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「永遠」

壺斎散人の訳と解説とランボーの原詩の「永遠」である。
多くの人が訳していて、それぞれに勝手な訳をしていたり名訳だったりする詩である。その中ではわりと大人し目の訳で、ランボーの溌溂とした気分があまり出ていない気はするが、まあ、私自身はフランス語がまったく分からないので、これが原詩に近いかどうかは分からない。

たとえば、冒頭部分は

もう一度見つけたぞ
何を?
永遠だ
太陽に溶けた海だ

という訳もある。「もう一度見つけたぞ」とは、つまり、「最初から見えていたが意識に上らなかったものを(再)発見した」ということだろう。我々はそのように「見れども見ず」が多いのではないか? 
上記の訳では「海に溶けた太陽」ではなく「太陽に溶けた海だ」としているのが面白い。理屈がどうであれ、海に溶ける太陽も太陽に溶ける海もあり得ないのだから、面白くて記憶に残るフレーズがいいのである。理屈を言えば、太陽は宇宙全体の生命の源であり、海は地球の生命の源である。太陽がないと、そして海がないと、宇宙は死の世界になり、永遠を記憶する存在もない。つまり、永遠は存在しないも同じなのである。まあ、誰もいない森の中で木が倒れたら、そこに音はあるか、という話だ。「沈黙の音」しか存在しないだろう。





 永遠:アルチュール・ランボー

  見つかったぞ
  何が? 永遠が
  太陽と
  融合した海が

  用心深い心よ
  懺悔しよう
  虚無の夜と
  灼熱の昼を

  人間どもの
  くだらぬことから
  身を放ち
  自由に飛んでいけ

  お前自身のうちから
  サテンのような残り火よ
  義務は生ずるのだ
  誰にいわれるでもなく

  ここには希望はない
  立ち上がる望みもない
  智恵も不屈の精神も
  ただの責め苦に過ぎぬ

  見つかったぞ
  何が? 永遠が
  太陽と
  融合した海が
   
「言葉の錬金術」に「永遠」を載せるにあたって、ランボーは次のように書いている。

「ついに、幸福だ、理性だ! 俺は空から青さを引っ剥がし、真っ黒にした。俺は、自然の光の黄金の火花となって生きた。喜びのあまり、俺は可能な限り、おどけて見せた。」

ここには、自分は外在的な光によって照らされるものではなく、自分自身が太陽の光となって、宇宙を照らすのだという矜持があふれている。

C'est la mer allee Avec le soleil.の部分は、alleeをmeleeに読み替えるのが通説になっているようなので、それにしたがって訳した。




L'Éternité : Arthur Rimbaud Mai 1872

  Elle est retrouvée.
  Quoi? - L'Éternité.
  C'est la mer allée
  Avec le soleil.

  Ame sentinelle,
  Murmurons l'aveu
  De la nuit si nulle
  Et du jour en feu.

  Des humains suffrages,
  Des communs élans
  Là tu te dégages
  Et voles selon.

  Puisque de vous seules,
  Braises de satin,
  Le Devoir s'exhale
  Sans qu'on dise : enfin.

  Là pas d'espérance,
  Nul orietur.
  Science avec patience,
  Le supplice est sûr.

  Elle est retrouvée.
  Quoi ? - L'Éternité.
  C'est la mer allée
  Avec le soleil.




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いちご畑は永遠に

壺斎散人という人の「知の快楽」というサイト(主に哲学関係の文章が多いようだが、詩も好きなようで、私に嗜好が少し似ているが、学識が私とは天と地ほど違う。もちろん、私が地である。)に載っていたビートルズの「ストロベリーフィールズフォーエバー」の散人氏による訳である。なかなか上手い訳だと思う。
ただ、最初の一節「Let me take you down」を「君を忘れないよ」としたのはどうだろうか。直訳で、「君を(木から)降ろさせておくれ」でいいのではないか。つまり、この二人は木登り遊びをしていた少年と少女である。そして、その少年(語り手)はこれから少年院(孤児院か?)に行くわけだ。

(以下引用)


ストロベリーフィールズ・フォーエヴァーStrawberry Fields Forever:ビートルズ歌詞の和訳



  君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに
  すべては夢 本物はなにもない
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 

  目を閉じて何も見なければ人生は容易だ
  一人前になるのは難しいけれど何とかなるさ 
  気にすることはないさ

  君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに
  すべては夢 本物はなにもない
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 

  ぼくは誰ともうまく行かなかったけれど仕方がないさ
  多分波長が合わなかったんだ 仕方ないさ
  気にすることはないさ

  君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに
  すべては夢 本物はなにもない
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 

  いつだってぼくが悪かったのさ 夢のようだけど
  そうだよぼくが悪かったんだよ くやしいけど
  認めたくはないけどね

  君を忘れないよ でももういかなきゃ ストロベリーフィールズに
  すべては夢 本物はなにもない
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー 
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー
  ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー


ビートルズが1967年にリリースした14枚目のオリジナルシングル。アルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」に収録された。

歌詞は難解だが、ストロベリーフィールズが孤児院の名だとわかれば、腑に落ちるところがある。この歌は、孤児院に送られる少年の孤独な気持ちを歌ったもののようなのだ。

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一滴の露の中にも宇宙はある

一昨日図書館から借りた本のうちの「悲しみよこんにちわ」がなかなか面白くて読書継続中だが、昨日は同じ日に借りた恩田陸の「チョコレートコスモス」という500ページもの長編小説を何の気なしに読んでみたら、あまりに面白くて、昨日から今朝にかけて(寝ている時間を除いてだが)読破してしまった。実は、私は恩田陸という作家はさほど好みの作家ではない。ホラー系統の作品が多いイメージだからだが、作家的力量は現役作家の中でも最高級のレベルだろうとは思っている。
サガンの200ページ足らずの小説を読むのに数日かけているのに、恩田陸の500ページの小説を6時間くらいで読んでしまうのは、両者の小説的性質が違うからだろう。サガンのものは、映画的詩情を味わいながら読むもので、恩田陸のこれは、「ガラスの仮面」を一気読みするようなものだ。つまり、後者は「小説エンジン」(読者を先へ先へと引っ張る力)が強烈なのである。
なぜ「ガラスの仮面」を引き合いに出したかというと、これが演劇の世界を扱い、演劇世界でのライバルとの戦いと友情を描いているからである。正直言うと、作中での演劇的課題の難問性は、解答不可能であり、それへの回答(正解)も私のようなひねくれものには「はたして、それが本当に正解と言えるのか」という疑問を持たされはするが、まあ、演劇にはまったく無知な素人なのだから、細部細部の描写の面白さを楽しめばよい。演劇的難問とその解答・回答というのは「ガラスの仮面」でも何度も出てきて、その回答(正解)に読者が首をひねるのも、同じだろう。
まあ、要するに、面白さ抜群の小説であるが、個人で買う資力の無い人は、近くの図書館で探してみることをお勧めする。欠点は「チョコレートコスモス」というタイトルが意味不明(最後に説明される)で、たいていの人は魅力を感じないだろうということと、装丁が「ホラー小説」的であることだ。内容と完全に乖離した装丁で、これは装丁者が小説内容を知らないで作ったか、あるいは出版社が「恩田陸=ホラー小説」という定番扱いで売ろうとした出版戦略のミスだろう。正直言って、手元に置きたくない装丁である。装丁者は平野甲賀という、有名な人だ。

(以下引用)書評を見てみると、「ガラスの仮面」を引き合いに出している人が多かった。やはりそう思う人がほとんどなのだろう。演劇の世界の話だからではなく、「演劇バトル」の話だからではないか。なお、「蜜蜂と遠雷」という作品のことを言っている人も多い。


『蜜蜂と遠雷』の演劇版というイメージ。でも出版されたのはこの本が先なので、『蜜蜂と遠雷』は『チョコレートコスモス』の進化版といったところでしょうか。演劇は殆ど観たことはなく、全くの素人なので理解しづらいところはありましたが、オーディションで初心者の飛鳥が人気俳優の響子と共演する場面は感動ものでした。やっぱり恩田さんは表現が上手い…物語に吸い込まれてしまいます。オーディションの演題となった『開いた窓』や『欲望という名の電車』の内容を知っていればもっと楽しめたのかな。飛鳥のその後がとても気になりました。


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作家の年齢と作品

会社勤めをしていた間、小説を「読む」(眼界に文字を通過させるのではなく書かれたことを考えながら読むのである。)心の余裕がほとんど無かったので、会社勤めをやめた今、本を読むのが二番目の娯楽である。一番の娯楽は考えることそのものだが、その思考は浮遊思考であるので、考えるというよりは妄念というべきか。
さて、昨日、市民図書館から借りてきて読んでいる途中の本が、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちわ」で、そういう、男が手にするのも恥ずかしい本を堂々と借りることができるのも、下層階級爺の強みだ。これが上級国民だと、外聞を恥じてそういう行動もできないだろう。で、この本を読んでいると、なるほど世界的ベストセラーになるのも頷ける作品で、これを18歳(17歳?)で書いたのは凄いが、逆に言えば、18歳でしか書けない作品だとも思える。
一般に女性は早熟だと思うが、わずか18歳でこれほどの人間心理洞察ができたのは凄い。フランスは、男でもアルチュール・ランボーやレイモン・ラディゲのように早熟の天才が生まれる国のようで、その原因は、私の推測だと「目上や年上の人間への畏敬や畏怖の念をまったく持っていないから」だろうと思う。つまり、「思考の足かせ」が無いから、現実がありのままに見えるのである。ついでに言えば、思想性の強い本を若いころから読むのも「思考の足かせ」になる。

ただし、18歳の「天才」がその後偉大な作家になった例は無いようだ。つまり、18歳で書いた「傑作」は、18歳だから書けたということもあり、その後の成長は保証しないどころか、むしろ年齢とともに才能が逓減するのではないか、と思う。

これも単なる推測だが、フランス人が「上の存在」への畏敬や畏怖の念を持たなくなったのは、フランス革命を経験したためだろうと思う。つまり、自分たちを抑えつけ縛り付ける存在(王侯貴族や封建的社会制度)が、まったく尊敬にも畏怖にも値しない屑だったということを経験し、それが国民精神になったのだと思う。これは「平等」ではなく「対等」の精神だろう。つまり、外的条件に関わらず、精神においては相手と同じ平面で対峙する精神である。


(以下引用)

悲しみよこんにちは

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

悲しみよこんにちは』(かなしみよこんにちは、フランス語Bonjour Tristesse ボンジュール・トリステス)は、1954年に発表されたフランス作家フランソワーズ・サガン小説。サガンが18歳のときに出版された処女作である。題名はポール・エリュアールの詩「直接の生命」の一節から採られている。17歳の少女セシルがコート・ダジュールの別荘で過ごす一夏を描く。22か国で翻訳され、世界的なベストセラーとなった。ル・モンド20世紀の100冊の1つに数えられる。


日本へは 1955 年に朝吹登水子の翻訳により紹介され[1]、2008 年には河野万里子による新訳が発表された[2]


1957年に映画化され、ジーン・セバーグがセシルを演じた(映画『悲しみよこんにちは』参照)。その際の短い髪型が流行し「セシルカット」と呼ばれブームになった。


また、日本では、1967年に舞台を那須高原に置き換えた、梓英子主演のテレビドラマが制作されている。

あらすじ[編集]

18歳になるヒロインのセシルとやもめである父のレエモン、その愛人のエルザはコート・ダジュールの別荘で夏を過ごしていた。セシルは近くの別荘に滞在している大学生のシリルと恋仲になる。そんな彼らの別荘に亡き母の友人のアンヌがやってくる。アンヌは聡明で美しく、セシルもアンヌを慕う。だが、アンヌと父が再婚する気配を見せ始めると、アンヌは母親然としてセシルに勉強のことやシリルのことについて厳しく接し始める。セシルは今までの父との気楽な生活が変わってしまったり、父をアンヌに取られるのではないかという懸念に駆られ、アンヌに対して反感を抱くようになる。やがて、葛藤の末にセシルは父とアンヌの再婚を阻止する計画を思いつき、シリルと父の愛人だったエルザを巻き込んで実行に移す。アンヌは自殺とも事故とも取れる死に方をする。

登場人物[編集]

セシル(Cécile)
天真爛漫な17歳の少女。
レエモン(Raymond)
セシルの父。画家で放蕩な男。
エルザ(Elsa)
レエモンの愛人。物語の前半でレエモンと別れた。
アンヌ(Anne)
セシルの亡き母の友人。セシルの良き相談相手でもある。
シリル(Cyril)
レエモンの別荘の近くの家に滞在する青年。

改編作品[編集]

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ムーンリバーで朝食を

村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を読んでいたら、主人公ホリー・ゴライトリーの男兄弟を「兄」と書いてあったが、映画では「弟」だったはずで、これが兄だとホリーの「保護者意識」が不自然になる気がする。まあ、ホリーを19歳としていたので、その弟が徴兵年齢であるのはおかしいわけだから、「兄」としたのだろうが、あるいは、映画の方が設定を改変したのかもしれない。私は映画は見たが、小説はほとんど読んだ記憶がないので、どちらかは分からない。つまり、ホリーの「保護者意識」自体が。映画の改変かもしれない。このほうがありそうではある。ホリーの「弟」への保護者意識は、ホリーの「この世界を自分につなぐ細い縄」としてリアリティを持っていたので、いい改変だと思う。
小説は小説として名作であり、映画は映画として名作、としていいのではないか。(この映画でオードリー・ヘップバーンが演じるホリーは「大都会の妖精」的ではあるが、実はフリーの娼婦なので、ヘップバーンのファン、特に若い人にはショックかもしれない。私がこの映画自体が好きになったのは、だいぶ年を取ってからである。)
なお、この作品の映画での改変として有名なのは、小説中でホリーが歌う歌の歌詞が「眠りたくない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」(村上春樹訳)という、素っ気ないものであるのに対し、映画では有名なヘンリー・マンシーニの曲のついた「ムーン・リバー」であることで、私はこのムーン・リバーの歌詞が大好きなので、記憶で書いてみる。

Moon River wider than a mile
I'm crossing you in stile someday
Old dream maker
you,heartbreaker
whereever you going,I'm going your way

Two drifters off to see the world
there's such a lot of world to see

We after the same rainbows end
waiting round the bend
My Huckleberry friend
Moon River and me

英語の綴りは自信が無いが、だいたいこんなものだったと思う。訳してみる。

月の河、1マイルより広いそれを
私はいつの日かお洒落な恰好をして渡るだろう
古い夢を紡ぐもの
人の心を砕くお前
お前が行くところ、どこへでも私も行こう

世界を見ようと岸を離れた二人の漂流者
そこにはたくさんの見るべき世界がある

私たちは同じ虹の両端を追っている
河の曲がり角で待っている
ハックルベリー・フィンのような私の友達
月の河と、私


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内田樹の「山岸凉子」論

「内田樹の研究室」は、滅多に読まないのだが、さきほど気まぐれで覗いてみると、山岸凉子の話を書いていて、その論旨が妥当かどうかはさておき、私自身が先ほど書いた「怪奇趣味」の話と偶然の一致があって面白いので、ここに転載しておく。
ただし、山岸凉子は怪奇趣味というより、本当に彼女自身に霊媒体質があるらしく、「あれ」が見えるらしい。それ自身が怪談であるwww
私自身は山岸凉子は「怖い話」だけでなく、あらゆるジャンルで稀な語り部の才能を持っていると思う。その絵柄が苦手だという人もいるかと思うが、あの絵でないと彼女の作品の味わいは出ないだろう。自分で話を作るだけでなく、「話に対する嗅覚」が優れていて、トルーマン・カポーティの作品の中でほとんど語られることのない、オールドミスの叔母と幼年時の作者の自伝的作品を漫画化したクリスマスの話(先ほど、少し前に古本屋で買った村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を開いたら、その中に入っていた。)など、名作中の名作である。あるいは、「白い部屋のふたり」など、音楽をつけて映像化したくなる作品だ。もちろん、そういう作品は彼女だけでなく、大島弓子などにも多い。萩尾望都も含め、24年組は天才揃いである。彼女らの初期短編でアニメのシリーズを作ったら、国宝級の素晴らしいものになるだろう。


(以下引用)

山岸凉子先生のマンガはどうしてこんなに怖いのか

2023-08-05 samedi




 山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
 私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
 そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
 外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
 それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)





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俳句の破調と怪奇趣味

最初に変なことを書くが、人生を気楽に生きるには、「プロにならないこと」だ、というのが先ほど思いついた思想なのだが、なぜかというと、プロになると職業的義務が生まれ、その義務に束縛される人生になるからである。プロというのは、その仕事でカネを稼ぐということで、つまり、生まれつきの資産家以外は、この資本主義の世の中では真の自由人にはなれないということである。そこで、ほとんどの人はプロとしての奴隷の時間と、自由人としての余暇の時間を使い分ける人生になる。もちろん、その、プロとしての仕事の時間そのものが楽しいなら、それは幸せな生き方になる。まあ、仕事が辛いとは言っても、昔は仕事に耐えられない年齢になったら仕事から引退して隠居したもので、隠居というのは素晴らしい「社会制度」だったな、と思う。今なら、年金生活か。しかし、その老齢年金は生活保護より低い金額で、それもどんどん減らされる傾向にありそうだ。
まあ、そういう世知辛い話はここまでとする。

ここからは、一種の芸術論になる。ただ、それが素人の論考だから、最初に「素人の良さ」を書いて無意識に煙幕を張ったのだろう。素人の論考だから、責任は持たないよ、ということだ。ただし、素人とプロの本質的な(絶対的な)違いは、その仕事や作業でカネを得るか得ないかというだけだ。

さて、西東三鬼の有名な俳句がある。

「算術の少年しのび泣けり夏」

というもので、全体の音数はちゃんと17字になっているが、意味で切った場合は「算術の」「少年しのび泣けり」「夏」という、「5,10,2」という、とんでもない破調である。(もちろん、「算術の少年」「しのび泣けり」「夏」という「9,6、2」でもいい。これも滅茶苦茶な破調だ。)これを「5,7,5」で読むと「算術の・少年しのび・泣けり夏」という、意味不明の文章になる。
だが、名句であることは確かだ。誰が読んでも、この形でしかこの俳句の良さは出なかっただろうと思うのではないか。
で、ここからが本題だが、実はこの型破りの句法にはモデル(先例)があり、それも、芭蕉の句だというのが、私がここで例証しようとしていることだ。
先ほど、寝床で東雅夫編「文豪怪談傑作選・芥川龍之介集」を読んでいると、龍之介の小論的随筆の中で引用された連句の付け合いで、こういうのがあった。

小夜嵐とぼそ落ちては堂の月  信徳
  古入道は失せにけり露   桃青

桃青はもちろん芭蕉の俳名のひとつだが、この「古入道は失せにけり露」は、まさしく三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」と同じ句法ではないか。どちらも、最後に2音の名詞を「無理やり」付ける形である。そして、どちらも「露」「夏」という、その名詞で世界が広がりながらも、俳句世界を確定している。寺の堂に出没していた古入道が消えた後、庭の草葉に乗っていた一滴の露をクローズアップしたことで、世界が広がり、秋という季節が読む人の感覚に刻まれるのだ。その露には、あるいは前句で書かれた「月」の光が宿っているだろう。


ここで終わってもいいのだが、芭蕉の怪奇趣味(「気違を月のさそへば忽(たちまち)に」など、面白い。狂気を「ルナティック」と言うように、月が狂気を誘うという観念は洋の東西に共通しているようだ。)を龍之介は論じていて、その最後に載せてある龍之介自身の短歌が面白いので、載せておく。面白いとは言っても、内容は残酷で、その美は哀切の美だ。
「河郎」はおそらく「河太郎」つまり、河童のことで、河童は龍之介偏愛の妖怪である。

人間の姿を恋ひしかばこの川の河郎の子は殺されにけり









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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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