山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)
ただ、最初の一節「Let me take you down」を「君を忘れないよ」としたのはどうだろうか。直訳で、「君を(木から)降ろさせておくれ」でいいのではないか。つまり、この二人は木登り遊びをしていた少年と少女である。そして、その少年(語り手)はこれから少年院(孤児院か?)に行くわけだ。
(以下引用)
ストロベリーフィールズ・フォーエヴァーStrawberry Fields Forever:ビートルズ歌詞の和訳 |
君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに すべては夢 本物はなにもない ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 目を閉じて何も見なければ人生は容易だ 一人前になるのは難しいけれど何とかなるさ 気にすることはないさ 君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに すべては夢 本物はなにもない ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー ぼくは誰ともうまく行かなかったけれど仕方がないさ 多分波長が合わなかったんだ 仕方ないさ 気にすることはないさ 君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに すべては夢 本物はなにもない ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー いつだってぼくが悪かったのさ 夢のようだけど そうだよぼくが悪かったんだよ くやしいけど 認めたくはないけどね 君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに すべては夢 本物はなにもない ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー ビートルズが1967年にリリースした14枚目のオリジナルシングル。アルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」に収録された。 歌詞は難解だが、ストロベリーフィールズが孤児院の名だとわかれば、腑に落ちるところがある。この歌は、孤児院に送られる少年の孤独な気持ちを歌ったもののようなのだ。 |