自民党の西田昌司参院議員が、憲法記念日に那覇市で開かれた憲法シンポジウムで講演し、ひめゆりの塔を参拝した時の「説明のしぶり」を問題視した。
「日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり(学徒)隊が死ぬことになった。そしてアメリカが入ってきて、沖縄が解放されたと。そういう文脈で書いている」
西田氏は「何十年か前、国会議員になる前」に訪ねた時の話を「今はどうか知りませんが」とことわりながら、「あそこはひどい」「歴史の書き換え」だと批判した。
どこがひどいのか。いつどこで、何を見て、そう感じたのか。具体的な説明は一つもない。
それなのに「亡くなった方々は、ほんとに救われませんよ」とまで語っているのである。
(内容がカバーされた部分を中略)
「ひめゆり平和祈念資料館」の建設・運営に後半生の全てをささげてきた元学徒の感情を逆なでするような一方的決めつけである。
生き残った元学徒らは、戦場で多くの学友や恩師を失い自分が生き残ったこと、負傷した学友を壕に置き去りにせざるを得なかったことに、強い「罪責感情」を抱いていた。
トラウマ的な記憶を抱える当事者たちは、戦争が終わっても長い間、自らの体験を語ることがなかった。
「ひめゆりの塔」のそばに、ひめゆり平和祈念資料館が開館したのは、1989年6月のことである。ひめゆり学徒の視点で沖縄戦を捉えるという基本姿勢は今も変わっていない。
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「ひめゆり」を巡っては、殉国美談の語りが戦後ずっと生産され続けてきた。
ある時期から、女子学徒隊は他にもあるのに「なぜひめゆりだけ」という声も上がるようになった。
体験者の証言を聞いた若い世代からは「自分に酔っている」「退屈」だという感想も上がった。
実は、資料館の活動で特筆されるのは、こうした問題に正面から取り組んできたことだ。
資料館は資料集として各校同窓会の協力を得て「沖縄戦の全学徒隊」を出版したほか、毎年、感想文集を発行し、見学者の声を丁寧に拾い上げている。
亡くなった学友の名前を記した「過去帳」には「その短い生涯の名に永遠の願いをこめ ご冥福をお祈りし あわせて世界の平和を祈願します」とある。
そこには生き残った学徒、教師らの掛け値のない思いが込められている。
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45年6月18日、ひめゆり学徒隊に解散命令が出た。
捕虜になることを許さなかった日本軍は、学徒らを保護する措置も取らなかった。学徒らは米軍が目の前に迫る戦場に放り出されたのである。
ひめゆり学徒の戦没者の約8割は、18日以降に亡くなっている。
米軍が運営する野戦病院で傷ついた沖縄県民を手当てしたのは、学徒隊の生き残りである。
そのような重い事実を、西田氏は知っているのだろうか。
ひめゆりの塔の展示は「ひどい。歴史の書き換えだ」自民・西田参院議員が発言 憤る平和祈念資料館長「沖縄戦体験者の思いを踏みにじる」