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夏と花火とわたしの死体(ミステリーとサスペンス)

私の別ブログ(娯楽中心)にだいぶ前に載せた記事だが、さきほど読み直して、なかなか完成度の高い文章だと我ながら思う(笑)ので、ここにも載せておく。

(以下自己引用)
私は、マスコミが騒ぐものには裏がある、特に背後に電通や博報堂がいたりする、という思想なので、世間でのブームには冷淡で、あれは一部の人間のカネ儲けにすぎないとしか思わない。
そういう思想であるため、「世間が騒ぐもので本当に価値があるもの」を見過ごす、あるいは見逃すこともある。

先ほどまで寝床で読んでいた乙一の「夏と花火とわたしの死体」(北村薫編「こわい部屋」所収)がそれで、これは文句なしの傑作であり、これを書いたのがまだ彼が16歳の時だったというのは奇跡に近い。

私は早熟であることに特に価値を置いてはいない。単に才能が現れるのが早かっただけで、その後、その才能がさらに向上するわけではないからだ。むしろ、その才能はそれ以後退化することのほうが多いのではないか。ただ、その早熟さがその天才性に眩しい光彩を与えるのは自然なことではあるだろう。乙一がその後、その才能を伸ばしたかどうかは知らないが、この「夏と」に関しては、ほぼ完璧な傑作で、これが日本の風土や民俗を土台にしていなければ、翻訳されて世界的な話題となっていてもおかしくない。小説内容は推理小説と言うよりはミステリー小説に分類されるだろうが、推理小説で言えば「Yの悲劇」以上の「仕組み」の完璧性を持っている。
ただ、小説の大前提となる「誰視点で語るか」というナラティブの問題が、この小説では特に大きく、そこが気になる私のような人間には最初はそこの部分がいい加減に思えるが、最後まで行くと、それこそがこの小説の特異な完璧性を成り立たせているのかもしれない、と思う。
先ほど書いた「仕組みの完璧性」で言えば、たとえば、一見単なる情景描写のひとつに見える野良犬の存在、緑さんの存在が、最後に来て大きな意味を持っていることが分かるのだが、この「思考の強靭さ」こそが、小説のレベルを決定的にするのである。
しかし、語彙のひとつひとつを取っても、16歳の語彙とは思えない。おそらく、それまでの読書体験で、ひとつひとつの言葉をすべて理解してきたのだろう。だが、わずか16歳でどれほどの読書体験があったのか、不思議なことだ。
そして、文章の細部細部に流れる自然描写の抒情性と、人間観察の非情性の奇妙なバランスが、この作品を唯一無二にしていると思う。

ちなみに、「死体隠し(死体の処理によるドタバタ)」は欧米ではむしろ喜劇に属し、「ハリーの災難」や「毒薬と老嬢」という古典的傑作映画もある。
死者によるモノローグという手法で有名なのは、これも映画で「サンセット大通り」という名作がある。


神木隆之介や蘆田愛菜のような天才子役がいて、市川崑や野村芳太郎のようなセンスのいい職人監督がいたら、実写映画向きの題材だと思うが、問題は「闇の描写」だろう。映画やアニメはある意味「光の芸術」で、闇の描写が苦手なのである。まあ、闇の部分は背景を別映像にして作るとか、解決策はあるかもしれない。一応言っておけば、これは「ミステリー」ではなく「サスペンス」主体の作品である。欧米映画で言えば「恐怖の報酬」に近い。ミステリー(謎)要素はほとんどない。だからこそ実写映画に向いていると言っているわけだ。欧米の伝統に則ってコメディ性を持たせることも可能だろうが、それだとこの作品の抒情性やサスペンス性はかなり弱くなるかと思う。

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「東は東 西は西」

長文の引用は「ジム佐伯のEnglish Maxims」というブログから転載。
私も、この「東は東、西は西」は、東西の融和は永遠に不可能だ、という意味だとばかり思い込んでいた。しかし、昨日読んだ「子供たち」というキプリングの短編小説(一種の幽霊話だが、近隣で亡くなった子供たちが、未婚だが子供好きの生まれつき盲目の女性を訪れ、心を慰める話である。)の中に、あらすじとは関係ないが次のような言葉があって、キプリングというのが大英帝国主義の象徴的作家だというのは違うのではないか、と考えて、「東は東」について調べて、佐伯氏のブログを知ったわけだ。下の文の赤字は夢人による強調。東西摩擦、東西相克のすべての過因はここにあるようだ。そして、教育は支配層がその内容を決めるのである。

「遺伝的であるばかりか、教育の中にまで仕組まれたキリスト教徒の残酷さに比べれば、アフリカ西海岸の異教徒の黒人のほうが、清く節操がある。」(話の語り手の男性の想念)

(以下転載)



今日の言葉は、キプリングの有名な詩『東と西のバラード(The Ballad of East and West)』に出てきます。1898年に書かれたものですから、キプリングがインドを出て世界を旅した時期にあたります。

“Oh, East is East and West is West, and never the twain shall meet.”
「おお、東は東、西は西、そして両者はけっして会うことがないだろう。」

これだけ読むと、東洋と西洋の道は決して交わらないのだ。理解し合うことはないのだとも解釈できます。キプリングはトルコを旅行中にイスタンブールのボスポラス海峡のほとりに立ってこの詩を歌ったと言われています。この詩が西洋人が東洋を見る深層心理に今でも大きな影響を及ぼしているのではないかという説もあります。日本でも有名な詩で、東西両文明の異質さを歌ったものという共通の認識があるとされます。
実際、この詩は東洋蔑視や東西断絶の象徴として数多く引用されました。



しかし、この言葉には続きがあります。

“Oh, East is East and West is West, and never the twain shall meet,
Till Earth and Sky stand presently at God's great Judgment Seat;
But there is neither East nor West, Border, nor Breed, nor Birth,
When two strong men stand face to face, tho' they come from the ends of the earth!”


「おお、東は東、西は西、両者はけっしてまみえることがないだろう。
 神の偉大な審判の席に天地が並んで立つまでは。
 しかし東もなければ西もない。国境も、種族も、素性もない。
 二人の強い男が面と向かって立つときは。たとえ両者が地球の両端から来たとしても。」


前半の二行は読んだ通りです。でも後半の二行が難しい。
意味がわかりやすくなるように並べ換えてみます。

「しかし二人の強い男が面と向かって立つときは、東もなければ西もない。
 国境も、種族も、素性もない。たとえ両者が地球の両端から来たのだとしても。」

そう。これは東西の理解が可能であることを書いてあるのです。
『東と西のバラード』では、この四行の詩の後に長い物語が続きます。カマルというインド人と守備隊長の大佐の息子の確執と和解をテーマにしたものです。
そして物語の最後に、冒頭と同じ四行詩がリフレインされて終わるのです。




【2016年1月7日追記】
キプリングのこの詩は、日露戦争の直前にイギリスと日本で結ばれた日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)を描いた風刺漫画にも引用されています。イギリスの風刺漫画雑誌「パンチ(Punch)」に掲載された漫画には絵柄や詩の引用を見る限り風刺や皮肉の意図はなく、同盟に好意的に描かれています。

 Punch Anglo-Japanese Alliance.jpg
イギリスの風刺漫画雑誌「パンチ(Punch)」に描かれた日英同盟
(1905年10月、日露戦争は既に終わっていた)
By A scan of a cartoon from The New Punch Library volume 1, page 44, published in London in 1932. First published on 4 October 1905., PD-USLink
 “Oh, East is East, and West is West...
 But there is there is neither East nor West, Border, nor Breed, nor Birth,
 When two strong men stand face to face, tho' they come from the ends of the earth!”
  ― Rudyard Kipling.


 おお、東は東、西は西...
 しかし東もなければ西もない。国境も、種族も、素性もない。
 二人の強い男が面と向かって立つときは。たとえ両者が地球の両端から来たとしても。
  ― ラドヤード・キプリング




【2016年1月7日追記】
これ、僕のつたない訳よりもずっといい訳が見つかりましたので引用します。
ああ、東は東、西は西、両者が出会うことはない、
地と天がやがて神の大いなる裁きの庭に立つ日までは。
だが、東も西もなく、国境も、民族も、生まれもない、
二人の強き男たちが相対するときは、
たとえそれぞれ地の果てからこようとも!
 ―ラドヤード・キプリング『西と東の歌』

(『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで(上)』 イアン・トール・著 村上和久・訳 文芸春秋・刊)

太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 上 (文春文庫)


“East is east, west is west.”
東は東、西は西。

そうですね。キプリングの詩のように、確かに東と西は違います。
しかし、キプリングの詩の続きのように、東西の理解は可能なのです。
今でも違いを感じることは多々あります。しかし希望を捨てずに相互理解につとめましょう。
1907年、キプリングはノーベル文学賞を受賞しました。史上最年少の41歳でした。

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完了形とは何か

目覚めの際にそのまま寝床の中で本を読むことが私は多いが、それは睡眠時間が短くて深夜に目覚めるのが恒常的だからだ。で、老眼が進行しているので、本が読みにくいが、寝床に横になったままだと眼鏡をかけることができない。そのため、裸眼で本を読んでいると眼と脳が疲れるので時々眼を閉じて休憩する。脳を休めるためには、難しい思索はダメだろうから、頭の中で何か好きな曲やその歌詞を考える(思い浮かべている)ことが多い。当然、自分が若いころに知った曲以外は歌詞を覚えている歌など無い。
先ほど頭の中でグルグル回っていたのは、エルビス・プレスリーの「振られた気持ち」という、最低な題名の歌で、原題はたしか「I have lost you」だと思う。(今調べると、これは私の勘違いで、「去りし君へのバラード」だった。せっかく書いたので、先ほど書いた部分を誤解のまま残しておく。「去りし君へのバラード」も駄目タイトルだと思う。お前は吟遊詩人か。)まあ、全体の歌詞の内容の大筋から言えば「振られた気持ち」という訳は間違いではないが、これは「精神的に離婚寸前の夫婦」の夫側の気持ちの歌なのである。夫は妻を愛しているので、「振られた気持ち」で間違いではないのだが、これは「愛が終わった」という状態の悲しみを描いているのであって、「振られた」云々ではない。ちなみに、この歌は「エルビス・オン・ステージ」の映画やCDに入った歌だ。そのCDを私は持っているので、後で歌詞を転載しておく。
で、最初に書こうと思ったのは、「(英文法の)完了形とは何か」だったが、私の考えを簡単に言えば、「完了形」とは、まさに「完了」を表す表現で、「完全に終了した」意味である。単なる過去を表す過去形とは違って、その「終わった事実」が今そこにあるということだ。「I lost you」なら過去の事実で、それが現在どういう気持ちを残しているかは分からない。しかし、「I have lost you」だと、「あなたを失った」という事実がまさに目の前にあるわけだ。have自体が現在形であるのが、それを示している。「lost you」という事実を今現在「have」しているわけである。

I've lost you(去りし君へのバラード)

Lying by your side I watch you sleeping
and in your face the sweetness of a child
Murmuring the dream you won't recapture
Though it will haunt the corners of your mind

*Oh, I've lost you ,Yes,I've lost you
I can't reach you anymore
We ought to talk it over now,
But reason can't stand in for feeling

Who can tell when summer turns to autumn
And who can point the moment love glows  cold
Softly without pain the joy is over 
Though why it's gone we neither of us know

[*Repeat twice]第二節(*のついた節)を繰り返す意味

Six o'clock the baby wll be crying
And you will stumble,sleepig, to the door
In the chill,and sullen gray of morning
We play the part that we have learned too well

[Repeat 3 times with adlib]前と同じく*部分を繰り返す意味

ついでに言えば、叙事的部分の2番目の節、「Six o'clock~」の中の「the baby will be crying」は「未来進行形」ではないかと思う。つまり、未来に進行状態で起こることを「現在の実感で」表しているのではないか。そこが単なる未来形の「The beby will cry」との違いだろう。
その次の「And you will stumble,sleepng ,to the door」の情景描写が実に見事だ。寝起きの朦朧状態でふらふらとドアに向かって歩いていく妻の姿が目の前に見えるようである。
最後の「We play the part that we have learned to well」も、夫婦として「終わった」状態で、それぞれの役割を「演じている」姿の切なさに溢れている。
これもついでに言えば「reason can't stand in for feeling」も名文句だと思う。「『理由』は感情を説明できない」とでも訳するか。あるいは「理屈は感情の代わりにならない」か。理性と感情は別物、というわけだ。感情を理屈で片づけるのが、私を含めて多くの男に共通する欠陥ではないか。だから男に子供や幼児の世話は無理なのだろう。「なぜ泣くのか、ちゃんと説明しろ!」と赤ん坊に向かって言いかねないww








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「沖の少女」あるいは「海の上の少女」

脳内世界の冒険では、いくつになっても新しい驚きがある。無知な人間ほど、新しい発見に出会う喜びも多いわけだ。もちろん、知識の多い人間でもその知識は限定されているのだから、関心の幅を広げれば、喜ばしい出会いもたくさんある。
さすがにこの年になると、今から音楽の勉強をしたり科学の勉強をしたりするつもりもないが、小説を読むにしても、未読の傑作は無数にあるわけである。まあ、「食わず嫌い」を少し治すだけでも、脳内世界は広がるのである。

などと書いたのは前置きで、ここのところ、これまで知らなかった傑作に出会うことが多いので、こうした前置きを書いたわけだ。で、その傑作の多くは、市民図書館の「児童文学」コーナーでたまたま借りた本の中にあったものだ。大人向けだと、実は「純文学」が少なくて、ここ30年くらいの間に出たベストセラー大衆小説の類が多いのである。その中には傑作もあるが、残念ながら、やはり「俗臭」が付きまとうのが大半だ。ところが、児童文学には実は「純文学」の傑作が含まれていたりするのである。
先ほど、寝床の中で読んでいた「ホラー短編集3 最初の舞踏会」の中のひとつで、シュペルヴィエルという作家の「沖の少女」という作品が、その大傑作なのだが、私はこの作家の作品を読むのも初めてで、名前は聞いたこともある気がするが、まったく関心は無かった。この短編集の中に無かったら、一生この作家の作品を読むことは無かっただろう。つまり、この大傑作を一生知らずに終わるという残念なことになったわけだ。
この短編集の編者でもある平岡敦という人の翻訳だが、他の作品の翻訳も見事で、作品選択も素晴らしい。モーリス・ルブランの「怪事件」というわずか8ページで見事な不可能犯罪を描いたものなど、ルブラン嫌い(というよりルパンのキャラが嫌い)な私としては、この短編集に入ってなかったら絶対に読まなかったはずだ。まったく、どこからどう考えても絶対に不可能な犯罪で、私は最後の2ページ手前で読むのをやめ、頭を悩ませて考えたのだが、どうしても解答が見いだせずあきらめたのだが、残り2ページでのその見事な「解決」に驚き、感嘆したものである。しかも、その解答は、あらゆる推理小説、あるいはすべての不可能犯罪の解答として見事に成立するのである。まあ、騙されたと思って読んでみるといい。
話を戻して「沖の少女」だが、その作品の扉絵を佐竹美保という挿絵画家が描いていて、この人は児童文学の挿絵をたくさん描いているひとだが、この作品ではキリコの「憂愁と神秘の通り」をアレンジした絵を描いている。まさに、そのイメージを連想させる短編小説なのである。つまり、詩と神秘の世界だ。死という神秘の世界と言ってもいい。まさに、死とはこういう世界かもしれない、あるいは、死がこういう世界だとしたら、それは地獄よりも恐怖の世界かもしれない、というもので、しかし、話自体は淡々と、むしろ詩情の中で進んでいくのである。それはまさにキリコのあの絵を見ている時の気持ちなのだ。まあ、言葉を換えれば、萩原朔太郎や中原中也や立原道造や宮沢賢治の詩情を思わせる世界の中に「地下鉄のザジ」を投げ込んだ印象だろうか。ただ、ザジが実は地下鉄に一度も乗れないように、この少女も生の世界から切り離されているのである。

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「スキュデリお嬢様」

ホフマンの「マドモワゼル・ド・スキュデリ」を読んだが、傑作である。題名からは想像もつかない「探偵小説」であり「冒険小説」であり「裁判小説」である。幻想文学の作家として知られるホフマンには珍しいリアリズム小説であり、しかも人間心理の機微を深くえぐっている。
前から何度か言及しているバルザックの傑作「暗黒事件」を中編にしたようなものだ。(時代的にはこちらが先。)

題名が魅力がない、と何度か書いたと思うが、森鴎外はこの作品を翻訳していて、私は未読だが、その題名が「玉を抱いて罪あり」という、作品内容を見事に表したものだ。(鴎外の翻訳小説はほとんどが彼が惚れこんだものだけに、実に面白いのである。)
ちなみに、この「マドモワゼル」は73歳の貴族老嬢で、小説家・詩人でもある。その言語能力が彼女を活躍させる(被告人弁護の)基盤にもなるわけだ。「スキュデリお嬢様の大冒険」とでもしたらいいが、それだと中期の高野文子あたりが描いたようなコメディに思われそうである。
ほとんど解決不可能な犯罪事件をいかにして解決するか、という話であるが、そこはルイ14世時代のフランスの話であるから、それ相応の解決策もある。しかし、基本的に話のすべてが合理的で、大審院判事でもあったホフマンの経験が裁判話のリアルさ(無実の被告を救う困難さ)の土台になっているようだ。裁判が被告側にいかに不利かは「暗黒事件」でも書かれている。あらゆる証拠や証言は警察と検察が握っているのである。(クリスティの「検察側の証人」は、それを引っくり返したところに面白さがあるわけだ。)
推理小説ではよく「不可能犯罪」がネタになるが、これは最後に解明されるから実は「不可能犯罪」ではない。で、「マドモワゼル・スキュデリ」は「不可能弁護」の話である。この弁護が成功するかどうかは読んでのお楽しみだ。
ホフマンは幻想文学など書かずに、こうした「リアリズム小説」をたくさん書いていたほうが大文豪になったのではないか。音楽家としても大成はしなかったのだから、「間違った方向に努力する」名人だった気がするww






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小説と「読者の視点」

私はドストエフスキーの作品はかなり読んだ部類だと思うが、「二重人格」と「貧しい人々」は読んでいない。前者は途中まで読んで中断していたが、そこまで読むのにかなり難渋していた。後者は、「あまり楽しくない話だろうな」という予想があるからで、私にとって読書とは何よりもまず快楽であり娯楽だからである。「二重人格」を読むのに難渋したのも、それが「楽しくない」からだった。何しろ、主人公が人格低劣な下級官吏で、その心理を精細に描くのだから楽しいはずがない。
しかし、先ほど、寝床の中で同書を数ページ読んで考えたのだが、これは読む側が主人公に感情移入して読んではいけない種類の小説ではないか。つまり、主人公と同じ平面で世界(小説世界)を見るのではなく、主人公も含めて小説世界を「高みから見下ろして眺める」小説ではないか、ということだ。言葉を換えれば、この作品は喜劇、あるいは笑劇であり、読み手が心理的にその作中人物と同じ平面にいては、「笑えない」のである。
だが、読者の多くはふつう、小説の主人公に感情移入するものだ。そこに「二重人格」の読みにくさや不快感の原因があるということだ。感情移入してはいけない主人公に感情的に同化していてはそうなるのが当たり前だろう。

そこで思い出したのが深沢七郎の「絢爛の椅子」である。これは女子高生殺人事件の殺人犯の少年の心理を克明に描き出した小説だが、読者は読んでいる途中から、この少年の精神が、読んでいる自分とは別種の、しかし世間にはごくありふれた種類の精神でもあることに気づくのが大半だと思う。そこで、読者の心理の安全性は保たれるのだが、その一方で、世間にこうした殺人者の精神を持った人間がたくさんおり、自分の間近に無数に蠢いていることに不安感も持つのである。
これは石原慎太郎の初期の作品である「処刑の部屋」(訂正→「完全なる遊戯」)でも同じだ。小説家の中には、この種の「天才的想像力」を持つ人間がおり、つまり殺人者(アモラルな人間、低俗な人間、低知能の人間等等)の心理に「成り切れる」才能の持ち主だ。当然、世間の「普通の人間」は、この種の作品に嫌悪感を持つ。それが健全でもある。だが、文学の可能性は、この種の「冒険性」で切り開かれるものでもあるだろう。

ついでながら、「作中人物=作者」ではないのは当然だし、「主人公=作者のヒーロー」でもない。私はドストエフスキーの「未成年」を読むのに難渋していたが、当たり前の話で、主人公の青年は馬鹿な未成年者であるからだ。つまり、感情移入しにくい人物で、むしろ感情移入するべきではない存在なのである。そこで、主人公(語り手でもある)は馬鹿な未成年者だという視点で高みから見下ろすと、この小説世界がクリアに見えてきて、実に面白い小説になったのだが、これは「読書の難しさ」という一面を示してもいるようだ。そんな面倒くさい作業は嫌だ、という人もいるだろうが、それは「雲丹(蟹でも海老でもいいが)の姿は気持ち悪いから食うのも嫌だ」という、もったいない話である。私自身、こうした読み方が(いつもではないが)できるようになったのはごく最近なのである。

なお、この外に、川端康成の「夏の靴」などを念頭に置いた「小説とポエトリー(詩情)」という思考テーマも考えたが、それはいずれ考えたい。「夏の靴」は、心の部屋の壁に飾っておきたい(特選の)「小さなスケッチ画」である。




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描写の視点の問題

別ブログに書いた記事に、少し付け加えて小論にする。
先に、自己引用をして、その後で追記を書く。

(以下自己引用)
恩田陸は小説の名手で、文章の達人だが、その名手でも基本的な、単純な間違いはするという例である。「光の帝国」の一話から抜粋。

私は眼下を通ざかっていく、その男を青ざめた顔で見送った。


言うまでもないだろうが、これは一人称描写である。つまり、視点はあくまで「語り手(この小説では「私」)」にある。である以上、鏡やガラスに写った自分の顔でもないかぎり、自分の顔が「青ざめている」とは分からないはずだ。
そんなことは分かり切っている、私(作者)はそう書きたいからそう書くのだ、というのもひとつの創作姿勢ではあるだろうが、読者としてはかなり興ざめすることは否めない。まあ、やはりうっかりミスなのではないか。そして、編集者もその点を見落としたのだろうと思う。
(追記)

最近読んだ「夏と花火と私の死体」(乙一)の冒頭あたりに、次のような描写がある。最初に読んだ時に、私は上記の引用文と同じ感想を持ち、かなり興ざめしたが、最後まで読んで、この作品は唯一無二の傑作だ、と思った。だが、冒頭の「一人称描写」のミスが、ミスなのか、意図的にそう書いたのかは分からない。語り手の「私」は既に死んだ人間だから、普通の人間とは違う感覚を持っており、自分自身を「外部から」見ることができるのだ、としても、この段階ではまだ「生きている」のである。幽霊は時間も超越しているから問題なし、とするのだろうか。あるいは最初から「死者の思い出話」だから、ここには「ふたりの私」がいるのか?
などと事々しく書いたが、その記述自体は一見単純で、上記の自己引用で批判したのとまったく同じである。

わたしは羨ましそうに石垣を見ながらつぶやいた。

この「羨ましそうに」が問題なのである。これは、他者の目から見た表現であり、自分で自分の顔や表情が「羨ましそう」かどうかは分かるはずがない。つまり、ここでは描写の視点の混乱があるわけである。
まあ、こういう細部はどうでもいいくらいで読むほうがいいのだろうが、私は気になるのである。おそらく正解は、「死者の思い出話」だから、「ふたりの私」がいる、ということになるのだろう。つまり、恩田陸の「光の帝国」とは事情が違う、という結論になりそうだ。
なお、傑作だが二度と見たくない映画(アニメ)の代表作である「火垂るの墓」の冒頭部が、死者の語りである。主人公の少年の霊が、死んでいる自分の死体を見下ろしている場面での少年のモノローグから始まる。




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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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