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「理で解する」やり方は読書では絶対的なものではない

市民図書館というのは、私には財宝を隠したダンジョン(迷宮)である。しかも、怪物はいない。ただ、財宝が財宝に見えないという魔法がかかっているだけだ。何が財宝なのか、探す人間には分からないので、宝箱なのかゴミ箱なのか、箱(本)を開けて調べるまでは分からないのである。

などと書いたのは、その図書館から借りていた樋口一葉の「たけくらべ」を先ほど、寝床の中で読み終えたからだが、さすがに名品である。つまり、財宝だ。

で、ここで言っておきたいのは、難読本を読むときに「理解する」必要など無い、ということだ。その本の精神や思想の中心が自分に伝わればいいのであり、それは文中の無数の難読語をすべて理解する必要などない。たとえば、1ページの中にその10分の9の意味不明の語句があったとしても、構わずに読み進めていけば、書かれたことの要旨が分かる場合が多い。それでいいのである。で、理解できない言葉も、理解できないままで、その本の「味わい」となって頭や体に沁み込むのであり、それは頭だけで本を「理解する」以上に、その本を「心で感じ取った」のだ、と私は主張したい。
もちろん、言葉の正しい解釈ができれば、その本をより深く「理解」でき、それはそれで素晴らしいことだが、繰り返すが、「理解」以上に大事なのは「感じ取る」ことであり、その作品世界の中に「生きる」ことなのである。
ちなみに、私は昔、学習塾や予備校で古文や漢文を教えたこともあるが、「たけくらべ」の文章の7割くらいは理解できない。明治のころの風俗に関係する言葉が無数に出てくるからだ。しかし、その7割は、作品世界を感じ取り、作品世界を生きる邪魔にはけっしてならないし、それどころか、それらの言葉があるために、作品の味わいが生まれるのである。これは、言葉をいちいち厳密に「理解」する作業によって邪魔されるだろう。辞書など引かずに、そういう言葉はどんどん読み飛ばす(より正確に言えば、頭のどこかにうっすらとした記憶として残る)だけでいいのである。

などと書いたのは、私は昔から「たけくらべ」を読もうと思ったことが何度もあったが、冒頭の数行を読んだだけで、あまりに理解不能な言葉が並ぶので、その度に挫折してきたからである。
おそらく、そういう人は私のほかにも無数にいるだろう。それは、「本を読むこと=理解すること」ということが悪質なテーゼ(命題)になっているからではないか。
昔の「空手キッド」か何かの老師の言ではないが、「考えるな、感じろ」というのは、読書にも言える行き方だろう。

ちなみに、英語の原書を読む時も、このやり方は有効だと思う。ネットの雑文を読む際ならなおさらだ。つまり「斜め読み」「飛ばし読み」で十分な文章が大半なのである。
逆に、言葉の一句一語の厳密な解釈や批判をしながら読む読書も当然意味があるのであり、要は、読書を楽しみ、自分の世界を広げ、豊かにすることだ。まあ、読むのが楽しければ、それだけで十分以上である。

ちなみに、バルザックの「暗黒事件」も同時進行で読んでいるが、こちらはフランス革命全体(ナポレオン帝政時代や王政復古やその後の再革命を含む)の様相がある程度わからないと、面白みが半減する作品だと思うので、疑問に思う箇所は調べながらゆっくりと読んでいる。




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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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