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苫米地英人の解説による「空観・中観・仮観」

前にも載せたかもしれないが、苫米地英人の記事の一部で、いわば「仏教概論」である。私の意見だと、かなり高度な仏教理解だと思える。私などは仏教を「空観」でしか理解していなかったが、そこに「仮観」と「中観」を加えることで、理解が完全に近くなり、また現実世界をほぼ完全に包含する理解(世界認識)になりそうである。ただし、残念ながら「見方」を「味方」とするような誤記が何か所かある。
注意したいのは「空観」が、「すべては虚しい」というニヒリズムと混同されがちなことだ。下で書かれているように、「空観」とは、「絶対的なものは存在しない」ということで、その揚げ足を取れば「なら、空観自体も絶対ではないから信ずるに足りない」となる。しかし、想念というのは「何でもあり」なのだから、絶対とか相対の対象ではないのである。要は、その思想が世界理解に役立つなら有益だ、というプラグマチカルな姿勢で対すればいいだけだ。
下の記事を私流に要約すれば、「仮観」「中観」が空観の支柱になるわけである。ある意味「仏教的三位一体」と言えるだろうか。「空観」だけが突出して有名なのが、(私などもそうだが)仏教理解を妨げているのだろう。
「十二支縁起」は「十二縁起(因縁)」と言われるもので、暦の十二支とはあまり関係は無さそうだ。


十二因縁の支分は、無明名色六処老死の12個であり(支分の詳細は十二の支分の節を参照)、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という[3][注釈 1]。また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という[3][注釈 2][1]


順観と逆観の両方を行って、人間のありように関する因果の道理を明らかにした結果、因果の道理に対する無知が苦悩の原因であったと悟る[3]。その際には苦悩が消滅し、根源の無明が消滅しているため輪廻もなくなるとされる[3]



(以下引用)誤記と思われる部分は括弧と赤字で注を入れた。

例えば、キリスト教の神は「絶対的」な存在です。密教でも基本は大日如来という「絶対的」な存在を前提としている宗派が多いです。だか ら、密教は仏教というよりもヒンズー教(バラモン教)に近いといわれるのです。勿論、仏教という本来の枠組みでは、(例え密教宗派でも)、絶対的な存在は ないと考えます。お釈迦様が菩提樹の下で悟ったとされる十二支縁起は、正に、全てのものは、縁起(因縁)によるもので、それだけであるものは何もないとい う哲学です。ですから、神が存在したとしても、縁起によるものであり、絶対的な存在ではあり得ないと考えられています。当然、生命も空であり、縁起による ものであるので、この意味では絶対的な存在ではないです。
 ただ、そこに戒という考え方が出てきます。自分に対する戒めです。「私は、何が何でも 決して人を殺さない」という自分に対する戒めです。何が何でもは、「絶対に」という普通の日本語で言うことが多いでしょう。だから、人の価値は私にとって は絶対であって、決して相対化しないという戒めです。これが、「洗脳原論」の「世の中には相対化してはいけないものがある」という意味です。仏教では戒め であって、やっては反則であるという契約(神との契約)を破るという意味とは違うわけです。 キリスト教世界では、人は殺してはいけないという絶対の神と の契約なわけです。(「神と契約した人以外は」という限定がついている解釈が戦争を肯定していることは「洗脳護身術」で書きましたが。)

  ところで、「中観」という見方があります。まず、「空観」というものがあります。空観は、まさにこの十二支縁起に従って、宇宙に絶対的なものはなにもな い、全ては縁起によるものであるという味方(見方?)です。勿論、私たちの「現実世界」も含めてです。私たちが、存在を認めている、現実世界も、よくよく見ると、例 えば、映画のスクリーンのように、近づいてみると、沢山の画素の投影にすぎない、つまり「まぼろし」であるという見方です。「空」の味方(見方?)です。私たちの身 体も拡大していくと、最後は素粒子の状態にすぎないというのと同様でしょう。ただ、これは西洋哲学の現象論とはちょっと違います。現象論的発想では、映画 館を私達が出ると、映画は消滅しなければ行けません(いけません?)。スクリーンでない方向をみたら映画は消滅しなければなりません。中願(中観?)と対比されるときの唯識もそのよ うな解釈をされています。実際は、私たちが映画館を出たって、その映画は続くのであり、決して映画は消えるわけではないですね。これを「仮観」といいま す。その実体は空であっても、ちゃんとその映画には役割、機能がある、その意味で映画はちゃんと存在しているという見方です。ここで浮かび上がってくるの が、スクリーンが空であることを知った上で(空観)、空なるスクリーンに機能を持たせて(仮観)、それを見ている自分がいるということです。そして、とな りに(の?)席にも、ちゃんと同じことができる人がいるということです。これが正に中観です。そして、その隣の人は、実性はもちろん空であるけれども、だから自分 の内部表現を操作すれば、消してしまってもなんら変わらない存在ではないということです。だから、空観だけだと、宇宙はむなしいものだし、まさに、となり の命もただのまぼろしですが、中観ではそうはいかないわけです。
 サトリの先にあるものの大前提が、まさにこの空観、仮観、中観が当たり前のようにできた状態(円融三諦)であるわけです。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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