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秋の日のヴィオロンの

雨続きで、しかも気温が高く湿度も高くて不快だった「我らが不満の夏」が過ぎ、昨日あたりから一気に冷涼な気候となり、実に爽やかである。私の書斎兼寝室の三方の窓から見える風景も、秋の青空と、それを飾る木々の浅緑だ。
ということで、秋の詩をうろ覚えの記憶で書いてみる。中学生のころに読んで覚えた詩で、それ以来あまり記憶に上らなかったので、間違いがあるかもしれない。ヴェルレーヌの詩で、詩の題名は忘れた。「落葉」だったか。上田敏の名訳で知られる詩だ。


秋の日の
ヴィオロンの
溜息の
身に沁みて
ひたぶるに
うら悲し

鐘の音に
胸ふたぎ
色変へて
涙ぐむ
過ぎし日の
思ひ出や

げに我も
うらぶれて
ここかしこ
定めなく
飛び散らふ
落ち葉かな








明治文語文だが、特に古語辞書を引くまでもなく、詩の内容は中学生でも理解できたものだ。古文は日本語なのだから当たり前である。そして60年ほども後まで記憶できたのは、言うまでもなく音韻のリズムによる。
さて、私は認知症だろうか、それとも健忘症だろうか。この両者は画然と違う、というのが私の説である。



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無法の現実界、無道徳のエスの世界

先に、「愛と正義における男女差」の末尾に追記した「蚊居肢」記事一節を再度載せておく。その考察のためである。

(以下引用)




フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (Lacan, S7, 03  Février  1960)






つまり無法の現実界、無道徳のエスの世界だーー、



私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.  Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)



エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)






現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

(以上引用)

現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

という蚊居肢氏の言葉が正確なフロイトやラカン理解によるものかどうかは私は分からないが、とりあえず、「モノ」と「エス」について、あるいは「自我」と訳されている「Ich」について確認しておく。
「モノ」と訳されている「la Chose」は、「モノ」という訳語では大多数の人には意味不明だろうから、「実在物」と訳しておく。つまり、人間の精神が立脚する「現実世界」である。それをラカンは「エス(それ:後で説明する。下線をつける)の確かな参照領域」という、正確(精確)な定義をしているわけだ。精確なために、かえって分かりづらいわけである。「参照領域」という言葉がなぜ精確で、かつ分かりづらいかというと、人間の精神が現実世界に立脚するのは自明であるとほとんどの人は思っているからで、実は人間の精神は「精神内部で独自の運動をしている」のであり、現実世界は実はその「参照領域」でしかないという指摘がピンと来ないわけだ。
「自我」と訳されている「Ich」は、ドイツ語の一人称で「私」の意味であるが、フロイトはこれを「私の中の『真の私』」という意味で「自我」としている。この「自我」という訳語は日本のフロイト紹介者の苦心の産物だろう。しかも、人間の精神の中ではこの「自我」と「精神の他の領域、特にエス(英語の「it」に相当するドイツ語で、これをそのまま「エス」としたのは、「それ」と訳するとかえって意味不明になるからで、これも「精確さのためにかえって分かりにくくなっている」とも言える。)は、いわば「現実原則」とでも言うべき「野生の精神」で、これを「女性性」と見ているのが、蚊居肢氏の末尾の言葉

現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

だろう。ただ、「モノ」=「母」という等式は、「母」という言葉で「現実界の存在」すべてを包含させるという、非常に誤解を招く言い方だと思う。誰でも「母=女」で、男とは無関係と思うが、男の精神の中にもエスがあり、大きな働きをしているからだ。
私としては、フロイトの

エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する

という言葉がまさに私が主張する「男性と女性における『愛と正義』の比重の差」を実に明確に示していると思う。しかし、それは女性が「現実的」であり、男が抽象的思考にとらわれがちだという話でもある。

ちなみに、蚊居肢氏は、女性原理(現実主義、享楽主義)が世界に蔓延し、男性原理(理想主義、規範主義)が衰退したことで世界は混乱し、悪化したという思想のようだが、まあ、それにも「一理はある」としても、問題はこれまで「悪しき規範」の下で苦しんでいた人たちがかなり存在することではないか。つまり、世界を精神分析すること自体が、単なる知的オナニーではないか、という気がするwww まあ、私の毎度毎度の妄想垂れ流し文章も大きく見れば同じだがww


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「認知症論」と「退屈論」

トイレに、作者名は忘れたが「退屈論」という文庫本が他の本と並んで、あるいは重なって置いてあるが、それとは別に先ほどネットで「認知症」の記事を読んだので、それと関連させて考察してみる。
言うまでもないが、「退屈論」の作者の名前を忘れた(今思い出したが、小谷野敦である。)ことから明白なように、私も「認知症」であり、昔風に言えば「健忘症」である。私はこちらの言い方のほうが好きだ。何しろ「健康に(あるいは健全に)忘れる」のだから、いい事のように思えるではないか。ついでに言えば、物忘れは「認知能力」の欠陥ではなく、「記銘能力」と「想起能力」の欠陥だと私は思っているが、それなら「認知症」という言い方自体が不適当だろう。ボケ老人でも、トイレを見て、それを食堂だと認知することはないだろう。まあ、ボケが極限状態になったら、それはまた別の話である。

要するに、「健忘症」とは、「覚える必要のないこと」や「思い出す必要のないこと」は覚えないし思い出さないという「健全な思考(脳活動)状態」なのだ、というのが私がここで主張する暴論である。まあ、暴論どころか健全な主張だと思うが、「暴論」は謙遜表現である。(追記:今思い出したが、シャーロック・ホームズは最初にワトソンと会った時、社会的常識のある部分がまったく無いことでワトソンを驚かすが、彼は笑って、今覚えた「自分にとって不要な」知識はすぐに忘れるつもりだ、と言うのである。記憶容量には限界がある、というのがホームズの説である。それが実は真理なら、あなたの知識は本当にすべて「自分にとって重要な知識」か?)

若いころは脳細胞が未使用の状態だから何でも覚えるが、その覚えたものが「脳細胞(神経)の連結」となって、いわば「書き込みされたフラッシュメモリー」状態になり、その書き込みが増えると、それ以上の書き込みは不可能になるわけだ。それが老人の脳の状態で、それ自体は「素晴らしい有益な記憶の宝庫」なのである。しかも、「自分にとって重要な情報が精選されている」から、判断や意志決定が速い。私の場合、文章を書く速度は若いころの数倍速いと思う。
さて、これは「認知症」だろうか。もちろん、「新しい情報」を覚えるのが苦手になるのは欠陥かもしれないが、実のところ、「日の下に新しきものなし」であり、古典的な知識があれば、それと照合して新しい知識の重要性や非重要性は判断できるのであり、単に「次々と新しい情報を覚える必要がある」仕事ができなくなるだけの話だ。つまり、「判断する仕事」なら、老人は死ぬまで現役であり、それが昔の社会の「古老」という存在だったわけだ。

さて、「退屈」について論じよう。
老人の時間は退屈だろうか。1日24時間が自由に使えるが、贅沢はできないという、たとえば年金老人の生活は退屈だろうか。もしそうだとしたら、それはその当人が退屈な人間だからだろう。1日24時間が自由に使えるなど、それこそどこの王侯貴族の生活にも匹敵する贅沢な生活ではないか。
まあ、まず「退屈」とは何かを考察しよう。
「暇な時間」は退屈だろうか。あなたは、小学校や中学校の夏休みの最初の日、これから40日間、自由な時間がある、と考えて、いきなり退屈しただろうか。言うまでもなく暇な時間と自由な時間は同義である。
そして、定年退職した老人は、昔の小説の題名ではないが、「毎日が夏休み」なのである。それは不幸なのか、そして退屈な時間なのか。
もちろん、仕事は無くても、たとえば病気の夫や妻の介護の作業があるなら、退屈どころではないだろう。それは気の毒ではあるが、退屈論とは無関係なので、置いておく。
何もする必要がない時間が膨大に目の前にあるというのが、私の考える最大の幸福であるが、それは私という変人限定の話だとしてもいい。
要するに、世間の人々が想定する「退屈」とは、「有意義な生き方ができていない」という、自分で勝手に想定した「あらまほしき生き方」が前提なのではないか。
で、私に言わせれば、それは自分で勝手に作った手かせ足かせである。皮肉な言い方をすれば、その「有意義な生き方」は、誰かの金儲けの役に立つか、誰かの利益となるために自分を奴隷化することではないか。その「誰か」がどんな存在かは問わない。そして、その生き方は多くの人に賞賛されるだろう。私から見れば、実に気の毒な生き方である。他人のために自分の人生の時間の大半を犠牲にしたのだから、他人から感謝されるのは当然だが、自分自身はそれで満足して死んでいっただろうか。逆に言えば、そういう「立派な人」の人生を犠牲にすることで利益を得た人たちは、自分が恥ずかしくないのだろうか。また、そういう立派な自己犠牲的生き方を子供や周囲に教え、勧めてきた人たちは罪の意識はないのだろうか。
まあ、そういう自己犠牲の生き方にも「精神的満足」があるからいいのだ、という考え方もあるだろうが、いずれにしても「他人の犠牲の上に立って利益を得る」生き方、あるいは行き方は、下劣で卑劣だと私は思っている。

話が「退屈」からだいぶ逸れたし、長くなったので、退屈論の続きはまた別の機会にする。





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「愛と正義」における男女差

睡眠時間が短いので目覚めが早く、深夜に目が覚めて、仕方なくベッドの中で本を読むことが多いが、まあ、それでもないと本を読む習慣も無くなるかもしれない。起きている時はネットをしているかテレビゲームをしているのが「(老眼の)目が楽」だし、「頭も楽」なのである。読書というのは本による当たりはずれが大きいし、本と当人の相性があるので「誰にでもお勧めできる」趣味ではない。

以上は前置きで、本題は先ほどまで寝床の中で読んでいた子供向けというか、未成年者でも理解しやすく書かれたクリスティ全集(主に短編)のひとつの巻の中の「検察側の証人」についてだ。
この巻の解説によると、クリスティの短編の中の二大傑作が「うぐいす荘」と、この「検察側の証人」というのが定評のようだが、「うぐいす荘」は、高校生くらいの時に読んで、(サスペンス小説として)傑作だと思った短編なので、私の読書頭脳はそのころから悪くはないようだ。で、「検察側の証人」は映画「情婦」の原作で、あちこちで内容が紹介されているので読む前から内容は知っていたが、読むのは初めてで(読まなくても内容が分かっているから読む意義もないと思っていたわけだが)、読んでみると、やはり傑作である。まさに芝居でも映画化でも成功する内容だ。名人の一刀彫という感じか。
クリスティの短編は、実は「アイデアはいいが、長編にするほどではないから短編に軽くまとめた」という印象の作品もけっこうあり、それはそれで二流三流作家の作品よりエンタメとしては優れている場合が多いが、傑作はその中では10作以内ではないか。その中で「うぐいす荘」と「検察側の証人」は双璧だろう。
で、どちらも、ある意味「愛の姿」を描いているのが、女性作家らしいとも言える。

ここで断定的に言えば、「女性は『愛と正義』の相克では必ず愛を選ぶ」というのが私の判定である。男は頭が抽象的だから、「正義」という抽象物を人間という実体より優先することも多い。それがたとえば「殉死」「切腹」などに様式化されたりする。女から見れば「アホちゃうの」だろう。ちなみに私は行列への割り込みなど、死んでもできない性質で、それを女房に笑われたことがある。(念のために言えば、ジャンヌ・ダルクの死などは「愛と正義の相克」ではない。むしろ「神への愛による死」だろう。)(ソクラテスの死が「正義を守るための死」の例)
まあ、これ(愛と正義論)はあまり女性に詳しくない男である私の、単なる直観的判断だ。「愛も抽象物だろう」と揚げ足を取る人がいるかと思うが、ここで言うのは「愛の対象である男(時によっては子供)」のことである。もちろん、私も暴徒から子供を守るとかいう場合は殺人も辞さないつもりではあるが、まあ、簡単に殺されるのがオチだろう。この場合は「道義を無視した暴徒への殺人が正義である」わけだ。(蛇足だが、この「暴徒」に似た行為を社会全体がやっているのがSNS時代の現代ではないか)


(追記)今部分的に読んだばかりの「混沌堂主人雑記」記事所載の「蚊居肢」記事の一節である。



フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (Lacan, S7, 03  Février  1960)



つまり無法の現実界、無道徳のエスの世界だーー、


私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.  Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)



現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

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つむじ曲がりのメアリーさん

寝床の中での寝覚めの朦朧思索の中で、「つむじ曲がり」と「へそ曲がり」という言葉について考え、どちらも変な言葉だなあ、と思ったのだが、「つむじ」は右曲がりだろうが左曲がりだろうが曲がっているのが当たり前だろうし、へそは曲がりようがないだろうからだ。それとも、へそにも右曲がりとか左曲がりがあるのか。ネットでの説明にはこの「つむじ曲がり」と「へそ曲がり」にも違いがあるとしているのもあるが、適当なでっち上げだろう。要は「偏屈もの」の意味である。で、私のような人間は子供のころから今に至るまで偏屈ものだから、ネットでこんな文章を書くのが楽しいわけだ。他者(異常な、あるいは愚劣な社会現象)を批判することで自分が優越するような錯覚を楽しむわけである。

マザーグースに「つむじ曲がりのメアリーさん」という歌があるが、「つむじ曲がり」の英語は何なのか考えても分からないので調べると、原詩は次のようなもので、「(qite) contrary」、つまり、「何にでも反対する性質」とでもいう感じか。「その反対に」の意味で「on the contrary」や「to the contrary」の連語で使うことが多い気がする。性質を表す言葉として使うことはあまり無いのではないか。
マザーグースの歌では、つむじ曲がりのメアリーさんの庭は、「銀のベルに貝のから、桜草」が「all in a row」に並んでいて、なかなか几帳面な性質であるように見える。つまり、彼女が「つむじ曲がり」とされるのは、「世間の無秩序、いい加減さ」に我慢がならない性格を示しているようにも見える。ちなみに「cockle」は「ザルガイ、トリガイ」という小さな食用貝らしい。食用貝だから、その殻が捨てられるのは当たり前で、その利用をした庭造りだから、なかなかこのメアリーさんは始末屋で小さな芸術家だ。なお、下の訳で「siilver bells」を銀の鈴としているが、これは「鈴蘭」ではないかと思うが、自信は無い。本物の「銀の鈴(複数)」なら、始末屋どころか、金持ち少女である。もちろん、金持ちが同時に始末屋でもあるのはよく見られることだ。

(以下引用)

 Mary, Mary, quite contrary,
 How does your garden grow?
 With silver bells and cockle shells,
 And cowslips all in a row.

 つむじまがりのメアリーさん、
 お庭のお花はいかがですか?
 銀のベルに 貝のから
 それにきれいな桜草
 ずらり並んで咲いています。


 この"Mary, Mary Quite Contrary"は、バーネットの児童文学『秘密の花園』(The Secret Garden, 1909)にも引用されています。
 主人公で、わがままな女の子メアリーは、他の子ども達に、この童謡にちなんで、“つむじまがりのメアリーさん”と呼ばれていました。
 ただ『秘密の花園』では、歌詞が少し違っていて、cowslips(桜草)がmarigolds(マリーゴールド)になっています。マザー・グースは土地によって、歌詞が違っているのです。

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東海林さだおに対する「かっこいい漫画家」という評言の意味

マイクロソフトニュースにイーロン・マスクがXで「侘び寂び」(この漢字が、芭蕉などの言った「わびさび」に適合しているかどうかは議論の余地があるかと思うが、一番近いニュアンスだとは思う。)と言ったという記事があり、これは案外重要な発言ではないかと思うのだが、先に書いておこうと思ったことから、忘れないうちに書く。

それは市民図書館から借りた、児童向け図書のコーナーにあった川上弘美の「明日、晴れますように」という、まあ、ジュブナイル(中高生など未成年者向けの本)に属するかと思われる本の中に出て来た言葉で、あまりに意外な言葉なので、考察してしまったものだ。

それは、作中人物が、漫画家の東海林さだおを、「かっこいい漫画家」と発言したことで、おそらくこれは作者の川上弘美自身の考えを代弁したものだろうと思われる。もちろん、単に作中キャラの発言としてもいいが、東海林さだおは「(キザな二枚目やその真似をする連中の)かっこいい(と自分だけが思っている)振る舞い」を嘲笑的に描いてきた漫画家であり、その東海林さだお自身を「かっこいい漫画家」とするのが非常に興味深い。言うまでもないが、この言葉は東海林さだおの外貌についてのものではないはずだ。いや、そうかもしれないが、まあ、そこは蓼食う虫も好き好きとしか言いようがない。

言うまでもなく、東海林さだおは漫画だけでなく文章の才能も抜群であり、偉大な人物のひとりだが、その偉大さが、「自分を戯画化する手法」があまりに見事なために見えなくなっている。おそらく、漫画家としても、漫画史上の「ワンアンドオンリー」なのではないか。それが「大人向け漫画」であるために、誰も評論しないし、「評論する価値もない」、と見做されている可能性が高い。
たとえば、柳田国男や南方熊楠が現代に生まれて、たまたま漫画の才能があり、漫画で社会や人間の俗物性を評論したなら、東海林さだおになるのではないか。だが、その手法が「はい、私もみなさん同様の俗物で、ちっぽけな人間です」というものなら、絶対に、この社会は彼を高く評価しないはずだ。つまり、この社会はかなりな程度「自己申告」が通るので、自己戯画化は「損な手法」だが、その損さを顧みず、自分が真実と思うことを表現する、それが「かっこいい漫画家」という評言の意味ではないだろうか。


なお、川上弘美の「明日、晴れますように」は、小学生の男の子と女の子二人を主人公にした小説なので、児童書のコーナーにあったが、社会評論、人間評論として面白い作品で、大人こそが読むべきだろう。

たとえば、次のような文章(赤字にしておく)は、今の日本の、いや、世界の初頭教育の危機を暗示している、と読める。「義務教育からの逃走」が進みつつある今、教育界のひとたちに、こういう危機感はあるだろうか。

小学校や中学校に毎日行くのは、かあさんにとっては、「えらい」ことのようなのだ。別にえらくもないんだけど、と思うけど、ときどきは、もしかしたらえらいことなのかも、と思う。


蛇足だが、たしか、関西弁では「えらい」は「難儀な、疲れる」意味があった気がするが、小中学生たちは「えらい思い」をして学校に通っているのではないか。特に人間関係問題だ。今のように「コミュニケーション能力全能主義」の社会では、主人公の「小さな科学者」仄(ほの)田りらなどは、コミュ障、さらには「発達障害」の烙印を押される可能性が高い。





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階級社会と「見えない人間」

私は、この「酔生夢人ブログ」では、できるだけ無駄話を中心にしたいと思ってこのブログを「徽宗皇帝のブログ」と別に立てたのだが、根が真面目なもので、真面目な話が多くなるのは我ながら残念だ。

市民図書館の子供向けコーナーには宝物が多い、というのは何度か書いているが、子供向けの本というのは、実は子供向けを企図しても、現実には大人でないと理解できない内容が多い。たとえばアガサ・クリスティの作品を子供が読めるように翻訳しても、子供が理解できるのはその大筋だけだろう。と言うのは、今読みかけの「スペイン櫃の謎」は事件の当事者の浮気疑惑が話の中心だと思われ、それを子供がどこまで理解できるか、怪しいものであるからだ。
で、話の中にシェークスピアの「オセロ」の話が出てくるのだが、私は「オセロ」を子供のころに読んで、オセロが奥さん(デズデモーナと言ったか)の浮気を疑って彼女を殺す話だという大筋しか読み取れなかった。まあ、オセロの悲しみとか、感じはしたが、イアーゴーという悪党に手玉に取られる馬鹿、という印象のほうが強い。
で、問題は、これまで私はまったく疑問にも思わなかったが、イアーゴーはなぜオセロをそういう罠(奥さんの浮気疑惑)に嵌めたのかが、描かれていたのかどうかだ。単に黒人将軍(だったか)に仕えるのが白人として不愉快だったのか、それともオセロの失脚で彼は昇進できる当てがあったのか。
そこで、(たぶん)まったく書かれていない「理由」をここで推理すると、実はイアーゴーはデズデモーナに言い寄って振られ、その復讐をしたのではなかったか、ということだ。あるいはちゃんとそう書かれていたが、子供の私にはそこが理解できなかった可能性もある。
まあ、子供の読書とはそういう「半端な読書」が多いだろう、という話だ。

ついでに、「スペイン櫃の謎」を7割ほど読んだ段階で推理すると、この話のポイントは、階級社会では、下層民は上級階級には「自分たちとは別種の存在」と考えられていて、従僕が主人に逆らうこと、あるいは殺意を持つことは「ありえない」と最初から思われていることではないだろうか。これはたとえばロシア人(スラブ人という名前は「スレイブ(奴隷)」から来ているらしい。つまりロシアは「奴隷」が作った国である、という深層心理が西洋人にはある。)に対する西洋人の根深い嫌悪が、ウクライナ戦争へのNATOの異常な関与の根底にあるのと同じような症状だと私は思う。上級階級にとって下級階級の人間は人間ではなく「何かの役目を果たす存在」でしかないから、チェスタトンの「見えない人間」になるわけだ。
あるいはイアーゴーもオセロやデズデモーナにとっては「見えない存在」までは行かなくても軽視の対象だったのではないか。その憎悪が彼をあの犯罪に走らせた、というのがここでの推理である。





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