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気の赴くままにつれづれと。
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人間は人それぞれで、見えているもの、見えていないものが違っている。ある人には見えているものが、別の人には見えていない。ある人には見えていないものが、別の人には見えている。厄介といえば大変に厄介だけれども、そのせいで面白いことも生じる。
男女関係などというものは、私にはさっぱり見えない。多分、"男の子"には男女関係などという概念が存在していない。まあ、少なくとも私の場合はそうだった。
例えば、高校1年生の時の英語の副読本が「シェーン」(Shane:1953年のアメリカ合衆国の西部劇映画)だった。その時の英語の先生が津田塾を出てそれほどたっていない若い女の先生で、とても熱心に「シェーン」を解説してくれた。映画も見ていて、それをもとに情景描写をいろいろしてくれた。女の人だから、男女関係の機微などは若くても分かっている。
しばらくたって私も「シェーン」を映画館で見たけれども、これがまあ、今思い出しても笑ってしまうくらい意味を理解できなかった。見てはいても、一つ一つのシーンに意味を見いだせないんだよねえ。「ずいぶんつまらない地味な西部劇」というのがその時の感想の全て。まあ、知的障害レベルだったと思う。
そんな私も、結婚して、子供もできて、そんな経過の中で鍛えられるというか、指導されるというか、いじめられるというか。知的障害なりに男女関係が見えてくる。30歳も過ぎてからテレビで放映されたシェーンを見てぶったまげた。「え〜っ、これってよろめきドラマなの??」
何年か前にチラ見したところ、その他にも、開拓、農民、男同士、権力、武力、戦い、そんなものもいろいろ描かれていることが見えたような気がする。
私は夏目漱石が好きなのだけれど、夏目漱石に関しても同じだった。高校生の頃からずいぶん熱心に読んでいたのだけれど、全く意味が理解できていなかった。ここが夏目漱石の素晴らしいところで、全く意味の理解できない高校生が読んでも、何かしら引かれるところがあって読みふけったのだから。
おそらく夏目漱石も元来は何も分かっていない男の子であって、その男の子が"男の子言葉"で男女関係を表現するとどうなるのか、そんなチャレンジをしていたのではないかと思う。未知のものを意識化できるように言葉に置き換えるというのは、題材が男女関係であっても純文学になる。
まあ、そのようなことは、ごく平和な小市民的な生活を送っていた、ごく平凡な男である私に訪れて何の不思議もないことだけれども、3年半ほど前からの新型コロナ騒動では、ずいぶん物騒な形で「見える、見えない」が問題となっているように思う。
どうも私は日本人の中で、新型コロナに関しては相当に見える方らしい。これは生まれ育って、仕事や子育てをする中で、偶然にそれが見えるような訓練をされる環境に置かれたためらしい。私にすれば、「そんなこと見れば分かるだろうに」ということが、ほとんどの日本人には見えないようだから。
私は医学関係の専門家ではないので、その方面での訓練は受けていない。つまり、新型コロナやワクチンが見えるか見えないかは、医学とは直接関係がないことのようだ。実際問題として、政府やテレビなどで影響力を及ぼしているような専門家の中でも、見えているけれども嘘をついている人と、見えていない人の両方がいるように思う(その区別をつけるのは難しいけれど、おそらくその多くは尾身会長をはじめ見えていない)。
見えているけれども嘘をついている人は放置しておけばいい。分かっているのだから、あとはその人の人間性の問題になる。問題は見えない人、見ていない人になる。そのような人をどうするかは大変に難しい。多分、教えてやったから理解できるようになるというものでもない。
それはちょうど「シェーン」の映画で、アラン・ラッドにポーッとなっている奥さんについて、高校1年生の私にどうやって理解させるかと同じ問題になる。第1に関心がない、第2に理屈で分かったところで感情的に意味を持たない。
分かるためには人間的な成長、人格的な成長が必用になるわけで、要するに分かるようになるまで分かるようにはならない。
まあ、おそらく為す術のないことなのだろう。500年前のアメリカに行って、「白人は凶悪な人種だ。あなた方を騙して滅ぼそうとしている。」とアメリカインディアンに説得して回ったところで、歴史を変えることはできないだろう。
30年後、50年後、100年後、日本人はアメリカインディアンと同様の末路をたどっている可能性がかなり高い。少なくとも、現在の政府・自民党から見えてくる景色はそのようなものになる。あなたにはそれが見えるだろうか。
2022年6月28日、宮谷一彦が亡くなった。
一般的な知名度はない。手塚治虫の虫プロ商事が1967年1月に創刊した月刊マンガ誌「COM」5月号の月例新人入選作『ねむりにつくとき』でデビュー。編集部コメントで「有望な新人があらわれた。その名は宮谷一彦君。」と称賛され、同じCOM同年2月号デビューの岡田史子と並んで先鋭的なマンガ青年層、とりわけ自分もマンガを描いていた層に強烈な印象と影響を与えた作家である。
彼の訃報はSNSのごく一部で話題になったが、その多くが私と同じか少し下の世代のマンガ家やそれに準ずる人達だった。いしかわじゅん、飯田耕一郎、すがやみつる、村上知彦、矢作俊彦などがコメントし、サインやスクラップブックの写真を上げた。みなもと太郎氏も存命なら間違いなくコメントされただろう。NHKのBSマンガ夜話(1996~2009年)に触れ「夏目さんの気合いの入り方が尋常じゃなかった伝説の宮谷一彦回」の放映時の写真を上げた人もいた。
宮谷は1945年生。大阪府出身。高校卒業後、石ノ森章太郎、永島慎二のアシスタントを経て、デビュー後、当時続々創刊された青年劇画誌に作品を発表。青春物短編『セブンティーン』(COM68年)、私小説ならぬ「私マンガ」と称した『ライク ア ローリングストーン』(COM69年)、現代日本に左翼革命が起こる『太陽への狙撃』(ヤングコミック69年)、過激でシュールな性的説話『性蝕記』(同上70年)などマンガ青年にとっての話題作を連作。写真を元にした精緻な描写と削りや重ねを駆使したトーンワークを開発し、その後の劇画~マンガ制作の労力の水準を一気に上げた。それだけ業界の若手には影響が強かったといえる。60~70年代は青年マンガが急速に市場拡大をする時期で、新人発掘競争が激しく、それだけ原稿料も相対的に上昇していた。やがて原稿料は80年代以降低く抑えられるようになる。宮谷のような手間暇かかる制作体制が取れたのは、ジャンルが拡大し青田買いが起きた時期だったからだろう。
宮谷の作風はかなり読者を選ぶ傾向だったが、媒体は案外幅広く、少年サンデー、女性自身、明星、音楽専科、別冊宝石、GOROなどに作品を発表し、細野晴臣らのはっぴいえんど『風街ろまん』のジャケットなども描いている。
と業績を追っても、なぜ彼が一部の人々にこれほど影響を与えたか、おそらく伝わらない。BSマンガ夜話の宮谷回を見直したが、冒頭で岡田斗司夫(私やいしかわじゅんより10歳若い第一次おたく世代)が「何が面白いんだか全然わからない」と率直に述べている。これは番組的にお約束の役割分担でもあるが、それに対し私(50年生)やいしかわ(51年生)、ゲストの村上知彦(同上)が熱を込めて説明を試みる流れだった。いしかわも私もマンガを描く人間なので、勢いその説明は技術革新の指摘に偏ったが、問題はその稠密な画面がなぜ成立したかの歴史背景で、その点は大月隆寛と私のやりとりで映像の感性が新聞写真からTVのナマ映像へと変化する時代との関連が後半で示唆された。
私は『天動説』(漫画サンデー73年)冒頭のアクション描写や『東京屠民エレジー2 水鳥の浮かぶ哀し』(プレイコミック72年)、『同上5 嘆きの仮面ライター』(同上)の「成熟」をあげ、「これでマンガは中間小説的な水準に追いついた」という当時の感触を伝えようと「夏目の目」のコーナーで語ったつもりだった。岡田は「カッコいい!」と呟いていた。
しかし誤解してほしくないのは、私らが強調したからといって、私ら世代のマンガ青年の印象や影響がそれほど一般的な現象だったわけではない、ということだ。少し年上の評論家呉智英(46年生)は「宮谷は恥ずかしくて読めなかった」と語っていたし、ツイッターのコメントでも理解できないとの、私らの下の世代の書き込みもあった。たしかに宮谷のあざとい自己顕示のナルシシズムは、読んでいて赤面するものがあった。私などは、だからあまり大声で宮谷好きを主張できない気分も当時あって、呉氏の恥ずかしさはよくわかる。それでも宮谷に、その感性や描線やディテール描写に「時代の魅力」をどうしようもなく感じていた。それはマンガを描く人間にとって斬新で、物凄く危ういバランスでありながら、常にマンガの未来の可能性に向かって開いていく感触をもたらした。
だが、彼の志向するものが決定的に時代からズレていったという印象を、ある時私たちは認識する。それは大友克洋(54年生73年デビュー)の登場によるところが、私にとっては大きかった。稠密で重く過剰な宮谷劇画の描写ではなく、白っぽく軽妙で読みの間に抜けがあり、膝カックンな外し方をする大友に時代思想の圧倒的な変化の方向があると感じ取ったのだ。それは日本が高度消費社会へと急速に変貌する瞬間であった。
現在から考えると、当時の私などには世界の転換にさえ感じられた宮谷の衝撃は、じつは本当にごく少数のマンガ読者(漫画家志望者を多く含む)が共有した感覚だった。私ら前後の圧倒的多数の人々にとっては、コアな一部読者の「幻影」に過ぎないのだろう。たしかに、私たちが宮谷に見たものは、見果てぬマンガの「夢」だったかもしれず、そういう意味ではまさに「幻影」だったのである。ただ、私の感じたマンガの可能性の「夢」は、やがて地道に変革を続けた谷口ジローによって達成されたのではないか、とも思う。いいかえると、大きくなった子供ではなく、成熟した大人のためのマンガ世界の実現である。
私としては、宮谷への私達の思い入れで後世の読者が過大な評価に陥り、誤解してほしくはない。しかしまた、その存在の意味を理解してほしいとも思う。そんな、まことに宮谷一彦に相応しいアンビバレンツな気分で、彼の死については書かざるをえないのだ。
アコーデオン弾き L'accordéoniste |
エディット・ピアフのシャンソン曲「アコーデオン弾き」L'accordéoniste(壺齋散人による歌詞の日本語訳) 場末の女にだって 可愛い子がいる その子にはとても 好きな男がいた 仕事が終わると 町に出かけていって 人ごみの中に 夢を探した 男は大道芸人 風采の上がらない アコーデオン弾き ジャヴァの曲が得意 その子は聞く でも踊らない ただうっとりと聞きほれる 目を輝かせ リズムを取りながら 男の指の動きを追う 心が弾み 気分は高まり セクシーな歌を歌い 出したくなる 心もそぞろ 息は乱れ 音楽に溶け合ってしまいそう 場末の女にだって 悲しい子はいる 大事な人が 兵隊に行く 戦争から戻ったら 家を借りて そこで一緒に 暮らしてみたい どんなにかすてきな ことでしょう あの人が毎晩 ジャヴァを弾いてくれたら ジャヴァの曲を 口ずさみながら 男を見つめ続ける 目を輝かせ リズムを取りながら 男の指の動きを追う 心が弾み 気分は高まり セクシーな歌を歌い 出したくなる 心もそぞろ 息は乱れ 音楽に溶け合ってしまいそう 場末の女にだって さびしい子はいる 愛想をつかされ 男に捨てられ 悲しいことに 二度と会えない 夢よさようなら 終わってしまったのよ 悲しい思いで キャバレーに行けば ほかの男にめぐり 会えるかもしれないけど ジャヴァの曲を 聞きながら 目を閉じれば 思い浮かぶ あの人のぬくもりが 体を駆け抜けて セクシーな気分に なってしまう なにもかも 忘れて踊ろう あの歌にあわせて 1940年、前線へ赴くミシェル・エメがピアフに捧げた曲で、彼女の比較的初期のヒット曲になった。 |
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