第三十八章 謎の男
「この戦で死んだ数万人の怨霊が今、アスカルファンをさ迷っておる。魔物がそれらの怨霊の恨みを己の力として強大な力を得ているのじゃ。早く、この賢者の書を読み解かねばならんのだが」
ロレンゾは溜め息をついた。
「さっき、アンドレは一人でグリセリード語の本を読み解いたと言ったな? なら、こいつもアンドレに読んで貰えばいいじゃないか」
ピエールが言った。
「なるほど、わしはそのアンドレという男は知らんが、よほど頭のいい男のようじゃな」
宮廷の晩餐会から戻って、ロレンゾから話を聞いたアンドレは、書物の解読を快く引き受けた。こうした謎解きが大好きだったから、むしろ大喜びである。
その頃、他の捕虜とは別に独房に閉じ込められていたヴァルミラの元へ一人の男が現れていた。その男は、見張りの厳しいはずの牢獄に、誰に咎められることもなく入り、ヴァルミラの牢獄の前に立った。
「どうだ、ヴァルミラ、悔しいであろう。父デロスを失い、また愛するマルシアスを失った上、このような牢獄に入れられる屈辱を味わいながら、なぜお前は生きているのだ?」
その男は、褐色の肌をした南部グリセリード人であったが、ヴァルミラの知らない男である。痩せて背が高く、長い漆黒の口髭が顎の下まで垂れ下がっている。その眼の光は鋭く、異様な深みがあった。まるで骸骨に褐色のなめし皮を着せたような男だ、とヴァルミラは思った。
「名将デロスの娘として敬われ、常に人を見下していたお前はどこへ行った。このような独房で、排便すらも下司の監視兵の卑しい好奇の目の前で行なう屈辱になぜ耐えている」
「言うな! それ以上言えばお前を殺す!」
ヴァルミラは顔を紅潮させて叫んだ。
「わしは、お前をここから出してやることも出来る。そうしてやろう。その前に、言ってみろ、お前はなぜ生きようとするのだ」
「復讐のためだ。父を殺したエスカミーリオ、マルシアスを殺したマルスを殺すまでは、私はどんな屈辱にも耐えて生きるつもりだ」
ヴァルミラは吐き出すように言った。
「なら、なぜ国王シャルルの申し出を受けん。王の寵姫になれば、マルスを陥れることなど簡単だろう」
「私は、策謀など嫌いだ。ただこの手に刀がありさえすればよい。そうすれば、草の根を噛んでも地の果てまでエスカミーリオとマルスを追って討ち果たす」
「その前に、捕虜の死刑が行なわれたらどうする」
「怨霊となって取り殺してみせる」
「見上げた心だ。だが、わしの使い女となるほうが簡単だぞ。わしの言う事に、はい、と一言言うだけで、今すぐここから出してやろう」
ヴァルミラは迷った。この男が信用できない男である事は直感で分かる。だが、今ここから出なければ、このまま復讐を遂げずに終わるかもしれない。
ヴァルミラは、男に、はいと言おうと決心した。だが、その瞬間、どこからともなくマルシアスの声が聞こえてきた。
(駄目だ、ヴァルミラ)
声はただそれだけだった。だが、それははっきりとマルシアスの声だった。
「いやだ。私の事は放っておけ。お前などの力は借りん」
ヴァルミラは男からそっぽを向いた。
「強情者め。わしの申し出を受けなかった事を、いずれ後悔するぞ」
男は叫んで、来た時と同様、音も無く立ち去った。
眠り込んでいた見張り番は、はっと目を覚まし、周りを見回して、異状が無い事に安心した。
アスカルファンから船に乗って、ボワロンを経由してグリセリードに戻ったエスカミーリオは、報告の中で、今回の敗戦についてすべての責任をデロスに押し付けていた。まさに、死人に口無しである。彼と一緒に戻った他の将校たちもエスカミーリオに同調し、自分たちは勇猛に戦った、すべての責任は総指揮官デロスの作戦のまずさにあった、と口を揃えて言った。
お前らだけが戻ったことで、お前らの卑怯卑劣さは歴然としとるよ、とロドリーゴは思ったが、役に立つ部下であるエスカミーリオを失いたくないために、その報告にうなずいた。もともと、目の上のたんこぶであるデロスを葬ることが、今回の戦いの目的の一つである。
さすがに、敗戦の責任をまったく取らせないわけにもいかないので、戻った将官たちはそれぞれ降格減俸されたが、それも大した物ではなかった。
やがてアスカルファンから、捕虜の釈放の条件に、身代金を払えという要求が届いたが、高官の子弟数人を除いて、後は勝手にそちらで処分してくれ、という返事が返された。ヴァルミラの名はその中には入っていなかった。
「この戦で死んだ数万人の怨霊が今、アスカルファンをさ迷っておる。魔物がそれらの怨霊の恨みを己の力として強大な力を得ているのじゃ。早く、この賢者の書を読み解かねばならんのだが」
ロレンゾは溜め息をついた。
「さっき、アンドレは一人でグリセリード語の本を読み解いたと言ったな? なら、こいつもアンドレに読んで貰えばいいじゃないか」
ピエールが言った。
「なるほど、わしはそのアンドレという男は知らんが、よほど頭のいい男のようじゃな」
宮廷の晩餐会から戻って、ロレンゾから話を聞いたアンドレは、書物の解読を快く引き受けた。こうした謎解きが大好きだったから、むしろ大喜びである。
その頃、他の捕虜とは別に独房に閉じ込められていたヴァルミラの元へ一人の男が現れていた。その男は、見張りの厳しいはずの牢獄に、誰に咎められることもなく入り、ヴァルミラの牢獄の前に立った。
「どうだ、ヴァルミラ、悔しいであろう。父デロスを失い、また愛するマルシアスを失った上、このような牢獄に入れられる屈辱を味わいながら、なぜお前は生きているのだ?」
その男は、褐色の肌をした南部グリセリード人であったが、ヴァルミラの知らない男である。痩せて背が高く、長い漆黒の口髭が顎の下まで垂れ下がっている。その眼の光は鋭く、異様な深みがあった。まるで骸骨に褐色のなめし皮を着せたような男だ、とヴァルミラは思った。
「名将デロスの娘として敬われ、常に人を見下していたお前はどこへ行った。このような独房で、排便すらも下司の監視兵の卑しい好奇の目の前で行なう屈辱になぜ耐えている」
「言うな! それ以上言えばお前を殺す!」
ヴァルミラは顔を紅潮させて叫んだ。
「わしは、お前をここから出してやることも出来る。そうしてやろう。その前に、言ってみろ、お前はなぜ生きようとするのだ」
「復讐のためだ。父を殺したエスカミーリオ、マルシアスを殺したマルスを殺すまでは、私はどんな屈辱にも耐えて生きるつもりだ」
ヴァルミラは吐き出すように言った。
「なら、なぜ国王シャルルの申し出を受けん。王の寵姫になれば、マルスを陥れることなど簡単だろう」
「私は、策謀など嫌いだ。ただこの手に刀がありさえすればよい。そうすれば、草の根を噛んでも地の果てまでエスカミーリオとマルスを追って討ち果たす」
「その前に、捕虜の死刑が行なわれたらどうする」
「怨霊となって取り殺してみせる」
「見上げた心だ。だが、わしの使い女となるほうが簡単だぞ。わしの言う事に、はい、と一言言うだけで、今すぐここから出してやろう」
ヴァルミラは迷った。この男が信用できない男である事は直感で分かる。だが、今ここから出なければ、このまま復讐を遂げずに終わるかもしれない。
ヴァルミラは、男に、はいと言おうと決心した。だが、その瞬間、どこからともなくマルシアスの声が聞こえてきた。
(駄目だ、ヴァルミラ)
声はただそれだけだった。だが、それははっきりとマルシアスの声だった。
「いやだ。私の事は放っておけ。お前などの力は借りん」
ヴァルミラは男からそっぽを向いた。
「強情者め。わしの申し出を受けなかった事を、いずれ後悔するぞ」
男は叫んで、来た時と同様、音も無く立ち去った。
眠り込んでいた見張り番は、はっと目を覚まし、周りを見回して、異状が無い事に安心した。
アスカルファンから船に乗って、ボワロンを経由してグリセリードに戻ったエスカミーリオは、報告の中で、今回の敗戦についてすべての責任をデロスに押し付けていた。まさに、死人に口無しである。彼と一緒に戻った他の将校たちもエスカミーリオに同調し、自分たちは勇猛に戦った、すべての責任は総指揮官デロスの作戦のまずさにあった、と口を揃えて言った。
お前らだけが戻ったことで、お前らの卑怯卑劣さは歴然としとるよ、とロドリーゴは思ったが、役に立つ部下であるエスカミーリオを失いたくないために、その報告にうなずいた。もともと、目の上のたんこぶであるデロスを葬ることが、今回の戦いの目的の一つである。
さすがに、敗戦の責任をまったく取らせないわけにもいかないので、戻った将官たちはそれぞれ降格減俸されたが、それも大した物ではなかった。
やがてアスカルファンから、捕虜の釈放の条件に、身代金を払えという要求が届いたが、高官の子弟数人を除いて、後は勝手にそちらで処分してくれ、という返事が返された。ヴァルミラの名はその中には入っていなかった。
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