第三十六章 マルス対マルシアス
「お前も覚えているだろうが、うちにマーサという女中がいただろう。そして、その女中と私が恋仲になったことも。だが、父は二人の仲を許してくれなかった。私はマーサを町中のある家に住まわせて、そこに通っていた。マーサが子供を産んだ時に、私は自分が父から貰ったブルーダイヤのペンダントを、オルランド家の嫡男の印にマーサに与えた。ところが、父はマーサと私の仲がまだ続いている事を知って、マーサの住む家に行って、私と別れる事を迫ったのだ。別れなければ、私を廃嫡するとまで言ってな。その後、マーサは姿を消した。
私はマーサの行方を探したが、どうしても見つからなかった。アスカルファン国内だけでなく、アルカードまで行ったが、そこでも探せなかった。アスカルファンに戻った私は、深夜、オルランド家に着き、父と対面した。マーサに対する父の仕打ちに怒った私は、父と口論になり、父を殴って、……殺してしまったのだ」
ジルベールの告白に、トリスターナは驚きのあまり、声も出なかった。
「呆然としてそこに立っていた私は、部屋にアンリが入って来たことにもしばらくは気付かなかった。アンリは父と私の口論の様子を隣の部屋で聞いていたらしい。父の倒れた物音で部屋に入って来て、全てを了解したアンリは、私に逃亡を勧めた」
「私、お父様は卒中で急死なさったものだとばかり思ってました」
「アンリがそのように計らったのだ。最初私は、逃亡する事をためらったが、結局アンリの勧めに従う事にした。卑怯に思うかも知れないが、私はその時、この家もこの国も捨てて、まったく新しい人間として生きようと決心したのだ」
「それからグリセリードに行かれたのですか?」
「そうだ。グリセリードで私は自分の生きる道を見つけた。それは、ヴァンダロス王の下で武人として生きることだ。貴族の家の中で、眠ったような日々を送っていた私にとって、戦場の日々は刺激と興奮に溢れていた。きっと私の中には生まれつき血を好む性質があったのだろう。私は名前もマルシアスと変え、グリセリード軍で出世もした。
グリセリードがアスカルファンを攻めると聞いた時にも、私は別にどうとも思わなかった。ただ、お前やアンリには済まない、と思ったが」
「お兄様は国を裏切るのですか?」
「私にとっては、今自分の居る所が自分の国だ。だが、お前だけは何とか助けてやりたい」
「助けて貰う必要はありません。この戦はアスカルファンが勝ちます」
「そうかも知れん。では、お前は一人で生きていけるのだな? ならば、これ以上は言うまい。達者で暮らせよ」
ジルベールはすっかり成人した美しい妹を優しげに見つめ、うなずいて踵を返した。
「お兄様……」
ジルベールを見送るトリスターナの目には涙が溢れていた。幼い頃から、トリスターナは、優しく男らしいこの兄が好きだった。しかし、もはや兄と自分は、生きる世界が違うのである。
馬を走らせて戦場に戻ったマルシアス、いや、ジルベールは戦場の情勢が一変している事に驚いた。
何と、グリセリード軍は背後から来たレントの軍に攻め立てられ、前のアスカルファン軍と両方に挟まれて苦戦をしていたのである。
この二万人のレント軍は、数日前にマルスからアンドレに送った急使によって、アンドレ自身が率いてアスカルファンの西に上陸し、駆けつけたものであった。
グリセリード軍後方にいるヴァルミラが危ない、と思ったジルベールは、戦場中央を突破しようとした。だが、その時、一人の若武者が彼の前に立ちふさがった。
「敵に後ろを見せて逃げる気か!」
ジルベールは、その若者をどこかで見たような気がした。だが、相手は明らかにアスカルファン軍の兵士である。
「逃げはしない。私の相手がしたいのなら、してやろう。私の名はマルシアス。グリセリードでは少しは知られた男だ。私を討ち取ったら、お前には名誉になるだろう」
「そうか、私の名はマルス。いざ、勝負!」
…… ……
マルスは足元に倒れた敵の騎士を見下ろした。相手はまだ息がある。
「見事な腕だ。お主はきっと偉大な武人になるだろう……」
倒れた相手は、苦しげな息の下から、兜の面頬を上げて、笑って言った。そして呟いた。
「神よ、私の数々の罪をお許しください。マーサ、あの世で会おう……」
マルスは、ぎょっとして相手を見た。マーサだと?
しかし、栗色の髪の騎士は、微笑んだまま、すでに息絶えていた。
きっと自分の聞き違いだろう。それに、マーサという名前がグリセリードにもあるのかも知れないし。
マルスは、グレイに乗ろうとして、はっと飛び退った。
「マルシアスの仇、これを受けよ!」
ヴァルミラであった。
背後からレント軍に襲われて算を乱したグリセリード軍の中で、ヴァルミラは顔見知りの者に頼んで縛めを切って貰い、マルシアスを探して戦場を駆け回っていたのであった。
ヴァルミラがマルシアスを見つけた時、マルシアスは敵の若武者と対峙していた。そして、ヴァルミラがそのそばに駆けつけようとした時、マルシアスの体が馬から落ちたのであった。ヴァルミラは悲鳴を上げ、剣を抜いてその若者の所へ突進した。
「お前も覚えているだろうが、うちにマーサという女中がいただろう。そして、その女中と私が恋仲になったことも。だが、父は二人の仲を許してくれなかった。私はマーサを町中のある家に住まわせて、そこに通っていた。マーサが子供を産んだ時に、私は自分が父から貰ったブルーダイヤのペンダントを、オルランド家の嫡男の印にマーサに与えた。ところが、父はマーサと私の仲がまだ続いている事を知って、マーサの住む家に行って、私と別れる事を迫ったのだ。別れなければ、私を廃嫡するとまで言ってな。その後、マーサは姿を消した。
私はマーサの行方を探したが、どうしても見つからなかった。アスカルファン国内だけでなく、アルカードまで行ったが、そこでも探せなかった。アスカルファンに戻った私は、深夜、オルランド家に着き、父と対面した。マーサに対する父の仕打ちに怒った私は、父と口論になり、父を殴って、……殺してしまったのだ」
ジルベールの告白に、トリスターナは驚きのあまり、声も出なかった。
「呆然としてそこに立っていた私は、部屋にアンリが入って来たことにもしばらくは気付かなかった。アンリは父と私の口論の様子を隣の部屋で聞いていたらしい。父の倒れた物音で部屋に入って来て、全てを了解したアンリは、私に逃亡を勧めた」
「私、お父様は卒中で急死なさったものだとばかり思ってました」
「アンリがそのように計らったのだ。最初私は、逃亡する事をためらったが、結局アンリの勧めに従う事にした。卑怯に思うかも知れないが、私はその時、この家もこの国も捨てて、まったく新しい人間として生きようと決心したのだ」
「それからグリセリードに行かれたのですか?」
「そうだ。グリセリードで私は自分の生きる道を見つけた。それは、ヴァンダロス王の下で武人として生きることだ。貴族の家の中で、眠ったような日々を送っていた私にとって、戦場の日々は刺激と興奮に溢れていた。きっと私の中には生まれつき血を好む性質があったのだろう。私は名前もマルシアスと変え、グリセリード軍で出世もした。
グリセリードがアスカルファンを攻めると聞いた時にも、私は別にどうとも思わなかった。ただ、お前やアンリには済まない、と思ったが」
「お兄様は国を裏切るのですか?」
「私にとっては、今自分の居る所が自分の国だ。だが、お前だけは何とか助けてやりたい」
「助けて貰う必要はありません。この戦はアスカルファンが勝ちます」
「そうかも知れん。では、お前は一人で生きていけるのだな? ならば、これ以上は言うまい。達者で暮らせよ」
ジルベールはすっかり成人した美しい妹を優しげに見つめ、うなずいて踵を返した。
「お兄様……」
ジルベールを見送るトリスターナの目には涙が溢れていた。幼い頃から、トリスターナは、優しく男らしいこの兄が好きだった。しかし、もはや兄と自分は、生きる世界が違うのである。
馬を走らせて戦場に戻ったマルシアス、いや、ジルベールは戦場の情勢が一変している事に驚いた。
何と、グリセリード軍は背後から来たレントの軍に攻め立てられ、前のアスカルファン軍と両方に挟まれて苦戦をしていたのである。
この二万人のレント軍は、数日前にマルスからアンドレに送った急使によって、アンドレ自身が率いてアスカルファンの西に上陸し、駆けつけたものであった。
グリセリード軍後方にいるヴァルミラが危ない、と思ったジルベールは、戦場中央を突破しようとした。だが、その時、一人の若武者が彼の前に立ちふさがった。
「敵に後ろを見せて逃げる気か!」
ジルベールは、その若者をどこかで見たような気がした。だが、相手は明らかにアスカルファン軍の兵士である。
「逃げはしない。私の相手がしたいのなら、してやろう。私の名はマルシアス。グリセリードでは少しは知られた男だ。私を討ち取ったら、お前には名誉になるだろう」
「そうか、私の名はマルス。いざ、勝負!」
…… ……
マルスは足元に倒れた敵の騎士を見下ろした。相手はまだ息がある。
「見事な腕だ。お主はきっと偉大な武人になるだろう……」
倒れた相手は、苦しげな息の下から、兜の面頬を上げて、笑って言った。そして呟いた。
「神よ、私の数々の罪をお許しください。マーサ、あの世で会おう……」
マルスは、ぎょっとして相手を見た。マーサだと?
しかし、栗色の髪の騎士は、微笑んだまま、すでに息絶えていた。
きっと自分の聞き違いだろう。それに、マーサという名前がグリセリードにもあるのかも知れないし。
マルスは、グレイに乗ろうとして、はっと飛び退った。
「マルシアスの仇、これを受けよ!」
ヴァルミラであった。
背後からレント軍に襲われて算を乱したグリセリード軍の中で、ヴァルミラは顔見知りの者に頼んで縛めを切って貰い、マルシアスを探して戦場を駆け回っていたのであった。
ヴァルミラがマルシアスを見つけた時、マルシアスは敵の若武者と対峙していた。そして、ヴァルミラがそのそばに駆けつけようとした時、マルシアスの体が馬から落ちたのであった。ヴァルミラは悲鳴を上げ、剣を抜いてその若者の所へ突進した。
PR