この前、村上春樹について書いた時に、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」にも少し触れたが、その後市民図書館に行った時に、「ライ麦畑~」を見つけたので、借りて来た。まあ、暇があれば再読しよう、程度の気軽さで借りたわけだ。
で、発見したのが、翻訳者の野崎孝氏の翻訳の見事さである。実に自由自在に、主人公の独白を生き生きと日本語化している。これでは、村上春樹が再翻訳する意味はまったく無いと思うのだが、そちらにはそちらの良さがあるのかもしれない。もちろん、サリンジャーの原作自体が素晴らしいから、翻訳で読んでも面白いのである。
どういうあたりが素晴らしいかというと、人物描写の見事さだ。主人公は周りの人間のほとんどが嫌いなのだが、周りの人間の不快さの描写が実に見事だから、読者は主人公の気持ちに同感してしまうわけだ。これは一種の詐術かもしれない。つまり、読者は小説の語り手の語る内容を信じるしかないから、主人公が「信頼できない語り手」であるかどうか、判断できないのである。しかし、その描写があまりに見事なので、読者は主人公に感情移入し、「世界は糞だ」という、現在で言えば中二病的な主人公の考え方や感じ方に同化していくのである。まさに、青春期に読むべき作品だろう。と言っても、私のような老人が読んでも面白いことは面白い。ただ、青年読者のようには「巻き込まれない」だけだ。つまり、一歩距離を置いての鑑賞になる。それは、青年期の読書からの退化かもしれない。
サリンジャーとしても、この作品一作で、「語りたいこと」はすべて出したと思われ、その後出した作品ではヒット作はなく、その後は「書かない作家」になっている。
さて、読書というのは、書かれたすべてが分かるわけではない。たとえば、私は衣服やファッションにまったく興味が無いので、小説によく出て来る「ツィード」の服とか、「フランネル」の服のイメージができない。前者はおそらく服の形式だろうし、後者は服地だろうが、よく分からない。車の形式にしても同様だ。コンバーチブルとかセダンと書かれていても、イメージにはならない。
で、そういう知識の問題とは別に、言葉はすべて理解できるが、文の意味が分からない、ということもある。「ライ麦~」の既読箇所で言うと、P28の
「幸運を祈るよ!」なんて、僕なら誰にだって言うもんか。ひどい言葉じゃないか、考えてみれば。
というのが分からない。まあ、青年期の過敏な神経から来る発言だろうが、それでもなぜ「幸運を祈るよ!」がひどい言葉なのかは分からない。
まあ、強いて言えば、「幸運を祈るしかないほど、お前の前途が不幸に満ちていることが俺(私)には分かっているから、お前のためにせめて幸運を祈ってやろう」という意味の「ひどい言葉」だということだろうか。
もちろん、昔読んだ時にはこういう「分からない箇所」がたくさんあったが、すべて無視したわけだ。それでも激しく感動したのである。それも読書であり、今のように老人的に細部にこだわるのも読書である。若い人には「やることがたくさんある(ような気がする)」から、いちいち物事の細部にこだわる時間は無いのである。
蛇足を言えば、「幸運」と「好運」は違う、というのが私の考えだ。前者は単に運命的で偶然的なものだが、後者は「何を好いと思うか」という当人の感性や判断が前提である、ということである。まあ、私の詭弁かもしれない。
最後に、前に少し触れた「ホールデン・コールフィールド」という主人公の名前が小説の題名である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と関係する、という私の説だが、これは「ホールデン」が「ホールド」から来ているので、「キャッチャー」を意味し、「フィールド」は「ライ麦畑」を意味しているという判断だ。ついでに言えば「コール」と「フィールド」が結びつくことで、「荒野に呼ばわる者」という、キリスト教的な「孤独な導き手(あるいは求道者)」を暗示していると思う。
で、発見したのが、翻訳者の野崎孝氏の翻訳の見事さである。実に自由自在に、主人公の独白を生き生きと日本語化している。これでは、村上春樹が再翻訳する意味はまったく無いと思うのだが、そちらにはそちらの良さがあるのかもしれない。もちろん、サリンジャーの原作自体が素晴らしいから、翻訳で読んでも面白いのである。
どういうあたりが素晴らしいかというと、人物描写の見事さだ。主人公は周りの人間のほとんどが嫌いなのだが、周りの人間の不快さの描写が実に見事だから、読者は主人公の気持ちに同感してしまうわけだ。これは一種の詐術かもしれない。つまり、読者は小説の語り手の語る内容を信じるしかないから、主人公が「信頼できない語り手」であるかどうか、判断できないのである。しかし、その描写があまりに見事なので、読者は主人公に感情移入し、「世界は糞だ」という、現在で言えば中二病的な主人公の考え方や感じ方に同化していくのである。まさに、青春期に読むべき作品だろう。と言っても、私のような老人が読んでも面白いことは面白い。ただ、青年読者のようには「巻き込まれない」だけだ。つまり、一歩距離を置いての鑑賞になる。それは、青年期の読書からの退化かもしれない。
サリンジャーとしても、この作品一作で、「語りたいこと」はすべて出したと思われ、その後出した作品ではヒット作はなく、その後は「書かない作家」になっている。
さて、読書というのは、書かれたすべてが分かるわけではない。たとえば、私は衣服やファッションにまったく興味が無いので、小説によく出て来る「ツィード」の服とか、「フランネル」の服のイメージができない。前者はおそらく服の形式だろうし、後者は服地だろうが、よく分からない。車の形式にしても同様だ。コンバーチブルとかセダンと書かれていても、イメージにはならない。
で、そういう知識の問題とは別に、言葉はすべて理解できるが、文の意味が分からない、ということもある。「ライ麦~」の既読箇所で言うと、P28の
「幸運を祈るよ!」なんて、僕なら誰にだって言うもんか。ひどい言葉じゃないか、考えてみれば。
というのが分からない。まあ、青年期の過敏な神経から来る発言だろうが、それでもなぜ「幸運を祈るよ!」がひどい言葉なのかは分からない。
まあ、強いて言えば、「幸運を祈るしかないほど、お前の前途が不幸に満ちていることが俺(私)には分かっているから、お前のためにせめて幸運を祈ってやろう」という意味の「ひどい言葉」だということだろうか。
もちろん、昔読んだ時にはこういう「分からない箇所」がたくさんあったが、すべて無視したわけだ。それでも激しく感動したのである。それも読書であり、今のように老人的に細部にこだわるのも読書である。若い人には「やることがたくさんある(ような気がする)」から、いちいち物事の細部にこだわる時間は無いのである。
蛇足を言えば、「幸運」と「好運」は違う、というのが私の考えだ。前者は単に運命的で偶然的なものだが、後者は「何を好いと思うか」という当人の感性や判断が前提である、ということである。まあ、私の詭弁かもしれない。
最後に、前に少し触れた「ホールデン・コールフィールド」という主人公の名前が小説の題名である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と関係する、という私の説だが、これは「ホールデン」が「ホールド」から来ているので、「キャッチャー」を意味し、「フィールド」は「ライ麦畑」を意味しているという判断だ。ついでに言えば「コール」と「フィールド」が結びつくことで、「荒野に呼ばわる者」という、キリスト教的な「孤独な導き手(あるいは求道者)」を暗示していると思う。
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