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女性作家と時代小説

先ほどというか、2時間ほど前に読み終わったあさのあつこの「弥勒の月」という時代小説の読後感がかなり悪かったので、その理由を考えてみる。
あさのあつこは「バッテリー」という野球を主題としたジュニア小説(?)(ジュブナイルと言うべきか)で有名になった人だが、もうかなりな年齢(作家キャリア)で、時代小説にも手を染めたようだ。まあ、以前からそうなのかもしれない。私自身は「バッテリー」も読後感が非常に悪い小説だったので、あまり好きな作家ではないが、彼女が書いた時代小説はどんなものか興味を持ったわけだ。
なぜ読後感が悪かったかというと、登場人物が、性格の悪い人間が多すぎて彼らの言動の描写のたびに不快感を感じるからである。「バッテリー」の場合はそもそも主人公の投手が嫌な性格である。まあ、投手にはワンマンな性格の人間が多いという定説に従ったのだろうが、ジュニア小説の主人公としては、読者にはつきあいにくい性格だ。「弥勒の月」もメインの人物の言動が不快すぎて、読んでいる間じゅう「娯楽」にはならなかった。どういう風にこの作品を持っていくつもりなのかという興味だけで読み続けたのだが、それは小説本来の娯楽ではない。
あさのあつこのもうひとつの欠陥は、作品にユーモア感覚がゼロだということである。小説作家としては上手い部類だと思う。しかし、ユーモア感覚がゼロということは、「娯楽性がほぼゼロ」なのだ。いや、推理小説など、人がバンバン殺されるが、娯楽読み物ではないか、と言うかもしれないが、読者は殺人を喜んでいるわけではない。推理を楽しんでいるだけだ。
だが、ジュニア小説となると、奇想天外な筋書きはほぼ不可能なのだから、登場人物の魅力が最大の娯楽性になるのである。時代小説も、キャラの魅力が一番の娯楽要素だ。そして、シリアスな展開は「娯楽」ではない。つまり「読むのが嬉しい、楽しい」という要素がシリアス作品には欠如しているわけだ。ユーモアの欠如した、真面目なだけの作品を読むくらいなら数学の教科書や歴史の教科書でも読むほうがまだ娯楽性はある。(ただし、文語文の作品だと、文章の魅力自体が作品の魅力になる。鴎外の初期作品はそれである。)
ついでに言えば、日本の作家の中で抜群のユーモアセンスを持っていたのは、実は太宰治である。ユーモアの特異性(発想)では筒井康隆だが、太宰は、ある面(たぶん、文体表現やキャラの面白さ)では筒井以上だと思う。太宰治と夏目漱石が、純文学系有名作家の中ではユーモアセンスの双璧だろう。

なぜか、女性には時代小説は合わないようだ。それほど読んでいるわけではないが、読んだ限りでは、どの作家も「江戸時代という異世界に遊ぶ」楽しさがない。すべてシリアス作品である。相当、江戸時代の風俗について勉強したのだろうな、という些末な知識に満ちているが、肝心の「江戸時代の面白さ」が無い。東海道中膝栗毛や井原西鶴の小説でも読んだほうがマシである。いったい、彼女たちは江戸時代を舞台にして「何が描きたかった」のだろう。
ついでに言えば、男の作家は、柴田錬三郎や五味康佑(漢字は不確か)のような煽情主義の時代小説、あるいは山田風太郎の奇想小説を除いて、時代小説の中にエロシーンや、エロス的想念を入れることは少ない。ところが、女流時代小説になると、必ず性交描写かエロスの感情がどこかに描写されるのである。これも、私から言えば「菊を採る東籬のもと、悠然南山を見る」という時代小説の悠々とした空気をぶち壊しにするのである。たとえば、森鴎外の「山椒大夫」で、安寿は状況から見て必ず強姦されたと思うが、そういう場面描写を鴎外はしなかった。だからこそ、あの作品は幽玄なものになったのである。上田秋成の「雨月物語」も無意味に煽情的な表現をしなかった点では同じである。


以下「弥勒の月」の「謎」の批判をするために種明かしもするので数行分空白にする。















蛇足だが「弥勒の月」は推理小説的要素が強いが、最後の最後での解決が推理小説としては最悪である。作中でほとんど描写されなかった人物ふたりが「主犯」で、殺人手法も催眠術というインチキさだ。





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