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社会の汚物との妥協は人生の唯一の解か

壺斎散人氏のブログから転載。
「ライ麦畑でつかまえて」(正しくは、「ライ麦畑の子供見守り人」という意味での「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だろうが)は20歳前後に読んでこの上なく感動した小説で、その感動を守るため、二度と読んでいない。だが、まあ、この小説は女性には好まれないだろうな、という気がする。主人公は社会を拒絶し、大人を拒絶し、おそらく女性をも拒絶するタイプの人間だからだ。社会との、そして他者との和合こそは大人の、そして女性の最大の人生目標なのではないか。昔から、隠者とは男に特有の生き方だったという気がする。それは「愛」が人生の最大の関心事である女性にはありえない生き方だ。
ちなみに、村上春樹の偏愛の小説が「ライ麦畑でつかまえて」「ロング・グッドバイ」「グレート・ギャツビー」「ティファニーで朝食を」で、この四つとも自分でも訳している。これらの小説の特徴は、poetryだ、というのが私の見方であり、村上春樹の小説にもその影響は大きいようだが、私は彼の良い読者ではない。しかし、彼は文章の達人だと思っている。(念のために言えば、詩情には、荒涼の詩情も残酷の詩情もある。たいていの大衆小説に欠けているのが、「詩情」である。)

(以下引用)文中の「コールマン」は「コールフィールド」ではなかったか? 「ホールデン・コールフィールド」は、それ自体が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」につながる名前だと思う。



サリンジャー戦記:村上・柴田のサリンジャー談義


サリンジャーの小説「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、村上春樹にとって特別の小説だったらしい。彼はそれを高校生の頃に野崎孝訳で読んで以来、ずっとこだわり続けてきたというようなことを言っているし、また、できたら翻訳もして見たかったともいっている。その宿願がかなって晴れて翻訳できた。そこで翻訳の協力者柴田元幸と、この小説の不思議な魅力について語り合った。それが「サリンジャー戦記」である。「翻訳夜話」の続編ということになる。

いうまでもなくこの小説は古典である。何しろ今までに全世界で数千万部が売れ、更に毎年数十万部が売れ続けている。こんなすさまじい勢いを保ち続けている古典作品は他には見当たらないのではないか。何が魅力なのだろう。
魅力の感じ方は、読む人によって様々だろう。若い人とある程度年齢のいった人ではとらえ方が当然異なるだろうし、男性と女性でも異なるだろう。だが、これを一つの青春小説と捉えることでは共通しているのではないか。だから、青春のまっただなかを生きているものにとっては、自分の青春と重ね合わせながら読むことが多いだろうし、すでに青春を通過した人にとっては、哀惜のような感情を以て読む人が多いだろう。

筆者の場合には、この小説を読んだのは30歳をだいぶ過ぎた頃だった。だから青春などというものは、遠い記憶のそのまた奥に置き忘れてきた、今の自分とは無縁な事柄だと思っていたのだったが、この小説を読んでみると、その忘れていた自分の青春が昨日のことのようにありありと蘇ってくるような感じがしたものだ。筆者の場合にそうだったように、この小説は色々な年齢層の人々に、彼らなりの青春を感じさせる、あるいは思い出させる、ものなのだと思う。
しかし、青春小説と呼ばれるものが星の数ほどある中で、なぜこの小説だけが爆発的な人気を呼び寄せているのか。その秘密のようなものが、この二人の対談を読むことで、少しはわかってくるような気になる。二人とも何らかの点でこの小説にいかれた読者だからだろう。

この小説の特質として二人は色々な点を挙げているが、その中で筆者が感心したのは二つ、一つはこの小説がイノセンスを礼賛していると指摘している点、もう一つは地獄めぐりのような、魂の遍歴を思わせるところがあると指摘している点である。

イノセンスといえば幼少期に固有のことであって、青春とは必ずしもストレートに結びつかない、というのが大方の受け取り方だろう。青春期というのは、少年から大人になる通過点であり、社会の規範に抵抗したり、あるいは受け入れたりしながら、少しづつ大人に向けて成長していくことなので、むしろイノセンスからの脱却だといってもよいほどである。ところがそのイノセンスを、この小説の主人公であるコールマンは身にまとっているし、またそれをあくまでも守り抜こうとしている。つまりコールマンは、少なくともダーティな大人にはなりたくないと、拒否しているわけである。そこが普通の青春小説とは大分違う、と二人は指摘する。
普通の青春小説なら、青春期にある青年を目の前の大人の社会と対立させたり、妥協させたりしながら、青年が次第に変容していくさまを描く。その変容とは基本的には少年から大人へと成長することだ。その成長途上の過渡期を描くのが青春小説の本領であるから、そこには最後には救いのようなものが待ち構えているのが普通だ。魂の遍歴の末に、青年は無事大人になりましたという、ある種のハッピーエンドがあるはずなのだ。つまり、物語には終わりがある、いいかえれば出口がきちんと用意されている、ということになっている。そうでなければ、青春小説とはいえない。終わりのない青春、つまり大人にならない青年なんて、形容矛盾だからだ。

ところがこの小説には、その終わりがない。コールマン少年には、大人になれる可能性が保証されていないのだ。この少年はいつまでもぶつぶつと言いながら大人の社会の周辺をうろついているばかりで、大人の社会と正面から向き合おうとしない。だから普通の意味の対立も生まれなければ、まして妥協や価値の内面化も生じないで、少年はいつまでも大人に向けて成長していくことがない。彼はある意味で永遠の少年のまま化石化してしまう可能性を感じさせる。永遠の少年、つまりピーターパンだ。
ピーターパンは大人になることを棚上げした存在だ。大人になることを拒否しているわけではない。だからいつかは大人になるかもしれない。しかしどんな大人になるか、それをとりあえずは棚上げしたいだけなのだ。普通の人にはそんな余裕はないけれど、ピーターパンにだけはある。彼には別な可能性が残されている。

もう一つの点、地獄めぐりについては、村上は次のように言っている。

「ホールデンが自己意識の中を、真っ暗闇の中を、手探りで、あちこちつまずきながら進んでいく。殴られたり、吐いたり、下痢したり、凍えたり、いろいろ大変なんです・・・簡単な言葉で有効に語られる深い、暗い内容というのは、優れた物語にとってのひとつの大きな資格である想うんですよ」

つまりホールデンにとっての地獄とは自分の意識の底にある世界であるようだ。そこに下りて行って、殴られたり、吐いたりする世界でもある。その地獄を遍歴することで、自分が変るというわけでもないけれど、しかし何かが深まることは感じられる。その深まりの底には更なる暗闇が広がっているが、その暗闇の中から魂の叫びのようなものが聞こえて来る。その叫びが物語に陰影を刻む、ということだろうか。

次に筆者が面白いと思ったのは、村上らがこの小説をサリンジャー自身の生き様と関連付けているところだった。それはひとつにはサリンジャーがこの小説に託した思いという側面、もう一つは晩年のサリンジャーがコールマン少年と同じように社会と折り合えず、孤絶した生活を送るようになったという点だ。

サリンジャーは従軍してノルマンディー作戦に参加したりしたが、戦線での経験は一切語らなかった。しかしこの戦争で深く傷つき、深刻なトラウマに取りつかれたらしいと村上は推測する。この小説はそのトラウマから脱出するための、治癒行為としての意味を持っていたのではないか、というのが一点。

それから、晩年のサリンジャーはコネティカットの森の中で孤絶した生活を送るようになったが、それは社会と妥協できなかったという事情もあるだろうけど、もしかしたらサリンジャーがコールマン少年に同化したことの結果だった可能性もある、と村上は推測する。

作家の中には、小説の登場人物に自分自身を投影するタイプの人と、自分自身に登場人物を投影させるタイプの人とがいる、と村上はいう。サリンジャーは後者の典型だったのではないか、というわけである。

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「永遠」

壺斎散人の訳と解説とランボーの原詩の「永遠」である。
多くの人が訳していて、それぞれに勝手な訳をしていたり名訳だったりする詩である。その中ではわりと大人し目の訳で、ランボーの溌溂とした気分があまり出ていない気はするが、まあ、私自身はフランス語がまったく分からないので、これが原詩に近いかどうかは分からない。

たとえば、冒頭部分は

もう一度見つけたぞ
何を?
永遠だ
太陽に溶けた海だ

という訳もある。「もう一度見つけたぞ」とは、つまり、「最初から見えていたが意識に上らなかったものを(再)発見した」ということだろう。我々はそのように「見れども見ず」が多いのではないか? 
上記の訳では「海に溶けた太陽」ではなく「太陽に溶けた海だ」としているのが面白い。理屈がどうであれ、海に溶ける太陽も太陽に溶ける海もあり得ないのだから、面白くて記憶に残るフレーズがいいのである。理屈を言えば、太陽は宇宙全体の生命の源であり、海は地球の生命の源である。太陽がないと、そして海がないと、宇宙は死の世界になり、永遠を記憶する存在もない。つまり、永遠は存在しないも同じなのである。まあ、誰もいない森の中で木が倒れたら、そこに音はあるか、という話だ。「沈黙の音」しか存在しないだろう。





 永遠:アルチュール・ランボー

  見つかったぞ
  何が? 永遠が
  太陽と
  融合した海が

  用心深い心よ
  懺悔しよう
  虚無の夜と
  灼熱の昼を

  人間どもの
  くだらぬことから
  身を放ち
  自由に飛んでいけ

  お前自身のうちから
  サテンのような残り火よ
  義務は生ずるのだ
  誰にいわれるでもなく

  ここには希望はない
  立ち上がる望みもない
  智恵も不屈の精神も
  ただの責め苦に過ぎぬ

  見つかったぞ
  何が? 永遠が
  太陽と
  融合した海が
   
「言葉の錬金術」に「永遠」を載せるにあたって、ランボーは次のように書いている。

「ついに、幸福だ、理性だ! 俺は空から青さを引っ剥がし、真っ黒にした。俺は、自然の光の黄金の火花となって生きた。喜びのあまり、俺は可能な限り、おどけて見せた。」

ここには、自分は外在的な光によって照らされるものではなく、自分自身が太陽の光となって、宇宙を照らすのだという矜持があふれている。

C'est la mer allee Avec le soleil.の部分は、alleeをmeleeに読み替えるのが通説になっているようなので、それにしたがって訳した。




L'Éternité : Arthur Rimbaud Mai 1872

  Elle est retrouvée.
  Quoi? - L'Éternité.
  C'est la mer allée
  Avec le soleil.

  Ame sentinelle,
  Murmurons l'aveu
  De la nuit si nulle
  Et du jour en feu.

  Des humains suffrages,
  Des communs élans
  Là tu te dégages
  Et voles selon.

  Puisque de vous seules,
  Braises de satin,
  Le Devoir s'exhale
  Sans qu'on dise : enfin.

  Là pas d'espérance,
  Nul orietur.
  Science avec patience,
  Le supplice est sûr.

  Elle est retrouvée.
  Quoi ? - L'Éternité.
  C'est la mer allée
  Avec le soleil.




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いちご畑は永遠に

壺斎散人という人の「知の快楽」というサイト(主に哲学関係の文章が多いようだが、詩も好きなようで、私に嗜好が少し似ているが、学識が私とは天と地ほど違う。もちろん、私が地である。)に載っていたビートルズの「ストロベリーフィールズフォーエバー」の散人氏による訳である。なかなか上手い訳だと思う。
ただ、最初の一節「Let me take you down」を「君を忘れないよ」としたのはどうだろうか。直訳で、「君を(木から)降ろさせておくれ」でいいのではないか。つまり、この二人は木登り遊びをしていた少年と少女である。そして、その少年(語り手)はこれから少年院(孤児院か?)に行くわけだ。

(以下引用)


ストロベリーフィールズ・フォーエヴァーStrawberry Fields Forever:ビートルズ歌詞の和訳



  君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに
  すべては夢 本物はなにもない
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 

  目を閉じて何も見なければ人生は容易だ
  一人前になるのは難しいけれど何とかなるさ 
  気にすることはないさ

  君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに
  すべては夢 本物はなにもない
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 

  ぼくは誰ともうまく行かなかったけれど仕方がないさ
  多分波長が合わなかったんだ 仕方ないさ
  気にすることはないさ

  君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに
  すべては夢 本物はなにもない
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 

  いつだってぼくが悪かったのさ 夢のようだけど
  そうだよぼくが悪かったんだよ くやしいけど
  認めたくはないけどね

  君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに
  すべては夢 本物はなにもない
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー


ビートルズが1967年にリリースした14枚目のオリジナルシングル。アルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」に収録された。

歌詞は難解だが、ストロベリーフィールズが孤児院の名だとわかれば、腑に落ちるところがある。この歌は、孤児院に送られる少年の孤独な気持ちを歌ったもののようなのだ。

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一滴の露の中にも宇宙はある

一昨日図書館から借りた本のうちの「悲しみよこんにちわ」がなかなか面白くて読書継続中だが、昨日は同じ日に借りた恩田陸の「チョコレートコスモス」という500ページもの長編小説を何の気なしに読んでみたら、あまりに面白くて、昨日から今朝にかけて(寝ている時間を除いてだが)読破してしまった。実は、私は恩田陸という作家はさほど好みの作家ではない。ホラー系統の作品が多いイメージだからだが、作家的力量は現役作家の中でも最高級のレベルだろうとは思っている。
サガンの200ページ足らずの小説を読むのに数日かけているのに、恩田陸の500ページの小説を6時間くらいで読んでしまうのは、両者の小説的性質が違うからだろう。サガンのものは、映画的詩情を味わいながら読むもので、恩田陸のこれは、「ガラスの仮面」を一気読みするようなものだ。つまり、後者は「小説エンジン」(読者を先へ先へと引っ張る力)が強烈なのである。
なぜ「ガラスの仮面」を引き合いに出したかというと、これが演劇の世界を扱い、演劇世界でのライバルとの戦いと友情を描いているからである。正直言うと、作中での演劇的課題の難問性は、解答不可能であり、それへの回答(正解)も私のようなひねくれものには「はたして、それが本当に正解と言えるのか」という疑問を持たされはするが、まあ、演劇にはまったく無知な素人なのだから、細部細部の描写の面白さを楽しめばよい。演劇的難問とその解答・回答というのは「ガラスの仮面」でも何度も出てきて、その回答(正解)に読者が首をひねるのも、同じだろう。
まあ、要するに、面白さ抜群の小説であるが、個人で買う資力の無い人は、近くの図書館で探してみることをお勧めする。欠点は「チョコレートコスモス」というタイトルが意味不明(最後に説明される)で、たいていの人は魅力を感じないだろうということと、装丁が「ホラー小説」的であることだ。内容と完全に乖離した装丁で、これは装丁者が小説内容を知らないで作ったか、あるいは出版社が「恩田陸=ホラー小説」という定番扱いで売ろうとした出版戦略のミスだろう。正直言って、手元に置きたくない装丁である。装丁者は平野甲賀という、有名な人だ。

(以下引用)書評を見てみると、「ガラスの仮面」を引き合いに出している人が多かった。やはりそう思う人がほとんどなのだろう。演劇の世界の話だからではなく、「演劇バトル」の話だからではないか。なお、「蜜蜂と遠雷」という作品のことを言っている人も多い。


『蜜蜂と遠雷』の演劇版というイメージ。でも出版されたのはこの本が先なので、『蜜蜂と遠雷』は『チョコレートコスモス』の進化版といったところでしょうか。演劇は殆ど観たことはなく、全くの素人なので理解しづらいところはありましたが、オーディションで初心者の飛鳥が人気俳優の響子と共演する場面は感動ものでした。やっぱり恩田さんは表現が上手い…物語に吸い込まれてしまいます。オーディションの演題となった『開いた窓』や『欲望という名の電車』の内容を知っていればもっと楽しめたのかな。飛鳥のその後がとても気になりました。


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作家の年齢と作品

会社勤めをしていた間、小説を「読む」(眼界に文字を通過させるのではなく書かれたことを考えながら読むのである。)心の余裕がほとんど無かったので、会社勤めをやめた今、本を読むのが二番目の娯楽である。一番の娯楽は考えることそのものだが、その思考は浮遊思考であるので、考えるというよりは妄念というべきか。
さて、昨日、市民図書館から借りてきて読んでいる途中の本が、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちわ」で、そういう、男が手にするのも恥ずかしい本を堂々と借りることができるのも、下層階級爺の強みだ。これが上級国民だと、外聞を恥じてそういう行動もできないだろう。で、この本を読んでいると、なるほど世界的ベストセラーになるのも頷ける作品で、これを18歳(17歳?)で書いたのは凄いが、逆に言えば、18歳でしか書けない作品だとも思える。
一般に女性は早熟だと思うが、わずか18歳でこれほどの人間心理洞察ができたのは凄い。フランスは、男でもアルチュール・ランボーやレイモン・ラディゲのように早熟の天才が生まれる国のようで、その原因は、私の推測だと「目上や年上の人間への畏敬や畏怖の念をまったく持っていないから」だろうと思う。つまり、「思考の足かせ」が無いから、現実がありのままに見えるのである。ついでに言えば、思想性の強い本を若いころから読むのも「思考の足かせ」になる。

ただし、18歳の「天才」がその後偉大な作家になった例は無いようだ。つまり、18歳で書いた「傑作」は、18歳だから書けたということもあり、その後の成長は保証しないどころか、むしろ年齢とともに才能が逓減するのではないか、と思う。

これも単なる推測だが、フランス人が「上の存在」への畏敬や畏怖の念を持たなくなったのは、フランス革命を経験したためだろうと思う。つまり、自分たちを抑えつけ縛り付ける存在(王侯貴族や封建的社会制度)が、まったく尊敬にも畏怖にも値しない屑だったということを経験し、それが国民精神になったのだと思う。これは「平等」ではなく「対等」の精神だろう。つまり、外的条件に関わらず、精神においては相手と同じ平面で対峙する精神である。


(以下引用)

悲しみよこんにちは

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

悲しみよこんにちは』(かなしみよこんにちは、フランス語Bonjour Tristesse ボンジュール・トリステス)は、1954年に発表されたフランス作家フランソワーズ・サガン小説。サガンが18歳のときに出版された処女作である。題名はポール・エリュアールの詩「直接の生命」の一節から採られている。17歳の少女セシルがコート・ダジュールの別荘で過ごす一夏を描く。22か国で翻訳され、世界的なベストセラーとなった。ル・モンド20世紀の100冊の1つに数えられる。


日本へは 1955 年に朝吹登水子の翻訳により紹介され[1]、2008 年には河野万里子による新訳が発表された[2]


1957年に映画化され、ジーン・セバーグがセシルを演じた(映画『悲しみよこんにちは』参照)。その際の短い髪型が流行し「セシルカット」と呼ばれブームになった。


また、日本では、1967年に舞台を那須高原に置き換えた、梓英子主演のテレビドラマが制作されている。

あらすじ[編集]

18歳になるヒロインのセシルとやもめである父のレエモン、その愛人のエルザはコート・ダジュールの別荘で夏を過ごしていた。セシルは近くの別荘に滞在している大学生のシリルと恋仲になる。そんな彼らの別荘に亡き母の友人のアンヌがやってくる。アンヌは聡明で美しく、セシルもアンヌを慕う。だが、アンヌと父が再婚する気配を見せ始めると、アンヌは母親然としてセシルに勉強のことやシリルのことについて厳しく接し始める。セシルは今までの父との気楽な生活が変わってしまったり、父をアンヌに取られるのではないかという懸念に駆られ、アンヌに対して反感を抱くようになる。やがて、葛藤の末にセシルは父とアンヌの再婚を阻止する計画を思いつき、シリルと父の愛人だったエルザを巻き込んで実行に移す。アンヌは自殺とも事故とも取れる死に方をする。

登場人物[編集]

セシル(Cécile)
天真爛漫な17歳の少女。
レエモン(Raymond)
セシルの父。画家で放蕩な男。
エルザ(Elsa)
レエモンの愛人。物語の前半でレエモンと別れた。
アンヌ(Anne)
セシルの亡き母の友人。セシルの良き相談相手でもある。
シリル(Cyril)
レエモンの別荘の近くの家に滞在する青年。

改編作品[編集]

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ムーンリバーで朝食を

村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を読んでいたら、主人公ホリー・ゴライトリーの男兄弟を「兄」と書いてあったが、映画では「弟」だったはずで、これが兄だとホリーの「保護者意識」が不自然になる気がする。まあ、ホリーを19歳としていたので、その弟が徴兵年齢であるのはおかしいわけだから、「兄」としたのだろうが、あるいは、映画の方が設定を改変したのかもしれない。私は映画は見たが、小説はほとんど読んだ記憶がないので、どちらかは分からない。つまり、ホリーの「保護者意識」自体が。映画の改変かもしれない。このほうがありそうではある。ホリーの「弟」への保護者意識は、ホリーの「この世界を自分につなぐ細い縄」としてリアリティを持っていたので、いい改変だと思う。
小説は小説として名作であり、映画は映画として名作、としていいのではないか。(この映画でオードリー・ヘップバーンが演じるホリーは「大都会の妖精」的ではあるが、実はフリーの娼婦なので、ヘップバーンのファン、特に若い人にはショックかもしれない。私がこの映画自体が好きになったのは、だいぶ年を取ってからである。)
なお、この作品の映画での改変として有名なのは、小説中でホリーが歌う歌の歌詞が「眠りたくない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」(村上春樹訳)という、素っ気ないものであるのに対し、映画では有名なヘンリー・マンシーニの曲のついた「ムーン・リバー」であることで、私はこのムーン・リバーの歌詞が大好きなので、記憶で書いてみる。

Moon River wider than a mile
I'm crossing you in stile someday
Old dream maker
you,heartbreaker
whereever you going,I'm going your way

Two drifters off to see the world
there's such a lot of world to see

We after the same rainbows end
waiting round the bend
My Huckleberry friend
Moon River and me

英語の綴りは自信が無いが、だいたいこんなものだったと思う。訳してみる。

月の河、1マイルより広いそれを
私はいつの日かお洒落な恰好をして渡るだろう
古い夢を紡ぐもの
人の心を砕くお前
お前が行くところ、どこへでも私も行こう

世界を見ようと岸を離れた二人の漂流者
そこにはたくさんの見るべき世界がある

私たちは同じ虹の両端を追っている
河の曲がり角で待っている
ハックルベリー・フィンのような私の友達
月の河と、私


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内田樹の「山岸凉子」論

「内田樹の研究室」は、滅多に読まないのだが、さきほど気まぐれで覗いてみると、山岸凉子の話を書いていて、その論旨が妥当かどうかはさておき、私自身が先ほど書いた「怪奇趣味」の話と偶然の一致があって面白いので、ここに転載しておく。
ただし、山岸凉子は怪奇趣味というより、本当に彼女自身に霊媒体質があるらしく、「あれ」が見えるらしい。それ自身が怪談であるwww
私自身は山岸凉子は「怖い話」だけでなく、あらゆるジャンルで稀な語り部の才能を持っていると思う。その絵柄が苦手だという人もいるかと思うが、あの絵でないと彼女の作品の味わいは出ないだろう。自分で話を作るだけでなく、「話に対する嗅覚」が優れていて、トルーマン・カポーティの作品の中でほとんど語られることのない、オールドミスの叔母と幼年時の作者の自伝的作品を漫画化したクリスマスの話(先ほど、少し前に古本屋で買った村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を開いたら、その中に入っていた。)など、名作中の名作である。あるいは、「白い部屋のふたり」など、音楽をつけて映像化したくなる作品だ。もちろん、そういう作品は彼女だけでなく、大島弓子などにも多い。萩尾望都も含め、24年組は天才揃いである。彼女らの初期短編でアニメのシリーズを作ったら、国宝級の素晴らしいものになるだろう。


(以下引用)

山岸凉子先生のマンガはどうしてこんなに怖いのか

2023-08-05 samedi




 山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
 私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
 そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
 外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
 それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)





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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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