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完了形とは何か

目覚めの際にそのまま寝床の中で本を読むことが私は多いが、それは睡眠時間が短くて深夜に目覚めるのが恒常的だからだ。で、老眼が進行しているので、本が読みにくいが、寝床に横になったままだと眼鏡をかけることができない。そのため、裸眼で本を読んでいると眼と脳が疲れるので時々眼を閉じて休憩する。脳を休めるためには、難しい思索はダメだろうから、頭の中で何か好きな曲やその歌詞を考える(思い浮かべている)ことが多い。当然、自分が若いころに知った曲以外は歌詞を覚えている歌など無い。
先ほど頭の中でグルグル回っていたのは、エルビス・プレスリーの「振られた気持ち」という、最低な題名の歌で、原題はたしか「I have lost you」だと思う。(今調べると、これは私の勘違いで、「去りし君へのバラード」だった。せっかく書いたので、先ほど書いた部分を誤解のまま残しておく。「去りし君へのバラード」も駄目タイトルだと思う。お前は吟遊詩人か。)まあ、全体の歌詞の内容の大筋から言えば「振られた気持ち」という訳は間違いではないが、これは「精神的に離婚寸前の夫婦」の夫側の気持ちの歌なのである。夫は妻を愛しているので、「振られた気持ち」で間違いではないのだが、これは「愛が終わった」という状態の悲しみを描いているのであって、「振られた」云々ではない。ちなみに、この歌は「エルビス・オン・ステージ」の映画やCDに入った歌だ。そのCDを私は持っているので、後で歌詞を転載しておく。
で、最初に書こうと思ったのは、「(英文法の)完了形とは何か」だったが、私の考えを簡単に言えば、「完了形」とは、まさに「完了」を表す表現で、「完全に終了した」意味である。単なる過去を表す過去形とは違って、その「終わった事実」が今そこにあるということだ。「I lost you」なら過去の事実で、それが現在どういう気持ちを残しているかは分からない。しかし、「I have lost you」だと、「あなたを失った」という事実がまさに目の前にあるわけだ。have自体が現在形であるのが、それを示している。「lost you」という事実を今現在「have」しているわけである。

I've lost you(去りし君へのバラード)

Lying by your side I watch you sleeping
and in your face the sweetness of a child
Murmuring the dream you won't recapture
Though it will haunt the corners of your mind

*Oh, I've lost you ,Yes,I've lost you
I can't reach you anymore
We ought to talk it over now,
But reason can't stand in for feeling

Who can tell when summer turns to autumn
And who can point the moment love glows  cold
Softly without pain the joy is over 
Though why it's gone we neither of us know

[*Repeat twice]第二節(*のついた節)を繰り返す意味

Six o'clock the baby wll be crying
And you will stumble,sleepig, to the door
In the chill,and sullen gray of morning
We play the part that we have learned too well

[Repeat 3 times with adlib]前と同じく*部分を繰り返す意味

ついでに言えば、叙事的部分の2番目の節、「Six o'clock~」の中の「the baby will be crying」は「未来進行形」ではないかと思う。つまり、未来に進行状態で起こることを「現在の実感で」表しているのではないか。そこが単なる未来形の「The beby will cry」との違いだろう。
その次の「And you will stumble,sleepng ,to the door」の情景描写が実に見事だ。寝起きの朦朧状態でふらふらとドアに向かって歩いていく妻の姿が目の前に見えるようである。
最後の「We play the part that we have learned to well」も、夫婦として「終わった」状態で、それぞれの役割を「演じている」姿の切なさに溢れている。
これもついでに言えば「reason can't stand in for feeling」も名文句だと思う。「『理由』は感情を説明できない」とでも訳するか。あるいは「理屈は感情の代わりにならない」か。理性と感情は別物、というわけだ。感情を理屈で片づけるのが、私を含めて多くの男に共通する欠陥ではないか。だから男に子供や幼児の世話は無理なのだろう。「なぜ泣くのか、ちゃんと説明しろ!」と赤ん坊に向かって言いかねないww








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「沖の少女」あるいは「海の上の少女」

脳内世界の冒険では、いくつになっても新しい驚きがある。無知な人間ほど、新しい発見に出会う喜びも多いわけだ。もちろん、知識の多い人間でもその知識は限定されているのだから、関心の幅を広げれば、喜ばしい出会いもたくさんある。
さすがにこの年になると、今から音楽の勉強をしたり科学の勉強をしたりするつもりもないが、小説を読むにしても、未読の傑作は無数にあるわけである。まあ、「食わず嫌い」を少し治すだけでも、脳内世界は広がるのである。

などと書いたのは前置きで、ここのところ、これまで知らなかった傑作に出会うことが多いので、こうした前置きを書いたわけだ。で、その傑作の多くは、市民図書館の「児童文学」コーナーでたまたま借りた本の中にあったものだ。大人向けだと、実は「純文学」が少なくて、ここ30年くらいの間に出たベストセラー大衆小説の類が多いのである。その中には傑作もあるが、残念ながら、やはり「俗臭」が付きまとうのが大半だ。ところが、児童文学には実は「純文学」の傑作が含まれていたりするのである。
先ほど、寝床の中で読んでいた「ホラー短編集3 最初の舞踏会」の中のひとつで、シュペルヴィエルという作家の「沖の少女」という作品が、その大傑作なのだが、私はこの作家の作品を読むのも初めてで、名前は聞いたこともある気がするが、まったく関心は無かった。この短編集の中に無かったら、一生この作家の作品を読むことは無かっただろう。つまり、この大傑作を一生知らずに終わるという残念なことになったわけだ。
この短編集の編者でもある平岡敦という人の翻訳だが、他の作品の翻訳も見事で、作品選択も素晴らしい。モーリス・ルブランの「怪事件」というわずか8ページで見事な不可能犯罪を描いたものなど、ルブラン嫌い(というよりルパンのキャラが嫌い)な私としては、この短編集に入ってなかったら絶対に読まなかったはずだ。まったく、どこからどう考えても絶対に不可能な犯罪で、私は最後の2ページ手前で読むのをやめ、頭を悩ませて考えたのだが、どうしても解答が見いだせずあきらめたのだが、残り2ページでのその見事な「解決」に驚き、感嘆したものである。しかも、その解答は、あらゆる推理小説、あるいはすべての不可能犯罪の解答として見事に成立するのである。まあ、騙されたと思って読んでみるといい。
話を戻して「沖の少女」だが、その作品の扉絵を佐竹美保という挿絵画家が描いていて、この人は児童文学の挿絵をたくさん描いているひとだが、この作品ではキリコの「憂愁と神秘の通り」をアレンジした絵を描いている。まさに、そのイメージを連想させる短編小説なのである。つまり、詩と神秘の世界だ。死という神秘の世界と言ってもいい。まさに、死とはこういう世界かもしれない、あるいは、死がこういう世界だとしたら、それは地獄よりも恐怖の世界かもしれない、というもので、しかし、話自体は淡々と、むしろ詩情の中で進んでいくのである。それはまさにキリコのあの絵を見ている時の気持ちなのだ。まあ、言葉を換えれば、萩原朔太郎や中原中也や立原道造や宮沢賢治の詩情を思わせる世界の中に「地下鉄のザジ」を投げ込んだ印象だろうか。ただ、ザジが実は地下鉄に一度も乗れないように、この少女も生の世界から切り離されているのである。

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「スキュデリお嬢様」

ホフマンの「マドモワゼル・ド・スキュデリ」を読んだが、傑作である。題名からは想像もつかない「探偵小説」であり「冒険小説」であり「裁判小説」である。幻想文学の作家として知られるホフマンには珍しいリアリズム小説であり、しかも人間心理の機微を深くえぐっている。
前から何度か言及しているバルザックの傑作「暗黒事件」を中編にしたようなものだ。(時代的にはこちらが先。)

題名が魅力がない、と何度か書いたと思うが、森鴎外はこの作品を翻訳していて、私は未読だが、その題名が「玉を抱いて罪あり」という、作品内容を見事に表したものだ。(鴎外の翻訳小説はほとんどが彼が惚れこんだものだけに、実に面白いのである。)
ちなみに、この「マドモワゼル」は73歳の貴族老嬢で、小説家・詩人でもある。その言語能力が彼女を活躍させる(被告人弁護の)基盤にもなるわけだ。「スキュデリお嬢様の大冒険」とでもしたらいいが、それだと中期の高野文子あたりが描いたようなコメディに思われそうである。
ほとんど解決不可能な犯罪事件をいかにして解決するか、という話であるが、そこはルイ14世時代のフランスの話であるから、それ相応の解決策もある。しかし、基本的に話のすべてが合理的で、大審院判事でもあったホフマンの経験が裁判話のリアルさ(無実の被告を救う困難さ)の土台になっているようだ。裁判が被告側にいかに不利かは「暗黒事件」でも書かれている。あらゆる証拠や証言は警察と検察が握っているのである。(クリスティの「検察側の証人」は、それを引っくり返したところに面白さがあるわけだ。)
推理小説ではよく「不可能犯罪」がネタになるが、これは最後に解明されるから実は「不可能犯罪」ではない。で、「マドモワゼル・スキュデリ」は「不可能弁護」の話である。この弁護が成功するかどうかは読んでのお楽しみだ。
ホフマンは幻想文学など書かずに、こうした「リアリズム小説」をたくさん書いていたほうが大文豪になったのではないか。音楽家としても大成はしなかったのだから、「間違った方向に努力する」名人だった気がするww






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小説と「読者の視点」

私はドストエフスキーの作品はかなり読んだ部類だと思うが、「二重人格」と「貧しい人々」は読んでいない。前者は途中まで読んで中断していたが、そこまで読むのにかなり難渋していた。後者は、「あまり楽しくない話だろうな」という予想があるからで、私にとって読書とは何よりもまず快楽であり娯楽だからである。「二重人格」を読むのに難渋したのも、それが「楽しくない」からだった。何しろ、主人公が人格低劣な下級官吏で、その心理を精細に描くのだから楽しいはずがない。
しかし、先ほど、寝床の中で同書を数ページ読んで考えたのだが、これは読む側が主人公に感情移入して読んではいけない種類の小説ではないか。つまり、主人公と同じ平面で世界(小説世界)を見るのではなく、主人公も含めて小説世界を「高みから見下ろして眺める」小説ではないか、ということだ。言葉を換えれば、この作品は喜劇、あるいは笑劇であり、読み手が心理的にその作中人物と同じ平面にいては、「笑えない」のである。
だが、読者の多くはふつう、小説の主人公に感情移入するものだ。そこに「二重人格」の読みにくさや不快感の原因があるということだ。感情移入してはいけない主人公に感情的に同化していてはそうなるのが当たり前だろう。

そこで思い出したのが深沢七郎の「絢爛の椅子」である。これは女子高生殺人事件の殺人犯の少年の心理を克明に描き出した小説だが、読者は読んでいる途中から、この少年の精神が、読んでいる自分とは別種の、しかし世間にはごくありふれた種類の精神でもあることに気づくのが大半だと思う。そこで、読者の心理の安全性は保たれるのだが、その一方で、世間にこうした殺人者の精神を持った人間がたくさんおり、自分の間近に無数に蠢いていることに不安感も持つのである。
これは石原慎太郎の初期の作品である「処刑の部屋」(訂正→「完全なる遊戯」)でも同じだ。小説家の中には、この種の「天才的想像力」を持つ人間がおり、つまり殺人者(アモラルな人間、低俗な人間、低知能の人間等等)の心理に「成り切れる」才能の持ち主だ。当然、世間の「普通の人間」は、この種の作品に嫌悪感を持つ。それが健全でもある。だが、文学の可能性は、この種の「冒険性」で切り開かれるものでもあるだろう。

ついでながら、「作中人物=作者」ではないのは当然だし、「主人公=作者のヒーロー」でもない。私はドストエフスキーの「未成年」を読むのに難渋していたが、当たり前の話で、主人公の青年は馬鹿な未成年者であるからだ。つまり、感情移入しにくい人物で、むしろ感情移入するべきではない存在なのである。そこで、主人公(語り手でもある)は馬鹿な未成年者だという視点で高みから見下ろすと、この小説世界がクリアに見えてきて、実に面白い小説になったのだが、これは「読書の難しさ」という一面を示してもいるようだ。そんな面倒くさい作業は嫌だ、という人もいるだろうが、それは「雲丹(蟹でも海老でもいいが)の姿は気持ち悪いから食うのも嫌だ」という、もったいない話である。私自身、こうした読み方が(いつもではないが)できるようになったのはごく最近なのである。

なお、この外に、川端康成の「夏の靴」などを念頭に置いた「小説とポエトリー(詩情)」という思考テーマも考えたが、それはいずれ考えたい。「夏の靴」は、心の部屋の壁に飾っておきたい(特選の)「小さなスケッチ画」である。




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描写の視点の問題

別ブログに書いた記事に、少し付け加えて小論にする。
先に、自己引用をして、その後で追記を書く。

(以下自己引用)
恩田陸は小説の名手で、文章の達人だが、その名手でも基本的な、単純な間違いはするという例である。「光の帝国」の一話から抜粋。

私は眼下を通ざかっていく、その男を青ざめた顔で見送った。


言うまでもないだろうが、これは一人称描写である。つまり、視点はあくまで「語り手(この小説では「私」)」にある。である以上、鏡やガラスに写った自分の顔でもないかぎり、自分の顔が「青ざめている」とは分からないはずだ。
そんなことは分かり切っている、私(作者)はそう書きたいからそう書くのだ、というのもひとつの創作姿勢ではあるだろうが、読者としてはかなり興ざめすることは否めない。まあ、やはりうっかりミスなのではないか。そして、編集者もその点を見落としたのだろうと思う。
(追記)

最近読んだ「夏と花火と私の死体」(乙一)の冒頭あたりに、次のような描写がある。最初に読んだ時に、私は上記の引用文と同じ感想を持ち、かなり興ざめしたが、最後まで読んで、この作品は唯一無二の傑作だ、と思った。だが、冒頭の「一人称描写」のミスが、ミスなのか、意図的にそう書いたのかは分からない。語り手の「私」は既に死んだ人間だから、普通の人間とは違う感覚を持っており、自分自身を「外部から」見ることができるのだ、としても、この段階ではまだ「生きている」のである。幽霊は時間も超越しているから問題なし、とするのだろうか。あるいは最初から「死者の思い出話」だから、ここには「ふたりの私」がいるのか?
などと事々しく書いたが、その記述自体は一見単純で、上記の自己引用で批判したのとまったく同じである。

わたしは羨ましそうに石垣を見ながらつぶやいた。

この「羨ましそうに」が問題なのである。これは、他者の目から見た表現であり、自分で自分の顔や表情が「羨ましそう」かどうかは分かるはずがない。つまり、ここでは描写の視点の混乱があるわけである。
まあ、こういう細部はどうでもいいくらいで読むほうがいいのだろうが、私は気になるのである。おそらく正解は、「死者の思い出話」だから、「ふたりの私」がいる、ということになるのだろう。つまり、恩田陸の「光の帝国」とは事情が違う、という結論になりそうだ。
なお、傑作だが二度と見たくない映画(アニメ)の代表作である「火垂るの墓」の冒頭部が、死者の語りである。主人公の少年の霊が、死んでいる自分の死体を見下ろしている場面での少年のモノローグから始まる。




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ある「虚無主義者」の死

北村薫編の「こわい部屋」という短編アンソロジーの中に林房雄の「四つの文字」という短編小説が入っていて、そこに描かれた南京政府(日本の傀儡政権)の某大臣(実在の人物だとして描いている)の姿が、ある種の怪物で、その怪物性の理由がおそらく「エゴイズム」と「虚無主義」のふたつから来ているように思われて興味深い。
最近はやりの「自分軸」という言葉も、単純に言えば「エゴイズム」となるのだが、その「エゴイズム」という反面、あるいは正体を世間ではあまり言わない。上記の作品中の某大臣も、世間のすべてを自分の欲望のために利用するエゴイストというだけの話で、経済界や政界にはありふれた種類の人間だが、その能力の高さが彼を「怪物」的存在にしているわけだ。
で、ここで彼を「虚無主義」だとしたのは、彼の全能性の立脚点がそこにあると思うからである。つまり、世間的な美徳やルールを彼は信じていない。冷笑している。だからこそ怪物になるのである。「虚無主義」とは、何も「すべてが虚無だ」と嘆くだけのセンチメンタリズムではない。
ちなみに、彼は南京政府の瓦解とともに自殺するが、彼は最初から南京政府という存在を信じておらず、ただそれを自分のために利用したのである。彼の自殺もいわば「見るべきものは見つ」というだけのことだろう。
まあ、ネタバレをしたら価値が無くなるという作品でもないから、彼の残した「四つの文字」をここでバラすが、それは「学我者死」(「我を学ぶ者は死す」あるいは「我を学ぶは死す」)である。「学ぶ」とは「真似る」意味とするのがいいだろう。

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優れた「少年漫画」は女性キャラに魅力がある

記事タイトルがコピーできなかったが、好記事である。
私自身は「ドラゴンボール」も「ハンター×ハンター」も好きだが、前者の創作対象はやや年少の男の子であり、後者は全体が好きというより、「キメラアント編」のキメラアントの王の死の場面の凄絶なロマンチシズムが、「至高のラブロマンス」として漫画史上に残るものだ、という「芸術的評価」である。「少年漫画」でこれを描いた富樫義博は天才だ。なお、私は同作品の悪役、ネフェルピトーも大好きで、富樫作品の女性キャラは魅力があることが多い。造形が素晴らしいので、正体が頑健な男(オカマ)であるらしいビスケも実に造形的、キャラ的に魅力がある。

(以下引用)

伊勢丹本店でトークショーに出席する声優の野沢雅子さん(右、悟空役)とアラレちゃん役の小山茉美さん、東京都新宿区、2017年5月2日© PRESIDENT Online
『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』など国内外で愛される漫画を世に送り出した鳥山明さんが死去。鳥山さんの漫画を読んで育ったというコラムニストの藤井セイラさんは「鳥山さんの描く女性は絵柄の造形的にも自然で、その生き方もわが道を行くもの。男性の願望を反映した役割消費はされず、素直に共感できた。鳥山作品は時代の先を行っていたのではないか」という――。

「Dr.スランプ」という題名がアニメ化の際「アラレちゃん」に

幼稚園の頃、アラレちゃんが大好きだったわたしに父が教えてくれた。


「本当は『Dr.スランプ』っていう漫画なんだよ。でもアラレちゃんが大人気だから、アニメでは『Dr.スランプ アラレちゃん』になったんだ」


女の子キャラの人気が出すぎて、作品タイトルが変わるだなんて! わたしは感動した。少年漫画雑誌に連載されていたのに、その人気で則巻千兵衛博士を食ってしまったアラレちゃん。それくらい鳥山明の描く女性キャラは、イキイキとして主体性があり、やんちゃで魅力的だった。


単なる絵的な「添え物」でもなければ、すべてを受け入れる寛容で忍耐強い「母」でもなく、高嶺の花の「マドンナ」でもない。泣き、笑い、怒り、知恵を働かせ、自分の意思で動いていく女の子キャラクター達。

『Dr.スランプ』は、フランケンシュタインを思わせる人造人間製造シーンから始まる。少女のサイボーグを則巻博士が接続している少しホラーな絵面で、先に完成しているアラレちゃんの頭部が「あ〜たいくつ」などとペチャクチャ喋り、博士がそれをウザったがる。ロボットなのに、いうことを聞かないのだ。

一人称が「オレ」のあかねちゃん、「クピポ」と破壊するガッちゃん

当初、博士とアラレは、ゼペットじいさんとピノキオのような、造物主と無垢な存在(タブラ・ラサ)という関係だった。しかし動きはじめたアラレちゃんは、ぶつかるものみなすべて壊す「キーン」というアラレちゃん走りと天才的頭脳、そして底抜けの明るさと怪力とで騒動を引き起こし、すぐさま博士の手には追えないペンギン村の人気者となる。


アラレちゃんの他にも、『Dr.スランプ』には印象深い女の子キャラが数多く登場する。不良ぶってはいるが根はいい子、一人称が「オレ」のクラスメイトあかねちゃん。その姉で喫茶店を経営する、客あしらいの上手い葵ちゃん。アラレの担任であり、則巻博士が恋する相手の山吹みどり先生。


それから「クピポ」と独自言語を話す、空飛ぶ破壊神ともいえる恐るべき赤ちゃん、ガッちゃん。サングラスで三輪車をかっ飛ばし「ナウい」「ダサい」と容赦なくなんでも批評する保育園児きのこちゃん。ちなみに彼女の前髪ぱっつんは、『Dr.スランプ』の連載開始より2年先にパリコレデビューした、当時のコシノジュンコそっくりである。

ドラゴンボールの第1話タイトルは「ブルマと孫悟空」だった!

ドラゴンボールでも女性の活躍は続く。そもそも第1話タイトルが「ブルマと孫悟空」。語順に気をつけて見てほしい。「悟空とブルマ」ではない。


少年漫画なのだから、ブルマは悟空から武力で一方的に守ってもらう「か弱き存在」として描かれてもおかしくはない。だが彼女は、ホイポイカプセルで悟空を驚かせ、科学技術の恩恵に与らせる。実家の太さ、受けてきた高い教育、メカニックの腕前、経済力、行動力、それらで悟空をある意味、圧倒する。


ブルマは夏休みに一人でバイクを駆って、自作のドラゴンレーダーで宝探しの旅をする、アクティブで自立した女子高校生なのだ。悟空から「おまえ」と呼ばれると、失礼だからやめてと拒否する。あくまでも「孫くん」「あんた」と呼んで対等さを示し、一定の距離を置く。

そして山育ちで礼儀も衛生観念もない悟空に、パンやコーヒーといった人間世界の食べ物を味見させ、入浴と歯磨きを指導し、男女の別を教え、レディーの前では脱がないようにと教育する。Dr.スランプでは則巻博士とアラレちゃんにあった「教育者」と「無垢なる天才」という構図が、ドラゴンボール序盤ではブルマと孫悟空に置き換わっている。

マドンナ、母親、天使――女性キャラは役割消費されがち

少年漫画の主人公は少年だ。当然、描かれる「女の子」はどうしても「客体としての女性キャラ」となる。例えば部活のマネージャー、憧れの先輩、争奪されるトロフィー、支えてくれた亡き母親などだ。


例えば映画『ONE PIECE RED』(2022年)には、CGで紅白にも出演した女の子キャラクター・歌姫UTAがいた。彼女は天才児で、父や師と仰いでいた男達から嘘を教えられて育ち、それに則って行動しただけなのに、最終的に物語全体の罪を負わされて自滅する。


UTAに歌声をあてたAdoとと楽曲群のすばらしさゆえにその悲惨さはあまり目立たないが、完全に捨て石だった。上げるだけ上げてから落とされて、いいところは少年ルフィが持っていく。愚かな女のしりぬぐいは大人の男シャンクスがしてくれる(騙していたのは彼らなのに)。21世紀になってもまだ少女はこんな使い捨ての駒として描かれるのか、と痛感させられた。

ブルマの冒険少女、仕事、子育て、経営者というキャリアパス

しかしブルマは違う。第1話から登場し、主人公とコミュニケーションを取り、ドラゴンボールという宝物の存在を悟空に教え、冒険のきっかけをつくる。ページにつねに出ているわけではないが、物語世界のどこかで生きていて、何か発明品を持って戻ってきては、悟空達を支える。ブルマは女性の目から見ても納得のいくライフステージの変遷をたどった。


恋する冒険少女の時代を経て(ヤムチャとつきあっていた)、仕事のできる大人となり、恋愛よりはむしろ憐憫の情からベジータと結ばれて息子(トランクス)を産み、育児をし、父・ブリーフ博士から家業のカプセルコーポレーションを継ぎ、子どもの手が離れ、また仕事がノッてくる時期までもが描かれる。

やがては会長職に就いて経営手腕を見せながらも、エンジニアとして手を動かす原点も忘れない。ブルマは年齢とキャリアにあわせ、髪型も服装も変わっていく。それなりにお金はかけていそうだが機能性を優先したファッション、流行を取り入れつつ意思の強さを感じさせる髪型、足元は動きやすいブーツが多かった。

「おっぱい要員」的な造形もなく、女性も読みやすかった

胸の大きさも自然だ。ドラゴンボールにも胸の大きな女性は登場するが、さまざまだ。やはり前述のONE PIECEでは、少女と老婆(醜さが強調されることが多い)以外の現役の女性は、人体の構造上これは無理だろうというレベルで胸が大きく、それを強調する衣装も多い。おっぱいのインフレーションが起きている。細い腰骨が折れないか心配になる。


ママ友が「最近のジャンプって油断するとめちゃくちゃおっぱいの大きい女の子が出てくるので、気軽には(息子に)買えない」と話すのを聞いたことがある。神経質と思われるかもしれないが同感だ。女性にはそう感じる人もいるのだ。

ナビゲーター的女性キャラは冨樫義博「幽遊白書」などにも

そういえば、鳥山明以外でも物語をナビゲーションする女性キャラの登場するジャンプ作品があった。冨樫義博の『幽遊白書』と『HUNTER×HUNTER』だ。前者では水先案内人が女性キャラであるし、後者は壮大で複雑な物語で、美女や小悪魔はもちろん、賢者や間者といったバラエティ豊かな女性キャラクターが登場する。彼女達の性格も、プロポーションやファッションも実にさまざまだ。


そういえば冨樫義博はその妻が『セーラームーン』の武内直子であるし、鳥山明もみかみなちという先輩漫画家と結婚している。時に制作を手伝うこともあり、「かめはめ波」を名づけたのも彼女だという。家庭内に対等かつ尊敬できる同業者がいるというのは、二人の共通点として挙げられるだろう。

プリキュアの20年前に、「ケア労働」から自由な女性を描く

ドラゴンボール』にはブルマだけでなく、他にも個性ある女性達が登場する。例えば一見おしとやか、男性の理想を引き受けたマリリン・モンロータイプに見えるランチさんは、「くしゃみ」がスイッチとなり別人格が表に出て銃を乱射する。また半ばおしかけ女房のように孫悟空の妻となり、悟飯という子をなして、しっかり教育を施すチチなどだ。


女性だってランチさんのように暴力性を発露することもあるし、チチのように家庭において夫をコントロールすることもあるのだ。


『ドラゴンボール』はその人気ゆえ、連載が長期化し、修行や冒険よりバトルが主軸となっていく。登場する女性キャラの数は相対的には少ない。それでもキラッと光る女性キャラクターが幾人もすぐに思い浮かぶのは、彼女達が「ケア労働」、つまり癒しや家事育児の担い手「のみ」としては描かれなかったからだろう。


「女の子だって暴れたい」をコンセプトに大ヒットした「プリキュア」シリーズが生まれたのが2004年。その20年以上も前に、鳥山明は自分の意思を持って生きる女性像を、少年漫画の中でごく自然に描いてくれた。

血統主義、血縁主義からは遠い、柔軟な家族観とキャラクター造形

そもそもアラレちゃんと則巻博士は血のつながらない家族だ。孫悟空も山で拾われた孤児である。悟空の息子・孫悟飯は、両親のもとではひ弱なお坊ちゃんだったが、ナメック星人のピッコロに育てられて大きく成長する。ピッコロにいたっては卵生で「親の愛」など知らないはずだが、悟飯を身を呈して守る。


女性観だけでなく、家族観や子ども観もまた柔軟なのかもしれない。父はこうあるべき、母はこうあるべき、子とはこうあるべき、という固定観念から自由な世界がそこにはあった。血統主義、血縁主義ではないのである。


少女漫画も恋愛の成就で物語が終わってしまい、女性の「その後」を見せてくれるものが少なかった子ども時代に、天才で怪力で奔放なアラレちゃんや、仕事と家族の充実を体現するブルマを見ると、何かスカッとする思いを抱いたのを覚えている。あの感覚は、いまにして思えば「エンパワメント=本来持っている力や才能を気づかせて開かせようとする作用」だったのかもしれない。

おきまりの言い方になるが、ようやく時代が、鳥山明がナチュラルに描いていたこの家族像、女性像、子ども像に追いついた、とも感じられる。これから先のクリエイターにとっても、彼の偉大な作品は折にふれてヒントをくれるものとなるだろう。


---------- 藤井 セイラ(ふじい・せいら) ライター・コラムニスト 東京大学文学部卒業、出版大手を経てフリーに。企業広報やブランディングを行うかたわら、執筆活動を行う。芸能記事の執筆は今回が初めて。集英社のWEB「よみタイ」でDV避難エッセイ『逃げる技術!』を連載中。保有資格に、保育士、学芸員、日本語教師、幼保英検1級、小学校英語指導資格、ファイナンシャルプランナーなど。趣味は絵本の読み聞かせ、ヨガ。 ----------


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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