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囚人の歌

「二木紘三のうた物語」から転載





2007年7月22日 (日)

囚人の歌



(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo




ロシア民謡、フランス語詞:モーリス・ドリュオン
日本語詞:人形劇団プーク



1 船漕ぐ明け暮れ 鎖につながれ
  思いはいつか 母のおもかげ
  日ごと夜ごとに 涙で語った
  母の言葉を 今ぞ思う


2 町や酒場に 幸せはない
  楽しみばかり 求むるではない
  だが若い日は 自由にあこがれ
  翼のぞまず 生きられようか


3 人を殺した わけじゃない
  物を盗んだ おぼえもない
  ただ毎日が すばらしい
  祭りの続きで ほしかっただけさ


4 仕事にでかける 朝の門口(かどぐち)
  立ちはだかった 王の兵士ら
  涙ですがる 母を足蹴(あしげ)
  われらをへだてた 牢獄の壁


5 瞳で誓う マドレーヌを
  いだいた胸に 鎖は重い
  だが幸せと 人の誠を 
  求むる心は 鎖じゃつなげぬ

《蛇足》 原曲はロシアの古い民謡です。そのメロディを音楽家のレオ・ポル(Léo Poll)が採譜・編曲し、作家で政治家のモーリス・ドリュオン(Maurice Druon 1918-2009)がフランス語の詞をつけました。作家でジャーナリストのジョセフ・ケッセル(Joseph Kessel 1898-1979)も、作詞に関わったようです。
 発表は1947年。


 レオ・ポルは筆名で、本名はレイブ・ポルナレフ(Leïb Polnarev 1899-1988)。ロシア革命に伴うユダヤ人迫害を逃れてフランスに亡命しました。有名な歌手のミシェル・ポルナレフは息子。
 ジョセフ・ケッセルもユダヤ人で、旧ソ連からフランスに移住し、帰化しました。


 1951年にジェルメーヌ・サブロンが創唱しましたが、とくに評判にはなりませんでした。その数か月後に発売されたイヴ・モンタンのレコードが大ヒット、翌年ディスク大賞を受賞しました。この歌が世界に広まったのは、イヴ・モンタンの歌唱によるところが大です。
 日本では、昭和20年代以降、歌声喫茶・うたごえ運動では必ず歌われた定番曲でした。


 政治犯を歌った歌といわれています。ロシア語の原詞がわからないので、なんとも言えませんが、フランス語の詞とその訳詞には、政治との関係は、はっきりとは表れていません。
 享楽的な生活を送っていた若者が罪を犯して漕役刑囚
(ガレリアン galérien)になり、母親の戒めを聞かなかったことを後悔している、という歌です。上の日本語詞は、フランス語詞をほぼ忠実に再現しています。


 むかし、酒を飲んでバカ騒ぎをしているときなどに、この歌の「……涙で語った母の言葉を……」とか、「楽しみばかり求むるではない」といったフレーズが浮かんできて、チクリと痛みを感じたものでした。
 実際、横道にそれがちな年頃には、母親の言葉ほどブレーキになるものはありません。


 ただ、帝政ロシア時代の漕役刑囚には、一般の犯罪者だけでなく、政治犯もかなりいたようですから、もしかしたら、母親の言葉には「政治に関わるな」という戒めも含まれているのかもしれません。


 ガレー船は古代に出現したものですが、地中海やバルト海では地形が複雑で風向きが不安定なため、19世紀初頭まで使用されていました。


 フランス語の原詞は次のとおりです。


    Le Galérien


1. Je m'souviens, ma mèr' m'aimait
   Et je suis aux galères
   Je m'souviens ma mèr' disait
   Mais je n'ai pas cru ma mère


2. Ne traîn' pas dans les ruisseaux
   T'bats pas comme un sauvage
   T'amuses pas comm' les oiseaux
   Ell' me disait d'être sage


3. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais courir la chance
   J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais qu'chaqu' jour soit dimanche


4. Je m'souviens ma mèr' pleurait
   Dès qu'je passais la porte
   Je m'souviens comme ell'pleurait
   Ell' voulait pas que je sorte


5. Toujours, toujours ell' disait
   T'en vas pas chez les filles
   Fais donc pas toujours c'qui t'plait
   Dans les prisons y a des grilles


6. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   Mais j'ai cru Madeleine
   J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais pas lui fair'de peine


7. Je m'souviens que ma mèr' disait
   Suis pas les bohémiennes
   Je m'souviens comme ell' disait
   On ramasse les gens qui traînent


8. Un jour les soldats du roi
   T'emmen'ront aux galères
   Tu t'en iras trois par trois
   Comme ils ont emmn'nés ton père


9. Tu auras la têt' rasée
   On te mettra des chaînes
   T'en auras les reins brisés
   Et moi j'en mourrai de peine


10. Toujours toujours tu rameras
   Quand tu seras aux galères
   Toujours toujours tu rameras
   Tu penseras peut-être a ta mère


11. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   Mais j'ai pas cru ma mère
   Et je m'souviens qu'ell' m'aimait
   Pendant qu'je rame aux galères


(二木紘三)


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花岡大学という仏僧・作家のこと

市民図書館の児童書コーナーから何気なく借りた、花岡大学という人の短編集「やわらかい手」を昨日読んで、かなり感心したのでメモしておく。
この本は「復刻版」で、つまり廃刊だった本だろう。なぜ廃刊にされたかも、読めば分かる。

それは、「子どもの心の暗黒(「悪」とも言える)」を描いているからである。
この作品集の中の作品のすべてが子供を描いたものだが、その中のひとつは「まったく悪意の無い優れた精神の少女が異常な精神の家族(義母)に自殺に追い込まれる」話で、残りはだいたいが「子供の暴力」と、そこに至る心理描写である。その心理描写が実に見事で、ドストエフスキーか深沢七郎並みである。そのふたりとの違いは、「最後の瞬間の心理はその当人にも分からない」ことで、私はここに仏教的な「業」の思想があるのではないか、と推測する。

私は「悪人正機説」が大嫌いで、「なぜ悪人のほうが善人より往生する(天国に行く)のだよ」と、その理不尽さに腹が立つのだが、その理不尽さには「善人・悪人の違いは偶然的なものでしかない」、あるいは「悪人の悪行は、当人にもどうしようもない『業』に動かされたものだ」という思想が前提にあるなら、悪人正機説にも一理あるだろう。しかし、それを認めると近代の法体系は成立しなくなるから、これはあくまで宗教信者という特殊なサークル内での話になる。

業という思想が仮に上に書いたようなものなら、それは「理性万能主義」と対立するわけで、理性を代表するのが「法治主義」思想だが、それが無数の欠陥を露呈し続けていることは多くの人が知っていることだ。かと言って、儒教的な「徳治主義」も現代では無力化しているだろう。
そこで、「業」という思想を再検討することも、あるいは意味があるかもしれない。もちろん、だからと言って「悪人への処罰を緩めろ」という馬鹿な答えを出すのは馬鹿に決まっている。ただ、「法律は万能ではないし、公正とも限らない」というポイントは法曹関係者が常に心の戒めとするべきことだろう。これはしばしば「裁く立場」になる教育関係者も同様だ。

ひと言、まとめておけば、「業」とは自分自身でも気づかず、どうしようもない深層心理である、とフロイト的な解釈ができるだろう。

なお、以上は花岡大学の作品の一面だけを論じたもので、上に述べた残酷さと並行して見事な詩情が流れており、残酷さとの対比でその詩情がいっそう哀切になっている「美しい」作品でもある。小川未明や宮沢賢治の一部の作品とも似ているか。まあ、冗談だが「ハードボイルド小川未明」と言っておく。(「やわらかい手」の庶民の子供の空襲体験の場面は小学校教科書に絶対に載せるべきである。特に、空襲に追われる主人公少年が引いていた妹の手を無理やり離す場面は凄い。これを読んで、それでも戦争肯定派である人間は、それこそ悪魔だろう。)


(追記)今、「やわらかな手」の西本鶏介による巻末解説を読み終わったが、上に書いた私の印象、あるいは感想と見事に符合していて少し驚いた。私の知性と感性もまんざらではないようだ。
たとえば、花岡大学と小川未明や宮沢賢治との類縁性について、こう書いている。(以下、引用文は赤字にする)

ならば、この系譜(夢人注:日本児童文学の主流的系譜)とは全く無縁の存在かというと、そうではなく、小川未明や宮沢賢治にまでつながる、まさに日本的な童話作家なのである。

「悪人正機説」のことを私は書いたが、それについても、こうある。

ここでいう(注:花岡大学が言う)宗教精神とは、仏教のそれであり、近代的ヒューマニズムとは、親鸞の悪人正機の思想を原典とする人間実在の思いであろう。

花岡大学作品の「ハードボイルド性」については、こうある。

かつて日本の児童文学に、これほど人間の深淵を表現した童話があっただろうか。どうにもならない人間地獄のかなしみを凄絶なまでの美しさで描きあげた作家がいただろうか。

花岡氏の考える現実は、メガホンつきの平和論や革命論よりはもっと深く、人間の極限までふみこんだどろどろの世界である。政治やイデオロギー以前の人間存在そのものにかかわる生死対決の場である。

ここ(注:「やわらかい手」)に収められた五篇は、いずれも、まま子、殺意、エゴイズム、嫉妬、自殺、首吊りといった、従来のいわゆる童話には殆どみられない内容ばかりである。



さて、あなたはこの「童話」を読む勇気があるか? 私は、最初から内容を知っていたら、とても読めなかっただろう。しかし、実に抒情性のある、美しい童話でもあるのだ。あるいは、一種のホラー小説集として読むのも「あり」だろう。凡百のホラー小説よりずっと怖いのである。まあ、目の前で子供が死んでいくのを見ても平気な冷血漢なら話は別だが。幼児の、「ゆえなくして流された一粒の涙」にこの世界の悪と不幸の象徴、不条理の象徴を読み取れる人におすすめである。

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とある素人評論家の「村上春樹」評

かなり的を射た素人評論だと思う。(ここでは「素人」はけなす意味ではない。今どき、プロの文芸評論家がいるとも思えないので、一応、「素人」と書いただけだ。)
私はフィッツジェラルドの良い読者ではないし、彼の成功作は「偉大なるギャッツビー」だけではないか、と思う。そのフィッツジェラルドを土台として「村上春樹文体」を作り、いわばフィッツジェラルドを現代に蘇らせたのは素晴らしい功績だと思うが、両者とも、実は「書きたいこと」をさほど持っているわけではなかったと思う。だから、村上春樹の長編の中には、「何のためにこれを書いたのか」不思議になる作品が数点あり、私の中では、彼の「打率」は高くない。
彼の一番の傑作は「踊る小人」だと思う。この作品を世界傑作選集のひとつに選んだ外国の編集者は慧眼である。この作品は彼以外の誰にも書けない作品だと思う。ホラーとファンタジーとシニカルなユーモアがこれほど見事に結実した小説はほかにないのではないか。なお、私はこの作品の英語訳を、自分で日本語に訳しながら読んだので、オリジナルは読んでいない。さほど評価が高いように聞いてもいない。英語で読んだから面白かったのだろうか。

(以下引用)

2024-10-14

村上春樹について思うこと数点

追記


ブクマカありがとうございます


冒頭書かせていただいている通り村上春樹を数冊読んだ程度の人間コメントなので、ハルキストの皆さんの春樹評とはもしかしたら乖離があるかもしれません。


現実だと作家作品感想を交換する場はなかなかないので、この投稿への感想含め皆さんで自由村上春樹について話すきっかけになれば幸いです。


―――――――――――――――――――――――――――――


Xで盛り上がっているので便乗。


増田村上春樹好き嫌いがはっきり分かれるタイプ作家だと思う。


全部読んだわけじゃないけど数冊読んだ者として魅力と好きになれない点を書く。


スマホから操作なのではてな記法は使わない


【魅力】


•特徴的な文体


よくネタになってる突拍子もない比喩と気取った語り口の主人公が織りなすおしゃれっぽい会話、そして英文和訳のような文体の作り出す雰囲気の良さが唯一無二


世界観


性にあけすけな人間特に女性)がよく登場する。村上春樹世界に登場する女性孤独を抱える自由人が多くて失踪するパターンが多いと感じる。


Xでも指摘されているように大学生位までに読まないと村上春樹世界に登場する人々の青さに共感したり憧れたりするのは難しいと増田は感じている。


•実は短編面白い


代表作が長編からまり語られないが増田村上春樹は対談や短編集の方が面白いような気がしている。


文章力が高くて大きな出来事がないストーリーでもあっさり読ませる力のある作家なのでコンパクトにまとまってる作品は読みやすさと満足度がかなり高い。


【好きになれない点】


大人になってから読むと気持ち悪い


やはりこれ。性に対する忌避感なんだろうか。自分が通り過ぎた若さを見せつけられている気恥ずかしさなんだろうか。大人ぶって気取った高尚な趣味の会話をする主人公ややたらねちっこい性描写が読んでいてストレスになることが多い。


•あの比喩がダサく感じられる


フィッツジェラルドに憧れていたという逸話を目にして増田フィッツジェラルド作品もいくつか目を通してみた。


結果村上春樹比喩力が圧倒的に安っぽい二番煎じに感じるようになった。


世界観を寄せてるだけで表現力が追いついていないのだ。


英語ならではの言い回し日本語に落とし込んで誰が読んでも村上春樹と言わしめる文体を産んだセンスは間違いなく天才所業


ただ英語を操る天才作家センスまでは真似しきれなかったんだなという印象を増田は受けている。


――――――――――――――――――――――――――――


一般的に言われるのは村上春樹が凄かったのは男らしさ女らしさがステレオタイプ化していた時代に性にあけすけな若い女性や繊細な若者男性主人公として作品に登場させたこと。


多様性が叫ばれる今の時代に読めば目新しさがないのは当然なので今から村上春樹を読む人は単純に文体世界観好き嫌いを決めるのがいいと思って魅力として書いてみた。


村上春樹ユーモアがあって博識でオシャレな人だし村上春樹と同じ系統趣味で固めている層にはど真ん中で刺さると思う。


最後まで読んでくださった皆さんの読書人生が豊かになりますように。


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女性にとっての恋愛・結婚という「ギャンブル」の悲劇

私の別ブログに載せた記事だが、こちらのブログの方が向いているだろうから、転載する。

(以下自己引用)

「The Great Gattby」は、男の初恋幻想(妄想)とその破滅を描いた、男には突き刺さる話だが、実は、その初恋の対象であるデイジーは非常に頭のいい女性で、夫のトムも、ギャッツビーも、実は彼女の真価を知らないという、「愛される側の不幸」を描いた、女性にも訴えるはずの話である。
たとえば、デイジー、トム、ギャッツビーその他が車で分乗して都会に遊びに行く話の中で、ギャッツビーと同乗しているデイジーが、夫のトムに向かって、こんな冗談を言う。(自己戯画化という、かなり高度な冗談だ。)

We'll meet you on some corner. I'll be the man smoking two cigarettes.

私の持っている翻訳では、このジョークは、こう訳されている。

「じゃあ、街角でお会いしましょう。シガレットを二本くわえて待ってます」

もちろん、シガレットを二本くわえて、というのは「目印に」の意味で、いかにも喜劇的である。だが、夫のトムは、その冗談にいらだつだけである。この、ユーモア感覚の無さは、実はギャッツビーも同じで、おそらく下層階級出身の彼と上流階級出身のデイジーは、まともな会話が成り立たないと思う。トムも上流階級だが、趣味低劣の筋肉脳男である。つまり、デイジーは、夫とも、彼女を愛する男とも、知的に釣り合わないのである。この物語で一番不幸なのは、彼女だろう。
話の最初のあたりで、子供(娘)を産んだ時の話をデイジーがニック(話の語り手)に、こう言う。明らかに、彼女は不幸なのである。

「あのね、ニック、あの子が生まれて、私が何を言ったかというとーーーそんな話、聞きたい?」
「そりゃあ、もう」
「もし言ったら、私がどんなにひねくれたか、わかると思う。ーーー産後、一時間もたっていなかった。トムはどこかに行ったきり。私は麻酔から醒めて、投げやりな気分で、そばにいた看護婦に男の子か女の子か聞いたの。そしたら女の子ですって言われたから、横を向いて泣いたわ。それから、まあいいわ、と言った。女の子でいいわ。せいぜいバカな子になってほしい。女の子はバカがいいのよ。きれいなおバカさんが最高だわーーー」(小川高義訳)

ここで、デイジーが泣いたのは、「男の子がほしかった」からだと錯覚する読者がいると思うが、本当は、生まれた女の子の不幸な人生を予測したからなのである。だから、「女の子はバカがいいのよ」と言っているのである。それは、頭のいい女の子である自分の不幸を暗黙に語っている。

言うまでもないが、先の英文は「シガレットを二本口にくわえている『男』が私よ」と訳するのがより正確だろう。二重の自己戯画化だ。先の翻訳の「待ってます」は意訳(補足的訳)だが、それ自体は悪くない。

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「闇の奥」のこと

「闇の奥」は、白人世界で高く評価されている作品(作者コンラッドはイギリスに帰化した外国人だったと思う。イギリスは、他国人のイギリス・欧米への批評に寛容であるというポーズを取るのが好きである。)で、私は青年の頃、興味を持って読んだが、「何が言いたいのかさっぱり分からない」退屈な小説で、翻訳者の中野好夫(名翻訳者である)も、この作品は理解できない、と言っていた記憶がある。
表面的には白人によるアフリカ植民地支配の「奇妙なエピソード」であり、主人公のクルツに関しては、何のために原住民を手下にして「闇の王」としてふるまっていたのか、その動機すら分からない。そして彼の臨終の言葉「恐怖、恐怖だ」という言葉も何を意味しているのか分からない。そこがかえって多くの人を「これは深遠な作品だ」と思わせる効果があったのではないか。つまり、「理解できない=深遠」という短絡的反応のような気がする。
要するに、一人称独白形式(私の記憶は不確かだが)でありながら、独白者の心理が描かれない、一種の「独白体のルポルタージュ」のような感じで、筆者が何を言いたいかは「読む人の想像に任せる」印象なのである。だから、たとえばアニメ「エバンゲリオン」が作品中に「謎」を(というか、マニアックな単語を説明抜きで)振り撒いて、オタク視聴者の好奇心や探求心を惹き、大ヒットしたのと同じ構造であると私は思う。
なお、ベルギー国王によるコンゴ統治の残虐さについては藤永茂博士のブログに詳しい。


(以下引用)



闇の奥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




"Heart of Darkness" in Youth:A Narrative, 1902

闇の奥』(やみのおく、Heart of Darkness1902年出版)は、イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドの代表作。西洋植民地主義の暗い側面を描写したこの小説は、英国船員時代にコンゴ川で得た経験を元に書かれ、1899年に発表された。ランダム・ハウス、モダン・ライブラリーが選んだ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に選出されている。闇の奥というタイトルはアフリカ奥地の闇でもあるが、人間の心の闇、西洋文明の闇をも含意していると考えられる。


この作品の舞台であるコンゴ川一帯にはベルギー国王レオポルド2世[1]の「私有地」であったコンゴ自由国(後にベルギー領コンゴ)が存在し、同地住民に対する苛烈な搾取政策をとったことで欧州各国から非難されていた。

あらすじ

[編集]

ある日の夕暮、船乗りのチャールズ・マーロウ英語版が、船上で仲間たちに若い頃の体験を語り始める。なお、マーロウは本作以外にも複数のコンラッド作品に狂言回しとして登場する。


マーロウは、各国を回った後、ロンドンに戻ってぶらぶらしていたが、いまだ訪れたことのないアフリカに行くことを思い立ち、親戚の伝手でベルギーの貿易会社に入社した。ちょうど船長の1人が現地人に殺され、欠員ができたためだった。マーロウは、船で出発し、30日以上かかってアフリカの出張所に着いた。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。またマーロウは、鎖につながれた奴隷を見た。ここで10日ほど待つ間に、奥地にいるクルツ(Kurtz)[2]という代理人の噂を聞く。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物で、将来は会社の幹部になるだろうということだった。マーロウは、到着した隊商とともに、200マイル先の中央出張所を目指して出発し、ジャングルや草原、岩山などを通って、15日目に目的地に着いた。


中央出張所の支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞いた。蒸気船が故障しており、修理まで空しく日を送る間に、再びクルツの噂を聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かってきたが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。


ようやく蒸気船が直り、マーロウは支配人、使用人4人(「巡礼」)、現地の船員とともに川(コンゴ川)を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手のもとへ長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手はやがて死んだ。


奥地の出張所に着いてみると、25歳のロシア人青年がいた。青年は、クルツの崇拝者だった。青年から、クルツが現地人から神のように思われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、"The horror! The horror!"[3]という言葉を残して息絶えた。

影響

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T.S.エリオットは詩『荒地』の初稿で、エピグラフに『闇の奥』の一節 "The horror! The horror!" を引用していたが、エズラ・パウンドの助言により、別の文に差し替えた。詩『虚ろな人々』では "Mistah Kurtz--he dead." の一節を引用している。


村上春樹の『羊をめぐる冒険』『1Q84』などに『闇の奥』の影響が指摘されている[4]

映像化

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オーソン・ウェルズはラジオ・ドラマとして放送。また、映画初監督作として準備していたが、資金調達できなかった(ウェルズは『市民ケーン』を作ってハリウッドでは異端とみなされることになる)。


1979年に映画監督フランシス・フォード・コッポラによって「翻案」され、『地獄の黙示録』として映画化された。ただし、舞台背景はベトナム戦争に変更されている。この中にエリオットの『虚ろな人々』の引用がある。


1994年のテレビドラマ『真・地獄の黙示録』は原作に沿った映像化である。監督はニコラス・ローグで、マーロウをティム・ロス、クルツをジョン・マルコヴィッチが演じ、原住民女性役でイマンが出演した。


キングコング』の原案にも大きく影響を与えたと言われており、2005年リメイク版では登場人物の一人が本作を愛読している。また、2017年の『キングコング:髑髏島の巨神』にはコンラッドとマーロウに由来した登場人物が出てくる他、前述した『地獄の黙示録』の影響を大きく受けている。

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初恋幻想という「巨大な廃墟」

老年の良い点は、若いころに読んでほれ込んだ小説を、「ゆっくりと深く味わって」読める時間があることだ。気になる箇所があればいくつかの翻訳を比較して考えることもできるし、原書の原文(英文)を辞書を引いて確認することもできる。若いころの知的探索が「世界を広げる」ことだったとしたら、老年のそれは「世界を深く」することだと言えるだろうか。
もちろん、知的巨人たちは若いころから「広く深い」知的探求をしてきたのである。だが、「生きるための仕事」に一日の8時間以上を犠牲にしている人間の読書は、限定された時間でのせっかちな食事になるしかない。
ということで、他の欲求がほとんど消えた老齢者には読書は「現実とは別の様相を見せる巨大な世界」の旅で、大きな娯楽になるものだが、私の場合は老齢で遠視がひどくなったため、ベッド(寝床)での読書が不可能に近い状態で、困ったものである。仕方なく、昼間にソファなどでやる読書が中心になり、そうなると、「単なる使い捨て娯楽」のような内容の小説ではなく、自分自身が思考する楽しみを与える作品が好ましい。
最近断続的に読んでいる「偉大なるギャッツビー」などがそれだ。若いころは、「気になる作品」だったが、映画を見た限りでは「面白さ」はあまり無い作品に思えた。しかし、それは「映画(映像芸術)では登場人物の心情を描くのはほとんど不可能である」という、単純な事実のためであった。「ギャッツビー」は、話の筋ではなく、描写の細部にこそ味(というより触発性)がある作品なのである。

で、昨日読んでいる時、気になった箇所を自分で調べた内容をここに少し書いておく。
(先に、その箇所を引用する。赤字はもちろん、夢人による強調。ギャッツビーが憧れのデイジーに再会した時の話だ。彼はその再会を期待してデイジーがその夫と住む家の対岸に豪邸を建て、週末ごとに無数の客を迎えてパーティを開いていたが、5年目に、やっとデイジーをその家に迎えることができたのである。)



この午後の時間にも、現実のデイジーが夢に追いつかない瞬間はあっただろう。もちろんデイジーが不足なのではない。ギャッツビーの幻想があまりに大きく息づいたということだ。デイジーをもーーーあらゆるものをもーーー越えてしまった。



赤字にした部分が何となく「気持ち悪い」印象だったので、英語原文を確認すると、次の文章だった。赤字部分の少し前を含めて転載する。

not through her own fault but because of the colossal vitality of his illusion

翻訳者は、vitalityという言葉の翻訳に迷って「息づく」という、おかしな訳をしたのだろう。しかし、これはその中心的意義どおり「活力、エネルギー」の主旨だろう。で、実は問題は、翻訳者が「colossalという言葉を作者が選んだ意味」に気づいていないことだ。英文に慣れない私が直観で言うのだが、この言葉は英語圏の人間もあまり頻繁には使わない単語だと思う。意味は「巨大な」であり、それに該当する平易な単語はほかにもあるだろう。なぜ作者はここでcolossalという言葉を選んだのか。
それは、この言葉が「コロッセウム(colosseum)」(古代ローマの円形大競技場)を想起させる効果を持っているからだ、というのが私の推理である。言うまでもないが、コロッセウムは「巨大な廃墟」である。まさに、ギャッツビーが構築した幻想が、現実には巨大な廃墟に等しい、「偉大」だが、無益な、儚いものであることを意味するわけである。
そういう意味では、このひとつの言葉は、作品全体を象徴する、重大な単語ではないだろうか。





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「社会主義者」ジルーシャ・アボット



 それでね、おじ様、私も社会主義者になるつもりですの。よろしいでしょう?
無政府主義者なんかとは全然ちがいます。爆弾を投げて人を吹きとばしたりするようなやり方には賛成しないのです。たぶん私は生まれながらにして社会主義者の一員なんでしょうと思います。私は無産階級ですもの。でもまだ何主義者になるか、はっきりきめていません。日曜日によく研究した上で、次の手紙に私の主義を発表することにいたします。








親愛なる同志よ、
ばんざい! 私は右派社会主義者です! つまり気ながに機が熟するのを待つ社会主義者なのです。この一派は明日の朝社会主義革命を起こそうなどとは望んでいません。そんな急激なことをすれば社会に混乱を来します。世の中の人がみんな驚かないだけの心構えができるまで、遠い将来をめざして革命をじわじわと進めていくのです。
 目下のところは産業、教育、孤児院の改革に着手することによってその準備をしなければならないのです。
    
               同志愛をこめて
                      ジュディより


          (J・ウェブスター「あしながおじさん」松本恵子訳)



 *右派社会主義者とは、「保守的社会主義者」つまり、ファビアン協会的な漸進的社会主義者。原書では「Hooray! I'm  a Fabian.」とある。私はなぜか「フェビアン協会」と覚えていた。

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仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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