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女性の「恋愛脳」と女性政治家

「隠居爺の世迷言」記事の後半で、書かれたことにすべて同感、同意するわけではないが、面白い視点であり、考え方だと思う。つまり、「権力志向」型の「特殊女性」というのは、一般的女性論の枠の中で論じるのは誤りなのだろう。(一般的女性は、母性的、平和的な傾向があるが、「愛」や「恋」に関しては野獣化し、戦闘的になり、無道徳化するらしいww)
男性政治家と同じく「権力志向」でも、女性の場合は「より強い権力の虎の威を借りる」事例が多いのは明らかな傾向と言えるだろう。これは安部派その他の自民党女性代議士全員に共通している。見事なほどに同じ傾向である。
もちろん、男の政治家でもそういう連中はいるが、それは陣笠代議士の類である。
もうひとつの傾向として、その手の「権力志向女性政治家」は、女性同士で同盟することはない、ということがある。(フェミニズム運動を政治運動とした場合は別の話になる。これは、最初から「女性の権利の拡張」だから、人間の好悪の問題とは別である。)まあ、同じ女性であるなら、この場合は「寵愛の」敵同士になる。
要は、アニメ「薬屋のひとりごと」ではないが、女性政治家の戦いは「後宮の女同士の戦い」になるわけだ。

(以下引用)

 さて、ずいぶん回り道をしたけれども、ここから本題に入っていく。アメリカの混乱ぶりというか、退廃ぶりというか、衰えは特にバイデン民主党政権になってから目に余る。それは一部のアメリカ人にとっても、その理由をどこに求めていいか理解の難しい不思議な問題と感じられている。

 前々回ご紹介した「耕助のブログ」では、James Howard Kunstlerという私の好きな人の記事が載っていたことがあるけれど、そこで彼が面白い指摘を行っている。それは「アメリカ民主党は活動家の女性に支配されるようになり、女性活動家は次の2つの顕著な行動傾向を示した。彼女たちは何かにつけて感情に基づいて決定を下す傾向があった。そして、彼らは男性よりも政治的戦いにおいてはるかに冷酷だった。彼女たちの感情は、フェアプレーの精神など古くからの価値観をひっくり返して、汚い手口に手を染めた。」というものだ。

 Kunstlerの記事を当ブログで取り上げたのは、昨年の1月8日になるが、今ごろになってじんわりと私の心を占めるようになった。なぜかというと、現外務大臣の上川陽子に総理大臣の呼び声があるとどこかのサイトで見たからだ。下手をすると日本は上川陽子総理大臣の国になるかもしれない。大変に恐ろしいことだ。

 実は私が上川陽子外務大臣の記事を当ブログで書こうかと思っていたときに、YouTubeで「上川陽子外相へ・和製ヌーランドになるなかれ」という動画がアップされた。

 動画に登場する渡辺惣樹という人は以前ご紹介したことがあるが、考え方が私と極めて近いと勝手に思っている人で、この動画も私とほぼ同意見になる。ただし、私はそれを一歩進めて、女性が権力を発揮できるような地位に就く場合には、政府、マスメディア、専門家、国民は細心の注意を払って用心しなければならないことを付け加えたい。

 これは男だって同じことではあるけれども、例えば岸田総理などは典型的な例で、あんな人を総理大臣にしたのは完全な誤りだった。もっとも、今の自民党にはあれ以上の人材がいないのかもしれなくて、そうであるならば自民党は自ら政権を返上するべきなのだが。

 岸田総理は大変に弱い人だ。お分かりになるだろうか。どうも、リーダー的な地位に就く人というのは弱い人ではダメらしい。この場合、強い弱いとは何かとなるとそれだけで大きなテーマになってしまうけれど、一言で言えば "精神的な独立性" ということになると思う。

 岸田総理も、一部の女性も、精神的に独立することが苦手だ。苦手だとどうなるだろうか。誰かに頼ろうとする。頼ればその者の意向に従うことになる。ということは自分で考えようとしなくなる。さらには、頼ろうとする相手の歓心を買おうとする気持ちにもなる。例えば、岸田総理のように無条件でアメリカに尻尾を振り始める。

 おまけに、ライバルなどいようものなら、つまり、頼ろうとする相手に自分よりも重用する存在があろうものなら、それに負けじと必死になってライバルと戦い、相手を蹴落とし、自分だけのものにしようとする。一言で言えば「寵愛を得るための戦い」が生じる。

 これが、女同士の戦いになった場合は、しばしば熾烈なものになるのは、女の人であれば理解できるだろう。寵愛を得るための争いには、ルールもなければ、手段が制限されることもない。あるのは勝つか負けるかだけになる。勝つことが全てになる。

 そのような戦いを勝ち上がった女性として私が思いつくのは、ビクトリア・ヌーランド、ヒラリー・クリントン、ナンシー・
ペロシ、日本では小池百合子と上川陽子になる。より地位が低くなれば、そのような女性たちをかなりの数発見できるはずだ。彼女たちの背後には大物が控えている。それは男になるのだが、彼女らは女の感性をフルに生かして、自分を支えてくれる男が何を考えているかを探る。そして、その探った結果を元にして、先駆けして大胆に振る舞い、歓心を買う。それが、寵愛競争に勝つ方法になる。

 国を仕切るようなポストに女の人が就いた場合には、そのような競争を勝ち上がったと考えていい。それゆえ、そのような女性のすることは過激であり、ルールがないがしろにされ、手段を選ぼうとせず、時としてこれ以上ないくらいに残酷になる。

 上川陽子を例にとって説明してみよう。上川陽子は法務大臣をしていたときに、オウム真理教の死刑囚全員(13人)の死刑執行にサインをした。2018年7月のことだった。上川陽子が法律に違反したわけではなく、道徳的に問題があるのでもない。しかし、死刑の執行にサインをすることを大抵の法務大臣は嫌がる。まして相手がオウム真理教で13人もとなると厄介だ。誰も手を上げなかったのだろう。

 しかし、日本政府にはどうしても死刑を執行したい理由があった。どんな理由かというと、これは単なる私の勘繰り、想像でしかないが、その後に予定されている新型コロナ騒動、そしてワクチン接種によって、国が多数の日本人を死に追いやる可能性があると分かっていたためだ。

 そうなってから、オウム真理教の死刑を執行したのでは、世間の抵抗・非難を招くと判断したのだろう。私のように、 "ワクチン接種による殺人はオウム真理教よりも悪質だ" なんて言い出す者が出てくるからね。

 そのため、新型コロナ騒動が持ち上がる前に死刑執行を済ませておく必要があった。そこでどこかの黒幕の意向を受けて手を上げたのが上川陽子だったのだろう。以上はあくまで想像上の話だが、政治の世界で優れた女性、有能な女性、社会の脚光を浴びる女性、華々しく活躍する女性にはそのような面があると考えていいように私は思っている。そして、上川陽子は渡辺惣樹氏の指摘するように、現在日本の外務大臣として、世界の平和を乱すために活躍中だ。

 そのような様子を見ると、女性が社会的な戦い、競争、勝負といったものに向いていないことを示している。男はある意味生まれながらの兵士であり、戦うための本能が備わっている。そのため、男の戦いにはルールがあり、手段も定められる。ちょうど狼が腹を見せた段階で、敵の狼がそれ以上攻撃をできなくなるようなものだ。

 もちろん、全ての男がそうであるとまではいえず例外もある。例えば、ビル・ゲイツのように女の腐ったような者が現われると、ルールも手段もわきまえない金儲けを始めて、世界を混乱に陥れる。ただし、それはあくまでも例外であって、女の人がともすれば陥りがちなルールのない世界とは違っている。

 さて、バイデン政権は全くの恥知らず政権であり、それは神に逆らうからだ。信仰もしていない私が神を持ち出すのはおかしいが、一般的的に使われる言葉だと自然に逆らうということになるだろう。植物が緑色であることには理由がある。人間に男と女があるのには理由がある。人間が病気にかかるのには理由がある。ユダヤ人が嫌われるのにも理由がある。

 アメリカバイデン政権はそのようなことを一切無視する。無視した上で、全てを同一色に染め上げようとする。全部まぜこぜにして、特徴のなくなった灰色のものを提示して、これで効率が良くなっただろう、管理しやすくなっただろう、儲かるだろうなどと言い始める。

 しかし、自然に逆らって、つまり、神に逆らって事を為そうとしたところでうまくいくはずもない。今のアメリカは世界中から不評を買っている。それがある意味BRICS等の結束を強めていることを考えると、来期もバイデンに継続してほしいような気もするが、水戸黄門ではないけれど「助さん、格さん、もういいでしょう」というところかな。

 と、いろいろ書いてみたけれど、あれこれ言ってはみても、全体としての日本女性は賢いのではないかと私は期待している。ワクチンを除けば、それほど国に騙されているようでもない。男のように特攻隊で死ぬような、あるいは死なせるような馬鹿な真似を女の人はしないからね。政府が何と言おうがしっかり自分の損得を考えるのが女性というものだ。

 しかし、女性の中にはビクトリア・ヌーランド、ヒラリー・クリントン、ナンシー・
ペロシ、小池百合子、上川陽子のように、寵愛を勝ち得て暴走する人間も出てくるわけで、そのような罠にかからないように賢く生きていくことが必要とされる。誤った道を選択すると、自分をも満足させることのできない女の一生になってしまう。

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ユーモアと懐疑主義

「大摩邇」所載の「in deep」記事(だと思う。要するに岡氏の記事だ)の一部を転載。berief とfaithをどちらも「信念」と訳すなど、頭をひねる(首をひねる? まあ、180度ひねらないほうがいい。)ところもあるが、「ユーモアの効用」についてはまったく同意見である。私は、映画でもテレビドラマでも漫画でも小説でも、ユーモアの無い作品が苦手で、ユーモアが無い、というのは「思想の固定化」(こわばり)がそこにあるからではないか、と今考えた。
つまり、ユーモアとは懐疑主義と表裏一体で、エーコが「薔薇の名前」で言っている(と思うが)ように、ユーモア(笑い)が宗教の敵である、というのはまさにそこに理由があるのだろう。(もっとも、熱烈なキリスト信者であるドストエフスキーは優れたユーモア感覚の持ち主でもあったが。)同じ理由で、軍人(少なくとも、上層部)にはユーモアは厳禁だろう。上官の命令が「御免、冗談だった」では済まないww 戦場での兵士のユーモアがアメリカ映画ではよく描かれるが、あれは、「恐怖からの逃走」の手段のひとつだと思う。まあ、一種の強がりである。

文中に「アモール・ファティ(運命の愛)」がユーモアだ、と書いた引用部分があるが、これはどういう意味か、知りたいものだ。そもそも「運命の愛」とは、「運命的な愛」という、大衆ラブロマンス的な意味ではなく、「運命愛」、つまり、「運命への愛(運命を愛すること)」ではないか、と思うが、確かニーチェも「運命愛」ということを言っていた気がする。それがどういう意味か知らないが、「我々の運命が最初から決まっているとしても、それを愛することが賢者の道だ」とでもいうことなら、そこに「ユーモア」が重なるのは納得できる気がする。たとえば、死はすべての人間の運命だが、だからといって毎日泣いて暮らすのは馬鹿だろう。脳天気に笑って過ごし、死ぬ時も笑って(笑顔で)死にたいものである。

*一応言っておくが、「キリスト信者」は「キリスト教信者」とイコールではない。カソリックなどは、あれは「パウロ教」(教会主義)が発展したものであって、キリストの教えそのものではない。教会への絶対的服従というシステムはユダヤ教(の、キリストが否定した部分)に近い。新教でも、キリスト教と言うよりルター教やカルヴィン教だろう。だから分裂したわけだ。そういう意味では、日本の仏教もすべてブッダ(シッダルタ)の教えの一部の恣意的な解釈や改変だろうと思われ、それらが「仏教」と名乗るのは詐欺に近いのではないか。まあ、仏典(経典)そのものが、ブッダの死後に作られたものだろうから、詐欺のし放題である。もっとも、その中には優れた思想もあるだろうから、詐欺=悪だとは言わない。嘘をついて人を救ったとしても、それは悪ではないだろう。まさに「嘘も方便」である。神道となると、教義そのものが存在しない。つまり、民間習俗であって、宗教ではない。もっとも、その中にある自然崇拝(尊重)は、人間(人類)の私利・我欲から来る地球環境保護思想より精神的に上かもしれない。ーー長々と書いたが、今気が付いたが、これは私の「懐疑主義」の見本でもある。つまり、物事を(偉そうに)上から目線(メタ視点)で見ることだ。どんな馬鹿でも、上から目線で周囲を見ることはあるが、それを大きく拡大し、政治や政治家、学者や歴史や思想を上から目線で見るのである。

(以下引用)

疑うことの重要性

今年の初め頃、「疑うことは知恵の源である 7つの理由」という海外の記事をご紹介したことがあったように思います。…って、あれ? 見つからない。…ああ、メルマガでした。その記事では、以下の 7つの項目について、もちろん著者がそう考えているというだけですが、それぞれ詳しく書かれている長い記事です。


 


1.) 疑いは答えを質問に変える。


2.) 疑いは文化的条件付けを再調整する方法を教えてくれる。


3.) 疑いは、盲信という固い地面に心を開く種を植える。


4.) 疑いは自己を拡張する。


5.) 疑いがあると、時代の先を行くことができる。


6.) 疑いは傲慢をユーモアに変える。


7.) 疑いは中道の威力を教えてくれる。


 


このうち、メルマガでは、「6.) 疑いは傲慢をユーモアに変える」などをご紹介していました。先ほどまでの話とはズレる内容ですが、これはこれで大事なことだと思いましたので、再掲しておきたいと思います。


疑いは傲慢をユーモアに変える


優れたユーモアのセンスほど強力なものはない。それはどんな力よりもパワフルだ。


上機嫌の渦の中で、宇宙全体があなたの中にあり、あなたを通して振動し、すべての月に吠え、言葉よりも古い言語を歌い、そして最も重要なことに、あなたは宇宙の中では点にすぎないが、宇宙全体でもあるということを思い出させてくれる。


あなたが良いユーモアの渦中にあるとき、あなたはより高い周波数と同調している。


その時、あなたは高次の無秩序な秩序を汲み上げる泉源となる。その時、あなたは絶望の現場における希望の光となる。その時、あなたは文化的条件付けというまばゆい光の中の暗闇の灯台となる。


あなたは、つむじ風の中で、すべての結び目をすり抜ける無邪気な宇宙飛行士となる。


培われたユーモアは、世界をひっくり返す裏返しの鏡だ。


傲慢よりもユーモアを、憧れよりも笑いを。運命よりもアモール・ファティ(※ ラテン語で「運命の愛」)を。それはエゴを鎖に繋ぎとめる。


カミュはこう言った。


「人間の偉大さは、自分の状態よりも強くなるという決断にある」


新しい知識を構築するには、まず虚偽を破壊し、自分自身を真剣に受け止めすぎるのをやめることができなければならない。信念(belief)から信念(faith)へと勇気を持って飛躍するべきだ。


確信はなくても、好奇心を持つべきだ。納得するのではなく、創造的になるべきだ。順応主義者ではなく、風変わりであるべきだ。


思い上がりに満ちるのではなく、ユーモアを持つべきだ。


wakingtimes.com


ちょっとわかりにくい部分もありますが、ユーモアというか、笑いのすべては「現実や常識を疑う」ところから生じるものです。


常識とおりのことを言われて笑う人はいません。


「鉛筆は文字を書く道具です」


と言われて、( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ と笑う人はいません。


「鉛筆は、両耳からぶら下げて、手を使わずにお寿司を食べる道具です」


と言われれば(それじゃ誰も笑わねえよ)…ああ、まあ、これは例えとして不適切でしたが、要するに、現実や常識の概念への「破壊行為」が笑いです。


ずっと以前に書かせていただいた「笑い」についての以下の記事では、エイプリルフールの起源が、古代イスラム神秘主義者の「ウソつきの日」にあることを書きました。


世界の秩序を特異的に転倒させることが笑いの原点だったと。


それにより社会は生き返る。


(記事)創造神Jamに16歳で救われた私が40年後に気づいたこと
In Deep 2019年11月23日


 


何だか何を書いているのだか自分でもわからなくなってきていますが、先ほどの山本七平さんの、


> その不動の常識によりかかっていた方が楽だから、そこで思考を停止し…


いうことでは、やはりダメなんだと思います。

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「弁証法」懐疑論

私は、東海アマ氏を高く評価し、尊敬する部分もあるのだが、彼は、「知識と記憶力は凄いが、判断力がダメダメである」という評価である。ある種の偏見が固定観念となり、まともな判断力が無い、という印象だ。言い換えれば、膨大な知識と記憶力がほとんどムダになっている。
その原因が何か、と考えた場合、知識の選択の際に、既に偏見で判断しているというのが大きいと思うが、彼の判断の根底が、彼がしばしば力説するヘーゲルの「弁証法」にあるのではないか、そしてそれが彼の判断をダメダメにしているのではないかとふと思ったので、その考察をしてみる。つまり、「弁証法否定論」を試みようというわけだ。
もちろん、私はヘーゲルなど読んだことがないので、その一般的理解である「(正⇔反)→合」という思考法に、或る種の陥穽があるのではないかという考察である。
この論理形式は、「科学的思考」の基本でもあると思うが、そこに何かの陥穽があるのでは、という疑念だ。でなかったら、新コロだの新コロワクチンだの地球温暖化だの二酸化炭素否定論だのと、科学があれほどの間違いをしてきたはずがないだろう。もしかしたら進化論もビッグバン説もすべて間違いかもしれない、と私は疑っている。あるいは、ウィルス説そのものが間違っている可能性もあるだろう。あるいは「相対性理論」も間違いでないとも限らない。

まあ、そういう「子供っぽい」疑念はともかく、「弁証法」を考察してみる。これは、「或る説」に対して、「別の或る説(前説を否定する説)」が出てきて、それを突き合わせて考察することで、「両者を止揚した、より『正しい』説」が出て来る、という考え方だろうと私は理解している。問題は、これが「単なる二説の比較である」ことではないか。実は、他にも無数の説がある中で、「どうでもいい説」や「一見合理的に見える愚説」だけを突き合わせて、学界や論争者に都合のいい「答え」を出しているだけではないか、ということだ。これこそが、「科学の誤り」の根本ではないか、ということであり、しばしば「政治の誤り」の原因にもなるだろう。

そして、さらに言うなら、「論理そのものの問題」というのが出て来る。
私の考えでは、論理とは「説明手段」(「自分自身への説明」含む)でしかなく、「思考手段」としてはさほどたいしたものではない。つまり、1+1=2を永遠に続けても、何も出て来ないということだ。本当に大切なのは「直観」であり、そこにこそ「正解」はあることが多いと私は思う。もちろん、その「直観」は実は長い間の知的修練の結果、無意識の中に蓄積された知的経験の記憶から生じるのであり、小学生が「ビッグバン説は間違いだ~」と言っても、あまり説得力はないだろうし、私が言っても同様だ。しかし、問題は、「専門家」たちの思考や知識も「偏見」で固まっているだろう、ということだ。「論理」は、それを是正する力があるだろうか。

まあ、とりあえず、「論理(形式論理)」や「弁証法」は、実は「設定された土台の上での議論にすぎない」とだけ言っておく。

ちなみに、私はデカルトによる「分析と総合」という思考法が科学的思考、あるいは論理的思考の基本だと考えている。これはヘーゲル的な「二者択一」の陥穽を持たない。




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広田先生の文明論

12時(深夜0時)ごろ目を覚まし、寝床で、読みかけの「三四郎」を最後まで読んだ後、寝直そうと思ったが、目が冴えてしまったので起きてこれを書いている。
私は漱石の作品を全部読んだわけではないが、「吾輩は猫である」と「三四郎」は漱石のベストの作品ではないか、と思う。前者はカリカチュア性が強いので、真面目に読む人は少ないと思うが、漱石は真面目に文明批評や社会批評をしている。「三四郎」も同様で、青春小説の反面、ここにも優れた文明批評がある。その一部を抜き出す。漱石の漢字の使い方は独特なので、一部、こちらで変更する。引用部分は「広田先生」の言葉である。これは漱石自身の意見でもあると思う。

(以下引用)

「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強過ぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事ひとつとして他(ひと)を離れた事はなかった。すべてが、君(夢人注:主君)とか、親とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それをひとくちに言うと教育を受ける者がことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸漸(ぜんぜん:次第に)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」(夢人注:「露悪家」は漱石がこの時作った造語らしいが、今は普通の言葉だろう。少なくとも「露悪的」は普通の語だ。)
「昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各自(めいめい)同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でも何でもない。臭いものの蓋をとれば肥桶(こえたご)で、美事(みごと)な形式を剥ぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。」
「形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地(生地)だけで用を足している。はなはだ痛快である。天爛漫としている。(夢人注:このあたりは広田先生=漱石の皮肉だろう。もちろん、「天真爛漫」が本来の熟語)ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義(夢人注:これは現代で流行語の「他人軸」と考えたほうがいい。広田先生は、これを「偽善」とも言っている。)がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らしていくものと思えば差支えない。そうして行くうちに進歩する」
「英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって化石しかかっているーーー」

(以上引用)

「三四郎」が書かれたのは20世紀初頭で、正確には明治41年(西暦だと1908年か)のようだ。つまり、英国が帝国主義の覇者として世界を睥睨していた時代である。そのころに英国の衰退を予見していた漱石は慧眼どころか、予言者だろう。そして、日本が露悪家(「正直」な利己主義者)だらけになりつつあることも指摘している。現代の日本がまさに悪人天国であるのは言うまでもない。みな、「正直」な露悪家だ。これは「偽善」の衰退の結果とも言える。
まえから書いているが、「偽善」とは、天然自然の善性の顕れではなく、「人為的に行う善」であり、これこそが社会を良化するのである。少し前の流行語で言えば「やらぬ善よりやる偽善」である。さて、今や、テレビでホリエモンやひろゆきや漫才師たちなど「自分の本音を言う」と思われている連中(元犯罪者たち。あるいは蓋を取った肥桶)が、日本の言論を支配し、若い人々や子供たちに影響を与えている。
こうした状況では、広田先生でなくとも日本は「亡びるね」と思うのが当然だろう。

ちなみに、私は英国の衰退の原因は「植民地時代が終わった」という時代の趨勢と、英国が階級社会であることにある(階級社会は必然的に衰退する。日本も同様。インドの発展は単なる人口ボーナスである。)と思っているが、その考察はまたの機会にする。




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「組織悪」と「自分軸」

「大摩邇」所載の「マスコミに載らない海外記事」の一部で、ジョン・ミアシャイマーという、わりと最近高く評価されている軍事評論家(か?)の書いた文章らしいが、私は下の引用文の赤線を引いた部分に来て、それ以降を読む気を失った。
先に、その文章から載せる。

(以下引用)

 第一に、ジェノサイドは他の戦争犯罪や人道に対する罪とは区別されるが「そのような行為全ての間にはしばしば密接な関係がある」と強調している。(1)例えば、第二次世界大戦でイギリスとアメリカがドイツと日本の都市を爆撃した時に起きたように、戦争に勝つために民間人を標的にすることは戦争犯罪だがジェノサイドではない。イギリスとアメリカ合州国は、標的にされた国々の「かなりの部分」、あるいは全ての人々を絶滅しようとはしていなかった。選択的暴力に裏打ちされた民族浄化も戦争犯罪だが、ジェノサイドではないが、イスラエル生まれのホロコースト専門家オメル・バルトフが「あらゆる犯罪の中の犯罪」と呼ぶ行為だ。4

(以上引用)

いや、これは「ジェノサイド」と呼ばれる行為をあまりに狭く定義したものだろう。一般的理解では、「他民族への大量殺戮行為」をジェノサイドと認識していると思う。ヒトラーですら、ユダヤ人全員を絶滅させようとしたわけではない。自分にとって利用価値のあるユダヤ人は殺していない。そもそも、ユダヤ人の定義すら明確ではない。
広島や長崎への原爆投下や、日本の諸都市、あるいはドレスデンなどへの無差別爆撃がジェノサイドでなくて何なのか。つまり、最初から「膨大な民間人が死ぬことを当然の予測として行われた殺戮」はジェノサイドなのであり、そうでないなら、旧約聖書に書かれた古代ユダヤ人の他民族殺戮行為以外にジェノサイドは無い。何しろ、「女は処女だけ(戦後に繁殖牝馬的に利用するために)残し、男は全員殺す」のである。

話は変わるが、ミアシャイマーがこういう記述をしたのは「言葉の定義に正確であろうとした」のかもしれないが、その心底には英米人としての自己弁護の気持ちがあったのではないか。
これは、私が常々言っている「組織悪」の一種である。自分が属する組織(大きくは国家)を自分と同一視して考える心理である。その心理は、「自己愛」という人間の根本的心理に根があるだけに強力で、しかもほとんど無意識に発動される。
念のために言っておくが、私は自己愛を否定しているのではない。その無意識の発動の危険性を言っているのである。私も(自分が日本人だから当然だが)ほとんど無意識のうちに日本や日本人と自分を同一視しており、外国人が日本や日本人を褒めると、自分自身が褒められたように嬉しいし楽しいのである。(ただし、「日本政府=日本」でないのは当然だ。ネトウヨや工作員はそういう馬鹿思想を植え付けようとするが。)
最近はやりの「自分軸」という言葉も、実は自己愛の美名であるとも言える。これは要するに「自分中心」と同じことであり、「軸」と「中心」で何が違うのか。どちらも、自分が軸、あるいは中心になって他者が廻るのである。「自分中心」を「自己中心」と言っても同じだろうが、これを「ジコチュー」と言えばあっと言う間に悪口に変わるのであるwww 「お前ってほんとにジコチューだよな」と言われてあなたは嬉しいかwww 「あなたは自分軸がしっかりしていて素晴らしい」も内実は同じである。ついでに言えば、組織の下にいながら自分軸を持てる(心の中に持っているつもりでも、それを行動で示せる)人間などほとんどいないだろう。


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安楽死について

私は安楽死賛成派で、私に認知症の疑いが生じたら、すぐにでも殺してほしい(自分で自殺もできないほどボケることもあるだろう。)と思っているので、下の記事、つまり「安楽死反対派」の書いた文章は眉に唾をつけて読むというか、難解な文言は適当に流し読みしただけだが、一応読んだ後でも、やはり私の「安楽死肯定思想」に変わりはない。私は、苦労や苦痛が大嫌いなので、難病にでもなったら、治療より死を選びたい。つまり、安楽死は「福祉政策」と見るべきで、ただし、あくまで本人の意志によるべきだ、と私は思っている。
下の記事の事例のように、夫が安楽死を望んだのは夫に正常な認識能力が無かったからだ、という妻の申し立ては、おかしいと思う。そもそも正常な認識能力の有無の判断を誰ができるのか。医者ならできるが、妻には無理だ、というのもおかしいし、妻が正しいとも確証は不可能だろう。つまり、当人に正常な判断能力があるかどうかは問題がずれているのであり、あくまで「当人が望んだ」でいいのである。
幼児や子供については安楽死は不可とすればいい。つまり、彼らは自死の適切な判断ができるほどの人生経験を積んでいないからだ。私自身に関して言えば、私は自分が二十歳すぎるまで生きるとは思っていなかった。死ぬ勇気が無いから生きてきただけだ。で、生きてきて、まあまあ良かったな、と思っている。何しろ、自殺という「人生の解決法」は、一回きりしかできないという難点があるのであるから、できるだけ先延ばしをすることを、若い人にはお勧めする。冗談だが、20歳以下は「自殺禁止」と法律で定めればいい。それに違反したら死刑にするわけだww
頭の中の生活こそが真の生活だという私の思想にしても、肉体が死ねば自動的に頭脳生活も終わりである。つまり、安楽死を肯定する以上、私は自殺も肯定するが、肯定するだけで、お勧めはまったくしない。
若いころの苦労も苦痛も失敗も、時がたてばぼんやりとした記憶になるだけだ。世の中には悪の限りを尽くしながら、老衰して死ぬまで生きた悪党もゴマンといる。自殺(若死に)願望のある人間は気が弱いだけだろう。

ただし、カナダという国、あるいはその政府はNWOの尖兵的な印象もあるので、カナダの安楽死肯定(推進)政策は、世界人口削減政策の一環である可能性は高い。その点ではカナダ政府の政策を完全肯定するのはマズいだろうとは思う。

(以下引用)

安楽死が合法の国で起こっていること…「生活保護」より「安楽死」の申請のほうが簡単というカナダの事情

ライブドアニュースより
https://news.livedoor.com/article/detail/25696759/
<転載開始>
安楽死が合法化されるとどんなことが起きるのか。著述家の児玉真美さんは「カナダでは合法化からわずか5年で安楽死者数が4万人を超えた。経済的に困窮した障害者が死を選ぶケースも起き、問題になっている」という――。

※本稿は、児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。





写真=iStock.com/sittithat tangwitthayaphum
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sittithat tangwitthayaphum




■後発国でありながら「安楽死先進国」になったカナダ

カナダは安楽死の合法化では2016年と後発国でありながら、次々にラディカルな方向に舵を切り続け、今ではベルギー、オランダを抜き去る勢い。ぶっちぎりの「先進国」となっている。

カナダではケベック州が先行して2015年に合法化したが、その際に法律の文言として積極的安楽死と医師幇助自殺の両方をひとくくりにMAID(Medical Assistance in Dying)と称し、翌年の合法化でカナダ連邦政府もそれを踏襲した。Medical Assistance in Dyingを平たい日本語にすると「死にゆく際の医療的介助」。しかし、これでは積極的安楽死から緩和ケアまでがひと繫がりのものとして括られてしまう。


安楽死を推進する立場はそれまでにもAID(Assistance in Dying)、VAD(Voluntary Assisted Dying)、PAD(Physician-Assisted Dying)などの文言を用いることによって、暗に「安楽死は死ぬ時に医療の助けを得ることであり、緩和ケアと変わらない」というメッセージを発信してきたが、カナダは国としてその立場を明瞭に打ち出して安楽死を合法化したといってよいのではないだろうか。


■医師だけでなく上級看護師も安楽死を実施できる

もうひとつ、カナダの合法化がそれ以前に合法化した国や地域よりもラディカルに踏み出した点として、医師だけでなくナース・プラクティショナー(上級看護師)にも安楽死の実施を認めたこと、「耐え難い苦痛」の要件の箇所に「患者本人が許容できると考える条件下では軽減することができない」と付記されていることのふたつを挙げておきたい。後者では、通常の標準治療や緩和ケアで軽減できる苦痛であったとしても、本人がそれらの治療を「許容できない」なら法律の要件を満たすことになる。


これら2点については、その後オーストラリアの各州とニュージーランドが合法化した際にも同じ要件が法文に盛り込まれた(ヴィクトリア州だけは実施者を医師に限定)。この点を含め、カナダの合法化は世界の安楽死の動向をめぐる大きな転換点となったのではないかと私は考えている。

■合法化からわずか5年で対象範囲が拡がった

またカナダでは、合法化当時は終末期の人に限定されていた対象者が合法化からわずか5年で非終末期の人へと拡がった。2021年3月の法改正で新たに対象となったのは、不治の重い病気または障害が進行して、本人が許容できる条件下では軽減することができない耐え難い苦しみがある人だが、2024年には精神障害や精神的な苦痛のみを理由にした安楽死も容認される方向だ。


カナダの安楽死者は2021年の対象者拡大から増加し、保健省のデータによると2021年は2020年から32.4%の急増となった。2021年、2022年にそれぞれ1万人超。2016年の合法化からのMAIDによる死者数は4万人を超え、2021年段階でカナダ全体の死者数の3.3%。


どの州でも毎年増加しているが、もともとカナダの一連の動きを強力に牽引してきたケベック州では安楽死者が総死者数に占める割合は5.1%(7%というデータもある)に及ぶ。オランダの直近の割合と並ぶだけでなく、オランダとベルギーでは二十数年間での漸増であるのに対して、ケベックでは2015年から、カナダ全体でも2016年から短期間での急増と言うことができる。

■さらにラディカルな法改正への動きが続く

現在もケベック州内科医学会から障害のある新生児への安楽死を是認しようとの提案が出たり、認知症など意思表示が困難となることが予測される人には事前指示書でMAIDを可能とする法案が州議会に提出されたり(現行法では実施時に意思確認が必要)と、さらにラディカルな法改正への動きが続いている。


この法案が2023年2月に提出された際に同州の高齢者問題大臣が語った言葉が非常に印象的だった。「MAIDは終末期ケアであり、この「ケア」という言葉を私は強調します。MAIDは人々が最後の瞬間までを自分が望むように生きることを可能とするケアなのです」。ここにカナダのMAIDの特異性が如実に顕れている。


オランダやベルギーの安楽死は合法化された当初、もうどうしても救命することができない終末期の人に緩和を尽くしてもなお耐えがたい痛み苦しみがある場合の、最後の例外的な救済手段と捉えられていた。合法化には、すでに公然の秘密として行われていた安楽死に規制をかけ、医師の行為の違法性が阻却される条件を明確にする狙いもあった。その意味では、安楽死は「合法化された」というよりも「非犯罪化された」という方が厳密には正しい。

■「合法的な医療サービスであり、利用するのは個人の権利」

その後の時間経過の中で少しずつ対象者が拡大し、さまざまに安楽死の捉え方が変わってきているのは事実だが、カナダでは最初から安楽死が緩和ケアの一端に位置づけられて、例外的な措置というよりも日常的な終末期医療のひとつの選択肢として合法化されたことになるのではないか。それは、カナダでは法制化の意味合いそのものまでが、例外的に際どい行為をする医師の免責(違法性の阻却)から、患者の権利としての安楽死の容認へと飛躍してしまったことを意味してはいないだろうか。


ケベック州の高齢者問題大臣の発言にもそれはうかがわれるが、2020年にも同州の小さな訴訟で印象的な判決が出ている。夫が申請し認められた安楽死を止めようと妻が起こした訴訟で、妻の敗訴を言い渡した判決は「安楽死は、最高裁が合憲と認めて立法府がそれをルール化したものである以上、合法的な医療サービスであり、それを利用するのは個人の権利である」と書いた。「医療サービス」「個人の権利」という言葉が意味深い。


こうしたカナダの先鋭性を「カナダ固有のMAIDイデオロギー」だと指摘するのは米国国立衛生研究所の生命倫理学者スコット・キムだ。キムは2023年2月にカナダの新聞「グローブ・アンド・メール」に寄稿し、「MAIDイデオロギー」の特徴は安楽死を当たり前の(ノーマルな)治療とする捉え方と医師が積極的に推進する姿勢のふたつが融合していることだと書いている。

■合法化されれば医師の裁量にゆだねられるようになる

実は先の2020年のケベック州の判決では、もうひとつ重大なことが言われている。夫の安楽死が認められるべきでない理由として、妻が主張したのは「夫は終末期ではない(この段階では対象がまだ終末期の人に限定されていた)」、それから「認知症気味なので、その混乱の中で決断したことにすぎない」の2点だった。


そこで争点は、(1)男性の症状が法律の要件を満たしているか、(2)男性に意思決定能力があるか。最終的に、判決はいずれについても「裁判所には判断する権限はない」とした。症状についても意思決定能力についても、そのアセスメントは法律によって医師の専門性にゆだねられている、という理路だった。


医師の判断や対応に疑問を抱いた家族が訴える訴訟が最近増えているし、実際にかなり粗雑なことが行われていたりもするが、いったん合法化された国々の安楽死の法的規制では、このように専門性という名のもとに多くが医師の裁量にゆだねられてしまう。


そもそも事後的に報告を義務づけている法律の規定も、医師に自己申告を求めているにすぎない。それだけの裁量権を与えられた医師たちがカナダではキムが言うようにMAIDを「推進する姿勢」を持っているのだとしたら、それはたいそう気がかりなことではないだろうか。

■居住支援を受けられず安楽死を選んだ女性

カナダでは近年、医療や福祉を十分に受けられない人たちの安楽死の申請が医師らによって承認される事例が次々に報道されて、問題となっている。実際にMAIDで死んだ人がいる。報道から3つの事例を紹介したい。


1例目はソフィアという仮名で報じられた51歳の女性。化学物質過敏症(MCS)を患い、救世軍が運営するアパートに住んでいたが、コロナ禍で誰もが家にこもり始めると、換気口から入ってくるタバコやマリファナなどの煙が増え、症状が急速に悪化。


カナダには障害のある人に安全で、家賃が手ごろな住まいを助成する福祉制度があるため、友人や支援者、医師らの力も借りて2年間も担当部局に訴え続けたが、かなわなかった。安楽死の要件が緩和されたため自分も対象になると考えて申請したところ、認められて22年2月にMAIDで死去。支援者が寄付を集めていたが、間に合わなかった。友人への最後のメールに書かれていたのは「解決策は見つかりました。もうこれ以上闘うエネルギーはありません」。


ソフィアの安全な住まい探しを支援してきた、ケベック環境医学会の会長であるロヒニ・パリスはメディアの取材に「この人は、助けてほしいと2年間ずっと乞い続けました。あらゆる先に手紙を書き、あらゆる先に電話をかけて、健康的な住まいを求めました。ソフィアは生きたくなかったわけではありません。あのままでは生きられなかったのです」。

■福祉サービスを受けるよりも簡単な申請手続き

同じ病気で同様に困窮してMAIDを申請しながら、友人が集めた寄付が間に合って命拾いした女性もいる。トロント在住の31歳のデニス(仮名)は、難病のほか6年前からは脊髄を傷めて車いす生活となっている。収入は州の障害者手当のみで月に1200ドル程度。ただでさえ貧困ラインを割っているうえにカナダでは住宅不足で家賃が上がった。7年前から助成金の出る住まいを申請し、本人はもちろん支援者と主治医も奔走したが、実質的な対応はされないままだった。


写真=iStock.com/PuiStocker65
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PuiStocker65

それに比べると、安楽死の申請手続きは驚くほど簡単だったという。幸い、承認を待っている間に支援者のインターネット募金が成功し、一時的にホテルに移ることができた。募金を始めた支援者は「もし住まいの問題と弱者であることがMAIDを求める理由に含まれているとしたら、我々はそこに非常に深刻な倫理問題を抱えています。それなのに政府は、人々に自分自身を方程式から取り除く力を与えている。これでは医療的臨死介助(Medical Assistance in Dying)ではなく政治的臨死介助(Political Assistance in Dying)です」(太字は筆者)と憤った。

■「経済的制約に適した治療の選択肢は他に存在しない」

3例目は、ブリティッシュ・コロンビア州在住の30代後半の女性、カット(仮名)。難病のため痛みがひどく、ここ数年は麻薬性鎮痛剤オピオイドを使用している。カナダには専門医が少なく、根治治療を受けるには海外へ行くしかない。生きたいと望んでいるが、前年MAIDを申請し承認されている。


カットに関する報道で私が気になったのは、彼女の安楽死を承認した保険会社の書類にある「患者のカルテは長く、患者のニーズと経済的制約に適した治療の選択肢も介入も他には存在しない」というくだりだ。「本人が許容できると考える条件下では軽減できない」耐え難い痛み苦しみがあることというMAIDの要件に「苦しみを軽減する手段が経済的に許容できない」ことまで含意されていくと、合法化の際にどれだけの人が予測できただろうか(太字は筆者)。

■「非常に安直な問題解決を提供している」と医師から批判も

ソフィアの事例を報道で知り、連名で連邦政府の障害のある人の住まいを担当する部署に書簡を送った4人の医師たちがいた。ソフィアの症状は空気のきれいな環境に移ることで軽減されたはずだと述べて「われわれは医師として、この状況にMAID以外の解決策が提案されなかったことを受け入れがたいと考えます」と書いた。


児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書)

デニスの治療に当たっている医師のリイナ・ブレイもメディアの取材に「社会はこうした患者を裏切っています。MAIDが提供している、この非常に安直な問題解決をストップし、これらの人々に必要なのは支援だと社会が認識し始めることを望みます」とコメントした。


彼らのように、難病や障害ゆえに生きづらさを抱える患者のそばに寄り添い、適切な支援を求めて八方手を尽くし奔走する医師たちがいる。支援があれば生きられる人に安楽死の要請が認められたことを憤る医師たちだ。その一方に、こうした患者たちからの安楽死の要請を専門性の名のもとに簡単に承認してしまう医師たちもいる。


2019年4月にカナダを公式訪問して聞き取り調査等を行った国連の障害者の人権に関する特別報告者は、「施設や病院にいる障害者にMAIDへの圧力がかかっている、また医師らが障害者の安楽死を公式に報告していないとの気がかりな報告が届いている」と報告書に書いた。


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児玉 真美(こだま・まみ)
著述家、一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事
1956年生まれ。京都大学文学部卒。カンザス大学教育学部でマスター取得。英語教員を経て著述家。近著に『増補新版 コロナ禍で障害のある子をもつ親たちが体験していること』(編著/生活書院)、『私たちはふつうに老いることができない 高齢化する障害者家族』(大月書店)ほか多数。
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(著述家、一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事 児玉 真美)

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「ツキジデスの罠」?

私の別ブログに書いた記事だが、わりと重要な指摘をしているかと思うので、ここにも載せる。

(以下自己引用)

「ツキジデスの罠」という言葉の罠



これは米中間の緊張関係を高めるために意図的に広められた言葉だろう。そもそも、アテネとスパルタのどちらが「罠」にかかったというのか。これは、言葉と実質が乖離している。単に「ふたつの国家が戦争になる可能性が高い」というだけの内容である。どこにも「罠」は無い。あるとしたら、この両国を戦わせたいという連中(あるいは両国の緊張で金儲けができる連中)が、この言葉を使うことで、「この両国がいつ戦争になってもおかしくない」という空気を作り出すことである。

ちょっとしたお笑い。
「ツキジデスさん、東京ではどこを見物したいですか」
ツ「築地です」

(以下引用)


トゥキュディデスの罠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トゥキュディデスの罠(トゥキュディデスのわな、Thucydides Trap)とは、古代アテナイ歴史家トゥキュディデスにちなむ言葉で、従来の覇権国家と台頭する新興国家が、戦争が不可避な状態にまで衝突する現象を指す。アメリカ合衆国政治学者グレアム・アリソンが作った造語[1]


この概念は、紀元前431年にアテネとスパルタの間でペロポネソス戦争が勃発したのは、スパルタがアテネの勢力拡大を恐れていたからであるという、古代アテネの歴史家であり軍事将軍であったトゥキュディデスの示唆に由来する。


しかし、この研究はかなりの批判を浴びており、トゥキュディデスの罠の概念の価値、特に米国と中国の間の潜在的な軍事衝突に関連するものについての学者の意見は分かれたままである。

概要[編集]

紀元前5世紀のスパルタとアテナイによる構造的な緊張関係に言及したと伝えられる(英文訳:“It was the rise of Athens, and the fear that this inspired in Sparta, that made war inevitable.” 和訳:「戦争を不可避なものにした原因は、アテネの台頭と、それが引き起こしたスパルタの恐怖心にあった。」)[2]


古代ギリシャ当時、海上交易をおさえる経済大国としてアテナイが台頭し、陸上における軍事的覇権を事実上握るスパルタとの間で対立が生じ、長年にわたる戦争(ペロポネソス戦争)が勃発した。


転じて、急速に台頭する大国が既成の支配的な大国とライバル関係に発展する際、それぞれの立場を巡って摩擦が起こり、お互いに望まない直接的な抗争に及ぶ様子を表現した言葉である。現在では、国際社会のトップにいる国はその地位を守るため現状維持を望み、台頭する国はトップにいる国に潰されることを懸念し、既存の国際ルールを自分に都合が良いように変えようとするパワー・ゲームの中で、軍事的な争いに発展しがちな現象を指す[3]

影響[編集]

この用語とそれにまつわる議論は、国際メディア(中国国営メディアを含む)やアメリカや中国の政治家の間で影響力を持った。国防大学の軍事研究部門である国家戦略研究所が発表したアラン・グリーリー・ミゼンハイマーによるこの用語の事例研究では、「国際関係の辞書に入って以来、世界的な注目を集めている」と述べられている。 外交政策学者のハル・ブランズとマイケル・ベックリーは、トゥキュディデスの罠は「正典となった」と述べ、「今や米中対立を説明する際に、何度も何度も繰り返される定説」と述べている。さらに、BBCの外交特派員ジョナサン・マーカスは、トゥキュディデスの罠を拡大解釈したグラハム・アリソンの著書『Destined For War』は、「多くの政策立案者、学者、ジャーナリストの必読書となった」と評している。

米中貿易戦争[編集]

この言葉は主に、米国中華人民共和国の軍事衝突の可能性に関連して使われた造語である。中国の指導者であり中国共産党の総書記である習近平はこの言葉に言及し、「トゥキディデスの罠を避けるために、われわれ全員が協力する必要がある」と警告した。「ドナルド・トランプ米大統領が中国の対米輸出のほぼ半分に関税を課し、貿易戦争に発展した後、米中間の緊張が高まった結果、この言葉は2018年にさらに影響力を増した。


欧米の学者たちは、西側諸国が支持する台湾の事実上の独立の継続、中国のデジタル・ポリスとサイバー・スパイ活動の利用、北朝鮮に対する政策の違い、太平洋における中国の海軍存在感向上と南シナ海での主張、新疆ウイグル自治区チベット香港における人権問題など、2つの大国がトゥキディデスの罠に陥る可能性を高める、両国が対立する差し迫った問題が数多くあると指摘している。 また、習近平による権力強化、和解しがたい価値観の相違、貿易赤字を、両国がトゥキディデスの罠にはまりつつあるさらなる証拠として指摘する向きもある。


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