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直接民主主義の時代へ

間がずいぶん空いたので、普段はあまりここには書かない現在の政治関連の話題でも書こう。
竹原阿久根市長がリコールされ、市長解任となった。私は彼の独裁者的手法や、公務員・市議会議員を抵抗勢力とすることで自分の計画を実現する小泉的手法が嫌いなのだが、市役所の公務員や市議会議員が既得権益層であり、市民に害を与えていることも確かだろう。そして、それを変えるには、あるいは竹原(元)市長のような独裁的手法しか手段はなかったのかもしれない。
難しい問題である。
ここに解決案を書こう。それは、今回のリコールという手法である。つまり、議会という存在は、明らかに存在価値が無いから、無くすことにする。つまり、市長独裁を認めるのである。ただし、あらゆる政策について、住民の5%の同意があれば、リコール請求ができ、リコール投票を行うものとする。つまり、限りなく住民自治に近い市長独裁制である。
この考えはどうだろうか?

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エネルギーと世界の未来

エネルギーと世界の未来

 あと数十年で化石燃料が枯渇するだろうが、その時世界はどうなるか。
 まず、産業と日常生活においては、原子力発電でしばらくはまかなうことになる。つまり、定住的に使用する電気は現在の石油の位置を原子力が負担することになる。日本のように水力に恵まれている国では、水力発電も一部復活し、潮汐発電なども一部では進められるだろう。
 だが、最大の問題は、自動車である。石油燃料の代わりにバイオ燃料を用いるなどという方法は、コストパフォーマンス面から言って、問題にもならない不合理な解決策であり、これは、穀物販売値段値上げの手段の一つにすぎない。つまり、石油に代わる代替燃料は、自動車に関しては存在しない。長い未来には太陽電池搭載の自動車もある程度の実用化がされるかもしれないが、それもコスト的に、庶民が利用するのは無理だろう。つまり、自動車はハイソサィエティ専用の乗り物となり、庶民は自転車、乗馬などを利用する時代がくる。たとえば、現在1リットル150円のガソリンが、1リットル1000円になった時代を想像すれば良い。職場に通勤するのに毎日数千円を出せるだろうか。
 化石燃料の枯渇は、生活スタイルの変化をも生む。燃料が貴重になった時代には、職住接近が原則となり、人々は再び、自分の生まれ育った土地で一生を送るようになるだろう。だが、その一方で、電気は前と同じくあるのだから、知識と情報の上ではインターネットで広い世界とつながることができる。
 化石燃料の枯渇は、二十世紀型の軍事をも変えることになる。高価な石油を湯水のように使う飛行機や軍艦は、演習さえもできなくなり、結局は使用不能になり、長距離ミサイルだけが現実的な大量破壊兵器となるだろう。それ以外では、生物兵器や毒ガスなどが大量破壊の手段となる。しかし、戦争の主体は小火器による個別的戦闘になる。つまり、第一次世界大戦型の戦争に戻る。もちろん、一発逆転の手段としての原爆の使用の可能性は残るが、相手国の首都に対して原爆を落とす勇気のある指導者はいるかどうかである。というのは、戦争とは庶民同士を戦わせ、殺し合わせるのが大原則であり、お互いの戦争指導者を直接に殺すという戦争は近代戦争の歴史には存在しないからである。
 石油は燃料以外の用途もあり、その枯渇によってプラスチックなどもなくなることになる。もちろん完全にはなくならず、電化製品の一部に使用されることは残るだろうが、その値段は高騰する。すると、人々の生活から電化製品は次第に少なくなっていき、テレビ、クーラー、自動車がまだ珍しかった、「三丁目の夕日」的な昭和20年代頃の生活が普通になるだろう。
 結論を言えば、化石燃料の枯渇によって、我々の周りに自然が戻り、我々の生活もまたより不便だが人間的な自然さを取り戻すということになるだろう。

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「記憶にございません」

    記憶にございません


ロッキード事件で、小佐野賢治被告が、自分にとって都合の悪い事実について、「記憶にございません」と言ったのは、当時の流行語にもなったのだが、この発言は彼の鋭い言語感覚を示していると私は思う。そして、多くの人はそのことに気づいていない。気づいてはいないが、何かを感じた。だから、流行語にもなったのである。では、この言葉のどこが秀逸なのか。
分析のため、対比的にとらえてみよう。こうした場合に通常出てくる言葉は、「覚えておりません」だ。これをAとし、「記憶にございません」をBとしよう。
AとBの相違は、Aは「覚える」という行為に関わる動詞を用い、Bは「ある」という存在に関わる動詞を用いている点だ。
「覚える」は自分の意志、及び能力に関わる言葉であり、「ある」はそれらと無関係に何かが存在することを表す言葉である。
従って、仮に小佐野被告が「覚えておりません」と言ったならば、彼はその事実について覚える能力もしくは意志を有しなかったことになり、自らの公敵に対して非難の余地を与えることになる。
しかし、Bの場合はその事実の存在そのものが不確かなものとなり、彼の責任を問うことはできなくなる。記憶に無いもの、つまり存在しないと考えられるものについて、責任を問うことはできないからである。
簡潔に言えば、Aは「事実はあったが覚えていない」であり、Bは「事実そのものがあったとも無かったとも断言できない」と言っているのと同様なのである。
これで、私が小佐野被告の言語感覚が凄いと言った理由がわかるだろう。これにくらべれば最近の政治家の言語感覚は幼児並である。
こうした言語感覚は、すべて責任逃れを必要とする立場、つまり、官僚、政治家、犯罪者(この三つを並べるのは失礼ではあるが)にとって是非とも必要なものであると思われる。そこで、これからそういう立場を目指そうとする人々は、私のこの一文を参考にしていただきたいと思うのである。

追記。故大平正芳総理は言語不明瞭なことで知られたが、その理由はまさしく、言質をとられないためであった。しかし、彼がなかなか総理になれなかった理由もまたそこにあったと思われるから、政治家として一番いいのは、これもある政治家について言われた言葉だが、「言語明瞭・意味不明」であろう。もっとも、最近では、ワンフレーズポリティクスという手法も登場し、これも便利であることが知られるようになった。政治の世界も詐欺の世界も進化するものではある。

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