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「専門家」は、もはや詐欺師集団

「混沌堂主人雑記(旧題)」から転載。「蚊居肢」からの転載らしい。
たまたま、昨日だったか、なぜ「専門家」は「馬鹿」「卑怯者」なのか、ということを書いたので、その流れでここにも転載する。
まさに、菊池寛の言うとおりである。

「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」


言うまでもないが、こうした「騙す側」批判は、騙される側の責任を許容するものではない。
騙す側にも、自分が騙しているという自覚の無い者が大半なのである。
我々は、それを先の戦争で熟知したのではないか。つまり、大人の国民のほぼ全員が戦争被害者でもあり、戦争責任者でもあったのである。黙っている者もまた戦争責任者だったのだ。

(以下引用)


おなじく より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
與那覇潤の「「専門家の時代」の終焉」
 
與那覇潤の「「専門家の時代」の終焉」はとってもいいんじゃないかね、何人かの「専門家」の実名を挙げての専門家批判でもあるが、いまはその箇所を割愛して後半部分から抜き出す。是非全文、さらにはいくつかのリンク先もじっくり眺めたほうがいいよ。
◼️「専門家の時代」の終焉 Yonaha Jun 2024年3月11日 

……真に反省すべきは、「専門家」の看板を掲げれば批判はおろか、一切の疑問さえも封殺でき、そうした厚遇を自明視して異論の持ち主(と本人が見なした相手)をいくらでも罵倒することが許される状況。そうした環境を作り出し、その下で収益や視聴率から「いいね」の数まで、おこぼれにあずかってきた人たちの全体であると思う。


13年前の3月11日以降、私たちは誰もが、立場や分野を問わず「専門家」を盲信することの危うさを見せつけられたはずだった。しかしその記憶はいつしか立ち消え、瞬間ごとの空気を読んで「専門家の私が言うから信じろ」と時の世論にお墨つきを与える、民意ロンダリングのようなビジネスが定着してしまった。


眼前の問題への発言権を独占する「専門家」という、正体不明の「言いたい放題パスポート」の発給を、私たちはもうやめる時が来ている。それがコロナで、ワクチンで、ウクライナで、パレスチナで、トランスジェンダーやフェミニズムで、多大な犠牲を払いながらこの社会が学んだ教訓であるべきだ。〔・・・〕


読者に乞いたい。「専門家」なる肩書を識者の免罪符に使うことを、もうやめてほしい。それはあなた自身の知性を損ねるだけでなく、当の専門家をも甘やかし、スポイルし、堕落させる。
彼や彼女が専門家か否かは、一切重要ではない。その人は時間が経ち情勢が変わった後でも、自身がかつてなした言動の責任を引き受ける人か。それとも単に「言い逃げ」して姿をくらます人か。それだけを見てほしい。
ホンモノを、応援してください。それができないなら、せめてニセモノの言論を拡散するのを、やめてください。そこにしか、私たちが嵌まり込んだ2020年代の迷路からの出口は、ないと思います。
與那覇潤は《13年前の3月11日以降、私たちは誰もが、立場や分野を問わず「専門家」を盲信することの危うさを見せつけられたはずだった。》と記しているが、このブログでもつい最近、「人類というものは、おしなべて「愚かなもの」である」にて、鈴木健の2011年3月16日のツイートを引用して、次のように記したがね。
……「専門家」の見解なら信頼の置けるものだといまだ思い込み勝ちのようだが、それが大間違いなのは2011年に学んだのではなかったか。


鈴木健@kensuzuki 
要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人~数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(2011年3月16日)


この3年あまりのあいだにおいても医学者やら国際政治学者やらの言説から学んでいるのではなかったのか、連中が《菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」》(小林秀雄「菊池寛」)であることを。
ま、専門家というプロフェッショナル集団を全面的に批判するつもりは毛頭ないが、括弧付きの「専門家の時代」の終焉の主張は是非とも受け入れるべきだろうね、とくにこの3年間の出来事を振り返りつつ、誰もがそう認知すべきだ。
蓮實)プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)
とりわけ大学の教員の無責任性、彼らの途轍もない幼児性があまりにも赤裸々になった3年だったね、

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。〔・・・〕


彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。〔・・・〕彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 川田順造訳)

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