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芸術の鑑賞という「創造的行為」

山田風太郎の「風眼抄」は面白い随筆集だが、その中に、風太郎(敬称略)の誤解による文章と思われるものがあり、それが風説(風太郎だけにww)を招く可能性があると思うので、ここにその考察を書いておく。
問題は、風太郎の「芭蕉の句にも駄句はある」という説で、それ自体は問題はないとは思う。問題は、その「駄句」の事例である。
氏は、その事例に

門しめてだまつて寝たる面白さ (「つ」は古文表記) 


以下4句を挙げているが、これが連句の中のひとつだと知りながら、これらを駄句だとしていること自体が誤りだ、ということだ。
下の引用記事でも説明されているように、俳諧連歌(連句)とは座の文芸であり

「俳諧」とは本来、滑稽と同意の戯れをさす漢語であった。

なのである。つまり、句単独ではなく、前の句との関係やその句の置かれた位置などにより「力を入れて詠む」句と、逆に「あっさり流すべき」句とがあるのである。その全体が作品なのであり、「あっさり流すべき」句のところで、「力を入れて詠んだ」句を出すのも不適切だということだ。
とすれば、「門しめて」の句が駄句かどうかは、前後の関係で考えるべきだろうが、単独の句として見て、この句ははたして駄句だろうか。私は、「面白い」句だと思う。へそ曲がりの誰かが、世間の浮かれた様子(おそらく外は祭りか月見だろう)を無視して、門を閉めて黙って寝た様子を「面白い」として取り上げたこと自体が面白い。
風太郎が挙げた他の3つの句も、「本当に駄句か?」という意識を持って見れば、それぞれに面白い。むしろ、氏の批判が無かったら、私はこれらの句を注意して考えることはしなかっただろう。
そういう意味では、風太郎氏の功績かもしれない。
念のために、その3つの句を書いておく。

たふとさに皆押し合ひぬ御遷宮

扇にて酒くむかげや散る桜

宵のうちぱらぱらとせし月の雲

「扇にて」の句が分かりにくいかと思うので、私の解釈を書いておく。
これは上から桜の花びらが絶えず降ってくるので、酒を酌み交わす際に扇をかざして花びらが盃に入らないようにする、ということではないだろうか。そう考えれば、それもまた風流である、と思う。
「たふとさに」の句のキモは、群衆が押し合いするその傍若無人さとそれが「ご遷宮」を見たいという崇敬の気持ちからの行為であることの対比のアイロニー(逆説性)と滑稽味か。
「宵のうち」が含意するのは「今夜は月見ができないかもしれないな」という不安感が、月見をしている今という時間のその前にあったということだろう。それが、めでたく月見ができて、安心しながら、宵のうちの小雨を思い出させる雲が空にはある、という二重の時間感覚の面白さである。

(以下引用)



俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句連句といった形式の総称である。

概要

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松尾芭蕉の登場により冒頭の発句の独立性が高まり、発句のみを鑑賞する事も多く行われるようになり、明治時代に成立した俳句の源流となる。時に作者個人の創作たる発句を完全に独立させた近代文芸の俳句と同一視される。専門的に俳諧に携わるひとを「俳諧師」と呼ぶ。江戸期では専業のいわゆる「業俳」が俳諧師と呼ばれていた。本業があって趣味として俳諧を楽しむ人は「遊俳」と呼ばれ、遊俳は俳諧師とは呼ばれない。

歴史

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「俳諧」とは本来、滑稽と同意の戯れをさす漢語であった。佐藤勝明によれば、和歌は「(5+7)N+7(Nは任意の自然数)」と表せ、N=1が片歌、N=2が短歌、N≧3が長歌となる[1]。やがて、5・7を組み合わせる短歌が主流になると、575/77の上句と下句の対応に関心が寄せられ、上句と下句を2人で分担して詠む連歌が流行する。初期の連歌は、対話的で機知的な笑いを伴うもので、「俳諧之連歌」と呼称された[1]。連歌が流行するにつれて、2句だけの短連歌だったのが、次第に長句(5・7・5)と短句(7・7)をつなげて一定数を続ける長連歌へと変化する[1]。その後、幽玄・さび・ひえを重視する和歌的連歌(有心連歌)と連歌本来の機知的滑稽を残す俳諧連歌(無心連歌)に二分される[2]


山崎宗鑑が俳諧連歌集の祖となる『犬筑波集(俳諧之連歌抄)』を編纂し、また、宗鑑と並び俳諧の祖と評される荒木田守武が『俳諧独吟百韻』等の俳諧集を編んだ頃から、俳諧連歌への関心が高まった。


江戸時代になると、識字率の向上や学習意欲の高まりに伴って、庶民が文化の担い手となり、俳諧連歌は人気を博す[1]松永貞徳貞門派西山宗因談林派、俳諧の新たな表現を模索する天和調といった流行が生じた後、松尾芭蕉蕉風と呼ばれる作風が生まれた[1]。和歌や連歌が日常的な世界(俗)ではなく、貴族的・古典的な世界(雅)の文芸として大成したのに対して、芭蕉は俗な世界を扱いながら和歌や連歌に匹敵する作品を示そうと試みたのである[1]


芭蕉没後、俳壇は宝井其角水間沾徳らの都市型俳諧と、各務支考志太野坡らの地方農村型俳諧に分化する一方、雑俳の流行が顕著に見られる[2]。洒落風・化鳥風・蕉風再興といった動きの中で、与謝蕪村小林一茶といった俳諧師が活躍した[2]。だが、俳諧を嗜む人口が増えるにつれて、俳諧は徐々に趣味化していき、表現や内容が平淡になっていく[2]


明治時代になると、正岡子規によって、俳諧は月並俳諧として批判の対象となり「発句は文学なり。連俳は文学に非ず」と断じられた[2]。これ以降、俳諧の発句が俳句と称され、伝統的な俳諧は連句と呼ばれるようになった[2]

形式

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俳諧を文芸ジャンルとして用いる場合、発句や連句はもちろん、前句付などの雑俳や俳文、漢詩の形式を模した和詩や仮名詩が含まれる。俳諧は座の文芸とされ、宗匠・執筆(しゅひつ)・連衆で構成される一座の共同体、連衆の作句活動、宗匠の捌きによって、作品の成否と出来栄えが決定する[2]

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酔生夢人
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自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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