les sentiers éveillés
Sur les routes déployées
Sur les places qui débordent
J’écris ton nom

Sur la lampe qui s’allume
Sur la lampe qui s’éteint
Sur mes maisons réunies
J’écris ton nom

Sur le fruit coupé en deux
Du miroir et de ma chambre
Sur mon lit coquille vide
J’écris ton nom

Sur mon chien gourmand et tendre
Sur ses oreilles dressées
Sur sa patte maladroite
J’écris ton nom

Sur le tremplin de ma porte
Sur les objets familiers
Sur le flot du feu béni
J’écris ton nom


目を覚ました小径の上に
広がった道路の上に
あふれ出る広場の上に
ぼくは書く 君の名前を

火が灯るランプの上に
火が消えるランプの上に
一つに集められたぼくの家々の上に
ぼくは書く 君の名前を

二つの切られた果物の上に
鏡とぼくの部屋の
ぼくのベッドの上に 空っぽの貝殻
ぼくは書く 君の名前を

食いしんぼうで優しいぼくの犬の上に
その犬のつんと立った両耳の上に
不器用なその足の上に
ぼくは書く 君の名前を

ぼくの扉の踏み板の上に
なじみ深い物の上に
祝福された火の波の上に
ぼくは書く 君の名前を



Sur toute chair accordée
Sur le front de mes amis
Sur chaque main qui se tend
J’écris ton nom

Sur la vitre des surprises
Sur les lèvres attentives
Bien au-dessus du silence
J’écris ton nom


授けられた肉全体の上に
ぼくの友だちの額の上に
さしのばされる1つ1つの手の上に
ぼくは書く 君の名前を

様々な驚きの窓ガラスの上に
注意深い唇の上に
沈黙のはるか上に
ぼくは書く 君の名前を



Sur mes refuges détruits
Sur mes phares écroulés
Sur les murs de mon ennui
J’écris ton nom

Sur l’absence sans désir
Sur la solitude nue
Sur les marches de la mort
J’écris ton nom


破壊されたぼくの隠れ家の上に
流れ去ったぼくの灯台の上に
ぼくの倦怠の壁の上に
ぼくは書く 君の名前を

欲望のない不在の上に
裸の孤独の上に
死の歩みの上に
ぼくは書く 君の名前を



Sur la santé revenue
Sur le risque disparu
Sur l’espoir sans souvenir
J’écris ton nom

Et par le pouvoir d’un mot
Je recommence ma vie
Je suis né pour te connaître
Pour te nommer

Liberté


戻って来た健康の上に
消滅した危険の上に
思い出のない希望の上に
ぼくは書く 君の名前を

そして、ある一つの言葉の力によって
ぼくはぼくの人生を再び始める
ぼくは生まれたんだ 君を知るために
君の名前を言うために

自由よ


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唱歌の世界は古典への入り口

たまたま日本の唱歌を聞いていて、「ペチカ」の中の「くりやくりやと」の意味が分からず、調べて次の文章に行き当たった。なかなか素晴らしい考証で、多くの人に読ませたい文章だ。
なお「今に柳も もえましょ ペチカ」は、私は昔古文を教えていたので「燃える」ではなく「萌える」の意味だと即座に分かったが、現代の若者も、アニメキャラに「萌え」たりするから理解できるかもしれない。ただ、若草や木々が「萌え出づる」という言葉はもはや死語だろうか。唱歌の中にはよく出て来る表現である。ほかに、「かげ」には「光」の意味もあること、「匂い」は「色が美しいこと」の意味もあることは覚えておいたほうがいい。
小学校の音楽の授業から唱歌が追放されたことで、日本人は古文や古語との初歩的な接点を失い、その読解能力が大きく低下したと思う。それは、明治文語文も読めなくなったということだ。そのうち鴎外も漱石も露伴も読めなくなるだろう。精神の世界では、昔の人も我々の同時代人なのだが。
まあ、たとえば「仰げば尊し」の歌詞を全部理解できる人がどれくらいいるだろうか。1割もいないとしたら、今の時代、誰も教師を仰いで尊ばないのは当然だろうww


(以下引用)

「ペチカ」について

2021/12/02

吉海直人(日本語日本文学科特任教授)


 


ロシアのことはよく知らないのに、何故かロシア民謡は大好きという人が多いようです。私もその一人ですが、10代の頃「ともしび」「カチューシャ」「トロイカ」「一週間」「小さいぐみの木」などを好んで歌いました。短調のどこかしら悲しい調べが、日本人の心にマッチしているのでしょうか。


そういった中に、実はロシア民謡ではないにもかかわらず、堂々とロシア民謡として歌われている奇妙な曲があります。その代表が「ペチカ」でした。この歌は北原白秋と山田耕筰のゴールデンコンビによって作られた童謡です。みなさんが小さい頃から愛唱している「からたちの花」「この道」「砂山」「待ちぼうけ」「あわて床屋」「鐘が鳴ります」もこの二人の合作でした。


今回はやや内容の異なる「ペチカ」について見ていきましょう。私が「やや内容の異なる」といったのは、そもそも「ペチカ」が日本のものではないからです。御承知のように、「ペチカ」はロシアでよく使われている暖炉の名称です。ですから作詞作曲の二人にとっても、決して馴染みのあるものではありませんでした。だからといって、わざわざロシア(旧ソ連)に出向いて見学したわけでもなさそうです。


内容は限りなくロシア風でありながら、その実これは満州の冬を念頭において作られたものでした。というのも、大正13年に刊行されている『満州唱歌集』にこの歌が収録されているからです。南満州教育会から満州に適した日本の童謡を依頼された二人は、わざわざ満州に赴いて、そこで日本から移民した人のためにこの曲を作ったというわけです。


もちろん満州の冬も厳しいので、雪の降る寒い夜に外へ出ることなどできません。暖炉の前に集まって長い夜を過ごします(一家団欒)。ぱちぱちと燃える火は、何かを語っているように聞こえるかもしれません。だから「ペチカ」に向かって「お話しましょ」と呼びかけているのです。なお山田耕筰はこの「ペチカ」に注を付けており、「ペチカ」ではなくロシア語風に「ペイチカ」と発音するようにと指示しています。


二番の歌詞に「くりやくりやと呼びますペチカ」とありますが、若い頃の私は意味がわかりませんでした。「くりや(厨)」は台所のことだという人もいました。また栗の皮を燃料として燃やすと解釈した人もいました。後で調べてみると、これは当時満州で名物とされていた「焼き栗売り」の売り言葉だとあったので、それでようやく納得しました。物売りの「竹や、さお竹」と一緒で、「栗はいかが」という掛け声だったのです。そうなるとますますロシア民謡からは遠ざかりますね。


三番の「いまにやなぎももえましょペチカ」も大間違いをしていました。もうすぐしたら燃えにくい柳(楊)の枝にも火がついて燃えるだろうと思っていたのです。よく考えると、その前に「じき春来ます」とあるのですから、これはもうすぐ春になると、柳の芽が萌え出すということだったのです。中国ではそれが春の訪れを告げるしるしだったのです。これも明らかにロシアの風習とは違っています。


もちろん満州の冬は、そんなに楽しいはずもありません。だからこそ歌によって少しでも厳しい冬を楽しく乗り越えようという、そんな思いが込められていたのです。ただし第二次世界大戦の敗戦によって満州は異国になり、もはやペチカが歌われることも少なくなりました。ところがそれから20年後の昭和40年12月、この曲がNHKのみんなの歌に登場して大ヒットしたのです。「ペチカ」も満州のことも知らない若い人たちは、この歌を異国情緒溢れるロシア民謡と勘違いしたからでした。


ところでこの「ペチカ」に、もう一つの「ペチカ」があることをご存知ですか。実は今川節という作曲家が、18歳の時に曲をつけていました。白秋など「私は今川君のペチカの方が好きだ」と語っています。山田耕筰にしても今川の才能を見込み、古関裕而と同じようにいろいろ援助したそうです。しかし惜しいことに、今川は結核が悪化して昭和9年に25歳の若さで亡くなってしまいました。残念ですね。


その年、彼の作曲した「ペチカ」は、東海林太郎が「ペチカ燃えろよ」というタイトルでレコーデイングしています。複合七拍子という珍しい曲ですから、是非一度聞いてみてください。


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最後に出るのは希望か災いか

ネットテレビというのは最高の存在で、テレビを見ない私でもネットテレビはよく見る。映画もテレビドラマも、公開時や放送時には見逃してもネットテレビで見られるのは素晴らしい。つまらない映画やテレビドラマは最初の10分で見限ることもできるから時間の無駄もない。(ただ、最近の映画やテレビドラマは俳優名や監督名、脚本家名を最初に紹介せず、最後に出すパターンが多いから、それを見て見るのをやめたりできないのが少し困る。)まあ、最初の10分くらいも見れば見る価値があるか無いかの判別はだいたいできる。ダメ作品はだいたい映像がひどいか俳優が大根演技である。ただし、大根役者でも監督がいいといい演技をしたりする。
下に引用したのは私自身の別ブログにこの前書いた記事だが、「エルピス」は最後まで見た。放映時には一気見ができないが、ネットテレビだとそれができるから、テレビ視聴より便利であるし、話の進展が楽に把握できる。
で、これは傑作である。下の記事に書いた通りに、「女王の教室」に並ぶ傑作である。話のテーマは政治の暗黒を描いたハードなものだが、話の作り方が上手いので肩が凝ることはなく、また俳優の演技が素晴らしいので、それを見るだけで面白い。
特に新人の真栄田郷敦(Gordon)は、一見大根だが、実にいい演技をしていて、馬鹿みたいな顔で馬鹿みたいな正直者の演技をするのだが、それがまるで「白痴」のムィシュキンのようにも見えてくる。最初はただの甘ったれ坊やだったのが、話が進むにつれて、色々な顔を見せる。最後のあたりで、夕陽に照らされた無精ひげ顔でヒロインを下から見上げるアングルは、まるでキリストを思わせる神々しささえあった。
鈴木亮平が、珍しく悪役的な役だが、やはり上手い。で、犯人役が、どこかで見た顔だなあと思っていたら、瑛太である。変質者のサイコパス役が実に似合っている。長澤まさみも、彼女にぴったりの役で、好演である。
脚本は渡辺あやという人で、初耳の名だが素晴らしい才能の持ち主だと思う。
とにかくお勧めの作品である。




(以下自己引用)
一部で話題になっている「エルピス」、ネットフリックスで第一話を見たが、秀逸な作品のようだ。伝説の「女王の教室」に迫る社会派作品になるのではないか。
俳優の演技がみな素晴らしい。特に鈴木亮平は、知的な役柄が見事にはまっている。あの「変態仮面」がこのような俳優になるとはwww
監督は大根仁で、久しぶりの登場という感じだ。彼の代表作になるのではないか。
なお、「エルピス」はエルビス・プレスリーとは何の関係も無く、パンドラの箱から最後に出て来た何からしい。(一般には「希望」だとされている。)

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We’ll meet again

某サイトから転載。目前に迫る戦争で、人間が人肉となるmeat againとならなければ幸いだ。

(以下引用)

We'll Meet Again, Vera Lynn, Original 1939 Version

Vera Lynn – We’ll Meet Again, Original 1939 Version


「We’ll Meet Again」(1943)は、イギリスの歌手・女優ベラ・リン(Vera Lynn:1917-)が主演した同名のミュージカル映画の主題歌です。
この歌は第二次世界大戦において従軍した兵士への想いを歌って、戦時下の人たちに将来の希望を与えました。戦争に勝つというメッセージではなく、生きて、親しい人を想い、再び逢いましょうという庶民の強い想いが歌詞に込められています。


人が辛い境遇を乗り越えるて生きてゆこうと希望を持つためには、他の人との絆、心の助けが必要なのだと思わせてくれる歌です。


We’ll Meet Again


We’ll meet again,
Don’t know where,don’t know when.
But I know we’ll meet again, some sunny day.


Keep smiling through ,
Just like you always do,
Till the blue skies chase those dark clouds, far away.

So I will just say hello,
To the folks that you know,
Tell them you won’t be long,
They’ll be happy to know that as I saw you go
You were singing this song


We’ll meet again,
Don’t know where,don’t know when.
But I know we’ll meet again, some sunny day.


We’ll Meet Again(意訳)


また逢えるでしょう
どこかは分らず、何時とは分らない
けれどわたしたちは明るく晴れた日にまた逢えるでしょう
あなたはいつもしてきたように笑顔でいて
青空が暗い雲を遠くへ運び去るまで


だからわたしはあなたの知っている人たちに挨拶して
もうすぐ逢えると伝えるの
みんな知れば幸せになるわ あなたがわたしに逢って
わたしがこの歌を歌っていたことを


また逢えるでしょう
どこかは分らず、何時とは分らない
けれどわたしたちは明るく晴れた日にまた逢えるでしょう


2009年にイギリスのドイツ宣戦布告70周年に際して、92歳になったベラ・リンによる同名の自伝が出版され、同時にデッカ・レコードからコンビネーション・アルバム「We’ll Meet Again: Very Best of Vera Lynn」がリリースされて、イギリス国内でアルバム・チャート1位になった他、英語圏とヨーロッパの多くの国で再び大ヒットしました。
忘れられつつある戦争下での人々の前向きな希望が再認識されたのだと思います。
未来への希望を歌ったこの歌は、過去にも多くの歌手がカバーしました。そしてこれからも新しい世代に歌い継がれてゆくと思います。

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下京や……

下京や 雪積む上の夜の雨


これは凡兆の名句だが、上五の「下京や」は芭蕉が置いたものである。「雪積む上の夜の雨」だけは出来たが、上五に悩んでいた凡兆に芭蕉が「下京や」を置いて、凡兆は「あ」と感心したが、それでもまだ十分に納得できない顔をしていたところ、芭蕉は、「これ以外に、より優れた上五を置いてみよ。それができるなら、私は二度と俳諧のことは語るまい」と言ったという。実際、見事な上五であり、全体がこれで完璧になっている。「下京や」の音の響きと他の部分の響き合いも完璧だ。
と言いながら、実は私は「下京」というのがどのあたりかを明確に知らないので、調べると、現在の「下京区」とはだいぶ違うようだ。まあ、江戸時代の京都の下(南)半分くらいだろうという予想は当たっていた。

(以下引用)
  • 平安時代末期のころ、京都平安京)の南側を下辺(しものわたり、しもわたり)、これに対し北側を上辺(かみのわたり、かみわたり)と呼ぶようになる。

これが中世にそれぞれ下京上京となった。 下京と上京の境界はおおむね二条通であった[注 1]。 上京には京都御所があって富裕者が集まっていたのに対し、下京は商業街区であり、民衆の町であった[1][2]

寒波注意 日本海側は1m超の降雪も


tenki.jp



24日~大寒波襲来 日本海側は1メートル超えの降雪も 西日本や東海も積雪のおそれ


tenki.jp

24日(火)から25日(水)は、強い冬型の気圧配置に。日本海側は大雪や猛吹雪が予想され、大荒れの天気に。普段あまり雪の降らない西日本や東海の太平洋側でも雪が降り、積雪する所も。運転が困難になるほどの猛吹雪のおそれがあり、交通機関に大きな影響が出る可能性があります。計画を見直すなど早めの対策が必要です。

ココがポイント


  • 各地の予想気温 早めに大雪や凍結への備えを

    出典:ウェザーマップ



  • 24日から25日、普段雪の少ない地域でも大雪の恐れ


    出典:ウェザーマップ



  • 日本海側の広い範囲で通行止めの可能性 高速各社「不要不急の外出控えて」


    出典:読売新聞オンライン



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「スカボロー・フェア」の訳

「英国と暮らす」というブログから転載。「sea strand」のstrandは「立往生する」「船を座礁させる」の意味らしい。詩なのだから直訳で「立往生した海」でいいのではないか。もちろん「船を座礁させる海」でもいいが、歌詞の言葉としては長すぎるので。

(以下引用)


パセリ、セージ、ローズマリーとタイム
昨日の「ローズマリーは追憶のため」は、愛する人に "(私のことを)覚えていて"、という切ない一説のお話でしたが、今日は逆に "私のことは忘れてくれ"、という歌。

サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel)といえば、「サウンド・オブ・サイレント」「スカボロー・フェア」という世界に知られたヒット曲がありますが、この「スカボロー・フェア」の歌詞はかなり謎めいたもの。
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といっても、歌詞はイングランド民謡「スカーバラ・フェア」(Scarborough Fair)。その歌詞に、ポール・サイモンが自らの曲をつけたものゆえ、彼に罪はないのですが。

正しくと発音するとScarborough「スカーバラ」なので、スカーバラと書かせていただきますね。
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ウェスト・ヨークシャーに居たことのある私にとって、ノースヨークシャーの東海岸に位置するスカーバラは、とても思い出深い、なんとも表現し難い雰囲気をもったいい場所なのです。

今回は、見所は抜きにして、この歌詞の舞台であるスカーバラの風景写真(3月に訪れた時のもの)をご覧いただきながら、"私のことは忘れてくれ" のお話を続けたいと思います。
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「スカーバラ・フェア」とは、中世の時代、8月15日から6週間に渡ってスカーバラで開かれた市(マーケット)。ヨーロッパ大陸から大勢の商人もやってきて賑わったので貿易フェアというのが正しいでしょう。
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では、「できっこないでしょ!」という無理難題の、その歌詞をみてみましょう。

Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary, and thyme;
Remember me to one who lives there,
She once was a true love of mine.
スカーバラ・フェアへ行くのなら
(パセリ、セージ、ローズマリーとタイム)
かの地に住む人に伝えて欲しい
昔、心から愛した人に

Tell her to make me a cambric shirt,
Parsley, sage, rosemary, and thyme;
Without no seams nor needlework,
Then she'll be a true love of mine.
私のために、亜麻布のシャツを作っておくれと
(パセリ、セージ、ローズマリーとタイム)
縫い目もなく、針も使わず
それができれば、彼女は私の真実の恋人になる

Have her wash it in yonder dry well,
Parsley, sage, rosemary and thyme;
Where water ne'er sprung nor drop of rain fell,
Then she'll be a true love of mine.
それを、向こうの乾いた井戸で洗っておくれと
(パセリ、セージ、ローズマリーにタイム)
水が湧き出ることも、雨の雫がふりこむこともない井戸で
それができれば、彼女は私の真実の恋人になる

Tell her to find me an acre of land,
Parsley, sage, rosemary, and thyme;
Between the salt water and the sea strand,
Then she'll be a true love of mine.
私のために、1エーカーの土地を探しておくれと
(パセリ、セージ、ローズマリーとタイム)
塩水(波打ち際)と海岸(砂浜)の、その間に、
それができれば、私達はまた愛し合える

Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary, and thyme;
Remember me to one who lives there,
She once was a true love of mine.
スカーバラ・フェアへ行くのなら
(パセリ、セージ、ローズマリーとタイム)
かの地に住む人に伝えて欲しい
昔、心から愛した人に
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途中、幾つかの無理難題を省きましたが、おそらく、大陸からスカーバラ・フェアを訪れた男性が、その折、巡り合ったかの地に住む昔の恋人に、「自分のことは忘れてくれ」というメッセージを込めたもの。

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大衆の「自由からの逃走」(「大審問官」について)

これも「混沌堂主人雑記(旧題)」で知った記事だが、素晴らしい記事である。私はこの「大審問官」の章は、読むたびに圧倒されて、分析や批評の対象にすることすら思いつきもしなかった。文芸評論家を自称する人の解説でも、この章をこれほど明確に整理したものは読んだことがない。筆者が恐ろしく頭のいい人なのだろう。そして、この章は「カソリック批判」でもある章だから、西洋ではこの部分に触れることがタブーであったとも思われる。

(以下引用)文中の「無心論」はもちろん「無神論」の誤記。「すべからく」の誤用はもはや言うのも無駄だろう。そういう瑕疵は問題外の素晴らしい記事だ。写真は省略するかもしれない。



【人類文学最高傑作の最重要章】「大審問官」の要点をまとめてみた【カラマーゾフの兄弟 解説】



小説

 

人類文学最高傑作と称される「カラマーゾフの兄弟」



重厚な内容で「人間」のあらゆる面が描かれる、まさに世界文学の傑作中の傑作です。


そんな「カラマーゾフの兄弟」の中でも、とりわけ重要でこの作品の根本を表していると言われるのが「大審問官」という章です。


作者ドストエフスキーの宗教観がまざまざと現れており、ここだけでも一つの小説にすることができるのではないかと思わされるような内容になっています。


しかしそれだけにこの章の内容は非常に難解で、何を意味しているのか読み取りにくいのも事実です。


そこで今回は、この「大審問官」の大まかな設定やあらすじを振り返った上で、その内容の要点を解説していきたいと思います。


それでは早速いきましょう!

「大審問官」の設定とあらすじ


時は16世紀のスペイン。


激しい異端審問が行われる中、人の姿をしたキリストがこの世に降り立つところからこの叙事詩は始まります。


「奇跡」を人々の前で披露するも、大審問官たち捕らわれて牢に入れられてしまうキリスト。


ちなみに大審問官とは、キリスト教における異端審問を担当し、異端と判断した者を次々に火炙りに送っていた役職です。


そして捕らえたキリストに対し、大審問官は自らのキリスト教観を披露する説教を繰り広げます。


この神であるキリストに対し、それに信奉するはずの大審問官が逆に説教を垂れるという大胆すぎる設定がこの叙事詩の見どころです。


キリスト教への絶望や怒りにも満ちた大審問官の長きにわたる話を聞いた後、キリストは大審問官にやさしく「接吻」をするという形でこの叙事詩は締めくくられます。


以下でその説教の中身について深ぼっていきましょう。

「大審問官」の要点を解説

「自由」とは

「大審問官」でメインで語られることになるのが、この「自由」についてです。


「自由」と聞くと、私たちは手放しで肯定しそうになってしまいますが、そこには大きな責任や苦悩が付き纏うということが語られます。


「自由」は高尚であれど、そもそも人間にとって重すぎるものなのではないか。
自分で全てを選択するということが必ずしも人々にとって最善とは限らない。
何事も自分で考え、決断をするという労力が生じてしまうからだ。


と大審問官は言っているのですね。


もともと人間はキリストの教えに応えられるほど、高尚な存在ではなく、むしろ弱く卑しいものであるとも語られます。


人から言われたことをやっているだけの方があれこれ考える必要がなくて、結果的に楽ということはありますよね。自由にはすべからく「不安」と「孤独」がつきものです。


自らに関する一切のことを自分で決定するという重荷に耐えられなかった人々たちは、その後自ら自由を教皇に差し出すようになり、その支配下に入ることで「自由」を獲得し、幸福を得た。


というのが大審問官の主張です。


ではなぜ人々はこのような一見自由を放棄するという不合理な選択をしたのかということについては、さらに詳細に語られます。

「自由」と「支配」

相反するこの二つが両立する論理を大審問官はこう述べます。


人々はただ無理解のまま自らの自由を教皇に差し出したというのではなく、本当の「自由」とは離れていくことを知った上でなおキリストのために教皇の支配下に入ることを決めたのだと。


自由が辛く厳しいものであることを人々は理解しているからこそ、罪に堪えながらもその自由を取りまとめてくれる教皇たちへの尊敬の念を禁じ得なくなる。


というのが大審問官の主張です。


ただここに教会側の中にはキリストへの「欺瞞」が残るとも言います。教会や教皇などの支配する側は真の意味でキリスト教の教えに準じていないということに心のどこかで気づいているということですね。


そしていずれ人々はキリストの掲げた崇高な理想よりも、目の前の食糧や生きていくための「安定」を優先してしまうようになります。


ここに関してはいつの時代も変えられないものを感じることができます。

「良心」について

大審問官は支配の中でも「良心の支配」が一番重要であると語ります。


人間は単に生きることを望むのではなく、何のために生きるかを重視する性質がある。


そのため自分の中での納得感を感じながら生きていきたいと考える。


そんな中で人々は教会に服従することこそ、キリストの教えに準じるものだと信じている。「善悪の判断」の一切を教会に任せることで楽に生きていくこともできる。


と大審問官は主張します。


だからこそ教会は人々のこうした思いに応える形で、彼らを支配する形で「自由」を与えることが可能になっていたというわけですね。

「統一性」について

人間の性質としてもう一つ挙げられるのが、人は「統一性」を求めているという点です。


「自分が信じているものの正当性を確かなものにしたい」という感情が人々の中には少なからず存在します。


「自分の信仰こそ絶対」


皆がこう考えて、それを他者にも強制しようとするからこそ、自分と違う宗教や宗派のものを攻撃したり、互いの正義のために争うことになります。


これは今でも自分たちが信じるもののために、戦争やテロ行為が行われている実情を見ても納得できることですよね。

人間はもともと「反逆者」

崇高な理想よりも、低俗でも全人類を魅了する食糧などを与えてやれば、争いがなくなると大審問官は主張します。


人間を愛しすぎ期待しすぎるがゆえに、人間に対して大きな要求をしすぎるキリストは理想主義なのではないかとキリストを批判します。


キリスト教が信者に求めるものは、当時の社会の実情から鑑みても、曖昧なものばかりであり、人々はかえって自由が苦しく感じられてしまっていました。


もともと弱くて、卑しい人間はそんな理想よりも目の前の「安定」に手を伸ばすのも当たり前であると主張されます。

三つの力

人々は信仰の対象に三つの力を求めると大審問官は言います。


それが「奇跡」「神秘」「権威」の三つです。


それらはかつてキリストが自らの行いや言葉で示したものでありました。


しかしキリストがいなくなってから1000年以上経ったこの世界において、人々はもうこれらに三つの力を求めることが困難になってしまいました。


でも人々は信じられるものが欲しい。そこで自ら「奇跡」を作り始めるようになった。


と大審問官は言います。


一見怪しげな呪術や魔女といったものが流行していた当時の背景には、人々のこうした背景があると考えたのでした。

無心論者イワンと信仰者アレクセイ

叙事詩「大審問官」をイワンが語り終えた後、最後はイワンとアレクセイの会話でこの章は締めくくられるのですが、ここも重要なシーンです。


無心論者であるイワンと神を心から信じるアレクセイが対照的に描かれます。


「大審問官」の話からも分かるように、何も信じられないイワンはどこか人生に絶望し、最後はカラマーゾフ的な堕落に落ちるしかないと考えます。


そんなイワンをアレクセイは救いたいと考えているのですが、主義主張の相違からこれといった解決策を提示することができません。


ただ怒りや苦悩に苛まれるイワンを「それでも受け入れて全てを許す」という姿勢を見せるに留まります。


アレクセイはこのことを叙事詩の中のキリストになぞらえて、自らもイワンに「接吻」することで伝えています。


イワンも自分に対して真摯なアレクセイを最後の拠り所としているようなところを感じさせながら、二人は別れるというシーンでこの章は締めくくられます。

まとめ


今回は「大審問官」の要点を解説させていただきました。


正直この章はめちゃくちゃ難解であり、僕自身理解しきれているかと言われるとあまり自信をもてません。


これについては一生をかけてでも考え続け、その時々で違った答えを見つけていくことが「大審問官」の味わい方であるとも思わされます。


これだけ「神と人間」について考えさせてくれる機会となる「カラマーゾフの兄弟」という作品の面白さ、奥深さを感じずにはいられませんよね。


それだけに何度も何度も読み直す価値があり、その都度より理解できるようにチャレンジしていきましょう。


この記事が、みなさんの「大審問官」の理解を少しでも助け、「カラマーゾフの兄弟」という作品をより一層楽しむきっかけとなれば幸いです。



【何がすごいのか】人類文学最高傑作「カラマーゾフの兄弟」のあらすじと魅力を考察してみた
人類文学最高傑作とも称される「カラマーゾフの兄弟」 その評価に違わず圧倒的な世界観と物語やテーマの重厚さがあって、読めば読むほどその凄さに気づけるようなめちゃくちゃ面白い文学作品です。 しかしこの作品、いかんせん難しいんですよね… と...

【人類文学最高傑作】「カラマーゾフの兄弟」の魅力と読み取れることを解説していく




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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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