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とある素人評論家の「村上春樹」評

かなり的を射た素人評論だと思う。(ここでは「素人」はけなす意味ではない。今どき、プロの文芸評論家がいるとも思えないので、一応、「素人」と書いただけだ。)
私はフィッツジェラルドの良い読者ではないし、彼の成功作は「偉大なるギャッツビー」だけではないか、と思う。そのフィッツジェラルドを土台として「村上春樹文体」を作り、いわばフィッツジェラルドを現代に蘇らせたのは素晴らしい功績だと思うが、両者とも、実は「書きたいこと」をさほど持っているわけではなかったと思う。だから、村上春樹の長編の中には、「何のためにこれを書いたのか」不思議になる作品が数点あり、私の中では、彼の「打率」は高くない。
彼の一番の傑作は「踊る小人」だと思う。この作品を世界傑作選集のひとつに選んだ外国の編集者は慧眼である。この作品は彼以外の誰にも書けない作品だと思う。ホラーとファンタジーとシニカルなユーモアがこれほど見事に結実した小説はほかにないのではないか。なお、私はこの作品の英語訳を、自分で日本語に訳しながら読んだので、オリジナルは読んでいない。さほど評価が高いように聞いてもいない。英語で読んだから面白かったのだろうか。

(以下引用)

2024-10-14

村上春樹について思うこと数点

追記


ブクマカありがとうございます


冒頭書かせていただいている通り村上春樹を数冊読んだ程度の人間コメントなので、ハルキストの皆さんの春樹評とはもしかしたら乖離があるかもしれません。


現実だと作家作品感想を交換する場はなかなかないので、この投稿への感想含め皆さんで自由村上春樹について話すきっかけになれば幸いです。


―――――――――――――――――――――――――――――


Xで盛り上がっているので便乗。


増田村上春樹好き嫌いがはっきり分かれるタイプ作家だと思う。


全部読んだわけじゃないけど数冊読んだ者として魅力と好きになれない点を書く。


スマホから操作なのではてな記法は使わない


【魅力】


•特徴的な文体


よくネタになってる突拍子もない比喩と気取った語り口の主人公が織りなすおしゃれっぽい会話、そして英文和訳のような文体の作り出す雰囲気の良さが唯一無二


世界観


性にあけすけな人間特に女性)がよく登場する。村上春樹世界に登場する女性孤独を抱える自由人が多くて失踪するパターンが多いと感じる。


Xでも指摘されているように大学生位までに読まないと村上春樹世界に登場する人々の青さに共感したり憧れたりするのは難しいと増田は感じている。


•実は短編面白い


代表作が長編からまり語られないが増田村上春樹は対談や短編集の方が面白いような気がしている。


文章力が高くて大きな出来事がないストーリーでもあっさり読ませる力のある作家なのでコンパクトにまとまってる作品は読みやすさと満足度がかなり高い。


【好きになれない点】


大人になってから読むと気持ち悪い


やはりこれ。性に対する忌避感なんだろうか。自分が通り過ぎた若さを見せつけられている気恥ずかしさなんだろうか。大人ぶって気取った高尚な趣味の会話をする主人公ややたらねちっこい性描写が読んでいてストレスになることが多い。


•あの比喩がダサく感じられる


フィッツジェラルドに憧れていたという逸話を目にして増田フィッツジェラルド作品もいくつか目を通してみた。


結果村上春樹比喩力が圧倒的に安っぽい二番煎じに感じるようになった。


世界観を寄せてるだけで表現力が追いついていないのだ。


英語ならではの言い回し日本語に落とし込んで誰が読んでも村上春樹と言わしめる文体を産んだセンスは間違いなく天才所業


ただ英語を操る天才作家センスまでは真似しきれなかったんだなという印象を増田は受けている。


――――――――――――――――――――――――――――


一般的に言われるのは村上春樹が凄かったのは男らしさ女らしさがステレオタイプ化していた時代に性にあけすけな若い女性や繊細な若者男性主人公として作品に登場させたこと。


多様性が叫ばれる今の時代に読めば目新しさがないのは当然なので今から村上春樹を読む人は単純に文体世界観好き嫌いを決めるのがいいと思って魅力として書いてみた。


村上春樹ユーモアがあって博識でオシャレな人だし村上春樹と同じ系統趣味で固めている層にはど真ん中で刺さると思う。


最後まで読んでくださった皆さんの読書人生が豊かになりますように。


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女性にとっての恋愛・結婚という「ギャンブル」の悲劇

私の別ブログに載せた記事だが、こちらのブログの方が向いているだろうから、転載する。

(以下自己引用)

「The Great Gattby」は、男の初恋幻想(妄想)とその破滅を描いた、男には突き刺さる話だが、実は、その初恋の対象であるデイジーは非常に頭のいい女性で、夫のトムも、ギャッツビーも、実は彼女の真価を知らないという、「愛される側の不幸」を描いた、女性にも訴えるはずの話である。
たとえば、デイジー、トム、ギャッツビーその他が車で分乗して都会に遊びに行く話の中で、ギャッツビーと同乗しているデイジーが、夫のトムに向かって、こんな冗談を言う。(自己戯画化という、かなり高度な冗談だ。)

We'll meet you on some corner. I'll be the man smoking two cigarettes.

私の持っている翻訳では、このジョークは、こう訳されている。

「じゃあ、街角でお会いしましょう。シガレットを二本くわえて待ってます」

もちろん、シガレットを二本くわえて、というのは「目印に」の意味で、いかにも喜劇的である。だが、夫のトムは、その冗談にいらだつだけである。この、ユーモア感覚の無さは、実はギャッツビーも同じで、おそらく下層階級出身の彼と上流階級出身のデイジーは、まともな会話が成り立たないと思う。トムも上流階級だが、趣味低劣の筋肉脳男である。つまり、デイジーは、夫とも、彼女を愛する男とも、知的に釣り合わないのである。この物語で一番不幸なのは、彼女だろう。
話の最初のあたりで、子供(娘)を産んだ時の話をデイジーがニック(話の語り手)に、こう言う。明らかに、彼女は不幸なのである。

「あのね、ニック、あの子が生まれて、私が何を言ったかというとーーーそんな話、聞きたい?」
「そりゃあ、もう」
「もし言ったら、私がどんなにひねくれたか、わかると思う。ーーー産後、一時間もたっていなかった。トムはどこかに行ったきり。私は麻酔から醒めて、投げやりな気分で、そばにいた看護婦に男の子か女の子か聞いたの。そしたら女の子ですって言われたから、横を向いて泣いたわ。それから、まあいいわ、と言った。女の子でいいわ。せいぜいバカな子になってほしい。女の子はバカがいいのよ。きれいなおバカさんが最高だわーーー」(小川高義訳)

ここで、デイジーが泣いたのは、「男の子がほしかった」からだと錯覚する読者がいると思うが、本当は、生まれた女の子の不幸な人生を予測したからなのである。だから、「女の子はバカがいいのよ」と言っているのである。それは、頭のいい女の子である自分の不幸を暗黙に語っている。

言うまでもないが、先の英文は「シガレットを二本口にくわえている『男』が私よ」と訳するのがより正確だろう。二重の自己戯画化だ。先の翻訳の「待ってます」は意訳(補足的訳)だが、それ自体は悪くない。

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「闇の奥」のこと

「闇の奥」は、白人世界で高く評価されている作品(作者コンラッドはイギリスに帰化した外国人だったと思う。イギリスは、他国人のイギリス・欧米への批評に寛容であるというポーズを取るのが好きである。)で、私は青年の頃、興味を持って読んだが、「何が言いたいのかさっぱり分からない」退屈な小説で、翻訳者の中野好夫(名翻訳者である)も、この作品は理解できない、と言っていた記憶がある。
表面的には白人によるアフリカ植民地支配の「奇妙なエピソード」であり、主人公のクルツに関しては、何のために原住民を手下にして「闇の王」としてふるまっていたのか、その動機すら分からない。そして彼の臨終の言葉「恐怖、恐怖だ」という言葉も何を意味しているのか分からない。そこがかえって多くの人を「これは深遠な作品だ」と思わせる効果があったのではないか。つまり、「理解できない=深遠」という短絡的反応のような気がする。
要するに、一人称独白形式(私の記憶は不確かだが)でありながら、独白者の心理が描かれない、一種の「独白体のルポルタージュ」のような感じで、筆者が何を言いたいかは「読む人の想像に任せる」印象なのである。だから、たとえばアニメ「エバンゲリオン」が作品中に「謎」を(というか、マニアックな単語を説明抜きで)振り撒いて、オタク視聴者の好奇心や探求心を惹き、大ヒットしたのと同じ構造であると私は思う。
なお、ベルギー国王によるコンゴ統治の残虐さについては藤永茂博士のブログに詳しい。


(以下引用)



闇の奥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




"Heart of Darkness" in Youth:A Narrative, 1902

闇の奥』(やみのおく、Heart of Darkness1902年出版)は、イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドの代表作。西洋植民地主義の暗い側面を描写したこの小説は、英国船員時代にコンゴ川で得た経験を元に書かれ、1899年に発表された。ランダム・ハウス、モダン・ライブラリーが選んだ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に選出されている。闇の奥というタイトルはアフリカ奥地の闇でもあるが、人間の心の闇、西洋文明の闇をも含意していると考えられる。


この作品の舞台であるコンゴ川一帯にはベルギー国王レオポルド2世[1]の「私有地」であったコンゴ自由国(後にベルギー領コンゴ)が存在し、同地住民に対する苛烈な搾取政策をとったことで欧州各国から非難されていた。

あらすじ

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ある日の夕暮、船乗りのチャールズ・マーロウ英語版が、船上で仲間たちに若い頃の体験を語り始める。なお、マーロウは本作以外にも複数のコンラッド作品に狂言回しとして登場する。


マーロウは、各国を回った後、ロンドンに戻ってぶらぶらしていたが、いまだ訪れたことのないアフリカに行くことを思い立ち、親戚の伝手でベルギーの貿易会社に入社した。ちょうど船長の1人が現地人に殺され、欠員ができたためだった。マーロウは、船で出発し、30日以上かかってアフリカの出張所に着いた。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。またマーロウは、鎖につながれた奴隷を見た。ここで10日ほど待つ間に、奥地にいるクルツ(Kurtz)[2]という代理人の噂を聞く。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物で、将来は会社の幹部になるだろうということだった。マーロウは、到着した隊商とともに、200マイル先の中央出張所を目指して出発し、ジャングルや草原、岩山などを通って、15日目に目的地に着いた。


中央出張所の支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞いた。蒸気船が故障しており、修理まで空しく日を送る間に、再びクルツの噂を聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かってきたが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。


ようやく蒸気船が直り、マーロウは支配人、使用人4人(「巡礼」)、現地の船員とともに川(コンゴ川)を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手のもとへ長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手はやがて死んだ。


奥地の出張所に着いてみると、25歳のロシア人青年がいた。青年は、クルツの崇拝者だった。青年から、クルツが現地人から神のように思われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、"The horror! The horror!"[3]という言葉を残して息絶えた。

影響

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T.S.エリオットは詩『荒地』の初稿で、エピグラフに『闇の奥』の一節 "The horror! The horror!" を引用していたが、エズラ・パウンドの助言により、別の文に差し替えた。詩『虚ろな人々』では "Mistah Kurtz--he dead." の一節を引用している。


村上春樹の『羊をめぐる冒険』『1Q84』などに『闇の奥』の影響が指摘されている[4]

映像化

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オーソン・ウェルズはラジオ・ドラマとして放送。また、映画初監督作として準備していたが、資金調達できなかった(ウェルズは『市民ケーン』を作ってハリウッドでは異端とみなされることになる)。


1979年に映画監督フランシス・フォード・コッポラによって「翻案」され、『地獄の黙示録』として映画化された。ただし、舞台背景はベトナム戦争に変更されている。この中にエリオットの『虚ろな人々』の引用がある。


1994年のテレビドラマ『真・地獄の黙示録』は原作に沿った映像化である。監督はニコラス・ローグで、マーロウをティム・ロス、クルツをジョン・マルコヴィッチが演じ、原住民女性役でイマンが出演した。


キングコング』の原案にも大きく影響を与えたと言われており、2005年リメイク版では登場人物の一人が本作を愛読している。また、2017年の『キングコング:髑髏島の巨神』にはコンラッドとマーロウに由来した登場人物が出てくる他、前述した『地獄の黙示録』の影響を大きく受けている。

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初恋幻想という「巨大な廃墟」

老年の良い点は、若いころに読んでほれ込んだ小説を、「ゆっくりと深く味わって」読める時間があることだ。気になる箇所があればいくつかの翻訳を比較して考えることもできるし、原書の原文(英文)を辞書を引いて確認することもできる。若いころの知的探索が「世界を広げる」ことだったとしたら、老年のそれは「世界を深く」することだと言えるだろうか。
もちろん、知的巨人たちは若いころから「広く深い」知的探求をしてきたのである。だが、「生きるための仕事」に一日の8時間以上を犠牲にしている人間の読書は、限定された時間でのせっかちな食事になるしかない。
ということで、他の欲求がほとんど消えた老齢者には読書は「現実とは別の様相を見せる巨大な世界」の旅で、大きな娯楽になるものだが、私の場合は老齢で遠視がひどくなったため、ベッド(寝床)での読書が不可能に近い状態で、困ったものである。仕方なく、昼間にソファなどでやる読書が中心になり、そうなると、「単なる使い捨て娯楽」のような内容の小説ではなく、自分自身が思考する楽しみを与える作品が好ましい。
最近断続的に読んでいる「偉大なるギャッツビー」などがそれだ。若いころは、「気になる作品」だったが、映画を見た限りでは「面白さ」はあまり無い作品に思えた。しかし、それは「映画(映像芸術)では登場人物の心情を描くのはほとんど不可能である」という、単純な事実のためであった。「ギャッツビー」は、話の筋ではなく、描写の細部にこそ味(というより触発性)がある作品なのである。

で、昨日読んでいる時、気になった箇所を自分で調べた内容をここに少し書いておく。
(先に、その箇所を引用する。赤字はもちろん、夢人による強調。ギャッツビーが憧れのデイジーに再会した時の話だ。彼はその再会を期待してデイジーがその夫と住む家の対岸に豪邸を建て、週末ごとに無数の客を迎えてパーティを開いていたが、5年目に、やっとデイジーをその家に迎えることができたのである。)



この午後の時間にも、現実のデイジーが夢に追いつかない瞬間はあっただろう。もちろんデイジーが不足なのではない。ギャッツビーの幻想があまりに大きく息づいたということだ。デイジーをもーーーあらゆるものをもーーー越えてしまった。



赤字にした部分が何となく「気持ち悪い」印象だったので、英語原文を確認すると、次の文章だった。赤字部分の少し前を含めて転載する。

not through her own fault but because of the colossal vitality of his illusion

翻訳者は、vitalityという言葉の翻訳に迷って「息づく」という、おかしな訳をしたのだろう。しかし、これはその中心的意義どおり「活力、エネルギー」の主旨だろう。で、実は問題は、翻訳者が「colossalという言葉を作者が選んだ意味」に気づいていないことだ。英文に慣れない私が直観で言うのだが、この言葉は英語圏の人間もあまり頻繁には使わない単語だと思う。意味は「巨大な」であり、それに該当する平易な単語はほかにもあるだろう。なぜ作者はここでcolossalという言葉を選んだのか。
それは、この言葉が「コロッセウム(colosseum)」(古代ローマの円形大競技場)を想起させる効果を持っているからだ、というのが私の推理である。言うまでもないが、コロッセウムは「巨大な廃墟」である。まさに、ギャッツビーが構築した幻想が、現実には巨大な廃墟に等しい、「偉大」だが、無益な、儚いものであることを意味するわけである。
そういう意味では、このひとつの言葉は、作品全体を象徴する、重大な単語ではないだろうか。





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「社会主義者」ジルーシャ・アボット



 それでね、おじ様、私も社会主義者になるつもりですの。よろしいでしょう?
無政府主義者なんかとは全然ちがいます。爆弾を投げて人を吹きとばしたりするようなやり方には賛成しないのです。たぶん私は生まれながらにして社会主義者の一員なんでしょうと思います。私は無産階級ですもの。でもまだ何主義者になるか、はっきりきめていません。日曜日によく研究した上で、次の手紙に私の主義を発表することにいたします。








親愛なる同志よ、
ばんざい! 私は右派社会主義者です! つまり気ながに機が熟するのを待つ社会主義者なのです。この一派は明日の朝社会主義革命を起こそうなどとは望んでいません。そんな急激なことをすれば社会に混乱を来します。世の中の人がみんな驚かないだけの心構えができるまで、遠い将来をめざして革命をじわじわと進めていくのです。
 目下のところは産業、教育、孤児院の改革に着手することによってその準備をしなければならないのです。
    
               同志愛をこめて
                      ジュディより


          (J・ウェブスター「あしながおじさん」松本恵子訳)



 *右派社会主義者とは、「保守的社会主義者」つまり、ファビアン協会的な漸進的社会主義者。原書では「Hooray! I'm  a Fabian.」とある。私はなぜか「フェビアン協会」と覚えていた。

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「金色の帽子」と「金の帽子」

実に素晴らしい文学評論で、日本にこのレベルの文芸評論家がいるとは思えない。
この小評論の前半だけ掲載する。
私は、自分の持っている翻訳で、原書の「gold hat」が「金色の帽子」と訳されていることに疑問を持ってネットで調べているうちに、この評論に出会ったが、私の思ったとおり、「gold hat」は「金の帽子」であり、それをかぶって高く跳ね上がることは滑稽な、笑われるべき行為なのである。そして、それをやった(そして墜落死した)ギャッツビーをフィッツジェラルドは「偉大な」としているわけだ。
ある意味、ゲーテのファウストの最後の文章。「永遠に女性なるもの、我らを牽きて行かしむ」であり、言うまでもなく、その「女性なるもの」は「女性への幻想」なのである。女性にとっては、自分を幻想と同一視されることはむしろ迷惑なのではないか。

(以下引用)

グレート・ギャツビーの最初の一行とエピグラフを理解する



フィーチャー_onceuponatime.jpg


雑誌が定期的に文学作品の最高の冒頭文のリストをまとめるのには理由があります。本の冒頭は読者に大きな印象を与えるからです。本の始まり方は、その本が作り出す世界を理解するのに役立ちます。


まず、語り手と、これから私たちが出会うであろう語りのタイプについての最初のイメージが与えられます。息を切らした一人称の告白でしょうか?それとも、冷静で客観的な三人称の観察でしょうか?


第二に、舞台設定を紹介し、物語がいつどこで起こるのかを知らせます。これは読者の期待を調節するのに非常に重要です。ビクトリア朝時代のイギリスで2人のキスについて私たちが考えることは、現代のカナダで同じカップルについて私たちが考えることとはまったく異なります。


では、 『グレート・ギャツビー』の冒頭では何が語られているのでしょうか? この作品の序文、冒頭の文章、冒頭の段落の意味について読み進めてください。



 

記事のロードマップ

  1. 『グレート・ギャツビー』のエピグラフを分析する
  2. 『グレート・ギャツビー』の最初の一行の意味を探る
  3. 『グレート・ギャツビー』の最初の段落からニックを語り手として理解する

 

引用に関する簡単なメモ


このガイドの引用形式は (章.段落) です。Gatsby には多くの版があるため、このシステムを使用しています。そのため、ページ番号の使用は、このガイドで紹介している本を持っている学生にのみ有効です。章と段落で引用されている引用を本で探すには、目視 (段落 1-50: 章の始め、50-100: 章の途中、100 以降: 章の終わり) するか、テキストのオンライン版または eReader 版を使用している場合は検索機能を使用します。


 

『グレート・ギャツビー』のエピグラフ詩


この小説の序文には次の4行の詩が書かれている。


それで彼女の心を動かすなら、金の帽子をかぶって。
高く跳べるなら、彼女のためにも跳んで。
彼女が「恋人よ、金の帽子をかぶって高く跳べる恋人よ、
私はあなたを手に入れなくちゃ!」と叫ぶまで。


—トーマス・パーク・ダンビリエ


まず、この詩を分析し、それからこのダンヴィリエという人物が誰なのかについて話しましょう。


 

「金の帽子をかぶって」

最も基本的な意味では、この詩はアドバイスです。最初の単語「それから着なさい」が、会話の途中を聞いているように聞こえるので、私たちはそのことがわかります。ある人が特定の「彼女」との恋愛問題について不満を漏らしており、詩の語り手は、どうすればよいかについてのヒントでそれに答えています。


この詩のアドバイスは、あなたの富や地位(「金の帽子」)とあなたの勇敢な行為(「高く跳ねる」)で彼女に感銘を与えるために全力を尽くすことです。彼女の気を引くためにできることは何でも、最終的に彼女を虜にできればそれだけの価値があります。なぜなら、そのとき彼女は飽きることなく欲しがるからです(「私はあなたを手に入れなければなりません」)。もちろん、この「金の帽子をかぶり、高く跳ねる恋人」のイメージは、よく言っても道化的で、悪く言えばまったく馬鹿げています


この詩は小説の筋書きと登場人物を反映している。

  • ギャツビーがデイジーを口説き落とす方法は、まさに金の帽子をかぶって元気いっぱいの恋人のやり方で、彼女が来てくれるかもしれないという漠然とした希望を抱いて隣に巨大な邸宅を購入したり、毎週パーティーを開いたりと、何でも試そうと必死になっている。
  • 自分のイメージを磨く方法として帽子をかぶるという考えは、まさにギャツビーが「オックスフォードの男」というペルソナを採用する際に行ったことであり、彼が俳優やペテン師として描写されることもあることと関係しています。(ニックはギャツビーを「あらゆる毛穴からおがくずが漏れているターバンを巻いた「人物」」(4.31) と呼び、一方、第 3 章では、フクロウのメガネをかけたパーティーのゲストがギャツビーを有名な劇場プロデューサーのデイビッド・ベラスコと比較しています。)
  • この詩は、デイジーの代わりを務める「彼女」というキャラクターを通じて小説ともつながっています。この詩の「彼女」は、感銘を与えて心を掴むべき人物であり、何かを学ぶべき人物ではないことに注意することが重要です。小説のデイジーと同じように、この詩の「彼女」は人物ではなく、賞品や目標です。

 

トーマス・パーク・ダンヴィリエ

なんと、ダンビリエのような詩人は存在しないのです。フィッツジェラルドがダンビリエを創作し、この詩も創作したのです。


実際、ダンビリエは、プリンストンを題材にしたフィッツジェラルドの初期の小説『楽園のこちら側』では脇役として登場する。その本では、主人公は才能ある詩人であるダンビリエと親しくなるが、彼の詩は現実の問題や不快な側面を無視する傾向がある。


ここで、この詩人の偽名と創作されたペルソナもギャツビーの旅と結びつき、アイデンティティの可変性という小説の主要テーマに関係しています。ジェームズ・ギャツは魅力的なジェイ・ギャツビーに変身し、この詩人はフィッツジェラルドの偽のアイデンティティです。


 


本文の詩.jpgそれで、ダンビリエはフィッツジェラルドの友人である詩人のジョン・ピール・ビショップをモデルにしているわけですね。実在の人物がフィッツジェラルドの碑文となるような何かを書いたのではないですか?


 


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good morning と old sport

「偉大なるギャッツビー」を(もちろん翻訳で)読んでいて、途中でギャッツビーの発言を翻訳者が「おはようございます」と訳していて、少し不思議に思って、英語には基本的に敬語は無いだろうし、特に「おはよう」と「おはようございます」の違いは無いのではないかと思って原書を調べると、やはり普通の「Good morning」であり、その後に「Sir」などを付けているわけでもない。
これは、訳者が、ギャッツビーの口調の馬鹿丁寧さを日本語に出すための工夫だろうとは思うが、まあ、その程度の工夫は普通である。
英語というのはある面不思議であり、「good morning」とは、誰にとって、どういう意味で「良い朝」なのか、私などは気になる。雨が降っていても台風でも良い朝なのか、挨拶された当人の状況が最悪(たとえば親族に死なれたばかり)でも「良い朝です」と挨拶するのか。かと言って「bad morning」と言うわけにもいかないだろう。まあ、おそらくこれは短縮された祈願文で「あなたにとって今朝が、そして今日が良い朝であり良い日でありますように」の意味なのだろう。

で、二番目の問題。この「good morning」に続けて、ギャッツビーは相手に「old sport」と呼びかけるのだが、これがまた大問題なのである。私が読んでいる本の訳者はこれを、この場面では訳していないし、かなり前の、語り手とギャッツビーが初対面する箇所でも訳していない。これは親しみを籠めた呼びかけらしいが、ギャッツビー独特の言葉として有名なようだ。確か、「ライ麦畑でつかまえて」でも、語り手(主人公)が「偉大なるギャッツビー」は割と好きだ、と言った後、ギャッツビーのこの口癖に言及していた。訳は「旧友」だったか「親友」だったか忘れた。

今、この言葉について調べて最初に見つけたコラムがわりと詳しいので、転載する。ただし、その意見(「貴公」という訳。あるいは「お前さん」という訳)に私は同感していないし、コラム名も忘れた。まあ、とりあえず私なら「あなた」と普通の敬語で訳す。これは下の引用文に出て来るトム・ブキャナンのような大金持ちで傲慢な男には「敬意が足りない」と激怒させる程度の敬語だろう。長屋の熊さん八さんやそのおかみさんのような「お前さん」では、ギャッツビーの過度の丁重さがかえって周囲の侮蔑を買っていることと合わない。人間は、こちらが下手に出ると増長する生き物なのである。「貴公」など、時代劇かよwww


(以下引用)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)④

  • 2011-09-16 (Fri) 10:13
  •  
  • 総合

 ”The Great Gatsby” の中でギャッツビーは “old sport” という呼びかけを多用している。何と訳せばいいのだろう。この作品は若者に人気のある作品だけに今なお新訳が刊行されているようだ。確か村上春樹氏の新訳本ではあえて日本語に訳することはせず、「オールド・スポート」と記していたような記憶がある。これも一つの訳し方だとは思うが、それでも、「日本語」としては意味をなさない呼びかけであることに変わりはない。
 私が使っている電子辞書の英英辞典にはこの表現は「主に男同士で親しい間柄で使う呼びかけ」と紹介されている。「マイフレンド」といった表現では不十分なようだ。私は何となく「お前さん」という表現が頭に浮かんだ。夫婦関係で使われる「お前さん」ではない。ある程度の親しい関係にあり、使う方が多少なりとも年長、優位な立場にある時に使われる「お前さん」だ。例えば、ギャッツビーがニックに向かって次のように言う時は、「お前さん」がぴったりとも思えないでもない。“If you want anything just ask for it, old sport.” (欲しいものは何なりと声をかけてくれ、お前さん)null
 「お前さん」という呼びかけはそう呼ばれることに相手が不快感を抱くような場合は使えない。”old sport” が「お前さん」と「似ているかな」と思ったのは、恋敵の金持ちの男、トム・ブキャナンがギャッツビーからこう呼ばれて激怒するシーンに出くわした時だ。
 “Don’t you call me ‘old sport’!” cried Tom. Gatsby said nothing.(「俺のことを『お前さん』などと呼んでくれるな!」とトムは叫んだ。ギャッツビーは何も答えなかった) 
 この応酬の前にも、トムとギャッツビーの間で次のようなやり取りがある。
 “That’s a great expression of yours, isn’t it?” said Tom sharply.
 “What is?”
 “All this ‘old sport’ business. Where’d you pick that up?”
 
 「それはあんたのすげー表現だな。思うに」とトムはとげとげしい口調で言った。
 「え、何がだい?」
 「さっきからあんたが口にしている『お前さん』って物言いだよ。いったいどこで覚えてきたんだい?」
 
 この旅を始めてからも多くの場所でアメリカの人たちに、この表現について尋ねてみた。誰もが認めるのは、意味は分かるが、もう誰も今はこんな表現などしないということだった。さらに、もし誰かがこういう呼びかけ仲間内でしているのを耳にしたなら、「あいつ、なんだか気取った物言いをしているな。偉そうに」と思うかもしれないということだった。
 ギャッツビーがあえてこの呼びかけに固執したのは、当時のイングランドの上流階級のような物言いをすることで、自分の貧しい出自を「薄め」、周囲に「成金」と思われたくないという思惑があったからではないか。
 私の現時点での結論は “old sport” は「貴公」と訳すべしだ。
 




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