いじめの本質についての、中井久夫の完璧な考察である。赤字にした部分は私が特に感心した部分だが、かえって先入観を与えるかもしれない。忙しい人、長文を読みたくない人は赤字部分だけ読んでも益があるだろう。
ひと言でまとめよう。政治は我々の日常として存在する。
(以下引用)誤字(転記ミスだろう)はそのままにする。
ここまでは序段であって、ここでの目的はーーある意図があってーー中井久夫の名エッセイ「いじめの政治学」をやや長く掲げることである(ある意図とはエアリプとしてもよい)。 |
長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。私はある時、アメリカのその方の専門家に聞いてみたら、いじめbullyingはむろんありすぎるほどあるので、こちらでは学校の中の本物のギャングが問題だという返事であった。学校に銃を持ってくるなということを注意し、実際に校門で検査しているのが一部高校の実情である。こうなっては大変であるが、銃はともかく、日本でもいじめ側の一部がギャング化しているのは高額の金員を搾取していることから察せられる。 外国では、英国のエリート学校であるいくつかのパブリック・スクールのいじめがよく知られている。英国の数学者・哲学者バートランド・ラッセルの自伝にもケンブリッジ大学への準備に通っていた学校で、これは高級軍人コースのための予備校であったからなおさらであったが、毎日いじめられては夕陽に向かって歩いていって自殺を考え「もう少し数学を知ってから死のう」と思い返す段がある。〔・・・〕 いじめは、その時その場での効果だけでなく、生涯にわたってその人の行動に影響を与えるものである。殺人は犯罪であって、軍人が戦場に臨んだ時にだけ犯罪でなくなることはよく知られている。いじめのかなりの部分は、学校という場でなければ立派に犯罪を構成する。そして、かつて兵営における下級兵いじめが治外法権のもとにおかれたような意味で学校が法の外にあるように思われるのは多くの人が共有している錯覚である。〔・・・〕 |
いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。 鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。 子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。子どもは家族や社会の中で権力を持てないだけ、いっそう権力に飢えている。子どもが家族の中で権利を制限され、権力を振るわれていることが大きければ大きいほど、子どもの飢えは増大する。 |
いじめる側の子どもにかんする研究は少ない。彼らが研究に登場するのは、家族の中で暴力を振るわれている場合である。あるいは発言したくても発言権がなくて、無力感にさいなまれている場合である。たとえば、どれだけ多くの子どもが家庭にあって、父母あるいは嫁姑の確執に対して一言いいたくて、しかしいえなくて身悶えする思いでいることか。 そういう子どもが皆いじめ側になるわけではない。いじめられる側にまわることが多く、その結果、神経症になるほうが多いだろう。最近、入院患者の病歴をとっていると、うんざりするほどいじめられ体験が多い。また、何らかの形でいじめを克服して、それが職業選択を左右しているかもしれない。もう二十年前になるが、私が精神科医仲間にそれとなく聞いてまわったところでは(私も含めてーー私は堂々たるいじめられっ子である)圧倒的にいじめられっ子出身が多かったが、一人の精神科医はいじめ側であったといい、何人も登校拒否児を作ったから罪のつぐないに子どもを診ているのだと語った。 |
しかし、いじめ方を教える塾があるわけではない。いじめ側の手口を観察していると、家庭でのいじめ、たとえば配偶者同士、嫁姑、親と年長のきょうだいのいじめ、いじめあいから学んだものが実に多い。方法だけでなく、脅かす表情や殺し文句もである。そして言うを憚ることだが、一部教師の態度からも学んでいる。一部の家庭と学校とは懇切丁寧にいじめを教える学校である。〔・・・〕 |
権力欲とはどういうものであろうか。人間にはさまざまな欲望がある。仏教をはじめ、多くの宗教は欲望をどうするかという問題と取り組んできた。しかし欲望の中には睡眠欲もあって、これは一人で満足でき、他に迷惑をかけない。食欲も基本的には同じであるが、他人の食を意識的に奪う場合もあり、知らず知らずの間に奪う場合もあり、他の生命を犠牲にすることは避けられなくて、睡眠欲ほど無邪気ではない。 情欲となると、これは基本的には二人の間の問題であり、必ずしも自分の思いどおりにならず、睡眠や食事よりも自分の中に葛藤を起こすことも少なくない。しかし、権力欲ばこれらとは比較にならないほど多くの人間、実際上無際限に多数の人を巻き込んで上限がない。その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる。このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。権力欲には他の欲望と異なって真の快はない。そして『淮南子』にいう「それ物みな足らざるところあればすなわち鳴る」である。〔・・・〕 |
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。多くの宗教がこれまで権力欲を最大の煩悩としてこなかったとすれば、これは不思議である。むろん権力欲自体を消滅させることはできない。その制御が問題であるが、個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。〔・・・〕 いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。子ども社会は実に政治化された社会である。すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。 |
(中井久夫「いじめの政治学」初出1997年『アリアドネからの糸』所収) |