「読後感想」とは言っても、べつに論文を書く気はないので、単に随筆である。「筆に随って」書くだけだ。つまり、文責は筆にあって私には無いwww
まあ、低レベルの冗談はともかく、何十年ぶりの「ライ麦~」再読は面白かった。ただ、主人公への共感が初読の時ほどだったのかどうか、そういう部分は明確に記憶していないので判断は難しい。たぶん、当時は「よく理解できない」ので判断保留にしていたと思う。今でも、判断は困難だ。と言うのは、外界に対する主人公の嫌悪は、感覚的には分かるが、論理的には分からないのである。主人公のホールデンは、「インチキな存在」が大嫌いで、彼から見れば世界はインチキだらけのものだから、世界そのものが嫌いなのだと思える。だが、その「インチキ」とは何か。
本の最後に翻訳者野崎孝の解説があるので、引用してみる。
2か所ほど引用するつもりだが、面白いことに、私が先日「理解できない部分」として無理に解釈した箇所を野崎氏が「解説」文の中でまさに解説しているのである。
しかし「幸運を祈るよ」と歴史のスペンサー先生に言われて、反射的に嫌悪を感じ、自分ならば絶対にそんなことは言わないだろうと思うホールデンの感覚は、たとえば葉書などに「ご多幸を祈る」と書くことに抵抗を感じたことのある日本人ならば、容易に理解することができるはずだ。(夢人注:私はそれが「容易に」理解できなくて悩んだのだがww)祈りもしないのに「祈る」と言い、祈る対象すら持たぬ人間が祈ると書くーーーその無神経、そのインチキさ。更には「幸運を祈る」とは具体的にどういうことか。それを考えもしないで安易に口にする無責任さ。これがもし、相手を罵倒するなり、揶揄するなり、相手にマイナスを与えるような、従って自分もそのため不利になるような場合なら、あるいは許容されるかもしれない。(夢人注:「インチキ」ではないとして許容されるということだろう。)しかし、相手にプラスを与える性質の言葉を、自分の真意以上の効果を孕ませて口にするのはいやらしい。ホールデンの反発の基本的なものはここにある。だから、この感覚、この反発が理解できれば、この小説は一挙に理解できるはずだ。
なるほど、私の「ライ麦~」理解の底の浅さが歴然としている。小説を読む、あるいは理解するのは才能と修練が要るようだ。まあ、野崎氏がホールデンの言う「インチキ」の解説として、私が偶然に取り上げた箇所を選んだだけでも良しとしよう。
もう一か所はこういう文章だ。
ホールデン少年が最も敏感に嗅ぎわけて、最も烈しい嫌悪と侮蔑を示すのは、彼のいわゆる「インチキ」なもの、「いやらしい」ものであることは前に述べたが、既成の価値にしばられず、かといってみずからの価値観も確立されていない彼にとって、これが法律上の罪や倫理的な悪などであろうはずはなく、単なる嘘やごまかしでさえなくて、精神の下劣さ低俗さ、根性のきたなさ、そこから来る糊塗、欺瞞、追従といった性質のものである。
(下線は夢人による)
いや実に見事なものである。下線部は、ホールデンの言う「インチキ」なものを余蘊なく示している。
なお、いい加減な読み方しかできない凡人読者としては、ホールデンは他者に厳しすぎ、自分に甘すぎると思う。客観性というのは、その性質上、自分にも外界にも等しく向けられると思うのだが、ホールデンの「異常な」主観性が、実は外界観察の見事な正確さによって読者には気が付かない仕掛け(ホールデンの目が「客観的」に見える仕掛け)になっている。それは作者サリンジャーによる「インチキ」であるような気が私にはするwww まあ、小説というのはもともとフィクションなのであり、つまりは「砂上の楼閣」であり、悪口を言えば「インチキ」なのである。ただ、インチキの中にも許容できるものと許容できないものがそれぞれにあるだけだ。世上の小説や漫画やアニメや映画の中で不誠実に作られた、不潔な「インチキ」でないものがどれだけあるだろうか。一見真面目そうな作品にこそそういう「インチキ」が多いのではないか。
なお、野崎氏が「インチキ」と訳した原語が何かは分からないが、「phoney(phony)」(偽物、まがい物の意)ではないかと思う。
まあ、低レベルの冗談はともかく、何十年ぶりの「ライ麦~」再読は面白かった。ただ、主人公への共感が初読の時ほどだったのかどうか、そういう部分は明確に記憶していないので判断は難しい。たぶん、当時は「よく理解できない」ので判断保留にしていたと思う。今でも、判断は困難だ。と言うのは、外界に対する主人公の嫌悪は、感覚的には分かるが、論理的には分からないのである。主人公のホールデンは、「インチキな存在」が大嫌いで、彼から見れば世界はインチキだらけのものだから、世界そのものが嫌いなのだと思える。だが、その「インチキ」とは何か。
本の最後に翻訳者野崎孝の解説があるので、引用してみる。
2か所ほど引用するつもりだが、面白いことに、私が先日「理解できない部分」として無理に解釈した箇所を野崎氏が「解説」文の中でまさに解説しているのである。
しかし「幸運を祈るよ」と歴史のスペンサー先生に言われて、反射的に嫌悪を感じ、自分ならば絶対にそんなことは言わないだろうと思うホールデンの感覚は、たとえば葉書などに「ご多幸を祈る」と書くことに抵抗を感じたことのある日本人ならば、容易に理解することができるはずだ。(夢人注:私はそれが「容易に」理解できなくて悩んだのだがww)祈りもしないのに「祈る」と言い、祈る対象すら持たぬ人間が祈ると書くーーーその無神経、そのインチキさ。更には「幸運を祈る」とは具体的にどういうことか。それを考えもしないで安易に口にする無責任さ。これがもし、相手を罵倒するなり、揶揄するなり、相手にマイナスを与えるような、従って自分もそのため不利になるような場合なら、あるいは許容されるかもしれない。(夢人注:「インチキ」ではないとして許容されるということだろう。)しかし、相手にプラスを与える性質の言葉を、自分の真意以上の効果を孕ませて口にするのはいやらしい。ホールデンの反発の基本的なものはここにある。だから、この感覚、この反発が理解できれば、この小説は一挙に理解できるはずだ。
なるほど、私の「ライ麦~」理解の底の浅さが歴然としている。小説を読む、あるいは理解するのは才能と修練が要るようだ。まあ、野崎氏がホールデンの言う「インチキ」の解説として、私が偶然に取り上げた箇所を選んだだけでも良しとしよう。
もう一か所はこういう文章だ。
ホールデン少年が最も敏感に嗅ぎわけて、最も烈しい嫌悪と侮蔑を示すのは、彼のいわゆる「インチキ」なもの、「いやらしい」ものであることは前に述べたが、既成の価値にしばられず、かといってみずからの価値観も確立されていない彼にとって、これが法律上の罪や倫理的な悪などであろうはずはなく、単なる嘘やごまかしでさえなくて、精神の下劣さ低俗さ、根性のきたなさ、そこから来る糊塗、欺瞞、追従といった性質のものである。
(下線は夢人による)
いや実に見事なものである。下線部は、ホールデンの言う「インチキ」なものを余蘊なく示している。
なお、いい加減な読み方しかできない凡人読者としては、ホールデンは他者に厳しすぎ、自分に甘すぎると思う。客観性というのは、その性質上、自分にも外界にも等しく向けられると思うのだが、ホールデンの「異常な」主観性が、実は外界観察の見事な正確さによって読者には気が付かない仕掛け(ホールデンの目が「客観的」に見える仕掛け)になっている。それは作者サリンジャーによる「インチキ」であるような気が私にはするwww まあ、小説というのはもともとフィクションなのであり、つまりは「砂上の楼閣」であり、悪口を言えば「インチキ」なのである。ただ、インチキの中にも許容できるものと許容できないものがそれぞれにあるだけだ。世上の小説や漫画やアニメや映画の中で不誠実に作られた、不潔な「インチキ」でないものがどれだけあるだろうか。一見真面目そうな作品にこそそういう「インチキ」が多いのではないか。
なお、野崎氏が「インチキ」と訳した原語が何かは分からないが、「phoney(phony)」(偽物、まがい物の意)ではないかと思う。
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