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ユダヤ教とキリスト教と神道と仏教

「東海アマブログ」記事で、ユダヤによるキリスト教乗っ取り説は私がずっと言い続けていることである。つまり、これに関しては同じ意見だ。
末尾の、「日本神道ユダヤ教起源説」という妄想論が、せっかくの好論説を台無しにしているので、省略した。内容において、日本神道は「戒律」がほぼゼロの珍しい「宗教(?)」であり、厳格な戒律主義のユダヤ教との類似性はゼロである。と言っても、私はべつに神道支持者ではない。他の「宗教」に比べればかなりマシという程度だ。
宗教としては「本当(本来)のキリスト教」つまり、新約聖書から読み取れるキリスト教が優れているとは思うが、これは「創造神」という基盤が「悪の存在」と矛盾するという大きな欠陥があり、信じる対象にはできない。だが、キリストの教えの道徳性は優れている。
なお、私は「本来の仏教」は哲学であって宗教ではない、という考えであり、その「哲学」は世界最高の哲学だと思っている。それは「空」という概念を自分で咀嚼し、納得すればいいだけだ。

追記する。神が人間を創造した時に「自由意志」を与えたので、「悪は神ではなく人間が作った」と考えることもできる。とすると、「人間そのものが悪の発生源である」ことになり、それを「人間の原罪」とすることも可能だろう。とすると、普通の人間は「何が神にとっての悪か」も分からないので、「天国に行く」には宗教指導者が勝手に作った怪しげな教えに従うしかないわけで、これは人間支配のもっとも強力な手段になる。つまり、「奴隷化する手段」である。それがユダヤ教、偽キリスト教(主にカトリック)、イスラム教が西洋や中東社会にはびこり、社会を支配した理由である
アジアは「仏教」という解毒剤があったために救われたのだろう。


(以下引用)





 キリストの登場には巨大な意味がある。
 現在、キリストを教義に利用するため、たくさんのキリスト教を自称する宗教団体が勝手な解釈をして、新約聖書でさえ本質的に歪曲した解釈を押しつけているが、それは旧約聖書を信奉する勢力が、キリストの本当の言葉が、自分たちを全否定するものだからだ。

 たとえば、エジプトで、一番新しく発見されたトマス福音書は、死海文書と同じ内容で、そもそも「薪を割ってもそこにいる。石をどけてもそこにいる。石造りの建物に私はいない」
 と書かれていたものを、教会キリスト教の全否定と捉えた全世界のキリスト教が、「石造りの建物に私はいない」を世界中の記述から消してしまって、おまけに「偽書」と決めつけて排除した。

 新約聖書は、勝手な改竄の上に改竄が積み重ねられている。死海文書も、ファティマ第三預言も、既存キリスト教の権威を揺るがすものだから、決して公開されることはない。
 イエスは、本当はキリスト教会どころか、「キリスト教」はいらないと示しているのだ。
 モーゼ2戒「偶像崇拝の禁止」は、教会も、その組織も、キリスト像も含むのであって、権威化したキリスト教会のシステム全体を無意味なものと定めている。

 ユダヤ人=ユダヤ教徒は、新約聖書が世界に拡散されると、「キリストを殺した人々」と罵られるようになり、キリスト教徒から「ボグロム」という集団虐殺を受けるようになった。(イエスがユダヤ教戒律主義者のパリサイ人と激しく衝突し、パリサイ人の陰謀によって張りつけ処刑された)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%A0

 ボクロムからユダヤ教徒を守るためにどうしたらいいのか? と考えたユダヤ人たちは、キリスト教の指導部に入り込んで、キリスト教そのものを改竄してしまえばよいと考えた。指導部に入り込んでキリスト教を偶像化(虚構化)させてしまうことで、その意味を失わせようとした。

 カトリックの司祭の8割がユダヤ人だという(宇野正美)。これは、カトリックをユダヤ教徒が乗っ取る目的で入り込んでいるものだ。
 プロテスタントも同じで、アメリカの近代福音派の指導者の大半がユダヤ人だという。これも、福音派の教義にシオニズムを紛れ込ませて、新約聖書ではなく旧約聖書を重用させる教義に変えてしまう目的があった。

 これによって、イエスが存命中、シオニズムなど一度も口にしたことがないのに、なぜかキリスト教プロテスタントは、「クリスチャンシオニズム」と呼ばれるほど、強烈にシオニズムを信奉するようになり、パレスチナ先住民の本当のユダヤ人末裔であるカナン人たちを殺戮し、追放しているイスラエルを全面的にバックアップしている。

 つまり、プロテスタント福音派のシオニストたちの正体は、キリスト者ではなくユダヤ教徒なのだ。
 彼らは、キリスト教、新約聖書を捨てて、旧約聖書を絶対視するようになった。そして、旧約聖書の核心部分は、トーラー五書であり、それはイエスが徹底的に拒絶した戒律殺人の連続なのだ。

 レビ記20章の戒律による処刑指示の連続を見て、吐き気を催さない者がいるのだろうか?
 https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/ot/lev/20?lang=jpn

 「神は、どれだけ殺したら腹いっぱいになるのか?」
 と嘆いた人がいるが、まさに、このような処刑の洪水は、悪魔の所業というしかなく、旧約聖書の神=ヤハウェとは、ルシファー(サタン)であると考える人も多い。

 この悪魔の旧約聖書の戒律が、パリサイ人などの戒律派(律法派)と呼ばれる人々によって、ユダヤ人の心を拘束し、いたるところで投石処刑が行われる残酷な社会にイエス・キリストが登場した。

 イエスは、旧約聖書の戒律を真正面から否定した。
 ヨハネ福音書に示された「罪なき者は石撃て」こそ、戒律否定の神髄である。
 https://muchacafe.hateblo.jp/entry/2017/07/10/000807

 旧約聖書は、出エジプト記10のなかで、モーゼの言葉として「汝殺すなかれ」と強く戒めながら、レビ記では「殺せ殺せ」の連続であり、イエスの時代、律法主義を掲げていたパリサイ派が、戒律殺人を奨励し、女性が夫以外の男に誘惑されただけで石で殴り殺していた。

 だが、イエスは「人を裁くな」と言った。
  https://yokohamashiloh.or.jp/mt-fj-07-01/
 これも、旧約聖書とユダヤ教の戒律処刑を全否定するものだった。

 イエスは、ユダヤ人に戒律殺人をやめさせるために登場したのだ。
 それなのに、今、自称ユダヤ人たちがパレスチナを「自分たちの領土」と決めつけ、ユダヤ人にはシオンの地(約束の地)に帰還する義務があるとして、先住民を片っ端から虐殺して、イスラエル国を肥大させている。

 これを全面支持しているのが、アメリカ福音派であり、共和党である。
 よって、パレスチナでの自称ユダヤ人による大虐殺をやめさせるために、彼らのバックボーンであるアメリカ福音派を批判し、排除しなければならないことになる。

 そもそも、パレスチナを侵略したユダヤ人たちがニセモノであることを何度も書いた。
 彼らは、ハザール国由来の自称ユダヤ人(アシュケナジム)であって、旧約聖書の「約束の地」に、ヤハウェによって示された民族は、誰一人含まれていない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%84%E6%9D%9F%E3%81%AE%E5%9C%B0

 自称ユダヤ人たちが、殺戮し、排除しているパレスチナ先住民のカナン人こそ、ホンモノのユダヤ人であり、ヤハウェがその地に繁栄を約束した人々である。
 それなのに、戦後、欧州ホロコーストの恐怖に追い立てられたユダヤ人たちが、勝手にイスラエルにやってきて、「自分たちは2000年前から、ここに住むことを約束されている」として、先住民を追い出し始めた。
 リクード党、ネタニヤフに至っては、1980年代のウクライナ極右勢力だった。

 たぶん彼らは自分たちがニセモノであることを知り、焦りから強引な手法で自分たちこそユダヤ人であることを世界にアピールしたいのだと思う。
 だが、もう取り返しがつかない。イスラエルが崩壊滅亡を免れる要素など一つもない。あと数年で、イスラエルという国家は残酷な形でこの世から消えると、私は確信している。

 ガザ大虐殺を全面支持しているアメリカ福音派は、実は、第二次世界大戦では日本への原爆投下を支持した。さらに、ベトナム戦争の北爆への支持も表明した。
 アメリカが死刑廃止に向かうなか、頑なに死刑制度を維持し、復活させようとしている州は、すべて福音派が権力を得ている州であり、現在のトランプ政権も、福音派を支持母体としている。
 https://www.tais.ac.jp/faculty/graduate_school/major_incomparative_culture/blog/20130601/24682/

 もっとひどいのは、女性の権利を抑圧し、旧約聖書の戒律社会に戻そうとしているのも福音派であり、トランプ政権である。
 福音派は、キリストの言葉を否定し、戒律主義を復活させようとしている。
 アメリカは、現在、世界的な死刑国家に向かっているが、その主役は旧約聖書の戒律を掲げた福音派である。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6057169.html

 キリストは、「殺すなかれ」と言った。だが福音派(モルモン教やエホバも同じ)は、「殺さねばならない」と、寛容の心を排除し、人々の意識を変えようとしている。
 人間の心を刑罰と処刑の恐怖で支配しようとしているわけだ。
 それは、世界の軍需産業の大半をユダヤ人が経営し、ユダヤ人たちは戦争の人殺しでボロ儲けすることを目的にしているからだろうと私は思う。
 戦争殺人を正当化するために、人殺しを正当化する戒律社会が必要なのだ。

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愛と恋と兼愛(博愛)

昨日のブログに引用した文章の一節を再掲載する。ここを起点に「愛とは何でしょう?」という問題(まあ、古いジャズソングの題名だが)を考察してみようというわけだ。

一番の問題は、英語では、幾種類もの愛(そう、愛には種類があるのである。)をloveの一語でまとめてしまう癖があることだ。そこで、次の一文は日本人には謎になる。

私を戦争へと押しやったのも、ほかならぬこの愛を渇望する心だったのだ。

そうか、私が敵兵や敵国民を見つけしだい射殺するのは、「愛のため」だったのだ。というわけだ。……当然、そうではなくて、彼を戦争へ押しやったのは、自分の家族や友人や国家や郷土への愛着心であり、それは我執の一部なのである。だが、それも愛、これも愛、きっと愛~♪、なのである。

ここで、恋について考えてみる。先ほどの「愛とは何でしょう」は、あるいは「恋とは何でしょう」と訳されていたかもしれない。当然、原題はWhat is love?だと推定できる。つまり、英語では愛と恋に区別は無いと思う。それを区別している日本人は猿なのか? それとも高度文明なのか?

では、愛と恋の違いは何か。私は家族を愛するが、家族を恋するとは言わない。つまり、恋とはその絶対条件として性的結合を目的とするのであり、それが無い希少な恋愛をプラトニックラブなどと言ったりするが、実はプラトン時代の男色がその起源らしい。ただ、プラトンの作品では、それは「友愛」や「師弟愛」として描かれているようだ。つまり、セックス描写は無い、と思う。西洋人には性的要素の無い恋愛は想像できないから、「あいつらは男色家だったに違いない」と邪推した可能性もありそうだ。
こうして、「恋愛=性愛」というのが基本思想になった結果、片思いをして自殺する、などという「若きウェルテルの悩み」などが、珍しい現象を描いたということで当時のベストセラーになったりしたのではないか。

さて、今度は、片思いや家族愛より、より抽象的な博愛について考えてみる。これは春秋戦国時代の墨子の「兼愛」思想にも見られる古い思想だが、東洋の人間には心の奥底に流れている思想だと思われる。
だが、闘争こそが社会のアルファでありオメガである西洋社会には、こうした博愛思想というのはキリスト教の中にわずかに見られるだけである。後は、ドストエフスキーやトルストイの作品の中に見られる程度か。
それ以外は「あいつは敵だ。敵は殺せ」が西洋の基本思想だと思われ、そして誰が敵なのかは、上の人間が勝手に決めるのである。要するに、博愛思想などがあったら困るのである。敵を殺すこともできないし、敵から財産を奪うこともできないし、敵だから騙す、ということもできない。言い換えれば博愛思想は上級国民の最大の敵であるわけだ。

おそらく、「兼愛非攻」の墨子の平和主義は西洋では翻訳されていないか、黙殺され続けているだろう。それは「資本主義」と「帝国主義」の最大の思想的敵なのである。




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「あなた」が徴兵を忌避できない理由

私を戦争へと押しやったのも、ほかならぬこの愛を渇望する心だったのだ。その戦争を私は間違ったものであり、おそらくは邪悪なものであると考えていたのに。大学では徹夜の平和集会に幾度も参加した。ジーン・マッカーシーの家を訪れ、学校の新聞に熱情的な論説を書いた。しかし卒業をして徴兵カードを受け取ったとき、あっという間もなく、昔ながらの悪魔が私の中で動き始めた。私はカナダに逃げることを考えた。刑務所に入ることも考えた。しかし結局のところ、私は自分がはじき出されるだろうという予測に耐えられなかった。私の家族から、私の友人たちから、私の祖国から、私の生まれ育った町から愛を失うかもしれない怯えのせいで、私は良心と正しさを犠牲にすることになった。
 このようなことは前にも書いた。でももう一度書かなくてはならない。私は卑怯ものだった。そしてヴェトナムに行った。

  (ティム・オブライエン「私の中のヴェトナム」村上春樹訳)








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「近代の超克」と「西洋の超克」

「近代の超克」座談会で出席者たちがのぼせ上ってキチガイじみたたわごとを言っているという批評自体はおそらく事実を指摘したものだろう。(私自身はこの座談会の筆記録を読んでいないが、軍国主義時代の国威高揚気分の最中の座談会だから当然そうなると推定できる。)
しかし、では、彼らが論じた「近代の超克」あるいは「西洋の超克」の基本思想は間違いか、と言うとそうとも言えないのではないか。すべてを国粋主義や軍国主義に結び付けるほうが間違いなのではないか、というのが私の疑問である。
というのは、下の記事に書かれた「三つの要点」に私はすべて賛同するからである。
で、私は反軍国主義であり、絶対平和主義であり、そして国粋主義者でも何でもない。むしろコスモポリタン(世界市民)思想家だということは何度も書いている。
要は、はたして「西洋の超克」は悪なのか、間違いなのか、ということである。今の世界を見て、「西洋の超克」を否定するのは西洋人とその隷従者だけではないか?

(追記)おそらく、西洋人は自然を克服すべき敵と考え、日本人は人間は自然の一部であり、自然を母なる存在、あるいは畏怖し尊重し愛するべき存在だと考えているところに両者の文明の本質的な違いがあり、西洋近代は合理主義によって世界の自然や無数の「生命ある存在(異人種や異民族含む)」を軽視し、収奪し、蹂躙して、それを「合理主義」としてきたのではないか。再度言うが、理論(合理主義)とはデジタル的思考であり、そこから抜け落ちる無数の存在を無視して成立するのである。そこに近代が超克されるべき理由があり、このままでは人類は自然に復讐されるだろう。それは宮崎駿が「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」で舌足らずに描いたテーマだ。

(追記2)参考までに「西洋的合理主義思考」の陥穽を小林秀雄の「対話集」から引用する。これは、「最初から結論ありき」の思考であり、西洋人が議論(ディベート)に強い所以である。苫米地英人も、「先に結論を決め、その「論拠」を三つ考えてから議論しろ」という趣旨のことを書いている。そして、それは「考えること」とは別の「思考操作」でしかない。だから相手の話を上の空で聞きながらでも議論できるわけで、真摯に考えるなら、思考の結果として答えが出たり出なかったりするはずだ。つまり、議論に負けることがある。それが当然であり、それこそが「建設的な議論」なのである。むしろ誠実な方が議論に負けたりするから、判定者は見かけの勝敗に誤魔化されないようにするべきだろう。

田中(美智太郎)「数学的に考える場合は、シンボルで考える。しかし数学者なんかでも案外ものを考えてないのじゃないですか」
小林「数字にたよってね」
田中「ホワイトヘッド(注:数学者で哲学者)がそういうことを言っていました。数学は思考の練習になるというが、そんなことは嘘だ。ただシンボルを操作しているだけで実際は考えていないことが多い……。」
小林「そういうことはたしかにあるね。”数学者が実はものを考えていないのだ”というような言葉は、なかなかわかりにくいのじゃないかな。つまり合理的に考えようとすることは、極端にいえば数式に引っ張られている状態になるわけで、ほんとうの考えというものは、合理的にいくものではないんじゃないか、というようなことを私はよく考えますね。」

(以下再引用)赤字と太字は酔生夢人による強調。「デモクラシーの超克」は「デモクラシーの欺瞞性の超克」と言い換えるべきだろう。現在、デモクラシーが機能している国は無い。

そこで廣松は、視点をこの座談会を超えて、もっと広いところに向ける。この座談会とほぼ並行する形で、京都学派のメンバーによる座談会が中央公論誌上で展開されたが、それに目を向ける一方、京都学派の個々の論客の思想の変移をたどり直しながら、京都学派に共通する反近代・反西洋の要素を剔抉しようとするのである。

それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。その合理化はけっして外在的な理由にもとづいたものではなく、京都学派に内在する論理の必然的な展開であった、と位置付けるわけである。

このように、この本の中で廣松が主に行っているのは、京都学派の思想の特異性である。しかし何故廣松は、彼らの思想を改めて問題にしたのだろうか。廣松がこの論文を雑誌に連載したのは1974~75年のことである。その時点で京都学派とそれが代表する反近代の思想を改めて問題化する必要があったほど、世相に逼迫する理由があったのだろうか。

柄谷行人は、60年代に「近代批判」運動が盛り上がったことを引き合いに出しながら、そこでの論脈が戦前の「近代の超克」のなかで論じられていたことをすこしも超えていないと感じた廣松が、戦前に溯って近代批判を検証しなければならないと感じたのではないかと推測しているが(講談社学術文庫版解説)、あるいはそうかもしれない。

ヨーロッパにおいては、近代批判という現象の波が歴史の節目節目で現れている。ロマン主義の運動や、ニーチェの近代批判などはその典型である。西洋人が近代を否定する場合には、自分自身が生み出した文化が否定の対象になるわけだから、それは内在的な否定の形をとる。ところが非ヨーロッパである日本において近代批判が問題となるときには、その近代とは西洋とほぼ同義であると考えられるケースが多い。そのように考える人々にとっては、近代の超克即西洋の超克とならざるを得ない側面がある。しかし、20世紀の時代にあって、その西洋文明を否定してどのような文明を立てようというのか。単に日本人としての先祖返りでは、我々は痴愚蒙昧の世界に逆戻りするということになりかねない。そんな風に廣松は思っていたに違いない。そこで世の中で近代批判の声が高くなってくるたびに、その批判の内実を批判的に検証する必要を感じる、というのが廣松の本音だったのではないか。そんなふうに受け取れる。

柄谷行人がいうとおり、この本は廣松が日本の哲学および批評について書いた唯一の本である。その唯一の本で廣松がとりあげたものが、日本の思想における近代批判の流れであったわけだ。そういう点でこの本は、80年代以降に更なるアクチュアリティを持つようになったとの柄谷の指摘は正しい。80年代以降になると、日本にもポスト・モダニズムの思想が輸入されて、日本の思想業界においても近代批判が声高く叫ばれるようになるが、そのような時代においてこそ、近代批判の視座を問題とするこの本は大きな意味を持つようになるのだと思うからである。

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恋愛と結婚とセックス

私が問題にしたいのは、引用した部分の末尾にある

そして、理由はよくわからないですが、「婚姻数」が、昨年同月比で 17%も減っています。

ということで、ワクチン関係の話はもううんざりなので、ワクチン信者(まあ、狂信者である。)はどんどん死んだほうが世のため人のためなのではないかと思っている。

で、「婚姻数の低下」、いや激減は、「理由はよくわからない」どころか、明白だろう、というのが私の考えだ。案外岡氏もとぼけているだけではないか。
それは、

1:結婚適齢期の男女の貧困化

2:結婚のメリットの低下(家事は電化製品がやり、食事はコンビニがある)

3:非婚者への社会の「風当り」の低下

が主な原因だろう。そのほかに「仲人という存在の消滅」も大きいかもしれない。

つまり、(個人的特性は無視して)総合的に言えば「結婚のメリットがなくなり、非婚のデメリットが低下した」という、実に当たり前の話なのである。さらに言えば、「セックスへの幻想の低下(愛とセックスの分離)」もあるかもしれない。性的面を露骨に言えば、セックスの前提としての「恋愛」が消滅し、さらに「愛と性欲の調整制度」としての結婚の意味が低下したということだ。「結婚は自由なセックスの障害になる」、という、昔なら「道徳的に不健全な思想」が、今の「自由性交賛美」時代ではほとんど当たり前になったわけである。

念のために言えば、私は頭が古く固いので、「自由性交賛美」思想が大嫌いである。自由性交は、私には「尿意を催したので小便する」ようなものに見える。できれば処女と童貞のまま結婚し、一生添い遂げる「偕老同穴」が恋愛と結婚の理想ではないか、と思っているが、まあ、これは封建時代の化石思想だろう。
他のどの男(女)ともセックスしまくりの相手に恋愛できるだろうか、というのが私の疑問だ。それなら、自分の目の前で、愛する女(男)が別の男(女)とセックスしているのを平気で見ていられるだろう。そうでないなら、それは自然な心情ではないのであり、自分で自分をだましているわけだ。まあ、そういうフリーセックスは原始時代の状態か、人間の動物化だろう。性病も全員で共有されるwww
もちろん、「過去は問わず」に、結婚後はお互いに貞操を守るというのも立派な姿勢だと思う。結婚してから(結果的に)その相手に恋する、というのも素晴らしい。実際、結婚しないと相手の本当の正体は分からないとも言える。そして、子供を持つ・育てるということも結婚しないとなかなか経験できないことだし、未婚で子供を持つことは(特に女性にとって)たいてい悲劇になる。

(以下引用)

厚生労働省の人口動態統計速報で今年1月の「死亡者数」が前年同月比で約14%の大幅な増加

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=26957
<転載開始>

2025年1月の人口動態統計速報より

厚生労働省



・出生数は 4.4%の低下


・死亡数は 13.9%の増加


・人口の自然増減は -24,451人


そして、理由はよくわからないですが、「婚姻数」が、昨年同月比で 17%も減っています。


ワクチン接種後のIGG4レベル増加は「コロナ感染リスクの上昇」と関係していることを示した論文

打てば打つほど感染しやすくなるということを証明した形ですかね。

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「伝統主義者」としてのヴァレリー

松岡正剛の「千夜千冊」の中から、ヴァレリーの言葉が気に入ったので抜き出しておく。
私の解釈では、1は、我々には未来は(幻想や空想としてしか)見えず、確かに見えるのは過去と伝統だけだということだろう。
2の「人間の最も古い要請」とは、いかにすれば我々は幸福な社会や幸福な人生を可能にできるか、ということだと解釈しておく。これが過去の哲学の根本問題ではないか。そして、その答えは「新しいもの」の中にあるというのが人類の希望であり続ける。


1:「我々は後ずさりしながら未来に入っていくのです」


2:新しいものの中で最もすばらしいことは、
人間の最も古い要請にこたえることだ。

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中世キリスト教の「キリスト教徒の金貸し業禁止」とユダヤ人

「中世史の保管庫」というサイトからの転載だが、言うまでもなく、どこまで信頼できるかは保証できない。
私はカトリックの中枢自体がユダヤ人(偽ユダヤ人・偽クリスチャン)であり、金貸しをキリスト教で禁じることでユダヤ人による金融業の独占を図ったと見ている。本当の大資本家はユダヤ人であることを隠していたわけだ。キリスト教徒から迫害されるユダヤ人は本来のユダヤ教の馬鹿正直な信者で、その生活態度を隠さなかったから迫害を受けたわけである。
金融業はカネがカネを生み、時間が味方して資産を増やすのだから、時代が進めば金融業者が社会のカネの大半の所有者となるのは理の当然である。何の生産技術も要らない職業だ。借金を返せない者からは担保を押収すればいい。そこで資本家と暴力装置との癒着も生じる。


(以下引用)

○ユダヤ人と金貸し


(1)ユダヤ人を取り巻く経済環境の悪化

 A.ユダヤ人を所有している君主・領主は彼らから金銭を得ようとし、彼らがかなりの収入をもたらす限り、群集の暴力・教会の干渉から守るために出来る限りのことをした
 B.しかしユダヤ人をめぐる状況が悪化して「ユダヤ人はいかなる基本的権利も持たない」という観念が発達すると、西欧でのユダヤ人の経済生活も大きく変化する。「商業路をユダヤ人が旅するのは危険となる」「次第に強力となるギルドはキリスト教という宗教的枠組みを持つので、必然的にユダヤ人を排除した」「ユダヤ人が武器携帯を禁止されると間もなく、彼らの土地所有を禁止する法も現れた」(封建的な土地所有には名誉の観念が付随し、騎士の奉仕義務が伴っていたから)
 C.ユダヤ人としても、土地を持っていたら「重税を課され、民衆の略奪にあう」というデメリットがあるので、資産を有するユダヤ人はそれを貨幣・宝石に換えた(この方が容易に隠せる)


(2)高利貸し

 A.ユダヤ人に対する最もありふれた非難は昔から「彼らが高利貸しである」ということだった。既に6世紀にトゥールのグレゴリウスが「高額の金を2人の元高官に立て替えて、結局殺されてしまったユダヤ人」について記述している
 B.しかし、商人としての活動には場合によっては信用貸し・貸付を行うことがあったとはいえ、ユダヤ人と云えども旧約聖書(の何箇所かの記述)に基づいて高利貸しは禁止されていた。実は中世のキリスト教神学も、旧約聖書の同じ部分に基づいて信者の高利貸し禁止を説いている

【高利貸しの解禁】
 C.12世紀になって商業が発展して貨幣・債券が流通するようになると、高利貸し禁止問題はキリスト教・ユダヤ教双方の宗教上の権威者にとって大きな問題となる。中世初期には「資本家であった聖職者が、徴税人や商人とともに金貸しの役割を果たしていた」にもかかわらず、教会は常にその行為を認めなかったし、それどころか一層強く反対するようになった。第3回ラテラン公会議(1179年)では「利子を付けて金銭を貸すキリスト教徒はキリスト者としての埋葬に相応しくない」と宣言した
 D.しかし「王(軍隊の維持・拡充のため),商人(事業のため),高位聖職者(堕落した贅沢な生活を続けるため)」にとって、借金はますます必要となっていた
 E.こうした状況において、経済的環境の悪化していたユダヤ人にとっては「金貸しこそが自分たちに残された唯一の生計の道である」と、ユダヤ教のラビたちも認めざるを得なくなる。タルムードにある禁止条項の厳格な適用を止め「代わりの仕事がなければ不本意な悪は許される」として、金貸しを解禁した

【高利貸しへの反感】
 F.元々嫌われていたユダヤ人がヨーロッパで金貸しを始める(12世紀~13世紀初頭)と、ユダヤ人に対する敵意は更に強まった。借金を返せない・返したくないキリスト教徒の債務者は、ユダヤ人に対する反感を「自分たちの苦境を救うための手段」として利用した
 G.暴動・虐殺の中で「運良く借金証文が破棄され、ユダヤ人の所有者である王が返済を要求できなくなる」というのが、債務を帳消しにする上手い方法だった


(3)キリスト教徒の高利貸しの登場

 A.13世紀に現れた急速に広まった『教皇直属の両替商カオルシーニ』は、2・3世代の間にユダヤ人を高利貸しの職業から追い出していく
 B.教会はユダヤ人・キリスト教徒にかかわらず金貸しを禁じる立法を繰り返した。ヴィエンヌ公会議(1311年)では「利子付きで金を貸すことを異端と等しく扱う」とまで主張した。にもかかわらず、銀行業が特にイタリアで発達したため、必然的にこうした法の実際の適用は緩和された
 C.「『適当な利子』は、借金返済までにかかる時間に得られたであろう利益を貸し手が損失したのだから、教会法に反しない」(14世紀末の神学者の主張)。コンスタンツ公会議(1414~18年)でも金貸しを暗黙のうちに承認している。「『適当な利子』を11%に固定すべき」と宣言したが、これは以前から普通に行われていたことの乱用を規制したものだった(銀行から容易に融資を受けるようにして交易を盛んにする狙いがあった)
 D.キリスト教徒の金貸し(カオルシーニor「ロンバルディア人」とも呼ばれた)が次々と登場したので、ユダヤ人が対抗することはほとんど不可能だった
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