「隠居爺の世迷言」記事の一節だが、過去記事の文章の調子から見てかなり温厚と思っていた隠居爺氏の意外な一面で、こういうことをブログに書いて、今後の家庭生活は大丈夫なのだろうか。
ところで、今日は女房の愚鈍さに私が腹を立ててムカついてしまった。そして「ああ、男と女だな」と思った。
という箇所のことである。どういう事件があったのか、一方的な発言しかないので、それが本当に「女房の愚鈍さ」のためかどうかも不明だ。で、問題は、私がその女房の立場なら、こういうことをSNSに書かれたら、その恨みは一生忘れないだろうということである。たとえ表面的には和解しても、心の底に恨みは残る。
概して、年を取ると「堪え性」が無くなるものだと、私は自分の経験からそう思っている。つまり、隠居爺氏の怒りは、氏の堪え性の無さの発現だった可能性もあるわけだ。しかし、この文章を読んだ読者の大半は、「ああ、隠居爺さんの奥さんは『愚鈍』な人なのだろう」と心に銘記することになる。こういう、一方的な断罪は、私も公人や有名人への批評でよくやるが、連中は批判されるのが仕事の一部のようなものだから、まったく問題はない。問題は「弱者への攻撃」だ。まあ。隠居爺氏の奥さんが案外な強者で、いつも爺氏をいじめている可能性もゼロではないだろうが、氏の書きぶりだとそうは見えない。
なお私は氏の文章に(かなり韜晦して書いているが)「男らしさ」「女らしさ」への強いこだわりを感じるのだが、実はその意識こそが社会を悪化させる一因なのではないか、と思っている。少なくとも、かなりな割合の「男らしさの欠如した男」や「女らしさに乏しい女」の生き苦しさの原因だろう。で、その「男らしさ」は本当に男らしいのか、単なる演技なのかは分からないのである。
私はバイオレンスが大嫌いで、ある歌の歌詞だが、女の子が男の子に向けて歌う「大好きよ、強くなくても。大好きよ、頑張らなくても。」というフレーズを聞いて、かなり救われたものだった。もっと若いころに聞いていたら、人生の悩みがかなり軽減していただろう。ちなみに、これは「神秘の世界エルハザード」というアニメ(OVA)の主題曲のひとつである。
ま、要するに、男らしさも女らしさも不要で、「人間らしさ」があるかどうかが社会の構成員の要件なのではないか。つまり「ヒューマニズム」「人道性」の有無である。とは言っても、男に生まれながら性転換をしたり女の恰好をする、あるいはその逆も含めた今のLGBT運動を私が好ましく思っているわけではない。これも不自然極まるもので、すべて過度というのは悪化に至るものだ。
(以下引用)
気を抜いているから、話があちこち飛んでしまうけれど、男に男らしさのばらつき、女に女らしさのばらつきが生じてくるのは、自然の摂理みたいなもので、それが当然なのだけれども、それがそのままではなく、一挙に反対の性になろうとするのはどうしてなのだろうか。
これは全く私の想像で、何の根拠もないのだけれど、女になろうとする男、男になろうとする女というのは、自分の本来の性に対するあこがれが強すぎるのではないだろうか。つまり、女になろうとする男は、男に対するあこがれが強すぎ、男になろうとする女は女に対するあこがれが強すぎる。
そのため、ちっとも男らしくない自分や、ちっとも女らしくない自分を許せないんだよね。絶対に許せない。だから一挙に反対の性に飛ぼうとする。私のように、男なんて、弱虫だし、臆病だし、根性なしだし、嘘つきだし、デタラメだし、不真面目だし、努力しないし、チャランポランだし、売国奴だし、そう、まるで岸田総理のような情けないのが男だと思っていると、こんな私でも十分立派な男だと思えるんだよね。
芸能界で、オカマとかオネエとか呼ばれている人を見ると、これも私の全くの主観になるけれども、とっても男らしい人たちだと思う。マツコ・デラックスなんて見ても、あの気配り、鋭さ、論理性などは男のものだよね。岸田総理にも食わせてやりたいくらいだ。
ところで、今日は女房の愚鈍さに私が腹を立ててムカついてしまった。そして「ああ、男と女だな」と思った。男は兵隊だからね。ぼやぼや、ノホホンとしていると殺されてしまうという頭がある。だからピリピリしているときがある。
女は"ぼのぼの"の世界で生きている。穏やか、まったり、ぼんやりなど。そうでないと子供は育たない。
そんな性質の異なる男と女が一緒に暮らしているのだから、うまくいかないのも当然というか、しかし、だからうまくいくともいえる。どちらにしたところで、ご苦労様というところではあるけれど。