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最晩年の読書計画

私が高校時代に1年間クラス担任教師だった人が数年前に亡くなったが、その人と私は一度しか私的に話したことがない。だが、その時に非常に重要な言葉を彼から聞いて、それは今も私の心に残っている。
それは、「ドストエフスキーが理解できたら(自分は)死んでもいい」という言葉で、当時の私は小説というのは娯楽だとしか思っていなかったから、こうした「文学への真摯な姿勢」というのが非常に斬新だったし、その言葉を聞いただけでも彼は私の「恩師」だと思っている。

つまり、何かの本、特に小説を読んで「理解する」には、読む人のレベルによってさまざまな理解のレベルがある、ということをこの言葉は言っているわけだ。
私は高校時代に「カラマーゾフの兄弟」を読んで、凄い作品だと感じたが、当然、その年齢の知識レベルや知能レベル、判断力レベルでその作品の内容の何パーセントを「理解」したか、分かったものではない。たぶん、あらすじやキャラの面白さしか把握しておらず、つまり、娯楽小説のひとつとして「消費」しただけだっただろう。しかし、その小説の中に何か深遠なものがある、という印象は感受してはいたわけで、それが私の生涯を通じてのドストエフスキー評価の高さになってはきたわけだ。その背景に、あの「恩師」の一言があったわけである。

さて、残り少ない人生の残り時間を何に使うかと言えば、「これまでの人生で知った、優れた本を再読して、あらたなレベルの『理解』をする」ことが最適だろう、と思っている。もはや、昔考えたような「読んだことのない、気になる本をすべて読破する」時間は無いと思うからだ。

その「優れた本を読む」ことの中には、好きな本を英語原書で読むことも想定しているが、これはたとえば「不思議の国のアリス」のような短い本でも、なかなか難しそうである。
とりあえず、未読の本の中では
ドストエフスキー「貧しき人々」が最優先で、
再読したい本だと
ドストエフスキー「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「死の家の記録」
トルストイ「戦争と平和」

手に入るならバルザックの未読の本を幾つか読んでみたい。あるいは「ゴリオ爺さん」や「幻滅」を再読するのもいい。私はこの中に出てくる悪党ヴォートランが好きなのである。もちろん、「人間喜劇」の中には未読の優れた本がたくさんあるだろう。ただ、読むエネルギーが必要だろうからもう少し若いころに読んでおくべきだった気がする。

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「ビッグバン説」の虚妄性

夜明け前の空が完全に曇り空で、空を見ても面白くないので、心内の夢想だけに耽りながら散歩をした。まあルソーではないが、「孤独な散歩者の夢想」である。
で、例によって大半は散漫な夢想ではあるが、比較的集中して考えた題目が宇宙論である。

私がビッグバン説をインチキだと思っていることは何度も書いているが、それは私に宇宙物理学の知識があるからではまったくなく、むしろそういう知識が無いからこそ、直観的にそれが嘘だと分かるというか推定するのである。

その判断の根拠は非常に簡単な大原則で、「無から有は生まれない」ということだ。これに反する事象はこの宇宙には存在しないはずで、それなら宇宙そのものも無から生まれたはずがない。「ビッグバン説」は基本の基本から大嘘なのである。
何かが無から生まれたように見えるのは、単に「目には見えない物質の離合集散」の結果にすぎない。それは微生物や細菌や元素(あるいは原子や分子)という存在だ。
しかし、仮にビッグバンによる宇宙誕生が、何かの原子や分子の離合集散によるものなら、「宇宙誕生以前に原子や分子が存在した」ということになり、それは既に「ビッグバン以前にそれらの元素を含む宇宙が存在した」ことになる。つまり、無から有が生まれることは絶対にないのである。おそらく、ビッグバン説の大本(ヒント)は核爆発による異常な熱膨張現象だろう。しかし、それも「無から有が生まれた」わけではない。単なる膨張だ。
そういう意味では、ビッグバン説とは別の話として「膨張宇宙説」は可能性が無いとも限らない。しかし、膨張とは基本的に「限界があるもの」の話であり、限界の無い宇宙(宇宙に限界があるなら、その限界の「向こう側」はどうなる、という頓智問答になる。)が膨張するというより、単に遠隔地点の星と星の間の運動の結果が「宇宙そのものが膨張しているように見える」だけという可能性もある。核爆発による膨張と私が言うのは、爆風のことである。

まあ、物理学その他の学問は「専門的言葉」「前提的知識」が膨大にあり、それらを学んでいるうちに何もかもが混迷化してビッグバン説のような極端な詐欺がまかり通るようになるのだろう。もちろん、それは「学問の世界」が「権威者による支配」の世界であり、それに逆らうと学問の世界で生きていけないからでもある。

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女性の感情(身体性)、男の理屈(抽象性)

今日は記事をひとつしか載せていないので、サービスとして私の別ブログから記事を提供する。元記事では2回に分けていたが、それをひとつにまとめる。
で、その前書きにも書いたが、ここで書かれた内容は男と女の間の深淵というか、深い河を示しており、男も女もここに書かれたことを拳拳服膺するのが世界平和の基礎かと思うww
特に、男は「相手との感情の共有」はそっちのけで、話題そのものに精神を集中する傾向が、女性をうんざりさせるのだ、ということをよく理解すべきだろう。
おそらくホストなどはそれを熟知していると思う。話などロクに聞いてなくても話を「へーそうなんだ、すごいね、面白いね」と合わせる技術に優れているわけだ。

(以下引用)文中(記事後半)の「増田」とはスレッド主のことである。
非常に重要で目からウロコの内容なので、これに対応する「男の考える『面白さ』」と2回連続で載せる。

(以下引用)

2024-10-02
■彼氏がおもんなさすぎる

念の為、彼の顔や体型、学歴や社会性地位には言及しません。関係ないので。

彼とはマチアプで出会いました。

最初のデートのときから、会話があまり面白くないな...と思ってたんですが

5回目のデート(5回目!?)で彼から告白されてお付き合いが始まりましたが

会う度に「こいつおもんな~~~」って思う。

■なにがおもんないのか
人間誰しも、普通に生きてたら鉄板の話が有ると思います。

定義はウケるウケないは別として、絶対に関心を引くような話です。

(私の場合は、マチアプで出会い2年半付き合ったモラハラ男が出会ったときから既婚者子持ちだった)

(ずっと母方のお婆ちゃんだと思ってた女性が実は赤の他人だった)

(ハリウッドスターとの写真撮影で、プリンターのエラーで写真が出ず、5万円を無駄にした)(これは今でも本当に悲しい)

彼はこういったエピソードを一つも持っていません。

会社でも、上司や後輩がみんないい人だそうで、やらかしやトラブルも穏便に済ませてきたらしく

飲みの席での所謂「武勇伝」というものありません。

彼が主人公のエピソードトークを聞いたことがないです。

彼が友達と旅行に行き、感想を聞けば「◯◯に行って、◯◯見て~、◯◯食べて、寝た」

私が「◯◯には行った?」と聞けば「行かなかった」で終了です。

話を全く広げない。

■いやそれお前がおもんないだけちゃうん?
一理あると思います。

ですが、私は少なくとも旅行のエピソードがあれば

「◯◯に行ったんだけど、途中で雨が降ってきて~でも強行突破で◯◯見よう!ってなって~

日傘しか持ってなかったから日傘びちょびちょになった笑

雨やばかったからさすがにタクシーで帰った笑笑

それでそのあと◯◯食べて~、あ、写真これ!◯◯が入っててそれが美味しかった!」ぐらいは話します。

私は「自分の話はおもんない」を前提として、精一杯楽しんで貰えるように話し方や段落には気をつけて喋っています。

彼には聞き相手を楽しませようという心意気を一切感じません。

ChatGPTと話してるみたい。

■じゃあ別れれば?
彼とは趣味が一緒で、その同じ趣味をしているときは楽しいので別れません。

■結局何が言いたいのか
仲がいい相手でも、最小限自分でエピソードを掘り下げる努力をして欲しいです。

これは転職や就職時に「コミュニケーション能力」としてPR出来る部分です。

笑わせろ!というわけではなく、聞き手は細かい部分まで言及してくれた方が会話の糸口を見つけやすいです。

昨日なにがあった?というエピソードを最大限省略すれば「仕事して、飯食って、寝た」で終わります。

最小限掘り下げて「◯時に起きて~めざまし見ながら準備して~」と話してくれれば

「朝は私ZIP派だな~」という糸口に繋がります。

まじで全人類、努力してくれ。



前回の続きで、どちらも、この「男女の違い」を明確に言語化したのは凄い。

(以下引用)

2024-10-02
■彼氏おもんな増田から考える男女間の「面白さ」の違い(追記あり)

anond:20241002111546

そもそも「面白さ」に対する考え方には結構性差があって、増田が例示したエピソードは男さん基準ではそもそもオモロの俎上にすら上がらないことは認識した方がいいと思う

定義はウケるウケないは別として、絶対に関心を引くような話です。

(私の場合は、マチアプで出会い2年半付き合ったモラハラ男が出会ったときから既婚者子持ちだった)

(ずっと母方のお婆ちゃんだと思ってた女性が実は赤の他人だった)

(ハリウッドスターとの写真撮影で、プリンターのエラーで写真が出ず、5万円を無駄にした)(これは今でも本当に悲しい)

「ウケるウケないは別として」とか予防線張ってるけど大概の男さんはこれらのエピソードに関心すら持たないと思う

だって内容がすべて予定調和的というか、「まあそんなこともあるよね」の範疇にしか収まってない

3つのエピソードとも、現実世界で起こりうる事象の中で可能性が低いものがたまたま発生し、そこに増田がたまたま居合わせたという事実でしかないわけ

認知の枠外から意外性のある切り口を提示することがないから「へーそんなことがあったんだ」以上の感想は出てこない

男さんの面白さって、会話の脱臼というか、気の利いた切り口での「脱構築」的なメタ認知能力の高さ勝負みたいなところある

つまりその場にいる人間の思考フレームワークの外側から、自分しか持ちえない視点を提示しないと男さんからはオモロとはみなされない

男さんのオモロは目の前のテーマをいったん抽象化して大喜利に変換することから生まれる、と換言できるかもしれない。増田の提示した例で言えば

マッチングアプリで出会った男性に衝撃の事実が発覚。いったい何があった?

ハリウッドスターとの写真撮影でまさかのアクシデント。何があった?

というお題に対する気の利いた回答を提示する必要があって、ここで「実は既婚者子持ちだった」「プリンターがエラーで写真が出なかった」とか回答してもオモロにはなりえないということは感覚的に分かってもらえると思う

ではなぜ女さんはそんな予定調和的なエピソードトークを好むのかと言えば、答えは簡単で、女さんの会話の目的が「感情の共有とそれに伴う自身の存在価値の確認」だからだ

女さんは、トーク自体を面白くしたいわけではなく、このトーク面白いよね?という感情を目の前の相手と共有することで自分と相手が共通の価値観を持つ仲間であることを確認したいのだ

つまりトークの面白さそのものではなく、このトークを面白いと思ってもらえる関係性の方に価値を見出している。手段と目的が男さん目線では転倒しているのだ

女さんにとってエピソードトークとは、自分が任意の感情に至るまでの前提条件や結果に至るまでの文脈などを共有する手段でしかない。極端な話一切笑ってくれなくても共感さえしてくれれば目的は達成される

要は増田の真の不満は「彼氏のオモロなさ」ではなく「彼氏が自分の感情に共感を示さない」というところにあるので、仮に彼氏がスーパーオモロ人間だったとしても解決はしないと思う

■追記

男さん的面白さの具体例を挙げると、滑舌の悪いプロレスラーのインタビューを聞いて何言ってるか当ててみようっていうクイズで、天龍の声を聞いた麒麟川島が「エスプレッソマシンのモノマネをしてらっしゃる」とツッコんだやつ(無断転載ではあるが動画を見てみるとニュアンスが伝わると思う)

https://youtu.be/QeSXpiKtj0A?si=i2EaM603ERPrugo-

多分女さんがこの場に居合わせたら天龍の声がガサガサすぎて聞き取れない状況をそのままオモロとして認識してしまってそこ止まりになる人が大半だと思う

ここで面白さのキモになるのは人間の声がエスプレッソマシンとリンクする世界観を一瞬で思いつく脱構築的発想であって、男さん目線では天龍の声質そのものに面白さが宿っているわけではないということを分かってほしい

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秋の日のヴィオロンの

雨続きで、しかも気温が高く湿度も高くて不快だった「我らが不満の夏」が過ぎ、昨日あたりから一気に冷涼な気候となり、実に爽やかである。私の書斎兼寝室の三方の窓から見える風景も、秋の青空と、それを飾る木々の浅緑だ。
ということで、秋の詩をうろ覚えの記憶で書いてみる。中学生のころに読んで覚えた詩で、それ以来あまり記憶に上らなかったので、間違いがあるかもしれない。ヴェルレーヌの詩で、詩の題名は忘れた。「落葉」だったか。上田敏の名訳で知られる詩だ。


秋の日の
ヴィオロンの
溜息の
身に沁みて
ひたぶるに
うら悲し

鐘の音に
胸ふたぎ
色変へて
涙ぐむ
過ぎし日の
思ひ出や

げに我も
うらぶれて
ここかしこ
定めなく
飛び散らふ
落ち葉かな








明治文語文だが、特に古語辞書を引くまでもなく、詩の内容は中学生でも理解できたものだ。古文は日本語なのだから当たり前である。そして60年ほども後まで記憶できたのは、言うまでもなく音韻のリズムによる。
さて、私は認知症だろうか、それとも健忘症だろうか。この両者は画然と違う、というのが私の説である。



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無法の現実界、無道徳のエスの世界

先に、「愛と正義における男女差」の末尾に追記した「蚊居肢」記事一節を再度載せておく。その考察のためである。

(以下引用)




フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (Lacan, S7, 03  Février  1960)






つまり無法の現実界、無道徳のエスの世界だーー、



私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.  Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)



エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)






現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

(以上引用)

現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

という蚊居肢氏の言葉が正確なフロイトやラカン理解によるものかどうかは私は分からないが、とりあえず、「モノ」と「エス」について、あるいは「自我」と訳されている「Ich」について確認しておく。
「モノ」と訳されている「la Chose」は、「モノ」という訳語では大多数の人には意味不明だろうから、「実在物」と訳しておく。つまり、人間の精神が立脚する「現実世界」である。それをラカンは「エス(それ:後で説明する。下線をつける)の確かな参照領域」という、正確(精確)な定義をしているわけだ。精確なために、かえって分かりづらいわけである。「参照領域」という言葉がなぜ精確で、かつ分かりづらいかというと、人間の精神が現実世界に立脚するのは自明であるとほとんどの人は思っているからで、実は人間の精神は「精神内部で独自の運動をしている」のであり、現実世界は実はその「参照領域」でしかないという指摘がピンと来ないわけだ。
「自我」と訳されている「Ich」は、ドイツ語の一人称で「私」の意味であるが、フロイトはこれを「私の中の『真の私』」という意味で「自我」としている。この「自我」という訳語は日本のフロイト紹介者の苦心の産物だろう。しかも、人間の精神の中ではこの「自我」と「精神の他の領域、特にエス(英語の「it」に相当するドイツ語で、これをそのまま「エス」としたのは、「それ」と訳するとかえって意味不明になるからで、これも「精確さのためにかえって分かりにくくなっている」とも言える。)は、いわば「現実原則」とでも言うべき「野生の精神」で、これを「女性性」と見ているのが、蚊居肢氏の末尾の言葉

現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

だろう。ただ、「モノ」=「母」という等式は、「母」という言葉で「現実界の存在」すべてを包含させるという、非常に誤解を招く言い方だと思う。誰でも「母=女」で、男とは無関係と思うが、男の精神の中にもエスがあり、大きな働きをしているからだ。
私としては、フロイトの

エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する

という言葉がまさに私が主張する「男性と女性における『愛と正義』の比重の差」を実に明確に示していると思う。しかし、それは女性が「現実的」であり、男が抽象的思考にとらわれがちだという話でもある。

ちなみに、蚊居肢氏は、女性原理(現実主義、享楽主義)が世界に蔓延し、男性原理(理想主義、規範主義)が衰退したことで世界は混乱し、悪化したという思想のようだが、まあ、それにも「一理はある」としても、問題はこれまで「悪しき規範」の下で苦しんでいた人たちがかなり存在することではないか。つまり、世界を精神分析すること自体が、単なる知的オナニーではないか、という気がするwww まあ、私の毎度毎度の妄想垂れ流し文章も大きく見れば同じだがww


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「認知症論」と「退屈論」

トイレに、作者名は忘れたが「退屈論」という文庫本が他の本と並んで、あるいは重なって置いてあるが、それとは別に先ほどネットで「認知症」の記事を読んだので、それと関連させて考察してみる。
言うまでもないが、「退屈論」の作者の名前を忘れた(今思い出したが、小谷野敦である。)ことから明白なように、私も「認知症」であり、昔風に言えば「健忘症」である。私はこちらの言い方のほうが好きだ。何しろ「健康に(あるいは健全に)忘れる」のだから、いい事のように思えるではないか。ついでに言えば、物忘れは「認知能力」の欠陥ではなく、「記銘能力」と「想起能力」の欠陥だと私は思っているが、それなら「認知症」という言い方自体が不適当だろう。ボケ老人でも、トイレを見て、それを食堂だと認知することはないだろう。まあ、ボケが極限状態になったら、それはまた別の話である。

要するに、「健忘症」とは、「覚える必要のないこと」や「思い出す必要のないこと」は覚えないし思い出さないという「健全な思考(脳活動)状態」なのだ、というのが私がここで主張する暴論である。まあ、暴論どころか健全な主張だと思うが、「暴論」は謙遜表現である。(追記:今思い出したが、シャーロック・ホームズは最初にワトソンと会った時、社会的常識のある部分がまったく無いことでワトソンを驚かすが、彼は笑って、今覚えた「自分にとって不要な」知識はすぐに忘れるつもりだ、と言うのである。記憶容量には限界がある、というのがホームズの説である。それが実は真理なら、あなたの知識は本当にすべて「自分にとって重要な知識」か?)

若いころは脳細胞が未使用の状態だから何でも覚えるが、その覚えたものが「脳細胞(神経)の連結」となって、いわば「書き込みされたフラッシュメモリー」状態になり、その書き込みが増えると、それ以上の書き込みは不可能になるわけだ。それが老人の脳の状態で、それ自体は「素晴らしい有益な記憶の宝庫」なのである。しかも、「自分にとって重要な情報が精選されている」から、判断や意志決定が速い。私の場合、文章を書く速度は若いころの数倍速いと思う。
さて、これは「認知症」だろうか。もちろん、「新しい情報」を覚えるのが苦手になるのは欠陥かもしれないが、実のところ、「日の下に新しきものなし」であり、古典的な知識があれば、それと照合して新しい知識の重要性や非重要性は判断できるのであり、単に「次々と新しい情報を覚える必要がある」仕事ができなくなるだけの話だ。つまり、「判断する仕事」なら、老人は死ぬまで現役であり、それが昔の社会の「古老」という存在だったわけだ。

さて、「退屈」について論じよう。
老人の時間は退屈だろうか。1日24時間が自由に使えるが、贅沢はできないという、たとえば年金老人の生活は退屈だろうか。もしそうだとしたら、それはその当人が退屈な人間だからだろう。1日24時間が自由に使えるなど、それこそどこの王侯貴族の生活にも匹敵する贅沢な生活ではないか。
まあ、まず「退屈」とは何かを考察しよう。
「暇な時間」は退屈だろうか。あなたは、小学校や中学校の夏休みの最初の日、これから40日間、自由な時間がある、と考えて、いきなり退屈しただろうか。言うまでもなく暇な時間と自由な時間は同義である。
そして、定年退職した老人は、昔の小説の題名ではないが、「毎日が夏休み」なのである。それは不幸なのか、そして退屈な時間なのか。
もちろん、仕事は無くても、たとえば病気の夫や妻の介護の作業があるなら、退屈どころではないだろう。それは気の毒ではあるが、退屈論とは無関係なので、置いておく。
何もする必要がない時間が膨大に目の前にあるというのが、私の考える最大の幸福であるが、それは私という変人限定の話だとしてもいい。
要するに、世間の人々が想定する「退屈」とは、「有意義な生き方ができていない」という、自分で勝手に想定した「あらまほしき生き方」が前提なのではないか。
で、私に言わせれば、それは自分で勝手に作った手かせ足かせである。皮肉な言い方をすれば、その「有意義な生き方」は、誰かの金儲けの役に立つか、誰かの利益となるために自分を奴隷化することではないか。その「誰か」がどんな存在かは問わない。そして、その生き方は多くの人に賞賛されるだろう。私から見れば、実に気の毒な生き方である。他人のために自分の人生の時間の大半を犠牲にしたのだから、他人から感謝されるのは当然だが、自分自身はそれで満足して死んでいっただろうか。逆に言えば、そういう「立派な人」の人生を犠牲にすることで利益を得た人たちは、自分が恥ずかしくないのだろうか。また、そういう立派な自己犠牲的生き方を子供や周囲に教え、勧めてきた人たちは罪の意識はないのだろうか。
まあ、そういう自己犠牲の生き方にも「精神的満足」があるからいいのだ、という考え方もあるだろうが、いずれにしても「他人の犠牲の上に立って利益を得る」生き方、あるいは行き方は、下劣で卑劣だと私は思っている。

話が「退屈」からだいぶ逸れたし、長くなったので、退屈論の続きはまた別の機会にする。





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「愛と正義」における男女差

睡眠時間が短いので目覚めが早く、深夜に目が覚めて、仕方なくベッドの中で本を読むことが多いが、まあ、それでもないと本を読む習慣も無くなるかもしれない。起きている時はネットをしているかテレビゲームをしているのが「(老眼の)目が楽」だし、「頭も楽」なのである。読書というのは本による当たりはずれが大きいし、本と当人の相性があるので「誰にでもお勧めできる」趣味ではない。

以上は前置きで、本題は先ほどまで寝床の中で読んでいた子供向けというか、未成年者でも理解しやすく書かれたクリスティ全集(主に短編)のひとつの巻の中の「検察側の証人」についてだ。
この巻の解説によると、クリスティの短編の中の二大傑作が「うぐいす荘」と、この「検察側の証人」というのが定評のようだが、「うぐいす荘」は、高校生くらいの時に読んで、(サスペンス小説として)傑作だと思った短編なので、私の読書頭脳はそのころから悪くはないようだ。で、「検察側の証人」は映画「情婦」の原作で、あちこちで内容が紹介されているので読む前から内容は知っていたが、読むのは初めてで(読まなくても内容が分かっているから読む意義もないと思っていたわけだが)、読んでみると、やはり傑作である。まさに芝居でも映画化でも成功する内容だ。名人の一刀彫という感じか。
クリスティの短編は、実は「アイデアはいいが、長編にするほどではないから短編に軽くまとめた」という印象の作品もけっこうあり、それはそれで二流三流作家の作品よりエンタメとしては優れている場合が多いが、傑作はその中では10作以内ではないか。その中で「うぐいす荘」と「検察側の証人」は双璧だろう。
で、どちらも、ある意味「愛の姿」を描いているのが、女性作家らしいとも言える。

ここで断定的に言えば、「女性は『愛と正義』の相克では必ず愛を選ぶ」というのが私の判定である。男は頭が抽象的だから、「正義」という抽象物を人間という実体より優先することも多い。それがたとえば「殉死」「切腹」などに様式化されたりする。女から見れば「アホちゃうの」だろう。ちなみに私は行列への割り込みなど、死んでもできない性質で、それを女房に笑われたことがある。(念のために言えば、ジャンヌ・ダルクの死などは「愛と正義の相克」ではない。むしろ「神への愛による死」だろう。)(ソクラテスの死が「正義を守るための死」の例)
まあ、これ(愛と正義論)はあまり女性に詳しくない男である私の、単なる直観的判断だ。「愛も抽象物だろう」と揚げ足を取る人がいるかと思うが、ここで言うのは「愛の対象である男(時によっては子供)」のことである。もちろん、私も暴徒から子供を守るとかいう場合は殺人も辞さないつもりではあるが、まあ、簡単に殺されるのがオチだろう。この場合は「道義を無視した暴徒への殺人が正義である」わけだ。(蛇足だが、この「暴徒」に似た行為を社会全体がやっているのがSNS時代の現代ではないか)


(追記)今部分的に読んだばかりの「混沌堂主人雑記」記事所載の「蚊居肢」記事の一節である。



フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (Lacan, S7, 03  Février  1960)



つまり無法の現実界、無道徳のエスの世界だーー、


私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.  Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)



現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

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