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山伏の腰につけたる法螺貝の、
ちゃうと落ち、ていと割れ、
砕けてものを思ふころかな。(「梁塵秘抄」)
「山伏の」から「割れ」までは、「砕けて」に掛かる序詞のようなもので、装飾文です。しかし、その割れる法螺貝のイメージや「ちゃう」「てい」という音のイメージが、この詩の生命でもあるのです。「意味」にしか価値を認めない現代の言語観が、我々の生活をどんなに貧困なものにしたことでしょう。ここでも、ただの比喩でしかない落ちて割れる法螺貝の幻想が、この謡を支えているのです。こうした重層性を持った言語表現が日本の詩歌の特徴であることは、多くの評論家が指摘しています。(それを最初に指摘したのが、先に書いた三島由紀夫だったと私は記憶しています。もっとも、これに近いことを谷崎潤一郎も言っていますが。)言語の一義性を重んじる論理的言語観に対し、言語の意味の揺れや重なりこそ言語の美につながるという、高度な言語観がここにはあります。
山伏の腰につけたる法螺貝の、
ちゃうと落ち、ていと割れ、
砕けてものを思ふころかな。(「梁塵秘抄」)
「山伏の」から「割れ」までは、「砕けて」に掛かる序詞のようなもので、装飾文です。しかし、その割れる法螺貝のイメージや「ちゃう」「てい」という音のイメージが、この詩の生命でもあるのです。「意味」にしか価値を認めない現代の言語観が、我々の生活をどんなに貧困なものにしたことでしょう。ここでも、ただの比喩でしかない落ちて割れる法螺貝の幻想が、この謡を支えているのです。こうした重層性を持った言語表現が日本の詩歌の特徴であることは、多くの評論家が指摘しています。(それを最初に指摘したのが、先に書いた三島由紀夫だったと私は記憶しています。もっとも、これに近いことを谷崎潤一郎も言っていますが。)言語の一義性を重んじる論理的言語観に対し、言語の意味の揺れや重なりこそ言語の美につながるという、高度な言語観がここにはあります。
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