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日本語の挨拶の謎

私は、考えることは娯楽である、というのが信条だが、それも「簡単な謎を考える」ことに限定される。高度な数学や物理など、考える能力も無いし、必然的に、考える対象として面白くない。推理小説の類も、馬鹿馬鹿しい謎が大半で、考える価値は無い。
むしろ、何かの本を読んでいて、特に謎として言及されていない、奇妙な日常の謎に出会った時が面白い。それは、ある種の日常的な言葉自体が謎を含んでいた時などだ。
先ほど読んでいたマーク・ピーターセンの「英語の壁」の中に、こういう「謎」がある。
ひとつの「例題」として提供するので、自分なりの理屈を考えるのも一興だろう。

(以下引用)

たとえば、英語圏の人間が日本語会話を習おうとすると、教科書のはじめの方に、登校する娘が玄関で「行ってきます」と言って、お母さんが「はい、行ってらっしゃい」と答える、といった場面が必ずある。そこで、学習者は不思議に思う。出かけることを知らせるなら「行きます」で十分なのに、なんで毎回わざわざ「(行ってから)また来ますよ」と知らせないといけないのだろう。そして、お母さんにしても、なんでわざわざ「またおいで(いらっしゃい)」まで付ける必要などあるのだろう、と思い、自分には自然な日本語は使えそうもないと感じる。



(解答例は空白の後に書く)









私の解答例は次のようなものだ。

本質的には、これは互いの愛情の伝達なのである。外出したなら帰ってくるのは当たり前だから言う必要はない、というのが「合理的思考」であり、無駄を省くのが外国人(主に欧米人)の思考だろう。
だが、これらの言葉は、もっと長い言葉の途中を省略したものと考えれば、十分な意義があるわけである。それを補うなら、

娘「行きますけど、ちゃんと帰ってきますから心配なく」
母「はい、行って、無事に帰ってらっしゃい」

ということだ。つまり、お互いの心の片隅にあるかすかな不安感を簡潔な「行ってきます」「はい、行ってらっしゃい」で払拭させる行為(ほとんど無意識化した思いやり)がここに隠れている、というのが私の考えである。






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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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