図書館から借りた老人向けの大活字本シリーズで「怪奇・ホラーワールド 異世界への入り口」というのを読んだが、あまり面白くない。まあ、当然それは私の主観であり鑑賞力の問題だが、私はホラー小説とかホラー映画をまったく面白く思えないのである。
その前に読んだ「黒い兄弟」というリアリズム(かつ理想主義的)児童文学のほうがはるかに面白かったのだが、怖さという点でもこちらのほうがはるかに怖い。つまり、「現実世界の怖さ」であり、それに比べると、並みの小説家が書いたホラー小説などファンタジー小説である。細部の描写は面白くても、幽霊やゾンビが出て来た時点で、私は退屈する。馬鹿馬鹿しいとしか思わない。そんなファンタジー的存在より、現実の人間がはるかに怖い。
人間の中の怪物的存在というのは、あなたの隣にいるかもしれない平凡人でもありうるのである。政治をしていないから大量虐殺をしなかっただけで、平気で人を殺せる人間があなたの隣にいるのである。殺さないのは単に警察につかまり処罰されるのが嫌だからだ。「黒い兄弟」の中では、人買いの男よりも悪魔的なのが、主人公ジョバンニを買った家の主婦である。この女とその息子の悪魔性は、私の読んだ小説の中でも出色だ。生まれつきの悪魔だろう。自分の子供以外の人間に対しては、まったく同情も共感心も無く、平気で自分の家が買った子供を虐待し、虐め殺せる人間である。
しかしまた、こうした悪魔的人間も、その悪魔的行為は貧困のためであることが多いように思う。生活苦のために、悪魔的行為を自己正当化するわけである。まあ、貧困からの解放が社会を道徳的にするとは安易に思わないが、かなり道徳的に改善するのは確実だろう。つまり、他人を食わないと生きていけないなら、食うしかないのである。社会が人間を悪魔化していたわけだ。
マルクス以前の社会主義は、まさにこうした貧困層への同情から生まれた、ヒューマニズムだったのである。
ついでに言えば、「黒い兄弟」では、富裕階級の慈善家の存在によって、問題は解決する。つまり「デウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)」による解決(主人公の救済)だが、これは児童文学としての限界だろう。これが、主人公もその周辺の子供もすべて死ぬ、としていれば、よりリアルだったかもしれない。まあ、誰も読まなくなるだろうが。「フランダースの犬」や「火垂るの墓」のアニメを喜んで見る子供はいない。
その前に読んだ「黒い兄弟」というリアリズム(かつ理想主義的)児童文学のほうがはるかに面白かったのだが、怖さという点でもこちらのほうがはるかに怖い。つまり、「現実世界の怖さ」であり、それに比べると、並みの小説家が書いたホラー小説などファンタジー小説である。細部の描写は面白くても、幽霊やゾンビが出て来た時点で、私は退屈する。馬鹿馬鹿しいとしか思わない。そんなファンタジー的存在より、現実の人間がはるかに怖い。
人間の中の怪物的存在というのは、あなたの隣にいるかもしれない平凡人でもありうるのである。政治をしていないから大量虐殺をしなかっただけで、平気で人を殺せる人間があなたの隣にいるのである。殺さないのは単に警察につかまり処罰されるのが嫌だからだ。「黒い兄弟」の中では、人買いの男よりも悪魔的なのが、主人公ジョバンニを買った家の主婦である。この女とその息子の悪魔性は、私の読んだ小説の中でも出色だ。生まれつきの悪魔だろう。自分の子供以外の人間に対しては、まったく同情も共感心も無く、平気で自分の家が買った子供を虐待し、虐め殺せる人間である。
しかしまた、こうした悪魔的人間も、その悪魔的行為は貧困のためであることが多いように思う。生活苦のために、悪魔的行為を自己正当化するわけである。まあ、貧困からの解放が社会を道徳的にするとは安易に思わないが、かなり道徳的に改善するのは確実だろう。つまり、他人を食わないと生きていけないなら、食うしかないのである。社会が人間を悪魔化していたわけだ。
マルクス以前の社会主義は、まさにこうした貧困層への同情から生まれた、ヒューマニズムだったのである。
ついでに言えば、「黒い兄弟」では、富裕階級の慈善家の存在によって、問題は解決する。つまり「デウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)」による解決(主人公の救済)だが、これは児童文学としての限界だろう。これが、主人公もその周辺の子供もすべて死ぬ、としていれば、よりリアルだったかもしれない。まあ、誰も読まなくなるだろうが。「フランダースの犬」や「火垂るの墓」のアニメを喜んで見る子供はいない。
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