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小説と「読者の視点」

私はドストエフスキーの作品はかなり読んだ部類だと思うが、「二重人格」と「貧しい人々」は読んでいない。前者は途中まで読んで中断していたが、そこまで読むのにかなり難渋していた。後者は、「あまり楽しくない話だろうな」という予想があるからで、私にとって読書とは何よりもまず快楽であり娯楽だからである。「二重人格」を読むのに難渋したのも、それが「楽しくない」からだった。何しろ、主人公が人格低劣な下級官吏で、その心理を精細に描くのだから楽しいはずがない。
しかし、先ほど、寝床の中で同書を数ページ読んで考えたのだが、これは読む側が主人公に感情移入して読んではいけない種類の小説ではないか。つまり、主人公と同じ平面で世界(小説世界)を見るのではなく、主人公も含めて小説世界を「高みから見下ろして眺める」小説ではないか、ということだ。言葉を換えれば、この作品は喜劇、あるいは笑劇であり、読み手が心理的にその作中人物と同じ平面にいては、「笑えない」のである。
だが、読者の多くはふつう、小説の主人公に感情移入するものだ。そこに「二重人格」の読みにくさや不快感の原因があるということだ。感情移入してはいけない主人公に感情的に同化していてはそうなるのが当たり前だろう。

そこで思い出したのが深沢七郎の「絢爛の椅子」である。これは女子高生殺人事件の殺人犯の少年の心理を克明に描き出した小説だが、読者は読んでいる途中から、この少年の精神が、読んでいる自分とは別種の、しかし世間にはごくありふれた種類の精神でもあることに気づくのが大半だと思う。そこで、読者の心理の安全性は保たれるのだが、その一方で、世間にこうした殺人者の精神を持った人間がたくさんおり、自分の間近に無数に蠢いていることに不安感も持つのである。
これは石原慎太郎の初期の作品である「処刑の部屋」(訂正→「完全なる遊戯」)でも同じだ。小説家の中には、この種の「天才的想像力」を持つ人間がおり、つまり殺人者(アモラルな人間、低俗な人間、低知能の人間等等)の心理に「成り切れる」才能の持ち主だ。当然、世間の「普通の人間」は、この種の作品に嫌悪感を持つ。それが健全でもある。だが、文学の可能性は、この種の「冒険性」で切り開かれるものでもあるだろう。

ついでながら、「作中人物=作者」ではないのは当然だし、「主人公=作者のヒーロー」でもない。私はドストエフスキーの「未成年」を読むのに難渋していたが、当たり前の話で、主人公の青年は馬鹿な未成年者であるからだ。つまり、感情移入しにくい人物で、むしろ感情移入するべきではない存在なのである。そこで、主人公(語り手でもある)は馬鹿な未成年者だという視点で高みから見下ろすと、この小説世界がクリアに見えてきて、実に面白い小説になったのだが、これは「読書の難しさ」という一面を示してもいるようだ。そんな面倒くさい作業は嫌だ、という人もいるだろうが、それは「雲丹(蟹でも海老でもいいが)の姿は気持ち悪いから食うのも嫌だ」という、もったいない話である。私自身、こうした読み方が(いつもではないが)できるようになったのはごく最近なのである。

なお、この外に、川端康成の「夏の靴」などを念頭に置いた「小説とポエトリー(詩情)」という思考テーマも考えたが、それはいずれ考えたい。「夏の靴」は、心の部屋の壁に飾っておきたい(特選の)「小さなスケッチ画」である。




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描写の視点の問題

別ブログに書いた記事に、少し付け加えて小論にする。
先に、自己引用をして、その後で追記を書く。

(以下自己引用)
恩田陸は小説の名手で、文章の達人だが、その名手でも基本的な、単純な間違いはするという例である。「光の帝国」の一話から抜粋。

私は眼下を通ざかっていく、その男を青ざめた顔で見送った。


言うまでもないだろうが、これは一人称描写である。つまり、視点はあくまで「語り手(この小説では「私」)」にある。である以上、鏡やガラスに写った自分の顔でもないかぎり、自分の顔が「青ざめている」とは分からないはずだ。
そんなことは分かり切っている、私(作者)はそう書きたいからそう書くのだ、というのもひとつの創作姿勢ではあるだろうが、読者としてはかなり興ざめすることは否めない。まあ、やはりうっかりミスなのではないか。そして、編集者もその点を見落としたのだろうと思う。
(追記)

最近読んだ「夏と花火と私の死体」(乙一)の冒頭あたりに、次のような描写がある。最初に読んだ時に、私は上記の引用文と同じ感想を持ち、かなり興ざめしたが、最後まで読んで、この作品は唯一無二の傑作だ、と思った。だが、冒頭の「一人称描写」のミスが、ミスなのか、意図的にそう書いたのかは分からない。語り手の「私」は既に死んだ人間だから、普通の人間とは違う感覚を持っており、自分自身を「外部から」見ることができるのだ、としても、この段階ではまだ「生きている」のである。幽霊は時間も超越しているから問題なし、とするのだろうか。あるいは最初から「死者の思い出話」だから、ここには「ふたりの私」がいるのか?
などと事々しく書いたが、その記述自体は一見単純で、上記の自己引用で批判したのとまったく同じである。

わたしは羨ましそうに石垣を見ながらつぶやいた。

この「羨ましそうに」が問題なのである。これは、他者の目から見た表現であり、自分で自分の顔や表情が「羨ましそう」かどうかは分かるはずがない。つまり、ここでは描写の視点の混乱があるわけである。
まあ、こういう細部はどうでもいいくらいで読むほうがいいのだろうが、私は気になるのである。おそらく正解は、「死者の思い出話」だから、「ふたりの私」がいる、ということになるのだろう。つまり、恩田陸の「光の帝国」とは事情が違う、という結論になりそうだ。
なお、傑作だが二度と見たくない映画(アニメ)の代表作である「火垂るの墓」の冒頭部が、死者の語りである。主人公の少年の霊が、死んでいる自分の死体を見下ろしている場面での少年のモノローグから始まる。




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ある「虚無主義者」の死

北村薫編の「こわい部屋」という短編アンソロジーの中に林房雄の「四つの文字」という短編小説が入っていて、そこに描かれた南京政府(日本の傀儡政権)の某大臣(実在の人物だとして描いている)の姿が、ある種の怪物で、その怪物性の理由がおそらく「エゴイズム」と「虚無主義」のふたつから来ているように思われて興味深い。
最近はやりの「自分軸」という言葉も、単純に言えば「エゴイズム」となるのだが、その「エゴイズム」という反面、あるいは正体を世間ではあまり言わない。上記の作品中の某大臣も、世間のすべてを自分の欲望のために利用するエゴイストというだけの話で、経済界や政界にはありふれた種類の人間だが、その能力の高さが彼を「怪物」的存在にしているわけだ。
で、ここで彼を「虚無主義」だとしたのは、彼の全能性の立脚点がそこにあると思うからである。つまり、世間的な美徳やルールを彼は信じていない。冷笑している。だからこそ怪物になるのである。「虚無主義」とは、何も「すべてが虚無だ」と嘆くだけのセンチメンタリズムではない。
ちなみに、彼は南京政府の瓦解とともに自殺するが、彼は最初から南京政府という存在を信じておらず、ただそれを自分のために利用したのである。彼の自殺もいわば「見るべきものは見つ」というだけのことだろう。
まあ、ネタバレをしたら価値が無くなるという作品でもないから、彼の残した「四つの文字」をここでバラすが、それは「学我者死」(「我を学ぶ者は死す」あるいは「我を学ぶは死す」)である。「学ぶ」とは「真似る」意味とするのがいいだろう。

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優れた「少年漫画」は女性キャラに魅力がある

記事タイトルがコピーできなかったが、好記事である。
私自身は「ドラゴンボール」も「ハンター×ハンター」も好きだが、前者の創作対象はやや年少の男の子であり、後者は全体が好きというより、「キメラアント編」のキメラアントの王の死の場面の凄絶なロマンチシズムが、「至高のラブロマンス」として漫画史上に残るものだ、という「芸術的評価」である。「少年漫画」でこれを描いた富樫義博は天才だ。なお、私は同作品の悪役、ネフェルピトーも大好きで、富樫作品の女性キャラは魅力があることが多い。造形が素晴らしいので、正体が頑健な男(オカマ)であるらしいビスケも実に造形的、キャラ的に魅力がある。

(以下引用)

伊勢丹本店でトークショーに出席する声優の野沢雅子さん(右、悟空役)とアラレちゃん役の小山茉美さん、東京都新宿区、2017年5月2日© PRESIDENT Online
『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』など国内外で愛される漫画を世に送り出した鳥山明さんが死去。鳥山さんの漫画を読んで育ったというコラムニストの藤井セイラさんは「鳥山さんの描く女性は絵柄の造形的にも自然で、その生き方もわが道を行くもの。男性の願望を反映した役割消費はされず、素直に共感できた。鳥山作品は時代の先を行っていたのではないか」という――。

「Dr.スランプ」という題名がアニメ化の際「アラレちゃん」に

幼稚園の頃、アラレちゃんが大好きだったわたしに父が教えてくれた。


「本当は『Dr.スランプ』っていう漫画なんだよ。でもアラレちゃんが大人気だから、アニメでは『Dr.スランプ アラレちゃん』になったんだ」


女の子キャラの人気が出すぎて、作品タイトルが変わるだなんて! わたしは感動した。少年漫画雑誌に連載されていたのに、その人気で則巻千兵衛博士を食ってしまったアラレちゃん。それくらい鳥山明の描く女性キャラは、イキイキとして主体性があり、やんちゃで魅力的だった。


単なる絵的な「添え物」でもなければ、すべてを受け入れる寛容で忍耐強い「母」でもなく、高嶺の花の「マドンナ」でもない。泣き、笑い、怒り、知恵を働かせ、自分の意思で動いていく女の子キャラクター達。

『Dr.スランプ』は、フランケンシュタインを思わせる人造人間製造シーンから始まる。少女のサイボーグを則巻博士が接続している少しホラーな絵面で、先に完成しているアラレちゃんの頭部が「あ〜たいくつ」などとペチャクチャ喋り、博士がそれをウザったがる。ロボットなのに、いうことを聞かないのだ。

一人称が「オレ」のあかねちゃん、「クピポ」と破壊するガッちゃん

当初、博士とアラレは、ゼペットじいさんとピノキオのような、造物主と無垢な存在(タブラ・ラサ)という関係だった。しかし動きはじめたアラレちゃんは、ぶつかるものみなすべて壊す「キーン」というアラレちゃん走りと天才的頭脳、そして底抜けの明るさと怪力とで騒動を引き起こし、すぐさま博士の手には追えないペンギン村の人気者となる。


アラレちゃんの他にも、『Dr.スランプ』には印象深い女の子キャラが数多く登場する。不良ぶってはいるが根はいい子、一人称が「オレ」のクラスメイトあかねちゃん。その姉で喫茶店を経営する、客あしらいの上手い葵ちゃん。アラレの担任であり、則巻博士が恋する相手の山吹みどり先生。


それから「クピポ」と独自言語を話す、空飛ぶ破壊神ともいえる恐るべき赤ちゃん、ガッちゃん。サングラスで三輪車をかっ飛ばし「ナウい」「ダサい」と容赦なくなんでも批評する保育園児きのこちゃん。ちなみに彼女の前髪ぱっつんは、『Dr.スランプ』の連載開始より2年先にパリコレデビューした、当時のコシノジュンコそっくりである。

ドラゴンボールの第1話タイトルは「ブルマと孫悟空」だった!

ドラゴンボールでも女性の活躍は続く。そもそも第1話タイトルが「ブルマと孫悟空」。語順に気をつけて見てほしい。「悟空とブルマ」ではない。


少年漫画なのだから、ブルマは悟空から武力で一方的に守ってもらう「か弱き存在」として描かれてもおかしくはない。だが彼女は、ホイポイカプセルで悟空を驚かせ、科学技術の恩恵に与らせる。実家の太さ、受けてきた高い教育、メカニックの腕前、経済力、行動力、それらで悟空をある意味、圧倒する。


ブルマは夏休みに一人でバイクを駆って、自作のドラゴンレーダーで宝探しの旅をする、アクティブで自立した女子高校生なのだ。悟空から「おまえ」と呼ばれると、失礼だからやめてと拒否する。あくまでも「孫くん」「あんた」と呼んで対等さを示し、一定の距離を置く。

そして山育ちで礼儀も衛生観念もない悟空に、パンやコーヒーといった人間世界の食べ物を味見させ、入浴と歯磨きを指導し、男女の別を教え、レディーの前では脱がないようにと教育する。Dr.スランプでは則巻博士とアラレちゃんにあった「教育者」と「無垢なる天才」という構図が、ドラゴンボール序盤ではブルマと孫悟空に置き換わっている。

マドンナ、母親、天使――女性キャラは役割消費されがち

少年漫画の主人公は少年だ。当然、描かれる「女の子」はどうしても「客体としての女性キャラ」となる。例えば部活のマネージャー、憧れの先輩、争奪されるトロフィー、支えてくれた亡き母親などだ。


例えば映画『ONE PIECE RED』(2022年)には、CGで紅白にも出演した女の子キャラクター・歌姫UTAがいた。彼女は天才児で、父や師と仰いでいた男達から嘘を教えられて育ち、それに則って行動しただけなのに、最終的に物語全体の罪を負わされて自滅する。


UTAに歌声をあてたAdoとと楽曲群のすばらしさゆえにその悲惨さはあまり目立たないが、完全に捨て石だった。上げるだけ上げてから落とされて、いいところは少年ルフィが持っていく。愚かな女のしりぬぐいは大人の男シャンクスがしてくれる(騙していたのは彼らなのに)。21世紀になってもまだ少女はこんな使い捨ての駒として描かれるのか、と痛感させられた。

ブルマの冒険少女、仕事、子育て、経営者というキャリアパス

しかしブルマは違う。第1話から登場し、主人公とコミュニケーションを取り、ドラゴンボールという宝物の存在を悟空に教え、冒険のきっかけをつくる。ページにつねに出ているわけではないが、物語世界のどこかで生きていて、何か発明品を持って戻ってきては、悟空達を支える。ブルマは女性の目から見ても納得のいくライフステージの変遷をたどった。


恋する冒険少女の時代を経て(ヤムチャとつきあっていた)、仕事のできる大人となり、恋愛よりはむしろ憐憫の情からベジータと結ばれて息子(トランクス)を産み、育児をし、父・ブリーフ博士から家業のカプセルコーポレーションを継ぎ、子どもの手が離れ、また仕事がノッてくる時期までもが描かれる。

やがては会長職に就いて経営手腕を見せながらも、エンジニアとして手を動かす原点も忘れない。ブルマは年齢とキャリアにあわせ、髪型も服装も変わっていく。それなりにお金はかけていそうだが機能性を優先したファッション、流行を取り入れつつ意思の強さを感じさせる髪型、足元は動きやすいブーツが多かった。

「おっぱい要員」的な造形もなく、女性も読みやすかった

胸の大きさも自然だ。ドラゴンボールにも胸の大きな女性は登場するが、さまざまだ。やはり前述のONE PIECEでは、少女と老婆(醜さが強調されることが多い)以外の現役の女性は、人体の構造上これは無理だろうというレベルで胸が大きく、それを強調する衣装も多い。おっぱいのインフレーションが起きている。細い腰骨が折れないか心配になる。


ママ友が「最近のジャンプって油断するとめちゃくちゃおっぱいの大きい女の子が出てくるので、気軽には(息子に)買えない」と話すのを聞いたことがある。神経質と思われるかもしれないが同感だ。女性にはそう感じる人もいるのだ。

ナビゲーター的女性キャラは冨樫義博「幽遊白書」などにも

そういえば、鳥山明以外でも物語をナビゲーションする女性キャラの登場するジャンプ作品があった。冨樫義博の『幽遊白書』と『HUNTER×HUNTER』だ。前者では水先案内人が女性キャラであるし、後者は壮大で複雑な物語で、美女や小悪魔はもちろん、賢者や間者といったバラエティ豊かな女性キャラクターが登場する。彼女達の性格も、プロポーションやファッションも実にさまざまだ。


そういえば冨樫義博はその妻が『セーラームーン』の武内直子であるし、鳥山明もみかみなちという先輩漫画家と結婚している。時に制作を手伝うこともあり、「かめはめ波」を名づけたのも彼女だという。家庭内に対等かつ尊敬できる同業者がいるというのは、二人の共通点として挙げられるだろう。

プリキュアの20年前に、「ケア労働」から自由な女性を描く

ドラゴンボール』にはブルマだけでなく、他にも個性ある女性達が登場する。例えば一見おしとやか、男性の理想を引き受けたマリリン・モンロータイプに見えるランチさんは、「くしゃみ」がスイッチとなり別人格が表に出て銃を乱射する。また半ばおしかけ女房のように孫悟空の妻となり、悟飯という子をなして、しっかり教育を施すチチなどだ。


女性だってランチさんのように暴力性を発露することもあるし、チチのように家庭において夫をコントロールすることもあるのだ。


『ドラゴンボール』はその人気ゆえ、連載が長期化し、修行や冒険よりバトルが主軸となっていく。登場する女性キャラの数は相対的には少ない。それでもキラッと光る女性キャラクターが幾人もすぐに思い浮かぶのは、彼女達が「ケア労働」、つまり癒しや家事育児の担い手「のみ」としては描かれなかったからだろう。


「女の子だって暴れたい」をコンセプトに大ヒットした「プリキュア」シリーズが生まれたのが2004年。その20年以上も前に、鳥山明は自分の意思を持って生きる女性像を、少年漫画の中でごく自然に描いてくれた。

血統主義、血縁主義からは遠い、柔軟な家族観とキャラクター造形

そもそもアラレちゃんと則巻博士は血のつながらない家族だ。孫悟空も山で拾われた孤児である。悟空の息子・孫悟飯は、両親のもとではひ弱なお坊ちゃんだったが、ナメック星人のピッコロに育てられて大きく成長する。ピッコロにいたっては卵生で「親の愛」など知らないはずだが、悟飯を身を呈して守る。


女性観だけでなく、家族観や子ども観もまた柔軟なのかもしれない。父はこうあるべき、母はこうあるべき、子とはこうあるべき、という固定観念から自由な世界がそこにはあった。血統主義、血縁主義ではないのである。


少女漫画も恋愛の成就で物語が終わってしまい、女性の「その後」を見せてくれるものが少なかった子ども時代に、天才で怪力で奔放なアラレちゃんや、仕事と家族の充実を体現するブルマを見ると、何かスカッとする思いを抱いたのを覚えている。あの感覚は、いまにして思えば「エンパワメント=本来持っている力や才能を気づかせて開かせようとする作用」だったのかもしれない。

おきまりの言い方になるが、ようやく時代が、鳥山明がナチュラルに描いていたこの家族像、女性像、子ども像に追いついた、とも感じられる。これから先のクリエイターにとっても、彼の偉大な作品は折にふれてヒントをくれるものとなるだろう。


---------- 藤井 セイラ(ふじい・せいら) ライター・コラムニスト 東京大学文学部卒業、出版大手を経てフリーに。企業広報やブランディングを行うかたわら、執筆活動を行う。芸能記事の執筆は今回が初めて。集英社のWEB「よみタイ」でDV避難エッセイ『逃げる技術!』を連載中。保有資格に、保育士、学芸員、日本語教師、幼保英検1級、小学校英語指導資格、ファイナンシャルプランナーなど。趣味は絵本の読み聞かせ、ヨガ。 ----------


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「稗つき節」の歌詞の謎

「ツネさんのフォトブログ」という、たまたま見つけたブログから記事を転載する。
子供のころから気になっていた「稗つき節」の謎の歌詞の意味を調べたいと思って探しているうちに出会った記事だ。
いや、そもそも、その名前が「稗つき節」だというのも探していて知ったが、歌詞はほとんどがコピー不可能なので、その第一節だけ下の記事で読むしかない。この手の民謡の歌詞までコピー不可能というのはおかしいのではないか。いったい誰に著作権があって転載不可なのか。

それはともかく、この歌詞のどこが謎なのかというと、

1:「サンシュウの木」とは何か。
2:「鈴の鳴る時は 出ておじゃれよ」とは誰に向かって言っているのか。

の2点で、1は、宮崎県では「山椒」を「さんしゅ」と言うと下の記事で知った。
問題は2で、これは歌詞の2番3番を見ても、納得できない。どうやら、牛飼いか馬飼いに呼びかけている感じだが、なぜ「鈴の鳴る時」に限定されるのか。木の枝に掛けた鈴なら、風が吹く度に鳴るだろう。私は、幽霊か、妖怪か、死んだ親しい人の魂に向かって「鈴の鳴る時は 出ておじゃれよ」と呼びかけているのかと想像していた。

ちなみに、この民謡は、おぼろげな記憶だが、亡父が友人たちとの酒宴で、酔った時に歌ったような記憶がある。つまり、亡父に関する記憶である。これもちなみに言えば、「百舌鳥が枯れ木で鳴いている」も亡父の好きな歌だったように覚えている。哀調のある歌が好きだったようで、いいセンスだったと思う。


(以下引用)下の記事では説明が無いが、「山茱萸(サンシュユ)」は、俗に「山グミ」と呼ばれているものだろう。グミの酸っぱい実を味わった経験のある人も今は少なくなっているかと思う。


サンシュユって、「ひえつき節」の歌詞に出てくる木?(2016.03 No.10)

2016-03-11 18:02:44 | 草花
宮崎県の民謡「ひえつき節」に出てくる歌詞、
「庭のさんしゅうの木 鳴る鈴かけてヨーホイ 鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー」
の“さんしゅう”は、このサンシュユの木の事かと思っていたのですが、調べてみるとそうではなくて“山椒”の事なんだそうです。宮崎県では“山椒(サンショウ)”の事を“サンシュ”と呼んでいるらしいです。
ということで、「ひえつき節」の歌詞に出てくる木ではありませんが、サンシュユの黄色い花が真っ盛りです。
 (いずれも大阪府河内長野市の花の文化園で撮影)
*以下の写真をクリックしていただければ、もう少し大きなサイズで見ることができます*
(元に戻られる際は、ブラウザーの「戻る」ボタンで戻ってください)

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ギャッツビーが「偉大な」理由

これも私の別ブログに書いたばかりの記事だが、ここにも載せておく。

(以下自己引用)
フィッツジェラルドの「The great Gatsby」の日本語訳題名が「華麗なるギャッツビー」というアホな訳がされているのはみなさんご承知だろうが、これはその当時映画題名に「華麗な(る)」という題名を付けるのが流行っていたため、映画がそういうアホな題名になり、その後では小説もそういう題名を踏襲しているだけなのを知っている人も少なくなったのではないか。当然、原題は「偉大なるギャッツビー」と訳すべきものである。
ところで、このアホな死に方をした、どうやらギャングの小ボス、あるいは成り上がりチンピラらしい男がなぜ「偉大な」とされているか、ということを問題視した人はあまりいない気がする。
というのも、フィッツジェラルドはアメリカ文壇では群小作家のひとりだとされているからではないか、と思われるし、それも当然ではないか、と私は思うが、別の面では大作家たちが足元にも及ばない重要性を持った作家だとも思っている。たとえば、私はほとんど読んだことがないが、スタインベックとかフォークナーなどは、長い作品を書いただけの、根気のある鈍才作家だと見ることも可能だろう。そこは趣味の問題だ。
では、なぜフィッツジェラルドが重要作家だと私が思うのか。それは、彼の詩人性と思想性にある。このふたつは一体である。つまり、彼は詩も哲学書も書かなかった詩人であり思想家なのである。そして、小説を書く才能(「物語」を作る才能)が無いのに小説家になった、「道を間違えた」作家だ、というのが私の考えだ。

「偉大なるギャッツビー」は、私が昔から気になっている作品なのだが、小説を読んだこともなく、映画もまともに見たことがない。映画は、レッドフォード版をテレビで見たと思うが、ほとんど覚えていない。ところが、小説を読まなくても、私はこの作品を日本で一番理解している人間、いや、それは言い過ぎだが、この作品の精神をかなり理解している人間のひとりだという気がする。それは、この作品の本質が、作品冒頭に書かれたエピグラフ(引用句)にあると思うからだ。極論すれば、この小説を読まなくても、小説の大筋を知っていて、このエピグラフに感動できるなら、それはこの作品を本質的に理解したということである、と私は思う。何しろ、フィッツジェラルドは「小説の下手な小説家」なのだから、真面目に作品を読むと、かえって混迷に陥るとすら私は思うのである。

そこで、ダイジェスト好きの私が、この作品を思い切ってダイジェストしてみるつもりだ。英語版を元にするつもりだが、私は英語は苦手なので、この作品の「本質」を示す部分だと私が思う部分だけを訳(意訳になるだろうが)してダイジェストにする。
まあ、冒涜的作業と思う人もいるだろうから、そういう人は、次回の「偉大なるギャッツビー」ダイジェストを読まなければいい。
念のために言うが、「物語」的部分はほとんど省略するので、ダイジェストではなく、作品の「エッセンス」と言うのが適切だと思う。つまり、一種の「作品評論」でもある。







 そして、彼女が望むなら金の帽子をかぶるがいい
 高く跳ね上がることができるなら、彼女のために跳ねるがいい
彼女が「金の帽子をかぶった恋人よ 高く跳ね上がる恋人よ
 私はあなたを愛します」と言うまで
                 (トーマス・パーク・ディンビリエ)


ーーーーーーーーー

ただギャッツビーだけが私の反発心から免れていた。ギャッツビーは、私が自然な軽蔑心を持つすべてを代表していたのだが。
仮に個性というものが、途切れることなく続けられた一連のジェスチャー(身振り:仮装や演技)であるなら、彼には何か豪華なものがあった。約束された人生への高められた敏感さのようなものが。
それは軟弱な感受性とは異なる、希望を求める度外れた才能、ロマンチックな心構えとでも言えそうなもので、私が他の誰にも見たことがなく、これからもおそらく見いだせないと思う。
ギャッツビーは、その正しさを最後に証明した。「希望」はギャッツビーを捉えたのである。
彼の夢からの目覚めに伴う汚いゴミの浮遊物は、悲哀の不毛さや人間の意気揚々たる絶頂期のはかなさへの私の目を時々閉ざさせるのである。

ーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーー

ギャッツビーは青い信号を、熱狂的な未来を信じた。その未来は我々には毎年のように後退していくのである。そして、我々の傍を巧みにすり抜けていく。だが、それは問題ではない。ーーー明日は我々はもっと速く走るだろう。両腕をより遠くに伸ばして。……そして、ある晴れた朝にーーー
だから我々は流れに逆らってボートを漕ぎ続ける。絶え間なく過去に押し戻されながら。














(夢人追記)

あまりにも露骨な説明なので、書かないほうがいいかもしれないが、要するにギャッツビーとは、存在しない「永遠の恋人」の幻のために、滑稽な金の帽子をかぶって高く跳ね上がって墜落して死んだすべてのアホな男の象徴である。そして彼らのその度を超した愚かさこそが「偉大」なのである。
今では、女性への崇敬(女性の神格化)というものは女性にとって唾棄すべき概念とフェミニストの女性たちから言われていると思うが、はたしてそれは男にとっても女にとっても幸福な在り方なのだろうか。
少なくともギャッツビーという存在には、ある種の永遠性、象徴性があるようだ。

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児童文学の心理学

市民図書館から借りて来た、リンドグレーンの児童文学「ラスムスくん英雄になる」を、気の向いた時に間断的に読んでいるが、リンドグレーンというのは、少し前の流行語で言えば「根が暗い」作家だな、という気がする。つまり、脳天気な子供の世界の背後に、常に、どこか暗い大人の世界がチラチラしている感じが私にはある。たとえば、「名探偵カッレくん」などだと、子供の探偵ごっこの世界に実際に現実の殺人事件が起こるのである。(子供のころ読んだ記憶で書いているので、本当にそういう内容だったか確かではないが。)

で、ここで論じたいのは、昨日書いた「エランヴィタール」と「フランヴィタール」の話である。その定義を私なりにすれば、エランヴィタールとは「無秩序な生命力」、フランヴィタールとは「秩序ある生命力」で、後者は、「生命力」の本質とは異なるもので、前者だけが本当の生命力だろう、と私は思う。鋳型にはめられた生命力というのは本質的生命力ではなく、外的な力の産物だろう。だが、その概念を使うなら、人間の人生とは、(その良し悪しは別として)エランヴィタールがフランヴィタール化される過程である、と言えるのではないか。
たとえば、性欲の発現の仕方は原始的な無秩序性から、倫理や法律や習慣(風習・制度)という社会的強制によって「許容される性発現」と「許容されない性発現」に分けられていく。これは女性を「所有物」としていた男社会の産物で、女性は概してこの分化に否定的な感情を持っている、つまり性的アナーキズムに惹かれる傾向があると感じる。女性の自然性と言ってもいい。だが、性的アナーキズムの下では、性交(強姦含む)はあっても恋愛や結婚は無い、と私は考えているので、恋愛や結婚という人工的文化を完全に否定していいのかどうか、非常に疑問視するわけだ。

これが児童文学とどう関係するかと言えば、児童文学がなぜ「腕白小僧」を主人公にするか、という問題を私は論じたいわけだ。
腕白小僧の言動は周囲の迷惑だが、外部の観察者や観客の目からは「面白い」から彼らを主人公にする、というのがその理由だろう。では、彼らはなぜ周囲に迷惑な行動をするのか。それが「エランヴィタール」の発現だからである。彼らは社会について無知だから、やっていい行動といけない行動の区別がつかない。だから、結局は、活発な子供は傍迷惑な腕白小僧の行動をし、おとなしい子供はやりたいことをじっと我慢する。どちらが「話として面白い」かは明白だろう。

子供の頭の中の知識は、「理解されず、知っているというだけの、ゴミのような、無秩序な知識」と「整理され、理解された有益な知識」に分類される。前者でも、その知識が冗談のネタにはなるから、無益だとばかりは限らないが、人生の指針や参考にはならないわけだ。学校で習う知識の大半が、結局はそういうもので終わることは誰でも認めるだろう。まあ、進学に有益なだけだ。

で、知識についても、「無秩序から秩序へ」という進行が頭の中で起こるのが知的進化だろう、というのが私の説だ。つまり、エランヴィタールからフランヴィタールへというわけである。
だが、どんな大人の中にも、子供のころの「無垢な(白紙の)状態で」世界を見ていた、あのころへの懐かしさというものがあり、それが子供期をある種の「黄金時代」と思わせるのだろう。


ついでに書いておく。私は2週間に1回、市民図書館から10冊の本を借りてくるが、そのほとんどは最初だけ読んで、読む価値がないと判断したら、それ以上読まないで返す。で、借りる本の半分くらいは児童書である。児童書を「大人の目」で読むと非常に面白いのである。もちろん、その大半は屑であるが、中に非常に優れたものがある。逆に、高名な作家の「大人向け文学」でも、私にはまったく興味を惹かないものもゴマンとある。むしろ、興味を惹くもののほうが希少である。それ以前に、「読むのが面倒くさい」ものが多い。(今回は気まぐれで大江健三郎の「宙返り」という小説を借りてきたが、彼がどういう意図でこれを書いたのか、さっぱり分からず、興味も惹かれないので途中放棄した。登場人物の女性が、奇妙な「事故」で処女喪失する話が冒頭にあるのだが、そのエピソードがどういう「重要な」意味を持って、わざわざ話の冒頭に書かれたのか、理解する気にもなれない。)大衆小説は読みやすさはあるが、たいていは「読むのが時間の無駄」だったということが多い。人生の残り時間が少ない年齢だと、「読むのが面白い」や「読んで有益だった」ということが大事になるのである。
たとえば、現代のアメリカインディアンの少年が、白人の高校に転校する話を書いた「はみだしインディアンの物語」という小説は、現代のインディアンの置かれた状況(主人公の家族や知人が無意味にゴロゴロ殺される。あるいは他人の過失で事故死する。)を舞台に、主人公が悪戦苦闘する様がユーモアを持って書かれて、面白い。まあ、そのユーモアの質はかなりブラックなので、読む人に不快感を与える可能性が高いが、「読んで有益な」作品であるのは間違いない。そういう本が児童文学の書棚(YA、つまりヤングアダルト本だが)にあったりするのである。あるいは、R・L・スチーブンソンの「誘拐されて」などが児童文学に分類されていたりする。これは作者が「宝島」の作者だからという偏見からだろう。実際は、彼の時代のスコットランドの置かれた政治状況を舞台にした高度な「大人向け」小説だが、子供でも読める娯楽性の高い冒険小説だ。それが大人の目に触れない場所にあるわけだ。



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酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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