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雲に覆われたsmokeyな月

今日の早朝散歩は、真っ暗い中で、しかも満天というか、満面の曇り空だったが、なぜか西のあたりの雲が一部、オレンジ色に輝いている感じがあり、まさか月の光ではないだろう、月の光はそんなに強いか?と思いながら歩いていくうちに、小高い場所に来ると、雲の切れ間に月の一部が見え、しかもかなり円形に近いようなのである。つまり、月の下半分がほぼ完全に円形の一部らしい。これは、満月か、それに近い旧暦13日か14日くらいではないか、と思いながら歩いたのだが、後で確認したら旧暦12月13日だった。
月の姿を見られたことで気を良くしながら闇の中の散歩を続けたのだが、その時に頭に浮かんだのが、「On top of Old Smoky」という、かつて少しだけ流行ったフォークソングで、その次に頭に浮かんだのが「ワルチング・マチルダ」で、こちらは散歩が終わるまで頭の中に曲が流れ続けていた。このどちらも、たぶん私が中学生くらいに知った曲で、つまり、年を取ると、頭の中の想念が記憶した順番と逆回転していくのではないか、と変なことを考えたのだが、それは年を取るというのは、ある時点(30歳から40歳くらい)から肉体的に少年期や幼年期、幼児期に退行していくことだ、という変な思想を最近私は考えていたからだろう。(私の肉体的能力は現在、小学校高学年程度だと思う。あるいは平均的中学生くらいか。)
「ワルチングマチルダ」のことは以前に書いたような気がするので、簡単に言うと、「第二のオーストラリア国歌」とも言われる、人口に膾炙したフォークソングで、内容は、どうやら逃亡犯罪者らしい男が、野原で宴会をして踊っている集団に出会い、そこに快く迎え入れられる、という話だと私は理解している。つまり、オーストラリア白人は流刑囚の子孫である、という自嘲と開き直りと、自分たちが侵略し開拓したこの世界で楽しく生きていきたいという願いが込められた歌だ、というのが私の皮肉な解釈である。
「On top of Old Smoky」はアメリカのフォークソングだと思うが、わずか4小節程度の短い歌で、オールドスモーキー山の頂上で、自分は「真実の恋人」を失った、というだけの内容だ(と思う)。
一応、ネットで確認する。

(以下引用)「学びの函」とかいう学習支援サイトらしい。優れたサイトのようだ。替え歌も面白い。子供が喜ぶだろう。(追記:長い方の歌詞の押韻部分を赤字にしておく)


子供の歌3 On Top of Old Smokey

【歌詞】
On Top of Old Smokey

On top of Old Smokey,
All covered with snow,
I lost my true lover,
For courting too slow.

For courting's a pleasure,
But parting is grief,
And a false-hearted lover,
Is worse than a thief.

On top of Old Smokey,
All covered with snow,
I lost my true lover,
For courting too slow.

I lost my true lover,
For courting too slow.

【解説】
Smokey=Great Smoky Mountains North CarolinaとTennesseeの両州にまたがる米国の山脈
lover 「恋人」
for=because of、as a result of
court 自動詞「求愛する」
pleasure「喜び、愉快」
part 自動詞「分かれる」
grief 「(不幸・喪失・死別などに対する)深い悲しみ」
false not sincere or honest
false-hearted 「信義のない、裏切りの」
worse than ~ 比較級
thief 「盗人」

米国で親しまれているフォークソングです。
上記の100円均一店版のほか、次のような歌詞もあります。
(というより、おそらくこちらが本来でしょう)

On top of Old Smokey,
All covered with snow,
I lost my true lover,
For courting too slow.

For courting's a pleasure,
But parting is grief,
And a false-hearted lover,
Is worse than a thief.

A thief will just rob you,
And take what you have,
But a false-hearted lover,
Will lead you to your grave.

The grave will decay you,
And turn you to dust,
Not one boy in a hundred
A poor girl can trust.

They'll hug you and kiss you,
And tell you more lies,
Than crossties on a railroad,
Or stars in the sky.

So come ye young maidens,
And listen to me,
Never place your affection
In a green willow tree.

For the leaves they will wither,
The roots they will die,
And you'll be forsaken,
And never know why.

また、有名な替え歌として次のようなものもあります。

On Top of Spaghetti

On top of spaghetti,
All covered with cheese,
I lost my poor meatball,
When somebody sneezed.

It rolled off the table,
And on to the floor,
And then my poor meatball,
Rolled out of the door.

It rolled in the garden,
And under a bush,
And then my poor meatball,
Was nothing but mush.

The mush was as tasty
As tasty could be,
And then the next summer,
It grew into a tree.

The tree was all covered,
All covered with moss,
And on it grew meatballs,
And tomato sauce.

So if you eat spaghetti,
All covered with cheese,
Hold on to your meatball,
Whenever you sneeze.

On Top of Old Smokey の歌詞の分析が次のサイトにあります。
英文詩や、その教え方に関心のある方向けです。

(サイト名)PoetryTeachers.com
(副題)how to teach poetry・poetry theater・poetry activities

【大意】
雪におおわれたスモ―キー山脈の頂きよ、
私は恋人を失った
愛を語るのが遅すぎたために

求愛は喜び、別れは悲嘆
裏切りの恋人は盗人よりも悪い

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「人面の大岩」のこと

「大きな岩の顔(人面の大岩)」のあらすじを自分で書くのも面倒なので、ネットから探したブログ記事で、最良の批評とは思わないが、この作品の概要は分かると思う。
アメリカから清教徒的姿勢が消えたことや日本の小学校国語教科書からこの作品が消えたことと、アメリカや日本の道徳的退廃、新自由主義的エゴイズムの跋扈は大きく関係があると思う。つまり、この作品は新自由主義的資本主義や軍事拡張主義には邪魔な思想だったのである。
私は、世界を救うのは、この作品に描かれた「トルストイ的思想」ではないか、と思う。トルストイ自身より明確に、彼の思想を体現したのがこの短編だろう。
ただし、毛沢東やポル・ポトのように「知識人は詐欺師であり、国家の寄生虫である」とすると、トルストイ的重農主義も恐怖の政治になる。また、この作品では詩人は「この世界の素晴らしさを人々に伝える存在」として高く評価されているが、詩の内容や詩人がそういうものばかりではないことも、言うまでもない。

とにかく、「軍人・資本家・政治家」に気をつけろ、という思想を子供のころから持つことは大きな意義があると思う。私の思想や人生観の根底には小学生のころに読んだこの作品があるようだ。

(以下引用)

【クリエイティブ生活】ナサニエル・ホーソーン『人面の大岩』を読了

片桐 秋
2022年6月25日 12:57

 国書刊行会の『新編 バベルの図書館1 アメリカ編』より、今回はナサニエル・ホーソーンの『人面の大岩』を読了しました。


 同じくホーソーンの代表的短編への感想はこちらです。




 谷間の田舎街に暮らすアーネストという貧しい農夫が、少年から老年になるまでのお話。短編とは思えない豊かな印象を与える一代記でした。


 人面の大岩は、おそらくは神、つまりイエス・キリストの象徴なのかなと思います。人々はある時は富豪を、ある時は偉い軍人を、ある時には高い地位にある政治家を、それぞれ人面の大岩が人の姿をして現れたと思うのですが、そのたびに失望します。アーネストも同じくです。


 最後にアーネストの人生に訪れたのは、美しい言葉を語る著名な詩人でした。アーネストはようやく、人面の大岩の化身が現れたと期待します。


 人面の大岩の化身が誰なのかは読んでのお楽しみで、ここには書きません。


 ボルヘスによる序文によれば、ホーソーンは、ピューリタン信仰の強い街で生まれ育ったそうです。その影響からその物語を書いたのだと思いました。


 エドガー・アラン・ポーからは「寓意なんて書くのは駄目だ」と批判されたそうですが、分からなくはありません。


 寓意とは、イソップ童話のように、比喩を用いた教訓的な物語です。ポーはホーソーンの才能や人柄自体を批判していたわけではないようなので、「説教くさい話ではなく、もっと文学的に価値の高い物を書けるはずだ」と思っていたのでしょうか。


 一口にキリスト教といっても一枚岩ではなく、宗派により考えは異なります。ピューリタンつまり清教徒的な価値観とは、清貧と勤勉を大事にすることです。


 ナサニエル・ホーソーンのこの『人面の大岩』には、そんな価値観がありありと描かれています。とても美しい物語に乗せられて語られるので、押し付けがましさはありません。


 しかしポーの言いたいことも分かる気がします。ホーソーンの代表的短編『ウェイクフィールド』にはそんなことを感じなかったので、やはり同じ作者のものでも差はあるのだと実感もしました。


 現在のアメリカでは、南部の保守的なキリスト教徒でも、「神を第一にして、きちんと働くなら神にお金や成功を願ってもかまわない」とする考えも多いようですね。


 とにかく、物語は詩情あふれる美しい短編なので読んで損はありませんでした。アーネストのような生き方が一番の幸せだと作者は言いたかったのかなと思います。詩人はホーソーン自身のことかも知れないと考えるのはうがち過ぎた見方でしょうか。


 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。あなたのクリエイティブ生活のヒントになれば幸いです。


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田中宇氏の「内的宇宙」

「田中宇の国際ニュース解説」記事の末尾で、政治的内容自体より、彼の感慨が面白いので、転載する。政治的意見の、私が常に疑問視している部分(「諜報界」云々。この言葉だけで氏の言説がすべて嘘くさく、幼稚に見える。諜報界は、誰かから資金・給与を得るのである。たいていは国家から。そういう「下っ端連中」が世界政治を動かす主体であるはずがないだろう。)は見え消しにしておく。
まあ、要するに「考えるのは娯楽だ」という点で私と田中宇氏は似ているだけの話である。私はそれ以上に「真の生活は頭の中の生活である」とすら思っているのだが、これは江戸川乱歩の「現実(うつつ)は夢、夜の夢こそ真実」という思想に近いかもしれない。まあ、そう言いながら、私のように軟弱な人間は「現実」の肉体的苦痛に即座に弱音を吐くのだがwww

(以下引用)

温暖化問題も、新型コロナと同じように、大間違いが公式に是正されることはない。だが欧米では、各種の大ウソをつきっぱなしのマスコミ権威筋、リベラルエリートの信用と政治力がどんどん落ちていく。
公正なマスコミ権威筋、正しい判断・政策を展開するリベラルエリート層、それからリベラル系・左派の市民運動の正しさは、これまでの米英覇権の政治力の源泉だった。それらはここ数年で、不可逆的に大きく崩壊した。今後さらに崩壊する。欧米は二度と覇権勢力に戻れない。
マスコミ権威筋エリート層や左派に間違いを認めさせないのも、諜報界多極派の策略だろう。
英米覇権の一部である科学の権威をコロナや温暖化で自滅させる

ここまで書くのに10日ぐらい費やした。温暖化問題(やコロナやウクライナや経済指標や金融の話)は、世の中のほぼ全員の方が間違っている。それだけに、逆に、間違いを指摘する人の方が馬鹿者扱いされる。
時間をかけて丁寧に分析しても、努力に見合う社会からの評価を得ることは、全くない。だが、これら分野がなぜインチキな構造を持っているのかを深く考えることは非常に重要だ。
社会そのものがインチキな存在になっているのだから、評価や反応もインチキだ。気にする方が馬鹿である。良い分析をするほど誹謗される、ともいえる。

権威ある人々は、不合理の軽信が必須だ。彼らは、温暖化やコロナやウクライナや金融の状況を分析できない(したら権威を失う)。幸いなことに権威や肩書がない私は、分析できる(能力的な低さはあるが)。
考察して書いていく行為自体に、真髄・神性・至福がある。最大の娯楽は、自分の頭の中にある。年末年始のくだらない行事の合間を縫いつつ、何日もかけて考察していくのが良い。この手の娯楽を今後も続けていく。

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恋愛とフェミニズム

娯楽記事中心の私の別ブログに書いたばかりの記事で、ほとんど妄想的推理に基づいた記事だが、書いているうちについ熱中して力が入ったので、せっかくだからここにも載せておく。
記事中で「恋愛批判」みたいなことを書いているが、念のために言えば、私も恋愛の価値は認めている。だが、「フェミニズム」的には問題が大きいということだ。恋愛とは、その本質はスタンダールが喝破したように「結晶作用」であり、自分で作り上げた妄想である。それ以外は「打算」であり、相手を「価値」如何によって選択する「購買行為」だろう。そのどちらも大きな意義があるのであり、問題は、その妄想が当人に破滅的結果をもたらす場合だけだ。男だろうが女だろうが、他者に依存する限り、「板子一枚下は海」なのだが、そのスリルがまた快感だ、という人もいるだろう。

(以下自己引用)
記事中では明言されていないし、ロードムービーだというから、私の予測が間違う可能性もあるが、「誰でも知っている世界的古典」「背筋の伸びた主人公」と、「果てしなきスカーレット」というタイトルから見て、元ネタは「風とともに去りぬ」だろうと私は推理する。
もちろん、「風と共に去りぬ」は現代文学であるが、現代人(あるいは「勘違い男」細田守)にとってはもはや古典の範疇ではないか、ということだ。
まあ、自分では自分をフェミニストだと思っている細田守だから、大いなる勘違いアニメになる可能性もあるが、大きな元ネタ、つまり作品の柱があるから、これまでのような迷走作品よりはまともな作品になるかと期待する。
ただし、「風と共に去りぬ」は、主人公はスカーレット・オハラだが、話を動かしているのは、彼女の愛したふたりの男、アシュレー・ウィルクスとレット・バトラー(高校生のころに読んだ作品の登場人物名を今でも覚えているのだから、それらのキャラの存在感が凄いということだ)であり、そしてスカーレット・オハラは「時代の波に抵抗するヒロイン」であって、「冒険物語のヒロイン」ではない。つまり、細田守の談話の内容だと、話の上面(主要キャラなど)をなぞっても、「風と共に去りぬ」という作品の本質とはズレた内容になる可能性が高い。
話の舞台は異世界で、ヒロインも、スカーレット・オハラではなくナウシカに近くなると予測する。つまり「スカーレット」というタイトルは無意味化するわけだ。

おそらく、ラストシーンだけ映画「風とともに去りぬ」になるのだろうと推理する。つまり、自分の考え間違いから愛する男に去られて一人になり、絶望して丘の上に立った「スカーレット」が、呆然と彼方を見ながら「明日、明日考えよう。明日はまた別の日だ」と呟き、カメラが引いて、夕焼け空を背景にした彼女が大自然の中の点景となって終わり、である。恋愛という他者依存から自分という本来の姿に戻る点では、これこそ本物のフェミニズムである。

まあ、御託はともかく、「面白い」作品になれば、娯楽性が肝心のアニメとしては、それでいいのである。



(以下引用)

細田守監督、最新作『果てしなきスカーレット』は「世界的なとある古典」がモチーフ
細田守監督、最新作『果てしなきスカーレット』は「世界的なとある古典」がモチーフ
© 『果てしなきスカーレット』スーパーティザービジュアル - (c)2025 スタジオ地図



 『竜とそばかすの姫』(2021)以来4年ぶりの新作アニメーション映画『果てしなきスカーレット』(2025年冬公開)を発表した細田守監督が23日、都内で行われた製作発表会見に出席し、謎に包まれた作品の概要を自ら説明した。会見には、スタジオ地図プロデューサーの齋藤優一郎も登壇した。

 細田監督が脚本・原作も手がける『果てしなきスカーレット』は、東宝が日本配給、それ以外の地域はソニー・ピクチャーズが配給する。主人公は「とある国のプリンセス」で、「誰もが知っている、世界的なとある古典をモチーフにした内容。もう一人、彼女と対照的な登場人物が出てくるロードムービーのような作品」であることが判明している。


© 会見の様子
 細田監督は会見冒頭、「『竜とそばかすの姫』はたくさんの人に観てもらえました。また新しい作品を作ることになりました。ぜひみなさんに興味を持って見てもらえば」と笑顔であいさつ。ハリウッド大手のソニー・ピクチャーズによる全世界配給が決まっているとも述べ、齋藤プロデューサーは「『竜とそばかすの姫』以来、世界では歴史の針が逆戻りするような悲しい出来事が起こっている。次の映画をどうするかとなった時に、日本のマーケットを意識した作品というより、最初から世界を視野に入れた作品を作るべきではないかということになった」と細田監督とのやり取りを紹介する。

 そこで細田監督が提案したのが『果てしなきスカーレット』という壮大な作品だったといい、齋藤プロデューサーは「大変な話題を呼ぶ作品になるのではないかという予感がした。どうすればこの力強い、大きな作品を世界で配給できるかを考え、これをグローバルに届けるために日本と世界が手を取り合う新しい仕組みを作らないとダメだと思いました。その後、ハリウッドメジャーのソニー・ピクチャーズさんから一緒にこの作品を作りましょうと声をかけてもらえ、共同出資や共同制作というスクラムを作り出すことができました」と経緯を明かす。


© ティザービジュアルを公開した細田守監督
 壇上には本作のヒントとなるティザービジュアルが紹介され、細田監督は「今まで作品を作るたびに新しいチャレンジをしてきた。一作ごとに壁を乗り越えようと頑張ってきたんです。今回も壁というか、見た目の感じをアニメーションという技法を使いながらも過去の作品を超えたものにしたいと思っている」とアニメ技法に新趣向を凝らした作品となることを明言。「以前から実験を積み重ね、いわゆるセルアニメでも、ハリウッド的なCGアニメでもない“ルック”を目指した、アニメーションの可能性を広げる作品にしたい」と意気込み、「アニメーションの見方が浸透していく中、今までの型を続けるという考えでなく、もっと先に進んでいかなければならないという時代になってきた」とそこにこだわる理由も紹介した。

 ヒロイン像については「今回の映画は今までで一番ハードで困難な作品。これくらい背筋の伸びた主人公像が必要だと思った。そんな彼女と旅をすることで、何か希望を見出すものにしたいと考えています」と述べ、「テーマも(過去の作品と比べ)一番大きなテーマになった。世界の人々の心にある普遍的なテーマをこの映画で表現したい」としみじみとコメント。「生と死みたいなものにも踏み込む大きなテーマになります」と作品の構想、方向性を語っていた。(取材・文:名鹿祥史)

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「狼とともに吠えろ」

私の別ブログに載せた「童話パロディ集」のひとつだが、他はエロ話が多いので、無難なこれだけ、こちらにも載せる。

(以下自己引用)


ジャックと豆の木

 世界中が狼ならば、どう生きるべきか。答えは、「狼と共に吠えろ」です。つまり、この世にモラルがあるならば、モラルを保って生きるのが正解ですが、モラルの無い世の中で自分だけがモラルを保って生きるのは自殺行為だということです。
 「ジャックと豆の木」という話では、巨人の城に入ったジャックはためらいも無く、巨人の財産を盗みます。日本の桃太郎も同じですが、相手が巨人や鬼や(西欧人にとってならアジア人とか)なら、何をやってもモラルには反しないという定理がここにはあるようです。しかし、もう少し視点を変えて見ましょう。黒澤明の『天国と地獄』ではありませんが、巨人の城は、高い雲の中にあります。もちろんこれは社会の上層階級の比喩でしょう。ジャックは下層階級の人間です。ならば、上層階級の財産とは、結局は下層階級から収奪した財産ではないでしょうか。それを下層階級の人間が盗むのは、実は自分たちの財産を取り返したにすぎないのです。
 こういう理論により、初期の共産主義は世間の犯罪者こそ我が友とばかりにスターリンのようなゴロツキをどんどん高い地位に上げていきました。そのためにやがては下層階級こそがひどい目に遭うのですが、それでも、上層階級が社会システムを利用して下層階級から奪い取った財産を下層階級が取り戻すには、同じ社会システムの中では不可能だということだけは言えるでしょう。

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コミュ障と他者への警戒心

悪意のごみ溜めである「はてな匿名ダイアリー」には稀な非常に爽やかな記事で、現在コミュ症、いやコミュ障の人には有益な内容だと思う。もっとも、小中学生時代に純度100%の悪意に出会っていじめられ、一生の傷を負った人間などは、逆に読むのが不愉快になるかもしれない。なお、最初の「コミュ症」という誤変換を残したのは、現代人の多くが「コミュ症」という精神病ではないか、という気も少しするからであるwww
もちろん、私も下の記事にほとんど同感だから転載するわけだ。

(以下引用)

2024-12-17

コミュ障10年かけて社交的になって気づいたこ

コミュ障時代の俺



たぶん病気レベルで社交性に問題があったと思う。

社交的になった今の俺



とりあえず日常生活を気分良く過ごせるようになるまで成長できたと思う。

なんで社交的になろうとしたのか?

特に大きな出来事はなかったんだけど年と共に


「人とまともにコミュニケーション取れないと生きててめんどくさい」


と思うようになった。


聞けば数分で済む仕事に何時間も使ったり。


お店で質問すればすぐわかることを躊躇して買うのやめたり。


コミュ障が故に無駄に体力とメンタルを削られていることに気づいたからだと思う。

人と交流するようになって気づいたこ

  • 大半の人間別に話が面白いわけではない
  • 初対面でうまく話せない人の方が圧倒的に多い
  • 自分が明るい態度だと相手も愛想よく接してくれる
  • 善意に対して善意を返してくれる人の方が多い
  • 実はこの世界に敵らしい敵はほとんどいない


コミュ障時代は周りの人間ほとんどを敵みたいに感じてた。


これは単なる自意識過剰的なものだったと思うけど、


俺の場合はそこら辺のメンタルコミュ障をこじらせていた原因と思う。

社交的になれたきっか

コミュ障が社交的になろうと心がけてじゃあ明日からなれるかっていうと難しい。


1~2年意識すればなれるかというとそれも厳しい。


根っこにある性格だの人格だのは簡単に変われないと思う。


少なくとも自分はそうだった。


じゃあどうやって社交的になるきっかけを掴めたかというと、


俺の場合たまたま他人善意に触れたからだった。


ある時、ほんのささいなことだけど俺を助けてくれた人がいた。


メリットなんてないのにその人は労力を惜しまず協力してくれたんだ。


当時、人を疑って斜に構えてしまう癖が抜けてない俺には理解できないことだった。


でもよくよく考えて、これって見返りも裏表もない100%ただの善意だと気づいた。


それに気づいて、その善意自分に向けてくれたんだと実感した時に、


心の底からありがたいなって思えた。


俺は根っからの善人にはなれないかもしれない。


でも、こういう人を傷つけない、辛い思いや悲しい思いをさせない、


そんな人間であろうって意識自然となった。


それからは人を変に疑ったり斜に構えたりせずに、


誰に対しても善意好意を持って接することを心がけるようになった。


そうして少しずつだけど社交的な俺に慣れていったんだと思う。


きっと今までもこの手の善意を俺に向けてくれた人はいた気がする。


でも自分無駄自意識過剰で、役に立たないプライドがあったせいで、


弱者に見られて気分が悪い」みたいな感じで善意拒否してたんだろう。

実は世の中は割と善意であふれている

今まで気づかなかっただけで、


実は世の中ってこういった善意であふれているんだと気づいた。


いろいろな人と触れ合うようになってからよりそう思うようになった。


もちろん悪意もたくさんある。けど、悲観するほどでもない。


悪意から顔を逸らせば必ず善意がある。


この世界は割と善意であふれているし、それなりに悪意もある。


そしてそれがこの世界の当たり前なんだろう。


まり、俺は今まで認知が歪んでいたんだ。


ひとかけらの悪意に過剰反応しすぎて、質量のある善意を求めていた。


疑心暗鬼なくせに過度に他人に期待していた。


勝手に期待して勝手絶望して勝手に苦しんでいた。


今まで生きづらいなと思っていたのは、


俺の勝手思い込みと歪んだ認知が招いた結果だったんだと思う。

善意に触れることがきっかけになるなら

俺が社交的になれたきっかけは他人からのささいな善意だった。


きっと善意をくれた本人は何かしてあげたと思ってないし、記憶にさえ残っていないと思う。


それぐらいささいなものだった。でも本当にありがたいことだった。


それに俺はたまたま気づいて、たまたま感謝する気持ちが芽生えただけだ。


たまたま俺は今の生きやすい俺になれたんだ。


でもそういう偶然があるなら、今度はたまたまこの記事を読んで、


コミュ障だった時の俺と同じような生きづらさを感じてるあなたがいるなら、


そういうあなたに俺の善意を届けたいと思う。


いつかあなたにもきっかけとなる善意が訪れますようにと。


ちなみにこれ、あのとき俺に善意をくれた彼女が実は今の奥さん


なんてオチではないからな。


俺の手元にはなんもない。


でも穏やかに過ごせてる。


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最晩年の読書計画

私が高校時代に1年間クラス担任教師だった人が数年前に亡くなったが、その人と私は一度しか私的に話したことがない。だが、その時に非常に重要な言葉を彼から聞いて、それは今も私の心に残っている。
それは、「ドストエフスキーが理解できたら(自分は)死んでもいい」という言葉で、当時の私は小説というのは娯楽だとしか思っていなかったから、こうした「文学への真摯な姿勢」というのが非常に斬新だったし、その言葉を聞いただけでも彼は私の「恩師」だと思っている。

つまり、何かの本、特に小説を読んで「理解する」には、読む人のレベルによってさまざまな理解のレベルがある、ということをこの言葉は言っているわけだ。
私は高校時代に「カラマーゾフの兄弟」を読んで、凄い作品だと感じたが、当然、その年齢の知識レベルや知能レベル、判断力レベルでその作品の内容の何パーセントを「理解」したか、分かったものではない。たぶん、あらすじやキャラの面白さしか把握しておらず、つまり、娯楽小説のひとつとして「消費」しただけだっただろう。しかし、その小説の中に何か深遠なものがある、という印象は感受してはいたわけで、それが私の生涯を通じてのドストエフスキー評価の高さになってはきたわけだ。その背景に、あの「恩師」の一言があったわけである。

さて、残り少ない人生の残り時間を何に使うかと言えば、「これまでの人生で知った、優れた本を再読して、あらたなレベルの『理解』をする」ことが最適だろう、と思っている。もはや、昔考えたような「読んだことのない、気になる本をすべて読破する」時間は無いと思うからだ。

その「優れた本を読む」ことの中には、好きな本を英語原書で読むことも想定しているが、これはたとえば「不思議の国のアリス」のような短い本でも、なかなか難しそうである。
とりあえず、未読の本の中では
ドストエフスキー「貧しき人々」が最優先で、
再読したい本だと
ドストエフスキー「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「死の家の記録」
トルストイ「戦争と平和」

手に入るならバルザックの未読の本を幾つか読んでみたい。あるいは「ゴリオ爺さん」や「幻滅」を再読するのもいい。私はこの中に出てくる悪党ヴォートランが好きなのである。もちろん、「人間喜劇」の中には未読の優れた本がたくさんあるだろう。ただ、読むエネルギーが必要だろうからもう少し若いころに読んでおくべきだった気がする。

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酔生夢人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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