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キューブリックの映画が理解できない人たちへ

私の別ブログに書いた文章だが、わりと良く書けたと思うので、こちらにも載せておく。記事中の引用コメントは単なる参考コメント(大半が馬鹿コメント)なのでここには載せない。

(以下自己引用)
大半が馬鹿コメントだが、取捨せずに載せておく。中に、「バリー・リンドン」が面白いと書いているコメントがあって少し驚いた。あれを面白いと思えるのは(それが本当なら)凄い知性と感覚である。あれは「凄い」映画だが、あれを「面白い」とは、観ている間中私には思えなかった。つまり、主人公がどうしようもない立身出世主義の俗物で、その行動も悪辣なので、まったく感情移入ができないからで、しかも主人公の俗物性がなかなか観ている者には分からないので、主人公が明白な暴力型悪党である「時計仕掛けのオレンジ」以上に共感が難しいのである。
キューブリックの特徴のひとつが、そういうところ(キャラへの共感が困難なところ)なので、下のコメントの中の大半がそこで反発しているわけだ。

私は、キューブリックの映画というのは、「宇宙人が地球人を科学的に観察しているような」映画だな、という印象をかなり初期から持っている。観る側もそういう意識で見ると、理解できると思う。「シャイニング」のホテルの名前が「オーバールック」だが、彼の映画そのものが、上方から下界を見る「オーバールック」的なのである。言葉を換えれば「神の視点」だ。物事の客観視というのは、彼がカメラマン上がりであることと関係しているかもしれない。ただ、普通のカメラマンには彼のような映像・音楽・ドラマという万能性は無い。おそらく、彼は膨大な読書の蓄積があったと思う。サッカレーなどという、「誰もが忘れた昔の二流作家」の本(「バリー・リンドン」)まで読み、興味を持つのだから。

だが、キューブリックの特徴の最大のものは、映像と音楽の使い方にある。もっとも、それも中期(バリー・リンドン)以降はやや衰えた印象だが、「博士の異常な愛情」のラストが、地球全土が各国の核攻撃で破壊され崩壊する映像に合わせて、古い懐かしいポップスの「また逢いましょう」(ヴェラ・リン)が流れるなどは、凄いとも何とも言いようがない。「時計仕掛けのオレンジ」も、不良チームの間の闘争場面に重ねて、優雅な「泥棒かささぎ」がゆったり流れるというところ、河畔の暴力場面の映像と音楽など、素晴らしい感性である。まあ、天才としか言いようがない。

要するに、キューブリックの映画は「人物に感情移入せずに、冷静に観て、映像と音楽とドラマそのものを味わえ」ということだ。ドラマ性という点では「時計仕掛けのオレンジ」は一番分かりやすいだろう。(彼は人間に関心はあるが、人間を「昆虫観察」的に見るので、キャラを「人間的」に描くのが苦手というか、あまり好みではないようである。その傾向が一番分かりやすいのは「時計仕掛けのオレンジ」の「ウィリアム・テル序曲」に載せた早送りのセックスシーン。だから、「スパルタカス」での主人公の描き方に満足できなかったカーク・ダグラスは彼と喧嘩し、彼をクズだと言っている。)

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「三四郎は」と「三四郎が」の違い

私は、些細な謎を推理するのが好きなのだが、今、市民図書館から借りて読みかけ(三読目か四読目である)の、夏目漱石の「三四郎」の一節に、こういう部分がある。話ももう終盤というあたりだ。

広田先生が病気だと云うから、三四郎見舞いに来た

これを読んで、不思議に思わないだろうか。三四郎はこの小説の主人公で、話は彼の経験したことが中心となって進んでいる。ところが、

広田先生が病気だと云うから、三四郎見舞いに行った

ではなく、「三四郎が見舞いに来た」である。これでは、三四郎は主人公でも何でもなく、有象無象のひとりのようではないか。
そこで気が付くのは、それこそが漱石の意図なのではないか、ということだ。つまり、漱石は三四郎という人物を描きたかったのではなく、彼を中心に起こる、さまざまな人間模様を描きたかったのであり、三四郎は、いわば話の結節点ではあっても、「主人公」でも何でもない、ということである。主人公は、むしろ、「無意識の偽善者」であり、三四郎を翻弄する、美禰子ではないか。
もちろん、彼女を無意識の偽善者と断定するのは彼女に気の毒で、彼女は、単に「誰かに愛されたい」という願いから、無意識的に男を操縦する手管を使うだけだろう。その相手が、誰になるのか、彼女自身にも分からないから、「候補」となりそうな相手には謎めいた接近をしたり、遠ざけたりするわけだ。
彼女が三四郎に「迷子のことを英語で何と言うか知っているか」と聞き、「ストレイシープ(迷い羊)」だと教えるのは、彼女自身がまさに精神的迷子であることを示している。

私が、この作品を映画化するなら題名を「迷い羊たち」とする。この話の登場人物の中の若者たちは、みな、迷いの中にあり、それこそが青春の本質だろう。



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fancy でもfunでもfantasiticでもない fantasyとは何か

記事タイトルを書いた後で、ところで、fancyとはどういう意味かと気になって調べたら、大きく分けてふたつの意味があり、「装飾的な」「空想、幻想、奇想」などの意味のようだ。
で、fantasticは、英語の意味はともかく、日本人としては「空想的、幻想的で素晴らしい」ニュアンスの言葉だろう。当然、fantasyに我々が期待するのもそれで、それは基本的にはfun(面白み、楽しみ)であると思う。
なぜこういうことを書いているのかというと、先ほどまで、寝覚めに読んでいた小野不由美の短編集の冒頭の作品が、面白さ、楽しさとは対極にあるものだったからだ。もちろん、彼女の代表作である「十二国記」自体が「ダークファンタジー」の部類に入るものだろうと私は思っているし、彼女がホラー小説作家としても高く評価されていることは知っている。
では、ダークファンタジーはファンタジーの同類なのか、と言えば、それは「空想的内容」つまり、現実の世界にはありえない話だ、という点で同類というだけで、ファンタジーの特長を「現実から遊離することの『楽しさ』」にある、とすれば、それはファンタジーとは別種のジャンルになるのではないか。そういう点では先ほど読んだ小野不由美の作品は(「十二国記」もたぶんそうだろうが)「指輪物語」の同類で、つまり「空想力によって緻密に構築された、現実とは別の物語世界」であるわけだ。で、その種の作品によくみられる欠点は、「楽しくない」つまりfunなところが無いことだろう。たいていの場合、その種の作品にはユーモアの要素が欠けている。ほとんどゼロなのではないか。笑いは緻密に作られた「真面目な」構築物を破壊する可能性があるわけだ。
だが、私はユーモアの要素の無いフィクションは体質的に「読めない」のである。「十二国記」は最初の数行で投げ出した記憶がある。文章自体が、明らかにユーモアの欠如を示していたからだ。いや、難解な哲学の文章でも読むことはあるが、私が小説に求めるのは慰安と娯楽と「自分の内的世界が広がること」なのだ。単なる作り物(細工物)で世界は広がらない。
ついでに言えば、ドストエフスキーもバルザックもユーモアの要素がある。ドストエフスキーなど、ユーモア満載と言っていい。カフカですらある種のユーモアはあるだろう。「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」のナンセンスユーモアの偉大さは言うまでもない。
そして、女性作家には、その種のユーモア、特にナンセンスユーモアが欠如した作家が多いと感じる。私は女性にユーモアが欠如していると言うのではない。ただ、そのユーモアは、キャラの失敗や特殊な個性による言動(たいていはその失敗)から来るもので、世界そのものの不条理性を笑いにするというナンセンスユーモアは女性には少ないのではないか、と思っているわけだ。(「赤毛のアン」の中で、一番ナンセンスユーモアに近いのは「物語クラブ」の話の中でダイアナが物語のストーリー作りに難渋して、登場人物をどんどん「殺してしまう」話ではないか。物語の作中人物は筆者の恣意で簡単に殺される不条理世界を生きているわけだ。)それだけ女性は現実主義的なのだろう。(女性は男性より「現実観察眼」があり、些細なことも見逃さない繊細さがあるので、それが一種の笑いや詩情を作品に添えることが多いのだが。)(笑いとは何か、という哲学的問題については、私の宿題にしておく。)

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超人とモラル

私の別ブログに書いた記事をもうひとつのブログに自己引用した記事の、このブログへの引用である。つまり、ブログ記事の、2度にわたる異世界転生だwww
自分の書いた記事だから、少なくとも自分にとってだけは面白いから転載するわけで、まあ、「なろう小説」、特に異世界転生物への批判だが、実はここで書かれている類の漫画やアニメ、あるいは素人小説(なろう小説)はやたらに多いのである。と言うより、なろう小説から漫画化やアニメ化された作品が膨大にあり、その大半は主人公が異世界転生と同時に超人化するのである。

(以下自己引用)元記事に書き加えた部分がある。

超人とモラル

別ブログに書いた創作論だが、自分で読んでも(自分で読むからこそだがwww)わりと面白いので、ここにも載せておく。ちなみに、ここで言及されている「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」は藤子不二雄の漫画で、私はこれでアイドルタレントの「枕商売」というものの存在を初めて知ったと思う。というより、それが「当然のこと」のように描かれていることに愕然としたのである。そのころは私はまだ中学生くらいで、清純派タレントは本当に清純だと思っていたのであるwww さすがに今の子供は小学生でもそういう素朴さはないだろう。

(以下自己引用)
私は昔から、小説や漫画などの与える快感は主人公の「上昇感覚」だという説を持っている。たとえば「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンは、最下層の身分で泥棒の罪で監獄に半生の間入れられ、無一文で世間に放り出される。これ以上はない、最底辺の境遇だ。それが、ミリエル司教との出会いをきっかけに厚生し、工場経営者、市長として尊敬される身分になる。そしてコゼットを養女として育てることで親としての幸福も得る。そういう上昇感覚が読者にも共感されるわけだ。そして後半ではその身分と境遇を捨てることで、社会的には再び底辺の生活になるが、自分を犠牲にしてコゼットの恋人を救ったことで、いわば「天上的レベル」で至高の位置に上るわけである。
つまり、前半は物質的・世俗的上昇であり、後半は宗教的・精神的上昇の物語である。だから、読んでいて読者にこの上ない幸福感や快感を与えるのである。
で、「最初から高い立場にいる人間」が権力をふるう話は面白いか、と言えば、やはりそこには上昇感覚は無い。
そこを勘違いしているのが多くの「なろう小説」であり、特に「異世界転生物」だろう。主人公が最初からあらゆる才能に恵まれた「なろう主人公」や、異世界転生で超人的能力を身に付けた主人公の話を読んで、面白いのは最初の間だけだろう。そこにはもはや上昇感覚は無いからだ。
なぜこんな話をしたかと言うと、昨日一昨日と半村良の遺作「獄門首」を読んで、やはり上手い作者だし、面白いのだが、その面白さが「読む快感」とは少し違うなあ、と感じたからである。つまり、私の言う「上昇感覚」の方向性が違うという感じだ。主人公はゴマの蠅の子供で幼くして両親を失くし、寺の小僧みたいな身分で育てられる。ところがこの主人公はあらゆる才能に恵まれ、何をやっても成功するのである。つまり、「なろう主人公」だ。では、その主人公の成功がそのまま読者の快感となるかというと、それが少し違う。それは、主人公が世俗的なモラルを持っていないからではないか、というのが私の推定である。
「超人」というのは、モラルに縛られるという弱さすら持たないからこそ超人なのだ、ということは分かる。しかし、ではそのような超人が好き勝手をやる話を読んで面白いか、快感があるか、と言えば、それは「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」を読めば明白である。読者は主人公の破壊的行動に面白さを感じながらも、そのモラルの無さに眉を顰めるはずだ。なぜなら、読者である我々は、その「超人」に蹂躙される弱者であり平凡人であるのは明白だからだ。
確かに、弱点を持たない超人というのは多くの人の夢であり理想だろう。誰でもそういう立場になりたいと思う。しかし、全知全能の神になって面白いか、と言えば、面白くもなんともないのは自明だろう。面白半分で世界を創造し、気まぐれに世界を破壊して、何が面白いのか。いつでもどこでも好き勝手に美女を犯して何が面白いのか。
モラルというのは「禁止の体系」である、という指摘がある。まさにその通りであり、モラルに従うというのは束縛されることだ。では、それは無意味かと言うと、世界からあらゆるモラルが消えた状態を想像したらいい。それは野獣の世界そのものだろう。あらゆる悪が許される世界なのである。
なろう主人公というのは、自分だけがモラルを超越し、他の人間はモラルに従うから別の話だ、という反論も可能だろう。では、幼児を相手にゲームなりスポーツをして、勝って面白いか。
勝利が面白いのは、勝つ相手が「悪」だからであり、強敵だからだ、ということを私は指摘しておきたい。つまり、必然的に主人公は善の立場であり、モラルに即した話でないと、実は面白くない、快感は無い、ということだ。
 

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「感傷性」への称揚

講談社が発行している「赤の謎」「青の謎」「白の謎」「黒の謎」という、4冊シリーズの江戸川乱歩賞受賞作家の中短編を集めた作品集があり、さすがに作家それぞれ達者なものである。乱歩賞自体は推理小説作家の登竜門的なものだろうが、その後ベストセラー作家や中堅作家になった人が多い。つまり、乱歩賞選定委員の鑑識眼が確かだということだろう。そういう意味では、作家歴が長いだけの作家への「功労賞」的な受賞が時々ある直木賞や、一発屋(特に、既に他のジャンルで名を成している有名人への、「宣伝効果」目当ての授賞)が多い芥川賞よりまともかもしれない。

で、ここで妄想的考察をしたいのは、藤原伊織の「ダナエ」という作品を読んでの感想だ。それは、彼の作品は他の推理小説作家の作品群との違いがあるのではないか、という説である。そして、それは「センチメンタリズム」だ、というのが私の考えである。これは悪い意味ではなく、それを「詩情」と言ってもいい。
他の作家の作品は、「上手く虚構を作れましたね」と感心はするが、感動はあまりない。まあ、推理小説に感動を求めるのが間違いで、あくまで娯楽だ、というのが本当だろうが、そこに推理小説(あるいはSF小説、あるいはホラー小説)が「文学」より一段下に見られるところがあると思う。(これは世間的評価の意味で、私は優れた娯楽小説は「文学」より貴重だという考えだ。そもそも、私も含め、大衆は「文学」など読みもしない。)
で、「ダナエ」を読んで私は不覚にも涙を浮かべたのだが、それがあきらかに「センチメンタリズム」の涙だ、というのも意識していた。いや、人間は、感動で涙するよりも、感傷によってこそ涙するのではないか、というのが私の主張である。
まあ、感動と感傷は何が違うかと言えば、それは独断的に言えば「詩情の有無」だと言っておく。
ついでに言えば、「ダナエ」は、推理小説として完璧な構成を持っており、細部の破綻がまったくと言っていいほど無い。特に「ダナエ」というタイトルが、完全に小説の主題を暗示しているのが最後に分かるのが見事である。で、小説の最後に至って、読者に涙を浮かばせるのであるが、それは「推理小説」としての感動ではまったく無い。それを私は「センチメンタリズム」と言っている。それは演歌の中にも学校唱歌の中にもポップスの中にもある。
私は俗流ハードボイルド小説(ピストルと拳骨とセックス)が大嫌いなのだが、一流のハードボイルド小説には詩情がある。その詩情を「センチメンタリズム」と私は言っている。 


ちなみに、リラダンの短編、「センチメタリズム(サンチマンタリズム)」は、まさしくハードボイルド小説である。ハードボイルドとは、「声を上げて鳴く虫よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」ということだ。けっして「男のハーレクインロマンス」ではない。もちろん、「ハーレクインロマンス」を軽蔑する女流作家が、それ以上の作品を書いているとは限らない。少なくとも売れていない。


(追記)「隠居爺の世迷言」を読んでいたら、末尾にこのような部分があったので転載する。若手小説家の作品に情緒が欠けているのは、「合理主義」優先の世相の反映かもしれない。感性がアメリカ式にドライになり、「恋愛=即セックス」「嫌悪感=即殺人」では、情緒も何もあったもんではない。

 最近の世の中には、情緒が無くなっているような気がする。人はもちろんそうだけれども、建物などの人造物からも情緒的なものを取り除いていっているような。アメリカナイズってそういうことなのかな。情緒はおしゃれじゃないから?

 本来の自然な情緒が取り除かれている一方で、コロナ怖いとか、ウクライナかわいそうなどという、金儲けのために作られた情緒に人々が簡単に乗せられてしまうというか、洗脳されるというか。LGBT推進法などというのもその手のものだよね。

 情緒的ではなくなったように見えるけれど、実は原始的で単純な情緒しか持つことが許されなくなってきたということかな。要するに官製情緒だね。つまらない世の中になってきたものだ。岸田総理お勧めのグレートリセット、そしてその後の世界というのも、官が一人一人の情緒をコントロールしようとするものなんだろうなあ。これ以上ない基本的人権の侵害であるように思うな。ていうか、人を人とも思わぬ所業だよね。

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浮かれ女盛衰記

作者名も詩題も知らないが、おそらく森鴎外主宰の新声社の翻訳で、七五調の音声が快くて覚えている詩がある。ただしうろ覚えである。


流れの岸のひともと(一本)は
御空の色の水浅黄
波ことごとく口づけし
はたことごとく忘れゆく


「はた」は「また」と同じ。もちろん、これはある種の女性と男たちの関係を描いたものだろう。
これで思い出すのが、大島弓子の「海にいるのは」で、主人公(あるいは副主人公)の母親が娼婦で、その女性が窓辺で椅子にかけて時折口ずさむ詩である。「海にいるのは」というフレーズ自体は中原中也の詩の一節だろう。

海にいるのは男たち
寄せる偽り
返す真実
寄せる真実
返す偽り

これもうろ覚えで、最後の2行は私が作ったかもしれない。
で、このふたつの詩で私が連想するのはバルザックの「浮かれ女盛衰記」という小説のタイトルで、私はその小説自体は読んでいないが、男女関係においてある種華やかな生き方をしてきた女性の幸福と悲哀を表す題名だな、とは思う。もちろん、娼婦と単なる「浮かれ女」を同一視はできないが、男女関係という点では同一だ。まさに、男たちは彼女に一時期だけ近づいて消えていくのである。川岸や海岸に寄せる波と同じである。もちろん、男たちの中には彼女を「忘れ得ぬ人々」のひとりとして一生記憶に残している男もいるだろう。



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推理小説における「観の目」と「見の目」

宮本武蔵の「五輪の書」に、「観の目と見の目」という思想が書かれていて、これは人生哲学として非常に重要な思想だと私は思っている。それは、「物事を大きく広く見る観の目と、物事の細部を詳しく見る見の目が剣術家(当時は芸者と言っていた。今は武芸者と言う)には必要だ」という思想である。
私は、「観の目」が優勢な人間で、「見の目」は開きめくらに近い。まあ、日本人では異端の血液型のせいだろう。小さなものを注視するのが苦手で、同じ物を十秒と続けて観察できない。A型の人間は「見の目」が優勢のようだが、日本人はA型が一番多いらしい。それは、造形芸術など、特に模写能力の高さとして現れる(ネットには素人の描いた見事な写実絵画が無数にある。)が、飛躍的な物事を苦手とする。だから、日本では優れたシュールレアリズム絵画は生まれなかった。そして、「不思議の国のアリス」のような小説も生まれなかった。まあ、漱石の「夢十夜」あたりが、いちばんそれに近いか。

さて、以上は話の枕であるが、本題にももちろん関係する。本題は、今読みかけの「見えないグリーン」のことで、残りページも少ないので、そろそろこの推理小説の出している問題の解答を考えてみようということだ。305ページ中の266ページまで読んだ時点である。つまり、残り2割弱か。ただし、私のそれは「論理的」解答ではない。というのは、この小説自体が「推理小説における『事実』や『論理』への嘲笑、パロディ」ではないか、というのが私の直感だからだ。
推理小説の読者は作中の「事実」や、主人公(多くは「探偵」である)の「論理的」推理を後追いして、小説の謎の解明や犯人が誰かに頭を悩ませる。だが、言うまでもないことだが、その「事実」は作者が提供したフィクションであり、「探偵」の推理も、作者が彼を「名探偵だ」と保証しているだけにすぎない。ヘボ探偵が主人公の推理小説は稀だろう。昔のドーヴァー警視(警部?)とか何とかいった主人公のように、とりあえず近くにいた人間を何の根拠もなく「お前が犯人だ!」と捕まえ、それがだいたいまぐれ当たりするという小説は稀だと思う。
で、私はそのドーヴァー方式で行くつもりだ。
この推理小説の根幹は、前に同じ小説に出て来る小話として私が紹介したパズルにあると思う。
つまり、「情報は、それ自体が誤解を生む」ということである。
で、第三の殺人事件の被害者である推理マニアの老婦人が、なぜ甥とその婚約者のパーティを欠席しながら、あのような「無意味」そうなパズルをわざわざ送ったか、というのが問題だ。
それは、「私には一連の殺人事件(前の2回)の犯人が分かった」あるいは「お前(甥)の身に危険が迫っている」というものだろう。前者の場合はそれを、パーティ参加者全員に知らせることに意味があったわけだ。だが、それで事態の急転を知った「犯人」は、急いでその老婦人を殺したわけである。
さて、あのパズルの意味、あるいは思想は何かと言えば、「物事は、そう見えることの反対であることがある」ということだ。男だと思っていたら女だった、というのがあのパズルだった。
そこで、この推理小説「見えないグリーン」が延々と書いてきたのは、素人推理愛好家7人組にまつわる話で、たいていの読者はその7人の中に犯人がいる、と思うわけだ。だが、殺された老婦人(女史と言っておく。頭脳明晰な女性だ)が言うように、「窃盗で裁判にかけられた男がいて、検察側は彼の犯行を見ていた四人の証人を召喚したの。すると被告は、彼が盗むところを見たことがないという証人を八人呼んだんだって!」ということで、「事実」をいくら集めても「真実」になるとは限らない。女史は、検察側の立場に立って(だと思うが)「反証が無いということは証拠にはならない」と言っているが、この話はむしろ「事実」というものの危うさを示していると思う。黒い烏を何万羽集めても、白い烏が存在しない証明にはならない。
で、この「見えないグリーン」が推理小説愛好家7人組の話を長々と積み上げてきたのは、実はそれが「重要でない」は言い過ぎにしても、「ミスリード」としての機能だった可能性が大きいと私は思うわけである。いわゆる「赤いニシン」である。
で、ほとんど根拠は無いが、ドーヴァー流に、手近な人間を「お前が犯人だ!」とするなら、私は殺害された老婦人の「善良そのものに見える」甥と、その共犯者として彼の善良そうな婚約者を挙げる。このふたりは、少なくとも「第二の殺人」では、犯行機会が一番ある人物で、ただ「犯行動機」が無いと見られて警察には嫌疑をかけられなかったのだろう。で、第一の殺人は三つの殺人事件ではもっとも不可解な「密室殺人」だが、これは密室の中で死亡者が病気で急死したとすれば、殺人事件でも何でもない。この第一の死が例の老婦人に第二の殺人を思いつかせ、甥を手先として第二の殺人事件をやらせた可能性もある。で、「殺人事件計画立案者」の女史が、甥に「例の事件が発覚する可能性がある」という警告の「パズル」を出したことで甥は逆に、「すべてを知っている」伯母を殺害したというわけだ。まあ、甥(あるいはその婚約者)がパーティ会場からどうして抜け出したかは分からないが、これはいくらでも作者が事情を説明する「小説内事実」を出してくれるだろう。
要するに、小説内の情報が多すぎることで、私はこれらの情報の大半はミスリードのための情報だ、と判断したのである。というより、私の記憶能力では、それらの情報を覚えていられないから、ドーヴァー方式を採用するしかないwww


(追記)一応、答え合わせを報告しておくと、私の答えは「半分正解」である。詳しくは言わない。ただし、第三の殺人(メインの殺人)の殺害方法はほとんどギャグである。ゴルフと関係はある(地面に置かれた少し大きいだけのボールをドライヴァーで打つのだから、ゴルフの素人には難しい。ただ、その「ボール」がなぜ動こうとしないのかが問題だ。)が、「ゴルフ場のグリーンとは無関係」と言っておく。第一の死亡事件も他殺で、これもギャグにしか見えない。ヒントは、マルクス兄弟の某映画である。森博嗣あたりが喜びそうな「物理的」手段だ。作者のスラデックは本来はSF小説書きらしい。




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酔生夢人
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男性
職業:
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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