第三十三章 オルランド家相続
船の一室に閉じ込められたヴァルミラは、脱出の機会を窺っていた。もちろん、脱出して、父デロスの仇、エスカミーリオを殺すつもりである。
部屋の戸の前に誰かが来た気配がした。ヴァルミラは、戸が開いたら、すぐに外に飛び出そうと身構えた。
「ヴァルミラ。私だ。マルシアスだ」
聞き慣れた声に、ヴァルミラは体の力を抜いた。
「いいか、ヴァルミラ、そのうち必ずここから助け出す。今は、無謀な事をせずに我慢するんだ」
言い終わると、マルシアスは部屋の前から遠ざかって行ったようである。
ヴァルミラは溜め息をついて、部屋のベッドに身を横たえた。
グリセリード軍の使者がアルカードに着いたのは、アスカルファン上陸から一週間後だった。その間、グリセリード軍はバルミアを東と西から挟む形でじっと待機していた。
「奴らはなぜ攻めてこないのだ」
アスカルファン軍総大将のジルベルト公爵は、いらいらと言った。
「この前バルミアを正面から攻めて全滅しているので、警戒しているのでしょう」
軍議の場に加わっているオズモンドが答える。
「あの、マルスとやらを警戒しているのか?」
「それが一番大きいでしょうな」
「重宝な男だ。是非、我がアルプ軍の弓兵に加えたいものだが、お主口利きしてくれぬか」
「弓兵ですって? 将軍の間違いでしょう」
「何を馬鹿な事を。たかが庶民の若僧ではないか」
「いや、失礼ながら、あなたより高い家柄です。オルランド家の嫡男です」
軍議の場にどよめきが走った。
「それはまことか、アンリ殿」
シャルル国王が、軍議の場に場違いそうに座っていたアンリに聞いた。
「い、いえ、何かそのような事を申し立てているそうですが、何の証拠も無いことで」
アンリは太った顔に脂汗を浮かべて言った。
「証拠は有るそうですよ。オルランド家に代代伝わるブルーダイヤモンドのペンダントをマルスは受け継いでいます。私もそれを見ています」
「そう言えば、そのダイヤの事は聞いた事がある。もしもそのペンダントが本物なら、オルランド家を継がせぬわけにはいかんだろうな」
シャルル国王の言葉に、アンリは真っ青になった。
やがてマルスは国王から呼ばれてその前に証拠のペンダントを提出し、明らかにジルベールの息子であると認められた。マルスはアンリに、屋敷と領地以外の財産のすべてを譲り、自分はトリスターナと共にオルランドの屋敷に住むことだけしか求めなかった。これは、トリスターナのためであった。しかし、ジルベールの行方については相変わらず手掛かりは無かった。
「マルスさん、えらく出世したもんだねえ。ローラン家よりでかい家じゃないか」
マルスとトリスターナの新居に招待されたジョーイは、周りを物珍しげに見ながら言った。
「こんな大きな屋敷では、掃除するだけでも大変だ。僕にはケインの家の一部屋で十分だ」
マルスは溜め息をついて言った。ケインの店で弓矢作りの仕事をしていた女たちを家政婦として雇っているが、五人でもまだ足りないくらいなのである。
マチルダは、マルスとトリスターナが同居している事に、少々心穏やかでなかった。ケインの家にいた時にもジーナという存在はあったが、身近にケインも、その妻のマリアもいたから監視の目はあった。しかし、この広大な屋敷で、しかも一家の主人であるマルスの行動を誰も制止はできないだろう。
どんなに誠実な人間でも、男は男なんだから、魔が差すってこともあるわ、とマチルダは考えた。同じ屋根の下に、トリスターナのような美女がいて、むらむらと来ないほうがおかしいくらいよ。
「いい、マルス、もしもトリスターナさんとおかしな事になったら、私とはおしまいよ。よく覚えておいて」
「何を馬鹿な事を」
とマルスは答えたが、心の奥底には、マチルダの疑念を完全に否定できないものがあった。
それは、トリスターナと同じ屋根の下に住むということのわくわくする感じである。もちろん、マルスには、マチルダを裏切る気はまったく無い。しかし、心のときめきまでを抑えろというのは無理である。これも精神的な浮気という事にはなるのだろうが。
オズモンドも、トリスターナが自分の家を出る事を残念がったが、こちらは、マルスの身の証が立った以上、トリスターナと共にオルランド家を引き継ぐのは当然だ、という考えだった。
朝起きて、朝食の場にトリスターナがいる。それだけで、マルスは嬉しいものを感じるのである。これが一人きりの朝食なら、どんなに味気ない事だろう。
下働きの女たちの間で、一体、マチルダとトリスターナ、どちらが最終的にマルスのお嫁さんになるのかという事が一大関心事になっている事をマルスとトリスターナの二人は知らない。
「そりゃあ、マチルダさんに決まってるさ。なにせ、れっきとした婚約者だもの。もう奥さん同然よ。この前の旅も一緒に行っているじゃない」
「甘いわね。男と女ってのは、なんだかんだ言っても、近くにいるかどうかよ。あんな美人が側にいて、手を出さなきゃあ、失礼だがマルス様は男じゃないね」
台所の議論は、止まる所を知らなかった。
船の一室に閉じ込められたヴァルミラは、脱出の機会を窺っていた。もちろん、脱出して、父デロスの仇、エスカミーリオを殺すつもりである。
部屋の戸の前に誰かが来た気配がした。ヴァルミラは、戸が開いたら、すぐに外に飛び出そうと身構えた。
「ヴァルミラ。私だ。マルシアスだ」
聞き慣れた声に、ヴァルミラは体の力を抜いた。
「いいか、ヴァルミラ、そのうち必ずここから助け出す。今は、無謀な事をせずに我慢するんだ」
言い終わると、マルシアスは部屋の前から遠ざかって行ったようである。
ヴァルミラは溜め息をついて、部屋のベッドに身を横たえた。
グリセリード軍の使者がアルカードに着いたのは、アスカルファン上陸から一週間後だった。その間、グリセリード軍はバルミアを東と西から挟む形でじっと待機していた。
「奴らはなぜ攻めてこないのだ」
アスカルファン軍総大将のジルベルト公爵は、いらいらと言った。
「この前バルミアを正面から攻めて全滅しているので、警戒しているのでしょう」
軍議の場に加わっているオズモンドが答える。
「あの、マルスとやらを警戒しているのか?」
「それが一番大きいでしょうな」
「重宝な男だ。是非、我がアルプ軍の弓兵に加えたいものだが、お主口利きしてくれぬか」
「弓兵ですって? 将軍の間違いでしょう」
「何を馬鹿な事を。たかが庶民の若僧ではないか」
「いや、失礼ながら、あなたより高い家柄です。オルランド家の嫡男です」
軍議の場にどよめきが走った。
「それはまことか、アンリ殿」
シャルル国王が、軍議の場に場違いそうに座っていたアンリに聞いた。
「い、いえ、何かそのような事を申し立てているそうですが、何の証拠も無いことで」
アンリは太った顔に脂汗を浮かべて言った。
「証拠は有るそうですよ。オルランド家に代代伝わるブルーダイヤモンドのペンダントをマルスは受け継いでいます。私もそれを見ています」
「そう言えば、そのダイヤの事は聞いた事がある。もしもそのペンダントが本物なら、オルランド家を継がせぬわけにはいかんだろうな」
シャルル国王の言葉に、アンリは真っ青になった。
やがてマルスは国王から呼ばれてその前に証拠のペンダントを提出し、明らかにジルベールの息子であると認められた。マルスはアンリに、屋敷と領地以外の財産のすべてを譲り、自分はトリスターナと共にオルランドの屋敷に住むことだけしか求めなかった。これは、トリスターナのためであった。しかし、ジルベールの行方については相変わらず手掛かりは無かった。
「マルスさん、えらく出世したもんだねえ。ローラン家よりでかい家じゃないか」
マルスとトリスターナの新居に招待されたジョーイは、周りを物珍しげに見ながら言った。
「こんな大きな屋敷では、掃除するだけでも大変だ。僕にはケインの家の一部屋で十分だ」
マルスは溜め息をついて言った。ケインの店で弓矢作りの仕事をしていた女たちを家政婦として雇っているが、五人でもまだ足りないくらいなのである。
マチルダは、マルスとトリスターナが同居している事に、少々心穏やかでなかった。ケインの家にいた時にもジーナという存在はあったが、身近にケインも、その妻のマリアもいたから監視の目はあった。しかし、この広大な屋敷で、しかも一家の主人であるマルスの行動を誰も制止はできないだろう。
どんなに誠実な人間でも、男は男なんだから、魔が差すってこともあるわ、とマチルダは考えた。同じ屋根の下に、トリスターナのような美女がいて、むらむらと来ないほうがおかしいくらいよ。
「いい、マルス、もしもトリスターナさんとおかしな事になったら、私とはおしまいよ。よく覚えておいて」
「何を馬鹿な事を」
とマルスは答えたが、心の奥底には、マチルダの疑念を完全に否定できないものがあった。
それは、トリスターナと同じ屋根の下に住むということのわくわくする感じである。もちろん、マルスには、マチルダを裏切る気はまったく無い。しかし、心のときめきまでを抑えろというのは無理である。これも精神的な浮気という事にはなるのだろうが。
オズモンドも、トリスターナが自分の家を出る事を残念がったが、こちらは、マルスの身の証が立った以上、トリスターナと共にオルランド家を引き継ぐのは当然だ、という考えだった。
朝起きて、朝食の場にトリスターナがいる。それだけで、マルスは嬉しいものを感じるのである。これが一人きりの朝食なら、どんなに味気ない事だろう。
下働きの女たちの間で、一体、マチルダとトリスターナ、どちらが最終的にマルスのお嫁さんになるのかという事が一大関心事になっている事をマルスとトリスターナの二人は知らない。
「そりゃあ、マチルダさんに決まってるさ。なにせ、れっきとした婚約者だもの。もう奥さん同然よ。この前の旅も一緒に行っているじゃない」
「甘いわね。男と女ってのは、なんだかんだ言っても、近くにいるかどうかよ。あんな美人が側にいて、手を出さなきゃあ、失礼だがマルス様は男じゃないね」
台所の議論は、止まる所を知らなかった。
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