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思いがけない「日常の謎」

北村薫と言えば「日常の謎」、まあ、そういう言い方をしているかどうかは知らないが、日常生活の中で遭遇した些細な謎を作品の中心にした推理小説の代表的作家だが、その北村薫の「中野のお父さん」という、わりと新しいシリーズらしき作品の一篇を読んでいたら、作者が謎にしたわけでもなさそうな部分で、奇妙な謎に出くわしてしまった。
作中の主人公である若い女性編集者(美希)とその同僚女性(ゆかり)の服装を描写した部分で、こう書かれている。

ゆかりは冷房対策のカーディガンを脱ぎ、いかにも編集者らしい大きなバッグにしまう。下はネイビーのワンピースだ。美希もジャケットを脱いで手に持った。こちらの下は黒のチュニック。








さて、どこが謎かと言うと、これは私が女性のファッションに無知なだけかとも思うのだが、「ネイビーのワンピース」というのが謎なのである。
私の世代だと、「ブルー、ネイビーブルー、私の彼は~♪」という歌を思い出すから、「ネイビーブルー」なら服に関係がありそうだと思うのだが、ここでは「ネイビー」と書かれている。それなら「海軍」にしかならないのではないか。まさか「海軍のワンピース」ではあるまい。今どき、海軍にも女性兵士がいるのかもしれないが、「ワンピース」は着ないだろう。すると、「ネイビーのワンピース」とは何だろうか。あるいは、「ネイビー」というブランドでもあるのか。
まあ、「チュニック」も分からない(古代ローマのチュニックしか想像できない)が、ジャケットの下に着ているのだから、「貫頭衣」の現代版みたいなもの、と想像すればすむ。しかし、「ネイビーのワンピース」は謎である。



一応、英和辞書を調べてみると、navyの3番目に 3=navy blueとあり、navyだけでもnavy blueを意味するようだ。しかし、現代の人間で、navy blueを知っている若者(特に女性)はあまりいないのではないか。ちなみに、navy blueは濃紺色で、イギリス海軍の制服の色と説明されている。




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習得した知識が自己の一部となることの陥穽

山道を歩きながら考えた。
いったい、なぜ世間の学者や高学歴の人間には馬鹿が多いのか、ということだが、新コロや新コロワクチンの異常さを考えれば、新コロ詐欺やワクチン詐欺があれほど猛威をふるった以上は専門家や医学者、あるいは世間で指導的立場にある学者や評論家、批評家が馬鹿の集団であるのは明白なように見えるが、これはもちろん、馬鹿ではなく、ただの卑怯者(それどころか殺人者である)の集団であるというのが正解だろう。
で、仮に、高学歴=馬鹿という仮説を立てるならば、それは、高学歴者というのは、記憶能力が抜群であるからではないか、という第二の仮説に到達した。
つまり、記憶力が抜群なために、既存の権威的知識を習得することが巧みで、その記憶によって、それに逆らう説を自分が出すことが困難になるのである。なぜなら、それは、学者や学問者としてのこれまでの自己の否定になるからだ。さらには、学歴や学者としての階梯というのは、既にある権威的知識を習得することで得られるし、その権威に逆らうと、学者や知識階級として生きていくことはできないからである。(権威への迎合というその卑怯さはある意味では「馬鹿」だと私は言っている。)
たとえば、進化論が嘘だと思っていても、それ(進化論)を教えたことで教師が後で非難されることはない。だが、進化論を否定する発言を教壇でやったら、教師としての地位を追われるだろう。
これは、ワクチンや新コロでも同じだろうし、極端に言えば、あるいは相対性理論なども、その種の「後で嘘だと分かる定説」の類かもしれない。その一部である、「光速を超える速さは存在しない」という説への懐疑論を前に書いたが、もちろん、それは何の根拠もない、無学者(私)の仮説だ。しかし、相対性理論が「定説」となる以前は、べつにおかしくも何ともなかったはずだ。
進化論への批判はすでに学界でもかなりあると聞いたような気もする。
ちなみに、科学は「事実」に基づく学問だと言われている。それが科学への信頼の根拠だろう。だが、何が事実かは、観察によって決まるのであり、完全に正確な観察は不可能だ、と確か「不確定性原理」は主張しているはずだ。ならば、科学そのものが「事実に近い蓋然性があると推定できる」だけのことで、それが本当に事実、あるいは真理なのかは永遠に分かることはないはずで、つまり、現在の「定説」とはすべて、「権威によって定められた、蓋然性の高い仮説」にすぎないということだ。

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「理で解する」やり方は読書では絶対的なものではない

市民図書館というのは、私には財宝を隠したダンジョン(迷宮)である。しかも、怪物はいない。ただ、財宝が財宝に見えないという魔法がかかっているだけだ。何が財宝なのか、探す人間には分からないので、宝箱なのかゴミ箱なのか、箱(本)を開けて調べるまでは分からないのである。

などと書いたのは、その図書館から借りていた樋口一葉の「たけくらべ」を先ほど、寝床の中で読み終えたからだが、さすがに名品である。つまり、財宝だ。

で、ここで言っておきたいのは、難読本を読むときに「理解する」必要など無い、ということだ。その本の精神や思想の中心が自分に伝わればいいのであり、それは文中の無数の難読語をすべて理解する必要などない。たとえば、1ページの中にその10分の9の意味不明の語句があったとしても、構わずに読み進めていけば、書かれたことの要旨が分かる場合が多い。それでいいのである。で、理解できない言葉も、理解できないままで、その本の「味わい」となって頭や体に沁み込むのであり、それは頭だけで本を「理解する」以上に、その本を「心で感じ取った」のだ、と私は主張したい。
もちろん、言葉の正しい解釈ができれば、その本をより深く「理解」でき、それはそれで素晴らしいことだが、繰り返すが、「理解」以上に大事なのは「感じ取る」ことであり、その作品世界の中に「生きる」ことなのである。
ちなみに、私は昔、学習塾や予備校で古文や漢文を教えたこともあるが、「たけくらべ」の文章の7割くらいは理解できない。明治のころの風俗に関係する言葉が無数に出てくるからだ。しかし、その7割は、作品世界を感じ取り、作品世界を生きる邪魔にはけっしてならないし、それどころか、それらの言葉があるために、作品の味わいが生まれるのである。これは、言葉をいちいち厳密に「理解」する作業によって邪魔されるだろう。辞書など引かずに、そういう言葉はどんどん読み飛ばす(より正確に言えば、頭のどこかにうっすらとした記憶として残る)だけでいいのである。

などと書いたのは、私は昔から「たけくらべ」を読もうと思ったことが何度もあったが、冒頭の数行を読んだだけで、あまりに理解不能な言葉が並ぶので、その度に挫折してきたからである。
おそらく、そういう人は私のほかにも無数にいるだろう。それは、「本を読むこと=理解すること」ということが悪質なテーゼ(命題)になっているからではないか。
昔の「空手キッド」か何かの老師の言ではないが、「考えるな、感じろ」というのは、読書にも言える行き方だろう。

ちなみに、英語の原書を読む時も、このやり方は有効だと思う。ネットの雑文を読む際ならなおさらだ。つまり「斜め読み」「飛ばし読み」で十分な文章が大半なのである。
逆に、言葉の一句一語の厳密な解釈や批判をしながら読む読書も当然意味があるのであり、要は、読書を楽しみ、自分の世界を広げ、豊かにすることだ。まあ、読むのが楽しければ、それだけで十分以上である。

ちなみに、バルザックの「暗黒事件」も同時進行で読んでいるが、こちらはフランス革命全体(ナポレオン帝政時代や王政復古やその後の再革命を含む)の様相がある程度わからないと、面白みが半減する作品だと思うので、疑問に思う箇所は調べながらゆっくりと読んでいる。




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東海アマ氏の人生の選択

「東海アマ」ブログで、前半は面白いというか、興味深いが、後半は、自分の極貧生活はDSのせいだ、という飛躍があり、まあ、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な因果関係がないとは言わないが、個人的事情を世界的権力のせいにするのは、やはり論理の飛躍だろう。それに、(原発村のような)権力的存在を批判するなら、覚悟の上でするのが当然で、泣き言をいうのは少々情けない。

ということで、アマ氏の貧困生活の状況が活写されている記事前半だけ転載する。自死を覚悟していながら、死を恐怖する心理が正直に語られているのが良い。まあ、泣き言をいうのも正直さではあるが、対応する状況が違う。ヤクザに喧嘩を売るなら殴られる覚悟が必要だという話だ。
念のために言うが、私はアマ氏のこれまでの反原発活動を尊敬する者である。氏の記憶力など、天才だろうとも思う。その気になれば、東大など簡単に行けたのではないか。

つまり、氏の現在の生活は氏が選択してきた生き方の結果にすぎない。
最大の失敗は、近くの都市まで徒歩3時間もかかる高地への移住で、その結果、家賃はかからないが、自動車税や燃料費などがかかっているし、冬は極寒に堪える生活を強いられる。それでいながら、他人には高地移住を勧める無責任さである。
まあ、要するに、氏の発言の多くは思い込みである。だからDSを批判しながら、DS支配のマスコミ情報を信じて、反ロシア、反中国言説を垂れ流したりする。たぶん、自分が気に入らない情報はすべてシャットアウトするのではないか。その結果、彼自身が発信する情報も、かなり小さい部分しか価値がなくなる。(もちろん、これはほとんどの人の通有性であり、私もそういう部分があるのは当たり前だ。問題はその「程度」である。)

(以下引用)



 私が年金生活に入って、すでに5年くらいになるのだが、私の場合は、厚生年金でありながら国民年金の月あたり平均65000円よりも、はるかに低い5万円前後だ。
 だから、月5万円での生活設計は、極めて苛酷なものであり、光熱通信費と食費だけでもオーバーしてしまう。

 加えて、車がなければ生きてゆけない地域(近いスーパーまで徒歩3時間かかる)なので、燃料代や税金など維持費は、まるまる赤字になって重くのしかかってくる。
 まあ、少ない預金は毎月減って行くばかりなので、金の切れ目が命の切れ目と覚悟している。行政から不快な嫌がらせを受ける生活保護より、庭にテントを張って七輪で暖をとり、そのままオサラバすることを考えている。

 以前、近所の高度差100mある高所橋を見て回ったが、近いのは福岡大橋で、これは探すのが難しい場所にあるので知っている人は少ないが、特段の飛び降り防止措置もないので容易に使える。もし宣伝すれば、飛び降りの名所になるかもしれない。
 ただし、下が岩場で100mという落差は、そうとう恐ろしい姿に変貌することを覚悟したほうがいい。

 八百津の新旅足橋なんか、数名が飛び降りたらしいが、高度差200mあるとバラバラになってしまうらしい。今は、バンジーで生きたまま飛び降り自殺の体験ができると評判だ。
 ただ、川床に激突した人は例外なくとんでもない姿になる。遺体を拾い集める係員は、これは左足、これは顎、これは脳味噌なんてゴミバサミで淡々と集めてゆく手間が、恐山の賽河原のようで、私は恐怖で意欲を失った。

 まあ、死後も人間の姿を保ちたいなら、木曽川の城山大橋や源済橋、恵那峡大橋あたりを使った方がいい。飛び降りれば、大井ダム湖に沈み、数十日かかってガスによって浮き上がり、大井ダム堰堤の流木トラップに捕獲されることになる。
 恵那峡大橋は飛び降りの名所で、霊感の強い人が近づくと全身金縛りに遭うことが多い。私も心底怖い思いをした経験がある。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/article/493726782.html

 死を身近に考えなければならないほどの低年金暮らしの実態はというと、金食い虫を減らすことが絶対命題になる。
 最大の金食い虫は、光熱通信費と車だ。私の場合も毎月3万円以上かかっているので、いよいよとなったら、趣味のブログ書きをやめてネットを解約するしかない。
 冷暖房もできる限り節約しなければならないので、とにかく寒い思いを耐え忍んでいる。マイナス5度以下に下がる夜は、布団にくるまっても顔に痛みを感じる。
 マイナス10度以下になると逆に寒さを感じにくくなる。これは気温を体に伝える湿気が失われるせいだろう。

 食事は、もちろん100%自炊で、外食など何年も経験していない。おおむね一食200円以下に抑えないと、月あたり予算2万円には収まらないのだ。
 食材は、スーパーの閉店1時間程度前に、売れ残り半額サービス品を買うのだが、数年前まで、競争者が少なく、半額品がかなり自由に買えたのだが、今は違う。
 同じことを考える低年金老人や、普通の主婦までも売れ残り品を狙って競争が激しくなっている。

 昔のバブル時代の記憶を考えると、本当に「日本は貧しくなったのだ」と実感させられる。1980年代なら、ホームレスでも廃棄食料を自由に手に入れることができた。スーパーやコンビニのゴミ箱には、期限切れ商品が満載だったのだ。
 今はホームレスも廃棄食品を手に入れるのは困難だろう。公園の野宿者炊き出しには、普通の生活者までたくさん並んでいるという。
 https://tanakaryusaku.jp/2023/08/00029324

 ホームレスや低年金老人が生きて行く上で、大きな困難は、やはり気温の問題ではないだろうか?
 夏場の暑さは耐えがたいものになってきているが、問題は冬場で、温暖化とはいうが、零下数度の寒さでの野宿は、私が正月に南アルプスに上って幕営していたときよりも厳しいかもしれない。

 私の記憶では、1980年前後だが、名古屋駅周辺で一晩に7名ものホームレスが凍死したことがあった。さぞ辛かっただろう。彼らの死に場所にゆくと、なぜか冷たい風を感じて、不安感で恐ろしくなるのだ。死者が自分の体験を伝えようとしているように思えた。
 これをきっかけに、名古屋市は冬場のホームレス対策として船見寮の解放がはじまった。

 中津川では家のないホームレスは凍死が約束されている。冬場マイナス7度まで下がることが普通だから、公園などで寝たり、歩き回っても耐えられるものではない。
 もし生き延びることができるとすれば、犯罪を犯して警察に逮捕されることしかない。今や、刑務所は日本最後のセーフティネットであり、犯罪者は自分の命を守るために進んで刑務所に行くしかない。
 これが自民党政権が作った新自由主義の社会だ。

 昼間は、まだ図書館や役場などの公共機関に自由に立ち入れるので、時間を潰すのに快適な空間が約束されている。
 だから、今や図書館や大手スーパーの休憩空間は、夏も冬も冷暖房代金を節約する目的で時間つぶしする低年金老人たちで溢れているのだ。
 だが、夜は追い出されるので、仕方なしに自宅に帰るが、高価な灯油を使えず、コタツに入って厚着して寒さを耐え忍ぶ人が多い。

 もちろん、私も18リットル2000円以上している灯油を自由に使えず、コタツに軽羽毛服でいることが多い。灯油ストーブで暖をとると、18リットルなど三日程度で使い切ってしまうからだ。

 私の場合は、公共機関が遠いので利用できず、昼間はブログを書いて、肺線維症の呼吸トレーニングのため歩いていて、家に帰るとネットを見て情報収集しているのだが、新聞は高価だし、テレビは受信障害で基本的に視聴できないので、結局、ネットを相手にするしかない。ネット利用のデメリットは、視力が落ちることだ。

 たまには対話したくて、外出し集会などに顔を出したいのだが、残念ながら交通費などの問題から、遠方に出かけてゆくことは不可能だ。
 昔は居酒屋にも行ったのだが、もう20年近く行っていないし、行けるはずもない。
 まったく孤立して、誰とも対話しない生活が長く続いている。
 もちろん、年金暮らしで逼迫するようになって、大好きな温泉なども行けなくなった。昔は乗鞍高原温泉に年に数回も通ったものだが。
 日帰り温泉も10年くらい行っていない。床屋も金がかかるので、自分で散髪している。

 こうした孤立したライフスタイルで心配になるのは、認知症の進行である。もう20年も前から、単語が出にくくなり、「あれ、それ」の指示代名詞ばかりを使う認知症初期段階だったのだが、物忘れは年々激しくなるばかりで、このブログを書いていても、小さなミスを頻発しながら、目が悪いので推敲ができないのだ。
 やはり、他人との対話が、認知症の進行を抑制してくれるのは間違いなく、孤独な生活は、閉ざされた思考回路で、脳の劣化をどんどん早めてゆくような気がする。

 だが、私の場合は、呼吸トレーニングを数日もさぼると、夜中に息苦しくなって眠れなくなるので、ほぼ毎日山道を7000~10000歩歩いていて、このとき、結構脳細胞が活性化されているため、認知症の進行を遅らせてくれていると確信している。
 でも、ブログを書いていて、毎日のように自分の思考回路の劣化を思い知らされる機会があって、消えゆく老兵として悲しい思いをしている。

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「杖ブーム」?

いや、私も杖の愛用者だが、下の写真のようなものではなく、枯れ木の太目の枝を折って小枝を取り払った、「仙人型」の自家製杖である。
最初は、悪い膝の歩行補助のつもりだったが、夜間や早朝の散歩での暴漢や野犬相手の「武器」のつもりでもあり、また、肩や腕の運動の補助器具にも使っている。まあ、刃物所持だと警官に逮捕されるだろうが、杖なら見逃されるのではないか、という計算である。
しかし、それが「流行の先端」を行っていたとは知らなかったwww

(以下「大摩邇」から引用)

激増する杖ユーザー: これは「杖ブーム」と言えるか?

ザウルスの法則さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/c8441f87f7435f702806383fb3b250e0
<転載開始>

激増する杖ユーザー: これは「杖ブーム」と言えるか?


 


杖ユーザーが目につきだしたのは2022年からだ。当時、記事にもした。



どの町でも若者の「杖デビュー」? 気づかないボンクラもいる?

ザウルスのフィールドワーク:杖ユーザーの静かなる激増?


2年近く経った今、さらに激増している印象がある。以下は、昨日(2024/03/02)たまたま地元のスーパーで撮影したものである。


 



ここまではいずれも中高年の女性で、皆申し合わせたように花柄のアルミ製の杖を使っている。いちばん左の女性は30歳前後にしか見えない。このひとの杖すがたに衝撃を受け、杖ユーザーハンティングを開始した。


 


 



別方向に歩いている3人の杖ユーザーを同じ1つのフレームに収めたのは、これが初めてであるが、こんなことが可能になっている。


 


このあと、スーパーの外に出ても、杖ユーザーは次から次と現れる。



 


いちばん最初の、30歳くらいにしか見えない女性の画像のタイムスタンプは15:54で、これが杖ユーザー撮影の開始時間。最後の、路上の男性の画像のタイムスタンプは16:09である。つまり、わずか15分のあいだにこれだけの杖ユーザーを目撃したことになる。画像上では9人である。しかし、よく見ると、3人が一緒に写っている画像のいちばん奥の男性は、最下段の左の男性と同一人物であることがわかったので、実質8人ということになる。ということは、15分間に8人である。


 


さて、2022年11月に駅の改札とホームで撮影した動画では、「32分間に6人もの杖ユーザー!」 を収録していた。


動画: https://twitter.com/zaurus210/status/1597926479354302464


 


2022年は、約5分に1人である。


2024年は、約2分に1人である。


 


 



 


 


ちなみに、わが町には昨年末(2023年12月)に杖の専門店がオープンした。先見の明があると言うべきか?


 


 


 


 


 


 


 


わたしがこれほどまでに杖にこだわるのは、杖が 街中で歩行障害を示す重要な指標 であるからだ。他の身体的、知的、障害のほとんどは見た目ではわからないものが多い。しかし、杖は体の補助的付加物として60メートル先でも目に見える。この指標が街中で1~2年のあいだに激増しているということは、何か重大なことを意味しているのではないか?


 


そもそも、これは 「杖ブーム」 と言えるか?


ブーム とは、いっときの流行であり、ファッションであり、いずれ下火になって消えていく運命のものである。昨今激増中の杖ユーザーは、杖をおしゃれアイテムとして取り入れているのか?単なるおしゃれとしての趣味的な選択であれば、たしかに 「杖ブーム」 と言えるかもしれない。



例えば、帽子のようなファッションとかおしゃれアイテムならば、「ブーム」 と言えるだろう。しかし、「杖ブーム」で検索してもなぜかほとんどヒットしない。現実には、明らかに杖ユーザーは増えており、杖の市場は拡大している。杖専門のネットショップも増え、実店舗も増えているのだが、どうやら 「杖ブーム」 とうっかり喧伝できない深刻な事情があるようだ。


 


 


「杖デビュー」 の事情


ツイッター上で、杖を使い始めることを 「杖デビュー」 と言うひとが出て来たのは2年ほど前だった。「杖デビュー」 という、このやや自嘲的な言葉は決して 「ブームに乗る」 という意味合いで口にされるのではないようだ。「杖デビュー」 という言葉には、杖に頼らざるを得ない悲哀と諦念がこもっているように思える。杖生活に入るという選択には、流行やおしゃれとは別次元の、当人の人生にとって非常に深刻な事情と決断があるはずだ。それを 「杖ブームに乗って」 と言うことはできないだろう。


それでは、「ブーム」 ではないとしたら、この激増は何なのだ?


 


個々人の 「非常に深刻な事情」 については、以下の記事を参照して頂きたい。


どの町でも若者の「杖デビュー」? 気づかないボンクラもいる?


 


「非常に深刻な事情」、 「杖ユーザー激増」 の 根本原因 は、実はここ3年間、目の前にずっとぶら下がっているのだ。しかし、不思議なことに、気づかない人は永遠に気づかないようだ。どうやら、いつまでも気づかないようなひとが、杖をつく羽目になっているように思える。


そして、杖をついているひとはどうもマスクをしていることが多いようだ。これも単なる偶然ではないように思える。


 


 


 


昨年はツイッターでも何度も杖関連のツイートをしていた。


 



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 


 


 


どの町でも若者の「杖デビュー」? 気づかないボンクラもいる?

ザウルスのフィールドワーク:杖ユーザーの静かなる激増?


<転載終了> 

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「sure」と「for sure」

今朝の散歩の最初から、頭の中に「蛍の光」の曲が流れていたのだが、それがどういうきっかけで頭に浮かんできたのかが分からない。
確か、早い朝食を終えた後に、「いつしか年も過ぎ(杉)の戸を」という掛詞(「蛍の光」の一節)のことを考えた気がするが、そのきっかけも分からない。

その前には、(朝食の支度をしながら)考えていたのは、確かプレスリーの、「エルビス・オン・ステージ」の中で歌った「Next step is Love」の一節に関する英語クイズである。これは、私が作ったクイズだが、次のどちらが英文として適切か、という問題だ。「正しいかどうか」はあまり大事ではなく、英語として自然か、という話だ。

A: It is sure.
B: It is for sure.

まあ、私は英語は苦手で、英会話はもっと苦手で、英米人と話した経験はゼロである。そういう前提で聞いてほしいが、おそらく大多数の日本人はAを選ぶと思う。
だが、正解はおそらくBなのである。
というのが、プレスリーはBのように、正確に言えば " It's for sure” と歌っていたからだ。そうでないとメロディに合わないのである。
だが、我々日本人には、この「for」が邪魔に見えるのではないか。
しかし、これはどうやら文法的にもBが正しいようなのである。
英語は苦手だが、英文法はもっと苦手なので、間違っている可能性もあるが、sureは形容詞で、名詞や名詞相当語句を修飾するのがその機能らしい。とすると、Aは誤り、となる。
そして、英語辞書によると、副詞として使う場合、つまり、動詞など(活用語)を修飾する場合は「for sure」となるらしいのである。つまり、この場合、「for sure」は(あまり自信はないが)「is」を修飾している、ということではないか。

話が長くなったので、この話はここまでにする。「火垂るの」、じゃない、「蛍の光」の話はまた、別の機会にする。こちらは古文の話である。

なお、今朝は非常に寒く、散歩の最初に少し考えていたのは、防寒具としてのレインコートの優秀性である。安いし、雨除けにもなるし、丈夫であるし、機能的である。高価なオーバーコートの何倍も優秀だと思う。手袋としての作業用使い捨て木綿手袋(名前を失念。ボケの症状のようだ。あ、軍手である。まあ、軍隊と手袋を結び付けるのは現代人には無理だろうから、名前を忘れるのも当然か)の優秀性や、マフラーとしてのタオル(中型タオル)の優秀性も同様の話である。値段と機能性は、さほど関係しない。要するに、ビジネス商品の多くは「ファッション」(名前、見栄)の部分にカネがかかるのである。なお、軍手もタオルも(タオルは当然だが)汗拭きになる。雨や汗に濡れた顔を軍手の背(甲)で即座に拭ける。手袋ではこうはいかない。作業で汚れるのは基本的に軍手の掌部分である。防寒具としての使用ならまったく汚れもしない。汚れたら洗濯機に放り込んで洗えば何度でも使える。




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雨上がりの朝

ここのところ、沖縄では雨がほとんど降らず、ダムの貯水率が40%を切ったと新聞では騒いでいたが、昨日今日(今朝)と、小雨で、少し貯水量も回復したのではないか。ちょうどいい時に降ったという感じである。今年の沖縄はラッキーなのかもしれない。

で、早朝のというか、毎度の未明の散歩の時に、空を見ると西に近い空の、雲の切れ間に月が出ていた。ほぼ半月である。(旧暦だと1月25日の月だ。)で、なぜことさらに月のことを言うかというと、私は「雨月」を見たのはおそらく生まれて初めてだったからである。
言うまでもなく「雨月物語」は上田秋成の名作短編集で、私の最愛の作品のひとつだが、その題名の「雨月」そのものを見たのは、私は初めてだったのである。まあ、夜中に外を歩いていると不審者(犯罪者予備軍)扱いされる現代では、空の月を見ることすら稀だろう。況や雨月をや、だ。
これも早朝の散歩の功徳である。

で、それとまったく関係の無い話だが、歌い手(デュオ、つまり二人組だった気がする)の名前は忘れたが、「結婚するって本当ですか」という昔の歌がある。フォークソングブームの頃の歌だ。
その歌が別に好きでも何でもなかったのだが、(何しろ、女性の失恋の話だから、男には共感や同情ができるはずがない。)よく頭の中に浮かんでくる歌なのである。特に、今朝のように小雨(後で上がった)の日は連想も働くのだろう。何しろ、その出だしが「雨あがりの朝~♪」なのだから。
この「雨あがりの朝~」の歌詞と曲が、まさに「雨上がりの空(あるいは朝)」とぴったりのイメージなのである。これほど、曲と歌詞の内容が一致した歌を私はほかに知らない。もちろん、名曲や名歌詞は無数にあるが、曲と歌詞の一致性の話をしているのである。
他の部分の歌詞も、曲によく合っていて「ポストの前には~赤いコスモス 揺れていた~♪」と聴くと、まさにその風に揺れる赤いコスモス(なぜか、ポストの前というのがぴったり)を連想するのである。(ちなみに、私はコスモスがどういう花か、明確には知らない。)
私はこの歌を真面目に注意深く聞いたこともないので、私の覚えている歌詞が実際と一致するかどうか、非常に怪しいが、こんな歌詞だったと思う。「机の写真は笑ってるだけ」というフレーズも実に見事だ。時の経過、出来事の推移、好きなまま別れた相手の笑顔の写真を見るその切ない感情が、この短い一節ではっきりわかる。


雨上がりの朝 
届いた短い手紙
ポストの前には
赤いコスモス揺れていた

結婚するって本当ですか
机の写真は笑ってるだけ
ほんの小さな出来事で
別れて半年経ったけれど
優しい言葉を待っていた
待っていた






















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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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