忍者ブログ

「スカボロー・フェア」の訳

「英国と暮らす」というブログから転載。「sea strand」のstrandは「立往生する」「船を座礁させる」の意味らしい。詩なのだから直訳で「立往生した海」でいいのではないか。もちろん「船を座礁させる海」でもいいが、歌詞の言葉としては長すぎるので。

(以下引用)


パセリ、セージ、ローズマリーとタイム
昨日の「ローズマリーは追憶のため」は、愛する人に "(私のことを)覚えていて"、という切ない一説のお話でしたが、今日は逆に "私のことは忘れてくれ"、という歌。

サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel)といえば、「サウンド・オブ・サイレント」「スカボロー・フェア」という世界に知られたヒット曲がありますが、この「スカボロー・フェア」の歌詞はかなり謎めいたもの。
パセリ、セージ、ローズマリーとタイム_a0067582_336183.jpg

といっても、歌詞はイングランド民謡「スカーバラ・フェア」(Scarborough Fair)。その歌詞に、ポール・サイモンが自らの曲をつけたものゆえ、彼に罪はないのですが。

正しくと発音するとScarborough「スカーバラ」なので、スカーバラと書かせていただきますね。
パセリ、セージ、ローズマリーとタイム_a0067582_3364911.jpg

ウェスト・ヨークシャーに居たことのある私にとって、ノースヨークシャーの東海岸に位置するスカーバラは、とても思い出深い、なんとも表現し難い雰囲気をもったいい場所なのです。

今回は、見所は抜きにして、この歌詞の舞台であるスカーバラの風景写真(3月に訪れた時のもの)をご覧いただきながら、"私のことは忘れてくれ" のお話を続けたいと思います。
パセリ、セージ、ローズマリーとタイム_a0067582_3372972.jpg

「スカーバラ・フェア」とは、中世の時代、8月15日から6週間に渡ってスカーバラで開かれた市(マーケット)。ヨーロッパ大陸から大勢の商人もやってきて賑わったので貿易フェアというのが正しいでしょう。
パセリ、セージ、ローズマリーとタイム_a0067582_33868.jpg

では、「できっこないでしょ!」という無理難題の、その歌詞をみてみましょう。

Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary, and thyme;
Remember me to one who lives there,
She once was a true love of mine.
スカーバラ・フェアへ行くのなら
(パセリ、セージ、ローズマリーとタイム)
かの地に住む人に伝えて欲しい
昔、心から愛した人に

Tell her to make me a cambric shirt,
Parsley, sage, rosemary, and thyme;
Without no seams nor needlework,
Then she'll be a true love of mine.
私のために、亜麻布のシャツを作っておくれと
(パセリ、セージ、ローズマリーとタイム)
縫い目もなく、針も使わず
それができれば、彼女は私の真実の恋人になる

Have her wash it in yonder dry well,
Parsley, sage, rosemary and thyme;
Where water ne'er sprung nor drop of rain fell,
Then she'll be a true love of mine.
それを、向こうの乾いた井戸で洗っておくれと
(パセリ、セージ、ローズマリーにタイム)
水が湧き出ることも、雨の雫がふりこむこともない井戸で
それができれば、彼女は私の真実の恋人になる

Tell her to find me an acre of land,
Parsley, sage, rosemary, and thyme;
Between the salt water and the sea strand,
Then she'll be a true love of mine.
私のために、1エーカーの土地を探しておくれと
(パセリ、セージ、ローズマリーとタイム)
塩水(波打ち際)と海岸(砂浜)の、その間に、
それができれば、私達はまた愛し合える

Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary, and thyme;
Remember me to one who lives there,
She once was a true love of mine.
スカーバラ・フェアへ行くのなら
(パセリ、セージ、ローズマリーとタイム)
かの地に住む人に伝えて欲しい
昔、心から愛した人に
パセリ、セージ、ローズマリーとタイム_a0067582_3384234.jpg

途中、幾つかの無理難題を省きましたが、おそらく、大陸からスカーバラ・フェアを訪れた男性が、その折、巡り合ったかの地に住む昔の恋人に、「自分のことは忘れてくれ」というメッセージを込めたもの。

拍手

PR

大衆の「自由からの逃走」(「大審問官」について)

これも「混沌堂主人雑記(旧題)」で知った記事だが、素晴らしい記事である。私はこの「大審問官」の章は、読むたびに圧倒されて、分析や批評の対象にすることすら思いつきもしなかった。文芸評論家を自称する人の解説でも、この章をこれほど明確に整理したものは読んだことがない。筆者が恐ろしく頭のいい人なのだろう。そして、この章は「カソリック批判」でもある章だから、西洋ではこの部分に触れることがタブーであったとも思われる。

(以下引用)文中の「無心論」はもちろん「無神論」の誤記。「すべからく」の誤用はもはや言うのも無駄だろう。そういう瑕疵は問題外の素晴らしい記事だ。写真は省略するかもしれない。



【人類文学最高傑作の最重要章】「大審問官」の要点をまとめてみた【カラマーゾフの兄弟 解説】



小説

 

人類文学最高傑作と称される「カラマーゾフの兄弟」



重厚な内容で「人間」のあらゆる面が描かれる、まさに世界文学の傑作中の傑作です。


そんな「カラマーゾフの兄弟」の中でも、とりわけ重要でこの作品の根本を表していると言われるのが「大審問官」という章です。


作者ドストエフスキーの宗教観がまざまざと現れており、ここだけでも一つの小説にすることができるのではないかと思わされるような内容になっています。


しかしそれだけにこの章の内容は非常に難解で、何を意味しているのか読み取りにくいのも事実です。


そこで今回は、この「大審問官」の大まかな設定やあらすじを振り返った上で、その内容の要点を解説していきたいと思います。


それでは早速いきましょう!

「大審問官」の設定とあらすじ


時は16世紀のスペイン。


激しい異端審問が行われる中、人の姿をしたキリストがこの世に降り立つところからこの叙事詩は始まります。


「奇跡」を人々の前で披露するも、大審問官たち捕らわれて牢に入れられてしまうキリスト。


ちなみに大審問官とは、キリスト教における異端審問を担当し、異端と判断した者を次々に火炙りに送っていた役職です。


そして捕らえたキリストに対し、大審問官は自らのキリスト教観を披露する説教を繰り広げます。


この神であるキリストに対し、それに信奉するはずの大審問官が逆に説教を垂れるという大胆すぎる設定がこの叙事詩の見どころです。


キリスト教への絶望や怒りにも満ちた大審問官の長きにわたる話を聞いた後、キリストは大審問官にやさしく「接吻」をするという形でこの叙事詩は締めくくられます。


以下でその説教の中身について深ぼっていきましょう。

「大審問官」の要点を解説

「自由」とは

「大審問官」でメインで語られることになるのが、この「自由」についてです。


「自由」と聞くと、私たちは手放しで肯定しそうになってしまいますが、そこには大きな責任や苦悩が付き纏うということが語られます。


「自由」は高尚であれど、そもそも人間にとって重すぎるものなのではないか。
自分で全てを選択するということが必ずしも人々にとって最善とは限らない。
何事も自分で考え、決断をするという労力が生じてしまうからだ。


と大審問官は言っているのですね。


もともと人間はキリストの教えに応えられるほど、高尚な存在ではなく、むしろ弱く卑しいものであるとも語られます。


人から言われたことをやっているだけの方があれこれ考える必要がなくて、結果的に楽ということはありますよね。自由にはすべからく「不安」と「孤独」がつきものです。


自らに関する一切のことを自分で決定するという重荷に耐えられなかった人々たちは、その後自ら自由を教皇に差し出すようになり、その支配下に入ることで「自由」を獲得し、幸福を得た。


というのが大審問官の主張です。


ではなぜ人々はこのような一見自由を放棄するという不合理な選択をしたのかということについては、さらに詳細に語られます。

「自由」と「支配」

相反するこの二つが両立する論理を大審問官はこう述べます。


人々はただ無理解のまま自らの自由を教皇に差し出したというのではなく、本当の「自由」とは離れていくことを知った上でなおキリストのために教皇の支配下に入ることを決めたのだと。


自由が辛く厳しいものであることを人々は理解しているからこそ、罪に堪えながらもその自由を取りまとめてくれる教皇たちへの尊敬の念を禁じ得なくなる。


というのが大審問官の主張です。


ただここに教会側の中にはキリストへの「欺瞞」が残るとも言います。教会や教皇などの支配する側は真の意味でキリスト教の教えに準じていないということに心のどこかで気づいているということですね。


そしていずれ人々はキリストの掲げた崇高な理想よりも、目の前の食糧や生きていくための「安定」を優先してしまうようになります。


ここに関してはいつの時代も変えられないものを感じることができます。

「良心」について

大審問官は支配の中でも「良心の支配」が一番重要であると語ります。


人間は単に生きることを望むのではなく、何のために生きるかを重視する性質がある。


そのため自分の中での納得感を感じながら生きていきたいと考える。


そんな中で人々は教会に服従することこそ、キリストの教えに準じるものだと信じている。「善悪の判断」の一切を教会に任せることで楽に生きていくこともできる。


と大審問官は主張します。


だからこそ教会は人々のこうした思いに応える形で、彼らを支配する形で「自由」を与えることが可能になっていたというわけですね。

「統一性」について

人間の性質としてもう一つ挙げられるのが、人は「統一性」を求めているという点です。


「自分が信じているものの正当性を確かなものにしたい」という感情が人々の中には少なからず存在します。


「自分の信仰こそ絶対」


皆がこう考えて、それを他者にも強制しようとするからこそ、自分と違う宗教や宗派のものを攻撃したり、互いの正義のために争うことになります。


これは今でも自分たちが信じるもののために、戦争やテロ行為が行われている実情を見ても納得できることですよね。

人間はもともと「反逆者」

崇高な理想よりも、低俗でも全人類を魅了する食糧などを与えてやれば、争いがなくなると大審問官は主張します。


人間を愛しすぎ期待しすぎるがゆえに、人間に対して大きな要求をしすぎるキリストは理想主義なのではないかとキリストを批判します。


キリスト教が信者に求めるものは、当時の社会の実情から鑑みても、曖昧なものばかりであり、人々はかえって自由が苦しく感じられてしまっていました。


もともと弱くて、卑しい人間はそんな理想よりも目の前の「安定」に手を伸ばすのも当たり前であると主張されます。

三つの力

人々は信仰の対象に三つの力を求めると大審問官は言います。


それが「奇跡」「神秘」「権威」の三つです。


それらはかつてキリストが自らの行いや言葉で示したものでありました。


しかしキリストがいなくなってから1000年以上経ったこの世界において、人々はもうこれらに三つの力を求めることが困難になってしまいました。


でも人々は信じられるものが欲しい。そこで自ら「奇跡」を作り始めるようになった。


と大審問官は言います。


一見怪しげな呪術や魔女といったものが流行していた当時の背景には、人々のこうした背景があると考えたのでした。

無心論者イワンと信仰者アレクセイ

叙事詩「大審問官」をイワンが語り終えた後、最後はイワンとアレクセイの会話でこの章は締めくくられるのですが、ここも重要なシーンです。


無心論者であるイワンと神を心から信じるアレクセイが対照的に描かれます。


「大審問官」の話からも分かるように、何も信じられないイワンはどこか人生に絶望し、最後はカラマーゾフ的な堕落に落ちるしかないと考えます。


そんなイワンをアレクセイは救いたいと考えているのですが、主義主張の相違からこれといった解決策を提示することができません。


ただ怒りや苦悩に苛まれるイワンを「それでも受け入れて全てを許す」という姿勢を見せるに留まります。


アレクセイはこのことを叙事詩の中のキリストになぞらえて、自らもイワンに「接吻」することで伝えています。


イワンも自分に対して真摯なアレクセイを最後の拠り所としているようなところを感じさせながら、二人は別れるというシーンでこの章は締めくくられます。

まとめ


今回は「大審問官」の要点を解説させていただきました。


正直この章はめちゃくちゃ難解であり、僕自身理解しきれているかと言われるとあまり自信をもてません。


これについては一生をかけてでも考え続け、その時々で違った答えを見つけていくことが「大審問官」の味わい方であるとも思わされます。


これだけ「神と人間」について考えさせてくれる機会となる「カラマーゾフの兄弟」という作品の面白さ、奥深さを感じずにはいられませんよね。


それだけに何度も何度も読み直す価値があり、その都度より理解できるようにチャレンジしていきましょう。


この記事が、みなさんの「大審問官」の理解を少しでも助け、「カラマーゾフの兄弟」という作品をより一層楽しむきっかけとなれば幸いです。



【何がすごいのか】人類文学最高傑作「カラマーゾフの兄弟」のあらすじと魅力を考察してみた
人類文学最高傑作とも称される「カラマーゾフの兄弟」 その評価に違わず圧倒的な世界観と物語やテーマの重厚さがあって、読めば読むほどその凄さに気づけるようなめちゃくちゃ面白い文学作品です。 しかしこの作品、いかんせん難しいんですよね… と...

【人類文学最高傑作】「カラマーゾフの兄弟」の魅力と読み取れることを解説していく




拍手

ダルクとダークとメクラとチンバ

前回記事に書いた呉智英の本の中にあった話だが、彼が通った小学校の「今週の目標」みたいなものに「人のいやがることをしよう」というものがあったそうだ。それを見た瞬間に、私は「すごい標語だな。それこそ、いじめや悪質なイタズラが激増するのではないか」と思ったが、そういう意味ではないようだ。呉も、それ自体を問題にはしていないし、冗談のネタにもしていない。私は気が弱いので人の嫌がる仕事は進んで自分からやるが、人に対して、その人が嫌がる行為を仕掛けたことはない。まあ、ダブルミーニングである。
これも、同じ本の中に出てきたのだが、呉が土井たか子を「ジャンヌ・ダーク」にたとえていて、まあ、それはいいのだが、こういう表記だと「暗黒のジャンヌ」という感じでアニメの悪役みたいである。

冗談はさておき、同じ本の中に、木山捷平の詩が引用されていて、これがなかなか感動的なので引用する。


  メクラとチンバ


お咲はチンバだった。
チンバでも
尻をはしょって桑の葉を摘んだり
泥だらけになって田の草を取ったりした。

二十七の秋
ひょっくり嫁入先が見つかった。

お咲はチンバをひきひき
但馬から丹後へーー
岩屋峠を越えてお嫁に行った。

丹後の宮津では
メクラの男が待っていた。
男は三十八だった。

どちらも貧乏な生い立ちだった。
二人はかたく抱き合ってねた。


私は露骨なエロが大嫌いなのだが、この詩の最後の一行は素晴らしいエロチシズムだと思う。まさに、神々しさを感じるエロチシズムだ。人生の真の幸福が凝縮したような一行だ。
こういう詩を読むと、ポリコレとか差別語狩りのくだらなさが明瞭に分かる。「その言葉」でなければ表現できないものがあるのである。






拍手

蓋然性の自殺

「大摩邇」から転載。
「蓋然性の殺人(確率による殺人)」という殺人方法が推理小説の小さなジャンルとしてあって、たとえば殺したい亭主の毎日運転する自動車にわずかな故障個所があるのを知っていながら黙っているとか、階段が滑りやすいことを知っていながら直さない、というものだ。事故と殺人の区別がつかないので、「犯人」の犯行だとは分からないわけである。実際、犯罪だという証明すらできないだろう。(若い母親が幼児を部屋に閉じ込めて遊びに行くなどというのは、蓋然性の殺人行為だろう。これは犯罪だとされているが、大人に対する「蓋然性の殺人」は立証困難だ。)
下の記事は「蓋然性の自殺」である。
一種の文学性すらある。現代とはそういう時代で、日本とはそういう国だということだ。

我々の隣の人はみな(身内も含め)「語らざれば憂い無きに似たり」かもしれない。


(以下引用)

2022年12月24日07:46
カテゴリナカムラクリニック
危険だから、打つ
ナカムラクリニックさんのサイトより
https://note.com/nakamuraclinic/n/n69949b5d87cd

<転載開始>

30代男性
「憂うつと倦怠感で、生きることも嫌になっていて、でもかろうじて仕事には行けていたのですが、3か月ほど前、いよいよ限界がきました。「しんどいので今日は会社を休みます」と連絡しました。そんな欠勤が3回ほど続いたとき、社長から連絡があって、「どうしたんだ、大丈夫か」と。そこではっきり言いました。「もう無理です」。食欲がないし、睡眠薬を飲んでも眠れない。何も意欲がわかず、ただ横になっているだけ。すると社長が「そうか、分かった。無理なら休んでいてもいい。ただ、今月いっぱいは籍を置いておくから、働けそうなら出社してくれ」
おかしなもので、5年間お世話になったこの会社も、もう終わりなのか、もう来なくていいのかと思うと寂しくて、最後くらいはもうちょっと頑張ろうという気になりました。
「あと1週間でこの会社ともお別れか」なんて思いながら働いていたのですが、そのときにふと、「こんな状態で会社をやめても、次に再就職した会社でまた同じことになるだろう。新しいことを覚えるのもおっくうだし。なんで俺はいつもこんな感じなんだろう」
自分でも思いがけず、怒りのような感情がわいてきました。ほとんど経験したことのないような胸騒ぎでした。
「なぜ人と話すことを避けるのか?情けない!もっと堂々としていればいい。萎縮しちゃいけない。周りのみんなは同じ人間で、同じ職場の同僚じゃないか」
自暴自棄、やけくそ、捨て鉢。胸の内から湧き上がったそういう感情が、僕をある行動に駆り立てました。
同じ班の女性に話しかけたんです。仕事中、それほど関わりがない人でしたが、どうせ仕事をやめるのだから、この人に話しかけておこうと思いました。
僕はこれまで女性とお付き合いしたことはありません。人と話すこと自体が苦手で、女性相手となればなおさらです。でも、このとき、僕の人生でほとんど初めて、蛮勇がわきました。「話しかけて嫌われたってかまわない。それならそれで、仕事をやめる理由が増えるだけのことだ」
その人は僕の話を聞いてくれました。僕の悩み、過去の生い立ちなど(それは先生もご存知の通りです)、じっくり聞いてくれました。一度に全部、ではありません。5回くらいにわたって、合計したら12時間ほどは聞いてくれたと思います。
その子も僕に自分の話をしてくれました。過去に親から虐待されたり、いじめを苦にして不登校になったり、自殺未遂をしたり。僕は驚きました。僕より何倍も明るくて人当たりのいい女性なのに、ある部分では僕よりも重い過去を抱えているなんて、まったく思いもしなかった。
そして、その子が僕にそういう打ち明け話をしてくれたことが、僕にはとてもうれしかった。電話番号も教えてくれました。「私でよかったら、話、聞かせてね」って。
優しさに付け込んだらダメだと思って、電話はできるだけしないように我慢しています。すると、禁断症状みたいになって、スマホ持つ手が震えたり、頭が熱くなったりする。これは何の病気だ、と思いました。
その子は、いわゆる美人というタイプではないのかもしれない。でも、その子の顔を、声を、僕は愛しく思うようになりました。仕事していないプライベートのときにも、その子のことを思ったり。

あるとき、話していて、その子がコロナワクチンを4回接種していると知り、焦りました。僕は先生の記事を読んでいるから、ワクチンは一度も打っていません。危険性についてある程度分かっているつもりです。ただ、なぜ、どういう理由で危険なのか、そういう理屈はうまく言えません。でも頑張って伝えようと思って、先生の記事なんかを見せながら説明しようとすると、「うん、言いたいことは分かるよ。危ないんだよね。打って亡くなってる人がたくさんいるんでしょ。そういうのはどこかで聞いたことがある」
「じゃ、なぜ打ったの?4回も」と聞いて、返ってきた答えが、僕には衝撃でした。
「私、自殺未遂をしたことがあると言ったけど、それは終わった話じゃないの。今でもしょっちゅう、消え去りたいって思う。それでリストカットをしたりする。
ワクチンがリスクだなんて聞いたら、普通の人は打たないだろうけど、私はそうじゃない。リスクが魅力に見える。私、おかしいでしょ。打ったら2年後に死ぬとかいうけど、本当かな」
そう言って笑うので、僕は悲しくなりました。
彼女によると、こういうタイプの人は意外に多いみたいです。学校行きたくないとかもうこの世なんてどうでもいいと思っている人。そういう希死念慮のある人は、このワクチンに飛びつく。危険だから、打つ。安楽死のない日本に突如として現れた、合法的安楽死注射。緩慢な自殺の道具として使っているんです。
あるいは生活苦の人が進んで打つ。「打って死ねれば4000万円入ってくる。子供の生活のたしになるのなら、母さん打ってくるよ」みたいな貧困家庭が実際にあるっていうんです。なんて世の中なんだ、と思います。

僕は彼女の話を聞いて、何も言えなかった。そして、家に帰ってから、泣きました。彼女の前でも泣きそうだったけど、それだけは我慢した。
彼女には「危険だから打っちゃダメ」とも言えないし「自分を傷つけちゃダメ」とも言えない。僕には言葉がなくて、ただ悔しくて、泣くことしかできなかった。

勇気を持ってその子に話しかけたとき、僕はその子のことを好きになるつもりなんてまったくなかった。でも今は、とてもつらい。つらくて、苦しくて、できればその子のことを嫌いになりたい」

拍手

小説の視点と「信頼できない語り手」

今、遅ればせながら、と言うか、10年遅れくらいで「涼宮ハルヒ」シリーズの原作を読んでいるのだが、いろいろと思考ネタを与えてくれる稀有な作品である。ただ、それは「創作技法」についての考察である。特に視点の問題だ。誰の視点で話を語るのかという問題である。
このシリーズの話の語り手はキョンと呼ばれる高1から高2の生徒だが、その語彙が物凄いレベルの語彙で、私は彼が言っている言葉の8割から7割程度しか理解できない。あるいは6割くらいかもしれない。ただし、それは主に「ライトノベル的な語彙」とも言えるもので、SF小説や通俗科学書や高校教科書レベルの歴史や科学の用語が膨大に出て来るのである。私が、「物凄いレベルの語彙」と言ったのは、それを本気で理解しようとしたら、凡人にはほとんど不可能、という意味だ。ただし、それらはいわば「冗談で使われていて、理解の必要性はほとんど無い」のである。何しろ、1行ごとに比喩が出てきて、その比喩は上記の語彙を使った比喩なのである。読んでいる人は、理解できなくても、それらの語彙に接しているだけで、自分の頭が高度になった気がすると思う。
一例を挙げよう。

カノッサ城において神聖ローマ帝国ハインリヒ四世と面会した教皇グレゴリウス七世のような威厳たっぷりな満足笑顔と口調で、

これはハルヒが何かを宣言する前置きだが、これを言っているのは「劣等生」とされているキョンである。もちろん、たいていの高校生は「カノッサの屈辱」という言葉は知っているだろう。だが、それが「ハインリヒ四世」と「グレゴリウス七世」との間の権力闘争だったということまで知っているだろうか。いや、教科書を読んではいても、「四世」とか「七世」まで覚えているだろうか。覚えていないという私が特別に劣等生で、人間ではなくゾウリムシ並みの知能なのだろうか。
ここで、視点の問題が出て来る。この話の語り手であるキョンは、実は作者本人の代理だということだ。キョンの語彙は作者、谷川流の語彙であり、「劣等生」キョンの語彙ではない。しかし、それを読んでいる読者はそれをキョンの言葉として読むのである。そこにはすでに推理小説で言う「信頼できない語り手」という問題が存在しているわけである。

以下は、私の別ブログの旧記事だが、いろいろと間違いや訂正したい部分もある。ただ、小説の「視点の問題」を扱っているので、そのまま載せておく。

映画「羅生門」が欧米映画界に与えた影響は大きなもののようだが、それまで、「複数視点からひとつの事件を見ることで、『真実』に疑義を呈する」という発想は欧米にはほとんど無かったのだろう。「羅生門」が芥川龍之介の「藪の中」を元ネタにし、その「藪の中」は米国のアンブローズ・ピアスの或る作品を下敷きにして書かれたらしいのだが、アンブローズ・ピアスのその作品(私も題名を知らない。あるいは忘れた)を欧米人がほとんど知らないらしいのが不思議である。つまり、そこが「文章表現」と「映像表現」の差だろう。文章は「読解能力」が要求されるが、映像はかなり知的理解力が低くても、かなり理解できるわけだ。逆に、映像は「描かれたものがすべて」になるので、映像で「真実が何かは分からない」ことを描くことはかなり手間がかかることになる。
ちなみに、ディッケンズの「大いなる遺産」は、語り手の一人称で話が進むが、その語り手自身の主観で語られるので、語る内容が真実を伝えているわけではなく、まったく別の解釈もある、ということが、読解力のある読者には分かるように書かれているという、実に極限的技法の作品だが、そのことを指摘した文章を私は知らない。つまり、「一人称視点でありながら、実質的には三人称視点(神の視点)でもある」という作品で、こういう作品は「大いなる遺産」以外に私は知らない。

(以下「竹熊健太郎」のツィートを引用)

リドリー・スコット「最後の決闘裁判」を観た。最近、映画は極力前知識を仕入れないで観るようにしている。この映画もタイトルからスコットの処女作「デュエリスト」みたいな映画かなと思って観たのだが、黒澤明「羅生門」のスコット版みたいな映画だった。

拍手

技術の進歩と「話の面白さ」

ネットテレビで見たい作品というか、食指の動く作品が見当たらないので、選択レベルを下げて、「取りあえず、最初だけでも見てみる」ようにしているのだが、「たぶん面白くないだろう」という最初の勘が外れて面白かったのは数えるほどしかない。ただ、面白くなくても、細部に感心することはある。
で、全体として言えることは、今のテレビ映画(とでも言っておこう。)は、技術的には最高度に達しているのではないかということだ。特殊技術で何でも描ける。しかし、「話そのもの」が面白いという作品は数えるほどであり、またその「面白さ」も「不愉快さ」を伴った面白さだ、と私には感じられる。いわば、「Q・タランティーノ的な面白さ」が世界に広がっているという感じだ。「面白ければ何でもあり」という、「抑制を取っ払った娯楽性」である。映画的な常識や文法も破壊し、メタ視点が平気で横行するわけだ。
もうひとつ、面白さ自体が破壊されるのは、今さらだがポリコレである。テレビ映画の7割くらいが主人公が若い女性か少女で、それが男のように戦争をしたりアクションをしたりするわけである。それを見ていてうんざりするのは私が単に爺いだからか。そして、人種がいろいろ混じっていて、黒人はほぼ必ず理性的で善良、白人は主人公以外は馬鹿か悪人とされていて、アジア人はまあ、ただの脇役だ。現実世界の差別構造が、フィクションの中では「ポリコレ化」されて漂白されるわけだ。LGBTも同様だ。現実世界での女性への差別が、フィクションの中では女性のヒーロー化で誤魔化されている。おそらくそういう脚本を優先的に採用しているのだろう。その結果、見るもの見るもの、すべて似たような印象のフィクションとなる。
まあ、ためしに「ジェイコブと怪物」というアニメ映画を見てみるといい。技術的には完璧であり、今や3Dアニメは実写映画以上の表現力を持っているとすら言える。風景や物体の質感は見事に現実に迫っている。しかし、フィクションとしては物語性が最低である。明らかに「白鯨」を土台にした話だが、「白鯨」の持つ荘厳さと神秘性と話の面白さをこれほど台無しにした「二次創作」は、まさに原作への冒涜だろう。日本の「空挺ドラゴンズ」も、話のつまらなさに途中で視聴放棄したが、「ジェイコブ」は、映像技術の見事さだけを見るために、とうとう最後まで見てしまった。で、見た後で、時間を浪費したと物凄く後悔した。(途中からは冷静に批評するために音声を消して見たので、何とか最後まで見たのである。)
要するに、いくら映像技術が発達しても、「話の面白さ」を作る能力はけっして発達しないということだ。それは個人の天才性によるもので、時代や技術の進歩はまったく関係しない。

拍手

小説の登場人物の扱い

今、読みかけの小説は5冊以上あると思うが、ドストエフスキーの「死の家の記録」は、読み終わるのがもったいないので中止している。で、最近読み始めたのが同じくドストエフスキーの「二重人格(正しくは「ドッペルゲンガー」と訳すべき内容)」であるが、これは面白い反面、かなり理解困難な作品で、何が理解困難かというと、要するに作者がこれを書いた意図がつかめないわけだ。
明らかにコメディなのだが、笑いの対象は主人公その人で、要はその俗物性と神経症的行動の突飛さを笑うのだろう。つまり、読者に笑わせるのだろう。しかし、読者はそれを笑えるのだろうか。読者の大半は俗物であるだろうし、下級役人の主人公の卑小さは、同じような立場の人間には笑えないと思う。では、上級国民用の喜劇かと言うと、かつてそんな作品はあった試しがないだろう。つまり、笑いはその大半が権力への風刺であり、貧しい者や弱い者は同情の対象ではあっても、嘲笑や攻撃の対象ではほとんど無かったのである。
ドストエフスキー自身、弱者や貧しい者への同情や共感は他の作品でずいぶん書いているのに、この作品では貧しい弱者が、その性格が卑俗で図々しく奇矯であるために笑いの対象として選ばれているようなのである。いや、さほど貧しくも弱者でもない、一応は召使も持っている中級から下級の役人なのだが、そういう人間がより高い暮らしや地位を目指して足掻く、その姿が醜いからと言って、笑える人間がどれほどいるのだろうか。
私など、この主人公の言動を哀れだとは思うが、嘲笑する気にはなれない。彼にはそういう「身の程を知らぬ」行為をする権利があると思うわけだ。その結果、惨めな姿をさらすわけだが、私にはそれが笑えない。
もちろん、ドストエフスキーの書くものだから、細部の面白さはいくらでもあり、読む価値は十分にある作品だ。しかし、この作品が彼の作品の中でも珍しく一般的な評価がまったく得られなかったのは、実はここで笑われているのが一般読者の「同類」だったからだろう、と私は推測する。
読みながら私は、小説の登場人物が自分の扱いについて作者に抗議するという「メタ小説」を考えたのだが、そういうのは手塚治虫などが漫画でとっくにやっていた。


拍手

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
4
22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析