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「古典」と「アルカイック」

小林秀雄の対談集を読んでいると、啓発的な言葉にしばしば出会う。言った当人自身がその言葉の重要性を知らないで言いっ放しで終わり、その思想を発展させたり体系化することは無いだろうが、いわば「詩人的直観」で社会や人生の貴重な宝石の輝きを目に留めている、という感じか。そういう意味で彼の本は読む価値がある。有象無象の「論理的で体系的な思想や著作」があっと言うまに無価値化するのとは違うようだ。

というのは前置きで、先ほどトイレで読んでいた彼の本(対談集)の中で私の興味を惹いたのが「古典的とアルカイックの違い」と、「ギリシャは海賊文化だ」という指摘である。

前者の事例が、「ギリシャは古典的だがエジプトはアルカイックだ」と「唐は古典的だが六朝はアルカイックだ」というふたつだが、つまり、私の理解で言えば、「古典的とはその後の文明や文化に継続されるもの」で、「アルカイックとは継続されず、ただ屹立するもの」となる。
さらに、「ギリシャは海賊文化だ」とは、ギリシャの海賊行為によって地中海文明のあらゆる文明的産物がギリシャに流れ込み、その後のヨーロッパ文明の源流となったという意味で、「ギリシャ文明が古典的であること」とつながるわけである。
これは、イギリスが海賊行為によって世界のあらゆる文化を略奪し、その繁栄でイギリス文明(文化)が形成されたのと同じである。日本は長い間の鎖国でアルカイック文明だったのが、イギリスその他に侵略され強姦される形で「世界文明」の一要素となったわけである。
強姦されようが、子供は生んだから結構だ、という思想もあるだろう。多くの男たちと遊ぶようになって人生が豊かになって結構だ、という思想もある。まあ、今の日本はヒモ(アメリカ)のための売春が仕事になったとも言えるか。

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論語考察2「我未だ剛なる者を見ず」

孔子が「我未だ剛なる者を見ず」と言うと、或る人が「シントウという者がいるではありませんか」と言う。すると、孔子は「シントウは欲がある。どうして剛なる者と言えようか」と答えた。
(公冶長 第5)

この話から見ると、孔子の考える強さとは精神的な強さであり、そしてそれは「自分の欲に対する強さ」だと分かる。ちなみに、「剛」という漢字は「強さ」よりは「硬さ」が主意かと思われる。つまり、「剛」の音符は「ゴウ」で、「硬玉」の「コウ」に通じるのである。欲に対する強さは、欲に対する防御の硬さ、とも言える。
外部の敵には強い人間も内部の敵である「欲」には弱いのが通例で、そこが多くの英雄偉人の失敗や滅亡の原因になる。
この話の直前に、サイヨ(宰与)という男が昼寝をして孔子がその行動をひどく怒る話があるのだが、たいていの人は「昼寝したくらいで何を怒るのだろう」と不思議に思うだろう。だが、それは孔子にはサイヨの学問に対する不熱心さであり、孔子の怒りは、昼寝をしたいという欲望に簡単に従う弱さへの激怒だったかと思われる。
さらに、その前のあたりに「仁者はほぼ存在しない」という言葉もあり、孔子の考える「仁」のレベルの高さも分かる。
「強さ」も「仁(博愛)」も言葉にするのは簡単だが、問題はその強さや博愛の質やレベルである。だから「巧言令色鮮(すくな)し仁」なのであり、口達者なサイヨの昼寝はその一例だ、と見るべきだろう。

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論語考察1「君子の天下におけるや、適もなく莫もなし」

私の別ブログに書いた記事だが、なかなか思考労働(娯楽でもあるが)をしたので、ここにも載せておく。気が向けば今後もこのテーマで書くかもしれないが、一回きりでもなかなか有意義な内容だと思う。それは「世間の『権威』を恐れるな」ということだ。素人が考えてもおかしいと思うことを「専門家」が書いていることは案外あるのである。

(以下自己引用)
最近、論語に興味があるので、それを読みながら、思い浮かんだことや考えたことをメモ的に書いていく。(念のために言えば「思い浮かぶ」と「考える」は別の思考である。「思い浮かぶ」は記憶の単なる想起であり、「考える」は「考察」であり、思考の深化だ。)

なお、参考資料として金谷治訳注の「論語」(岩波文庫)と、宮崎市定の「論語」(岩波現代文庫)を主に使用し、漢字は明治書院の「新釈漢和(新修版)」で調べるが、私自身の解釈をいきなり書くことも多いかと思う。何しろ、「論語」は紀元前の書であり、当時の漢字の意味が後世では分からないことも多いのである。つまり、漢和辞典にある説明が正しいとは限らないのであり、肝心なのはその解釈が合理性があるかどうかだ。

第一回は、「里仁第四」の「君子の天下におけるや適もなく、莫もなし」の解釈だ。

全体は「子の曰く、君子の天下に於けるや適も無く、莫も無し。義にこれ与(とも)に比(した)しむ」という文で、書き下しは金谷による。
なお、宮崎による書き下しは「君子の天下におけるや、適なきなり、莫なきなり、義をこれ与(とも)に比す」である。

今回は漢文そのものも書くが、面倒なので、これ以降は漢文は省略することが多くなると思う。

子曰 君子之於天下也 無適也 無莫也 義之興比

というのが、一応見やすく分かち書きした漢文原文である。
訳は、金谷のものが

先生がいわれた、「君子が天下のことに対するには、さからうこともなければ、愛着することもない。(主観を去って)ただ正義に親しんでいく」

宮崎の訳が

子曰く、諸君は天下に立って、古語にあるように、平平淡淡、ただ正義に味方する、という風にやってくれ。

で、見てのとおり、まったく異なっている。
宮崎の訳は全体に強引で「古語にあるように」の古語を明示せずに「無適以下は何か古語の引用かと思われる」という感じで、勝手な訳をすることがある。
金谷のものは、従来の説の中で妥当と金谷が思うものを選択したもののようだ。
しかし、それが本当に正しいか、というと、そうとも限らないだろう。
「無適也 無莫也」の訳(さからうこともなければ、愛着することもない)を「適」や「莫」の漢字と対比して不自然に思うのは私だけではないと思う。その後のカッコの中の(主観を去って)も、どれほどの意義がこの文章に関してあるのかどうか疑問なところだ。

ということで、ここから私の解釈になる。

「適」は「適合」の意味だ、というのがまず私の解釈である。
そして「莫」は「漠」と同じで、「ぼんやりしていること」だ、というのが私の解釈である。

問題は「適合」が何への適合かということだが、ここで「論語」の中でも有名な「君子は器ならず」を想起すればよい。つまり、君子というのは、何か特定目的や特定用途にだけしか使えない人材であってはならない、ということだ。
だから、君子は何かの(ちまちました)用途に単に適合するだけではダメだ、ということである。
そういう「大きな」人物を使えるのは王侯の見る目次第だから、なかなか取り立てられない。そこで漫然と時を過ごしてはならない、刻苦勉励せよ、というのが、「ぼんやりしてばかりでもいけない」つまり「漠(莫)なきなり」である。
その勉励の内容が、「学問仲間とともに義を考究する」ことなのである。

というわけだが、全体の訳は「君子は天下において、適材適所という単なる「器」では困るが、また用いられないからといってぼんやりしていては困る。常に義を考究しなさい」となる。これで「君子は器ならず」とも一貫性が生まれるわけである。要するに「器」ではなく、宰相レベルの「器を使う大きな存在」になれ、ということだ。

ついでだが、「比す」は「比較検討する」意味だと解釈している。

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「論語」の基本思想

私の別ブログから転載。
「論語」は世界最高の「世俗道徳」(神仏を前提としない道徳)の思想書・教科書である。ただし、「儒教」は後世の人間が論語を解釈し学問化し、公教育化したものなので、論語の解釈自体が恣意的である可能性がある。(たとえば封建支配体制維持のための「忠」の意味の捻じ曲げなどがある。)かえって、論語の基本思想を単純化したほうが有益だろう。
フロイトの言葉の末尾を私流に言えば、「人間関係によって苦悩が生まれる。その苦悩を軽減するのが隣人愛だ」ということだ。つまり「隣人愛=仁」である。下の文章では「仁=博愛」と書いているが、同じことである。我々は現実には博愛を隣人愛としてしか実行できないからだ。口先だけの博愛を語る(騙る)詐欺師は無数にいるだろうが。(私自身、社交嫌いの思考沈潜人間である。)*念のために言えば「思考沈潜」は漠然とした浮遊思考の下に意識が沈んでいるだけだ。

(以下自己引用)


1行で分かる「論語(儒教)」の真髄



論語(儒教)の真髄は「」と「忠恕」で済む。

後は、漢和辞書を引いて、この2語の意味を理解すればいいだけだ。


一応、解説する。
「仁」とは「博愛(を衆に及ぼすこと)」である。
「忠恕」とは、「忠」が「まごころ」の意味、「恕」が「まごころに従って行動すること」である。厳密には「恕」単独だと「心に従うこと(心の如し)」だが、上の「忠」が真心(中正なこころ)を意味するので、「忠恕」で真心に従う生き方を意味する。だから「論語」では「夫子(孔子)の道は忠恕のみ」と言っているのである。その真心の具体的内容が「仁」である。漢字の成り立ちは「人が二人いること」であり、いわば社会の最小単位だ。その二人がいさかえば、この世は地獄になり、愛しあえば天国になる。後者を「仁」と言う。つまり、社会全体で言えば「博愛」である。


(追記)フロイトの「幻想の未来」の中にこういう一節がある。

「知性の優位が実現するのは、はるか遠い未来のことかもしれないが、無限に遠い先のことではないだろう。そしてこの知性の優位が目的とするのは、キリスト教の神に期待するものと異なるものではないのであるーーもちろん宗教的にではなく、人間にふさわしい形で、外的な現実が、運命が許すかぎりにおいてということだが、その目的とは、隣人愛であり、苦悩の軽減である。」





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実存主義の考察


実存主義について考えようと思うのだが、私は実存主義にはまったく関心がなく、自分が関心を持っているマルキ・ド・サドが、あるいはその生き方が実存主義的ではないかな、と思って最近少し興味を持ってきただけである。
とりあえず、手元にある簡便な「新明解百科語辞典」で調べると、

人間の実存を中心的関心とする思想

という曖昧な説明の後、

「合理主義・実証主義による客観的ないし観念的人間把握、近代の科学技術による人間の自己喪失」などを批判 (カギカッコは筆者による明確化)

とある。で、実存とは

① スコラ哲学で、可能的存在である本質に対して、事物が存在することそれ自体をいう語。現実的存在。現存。
② 実存主義で、特に人間的実存をいう。個別者として自己の存在を自覚的に問いつつ存在する人間の主体的なあり方。具体的状況にある人間の有限性・不安・虚無と、それを超越し本来的な自己を求める人間の運動。自覚存在。

とある。つまり、「実存主義」では、「実存主義者だけが人間的実存である」ようだ。
まあ、馬鹿馬鹿しい思想だと思う。インテリや頭でっかちの学生にだけ人気のある思想だったのが頷ける。

さて、私がサドを実存主義的だと考えたのは、澁澤龍彦の「映画論集成」の中に、こういう一節があり、それをサド的だな、と考えたからだ。

「つまり、政治が政治の原則を踏み外すこと(社会革命)によって、政治そのものを克服し、社会的・政治的疎外の産物にすぎない国家の形態を廃棄しなければならないように、芸術も芸術の原則を踏み外し、まっしぐらに非芸術(魔術)の方向に向かうことによって、人間疎外の産物にすぎない芸術の王国を否認すべきであるという、客観性と主観性の両々相俟った、まことに革命的な理論がこれなのであって云々 」(注:「革命的な理論」と言っているのはシュールレアリズムの理論家であるアンドレ・ブルトンの映画論のこと)

ここで「疎外」と言っているのは、人間が社会で生きるうちに、社会に持つ違和感や孤立感、つまりまさに「疎外感」のことだと考えればいいかと思う。肯定的に言えば、その孤立感は当人の責任ではなく社会の責任だ、というのが実存主義だろう。さて、そこで自分を変えて社会の一部に、あるいは歯車になるか、それとも「社会のほうを変えるか」という選択が生じる。ほとんどの人、「善良なる市民」の99%は前者を選び、稀な一部が「革命家」になるか「社会の反逆者」になるわけである。後者の例がマルキ・ド・サドだ、ということで、やっと話の冒頭とつながるわけだ。

ちなみに、国家が「社会的・政治的疎外の産物にすぎない」とされるのは、我々は国家の成立にまったく関与していないし、国家の内容に同意したわけでもないからだ、と私が理屈づけしておく。


まあ、このように考えれば、実存主義が反政府運動の一要素となったり、左翼的知識人に人気があったのも、頷けないことはなさそうだ。

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思想と論理

私が唯一、真実であると信じる言葉(命題)は「力こそパワーである」という言葉だが、これは私が暴力主義者だということではない。論理的に言って「AはAである」以上の正しさを持った論理は無いからだ。ただ、そこに「力とは何か」という、各自各様の定義を入れたら、その論理は成り立たなくなる。
などと言ったのは、フランス革命の「自由、平等、友愛」について、実はその当時の「友愛」には女性は含まれていない、と茶々を入れる発言をこの前ネットで見たからである。
まあ、男性と女性の間には恋愛があるだけで友愛は無い、という考えもあるだろうし、この標語の「fratanite」は「博愛」の意味であり、当然女性も含まれる、という考えもあるわけだ。
つまり、言葉を厳密に定義していない命題や議論はすべて無効だ、という話だ。
ところが現実には言葉が定義されないままの議論が社会全体を飛び交っているのは言うまでもない。となると、すべては「下手な考え休むに似たり」となる。まあ、娯楽としての議論ならそれでもいいし、私の書く文章はすべてその類だ。

さて、上記の議論(ダメ思考)の例を書こう。
私は「超現実主義(シュールレアリズム)」というものを「現実には存在しないものを想像する面白さ」だと考えていたが、それが違うようなのである。

前にも引用した「フランス的思考」の中に、こういう言葉がある。アンドレ・ブルトンの「シュールレアリスム宣言」の一節である。


「私たちが受け継いだ数々の不運にまじって、精神の最大の自由が残されたことはよく認識しなければならない。(略)想像力だけが、ありうることを私に教えてくれるのであり、恐るべき禁忌を少しばかり取り除くにはそれだけでじゅうぶんである。」(強調原文:ただし、この引用では傍点を赤字にする。)

つまり、超現実主義とは「ありえないこと」の想像ではなく「ありうること(現実を超えた先にあるもの)」の想像だったわけだ。少なくとも、その種の芸術の創造者は「そうであるべきだ」とブルトンは考えていたようである。ここには「政治的意味」もありそうだが、それは措いておく。

まあ、このブルトンの言葉や思想の是非はともかく、私が「超現実主義」と考えていたものがまったく違っていたのは事実であり、私はこの言葉を知ってから今に至るまでその誤解を持って生きてきたわけだ。
だからといって別に大きな被害はないが、要するに、我々の認識(大きく言えば世界認識)はその程度のものではないか、ということである。

その前に私は「今更ながら実存主義」という思考テーマを考えていたのだが、それは「実存主義批判」であり、だから「今更ながらの実存主義批判」なのだが、この思想(らしきもの)やその議論が一世を風靡したということ自体が大きな問題ではないか、という思想である。それはまた気が向いた時に考える、かもしれない。

ついでに言っておけば、私は「自由主義」に批判的だが、「精神の自由」は人間に与えられた最大の幸福である、と思っている。私が無批判に肯定する自由は精神の自由だけである。
だが、自由が「主義」、つまり政治運動となった時にそれは人類最大の災厄にもなるだろう。なぜか。それは法も倫理も必然的に「禁止の体系(自由の束縛)」であるからだ。つまり、自由主義は法と倫理を無化するのだ。あなたは犯罪の自由を支持するか? 暴力の自由、殺人の自由、強姦の自由を肯定するか?






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「天皇」否定論と肯定論の検討

私の別ブログに書いたメモ的記事だが、議論の叩き台として転載する。
もちろん、ここに書いた内容は天皇肯定論者にも否定論者にも不満なものだろうが、あくまで叩き台を提出するだけだ。もっと説得力のある否定論や肯定論があれば、私も読んでみたい。
まあ、ここに書いたのは三島由紀夫の「文化防衛論」を、分かりやすい形で、あるいは私なりの理解(誤解)で書いたものとも言える。

なお、「天皇制」という言葉は議論を混乱させる要素があると私は(何となくだが)思っている。たぶん、この言葉はそれだけで「天皇支配」を連想させるのではないか。「象徴天皇制」も同様だ。まあ、感覚的な話だが、「制度」(固定や呪縛)への無意識的な拒否反応を惹起するとも言える。

「肯定論」の8について補足すれば、未来は過去の伝統や遺産としての現在からしか生まれない、というのが永遠の真理だと私は思っている。改変はいいが、過去の消去や過去との断絶は利益よりは損失が大きいだろう。

(追記)このブログに載せてある「『文化防衛論』の考察」の一部を載せる。「日本人とは日本文化が意識的無意識的に体に刻みこまれている者」と定義できる。日本への移民はあくまで過渡的存在としての疑似日本人だ、と言える。日本文化に染まって、真の日本人になるわけだ。もちろん、ならない者もいる。長年日本にいながら日本人を敵視し、軽蔑する者もいる。つまり自ら「自分は日本人ではない」と主張しているわけだ。

13)「文化の無差別的包括性」を保持するために「文化概念としての天皇」の登場が要請される。

(考察)簡単に言えば「日本文化を保持するために、日本文化の象徴としての天皇の存在が重要である」ということだろう。天皇という存在が論じられる時、ほとんどは「政治的存在」としての天皇しか論じられていない。天皇という存在が日本文化の歴史の中心にある、というのは私も主張してきたことであるが、そこには別に三島の影響は無い。単に、日本文学史を見ていたら、それ(天皇が文化の中心にいること)が歴然としているというだけのことだ。記紀と三大歌集が無ければ日本の古代中世文学は無く、古代中世文学が無ければ、当然その発展としての江戸文学も無い。そして、明治の欧風文化採用と太平洋敗戦でその伝統は切られたのである。つまり、あの敗戦と戦後教育は日本の文化の伝統を断ち切ったわけだ。日本文化の伝統を愛する三島が、その伝統の中心に天皇があると考えたのは自然なことである。

(以下自己引用)


私は天皇肯定論者なのだが、要は日本文化と伝統の象徴としての天皇の存在を貴重だとする思想であり、また日本国憲法肯定者として、憲法の規定する「国民統合の象徴としての天皇」を尊重する意味での天皇肯定論者である。
そして、ネットで見る「天皇否定論」の根拠がどうもよく分からないので、その分析と考察をしてみる。ただし、メモ的なものだ。詳しい考察は後に回すつもりである。

最初に、私が考える「天皇否定論」の根拠を箇条書きにしてみる。もちろん、見落としもあるだろう。その中で私が重要と考えるのは「感情的に天皇の存在が許せない」というものだが、「感情論だからダメ」とは決めつけるつもりはない。ある意味では論理よりも強いのが感情だろう。ただ、とりあえず、ここでは「天皇否定論」と「天皇肯定論」を両方並べて、どちらがより合理的か、あるいは正当性があるかの比較をしてみるつもりだ。

Ⅰ 天皇否定論

1:日本国憲法は国民の平等を謳っており、天皇を国民の上位に置くのは許せない。
2:日本は「民主主義国家」であり、本来は君主的存在だった天皇は不要である。
3:天皇を「国民統合の象徴」とする意義はない。
4:天皇やその親族にかかる財政負担が無駄である。
5:昭和天皇のために死んだ無数の国民の死の責任が昭和天皇にあり、その子孫である天皇家自体、否定されるべきである。
6:天皇が神道連盟などの宗教に利用される可能性が大きい。
7:右翼が天皇を担ぎ上げて、日本を全体主義国家にする可能性がある。
8:天皇が存在しなくても、日本国民は何ひとつ困らない。
9:その他

Ⅱ 天皇肯定論(それぞれ「否定論」の否定であるが数字は対応していない。)

1:日本の歴史は天皇が大きな要素であり、天皇は日本文化の伝統であり象徴である。
2:現在の天皇は単なる象徴であり、日本国民の上位にあるわけではない。
3:憲法は天皇の政治関与を禁じており、民主主義と矛盾する存在ではない。
4:天皇に関係する予算は外交儀礼上必要だが、不満なら削減すればいい。
5:祖先の罪は子孫に関係しない。
6:神社等との関係が大きな問題になった事例は敗戦後は存在しない。
7:天皇が「象徴天皇」である限り、政治利用は不可能である。
8:天皇がいなくなれば、他国との違いが無くなり、「日本人」は過去と断絶する。
9:その他



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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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