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薮入りの、寝るや。ひとりの親の側。 (炭大祇)
薮入りは、他家に奉公に行った子供が、年に二回実家に帰れるという風習です。その時には、親も子も別れていた間の寂しさを、その一日で埋め合わせようとしたことでしょう。これは川柳ではなく俳句ですが、この俳句のテーマを蕪村は『春風馬堤曲』という素晴らしい漢詩と俳句のコラージュによるシンフォニーにしています。そのラストが大祇のこの俳句なのですが、私などは、この大祇の句を見ただけで『春風馬堤曲』の最後を読んだ時の感動がこみあげて涙ぐんでしまいそうになるほどです。
単独の俳句として見た場合、気がつくのは、「ひとりの」という言葉の利いていることです。親一人、子一人の家族でありながら、子供は奉公に出ていて会えない。それが一年に一度か二度だけ会えるのです。その喜びが、この「ひとりの」親の側で寝るという言葉でよくわかります。
薮入りの、寝るや。ひとりの親の側。 (炭大祇)
薮入りは、他家に奉公に行った子供が、年に二回実家に帰れるという風習です。その時には、親も子も別れていた間の寂しさを、その一日で埋め合わせようとしたことでしょう。これは川柳ではなく俳句ですが、この俳句のテーマを蕪村は『春風馬堤曲』という素晴らしい漢詩と俳句のコラージュによるシンフォニーにしています。そのラストが大祇のこの俳句なのですが、私などは、この大祇の句を見ただけで『春風馬堤曲』の最後を読んだ時の感動がこみあげて涙ぐんでしまいそうになるほどです。
単独の俳句として見た場合、気がつくのは、「ひとりの」という言葉の利いていることです。親一人、子一人の家族でありながら、子供は奉公に出ていて会えない。それが一年に一度か二度だけ会えるのです。その喜びが、この「ひとりの」親の側で寝るという言葉でよくわかります。
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