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「天皇」否定論と肯定論の検討

私の別ブログに書いたメモ的記事だが、議論の叩き台として転載する。
もちろん、ここに書いた内容は天皇肯定論者にも否定論者にも不満なものだろうが、あくまで叩き台を提出するだけだ。もっと説得力のある否定論や肯定論があれば、私も読んでみたい。
まあ、ここに書いたのは三島由紀夫の「文化防衛論」を、分かりやすい形で、あるいは私なりの理解(誤解)で書いたものとも言える。

なお、「天皇制」という言葉は議論を混乱させる要素があると私は(何となくだが)思っている。たぶん、この言葉はそれだけで「天皇支配」を連想させるのではないか。「象徴天皇制」も同様だ。まあ、感覚的な話だが、「制度」(固定や呪縛)への無意識的な拒否反応を惹起するとも言える。

「肯定論」の8について補足すれば、未来は過去の伝統や遺産としての現在からしか生まれない、というのが永遠の真理だと私は思っている。改変はいいが、過去の消去や過去との断絶は利益よりは損失が大きいだろう。

(追記)このブログに載せてある「『文化防衛論』の考察」の一部を載せる。「日本人とは日本文化が意識的無意識的に体に刻みこまれている者」と定義できる。日本への移民はあくまで過渡的存在としての疑似日本人だ、と言える。日本文化に染まって、真の日本人になるわけだ。もちろん、ならない者もいる。長年日本にいながら日本人を敵視し、軽蔑する者もいる。つまり自ら「自分は日本人ではない」と主張しているわけだ。

13)「文化の無差別的包括性」を保持するために「文化概念としての天皇」の登場が要請される。

(考察)簡単に言えば「日本文化を保持するために、日本文化の象徴としての天皇の存在が重要である」ということだろう。天皇という存在が論じられる時、ほとんどは「政治的存在」としての天皇しか論じられていない。天皇という存在が日本文化の歴史の中心にある、というのは私も主張してきたことであるが、そこには別に三島の影響は無い。単に、日本文学史を見ていたら、それ(天皇が文化の中心にいること)が歴然としているというだけのことだ。記紀と三大歌集が無ければ日本の古代中世文学は無く、古代中世文学が無ければ、当然その発展としての江戸文学も無い。そして、明治の欧風文化採用と太平洋敗戦でその伝統は切られたのである。つまり、あの敗戦と戦後教育は日本の文化の伝統を断ち切ったわけだ。日本文化の伝統を愛する三島が、その伝統の中心に天皇があると考えたのは自然なことである。

(以下自己引用)


私は天皇肯定論者なのだが、要は日本文化と伝統の象徴としての天皇の存在を貴重だとする思想であり、また日本国憲法肯定者として、憲法の規定する「国民統合の象徴としての天皇」を尊重する意味での天皇肯定論者である。
そして、ネットで見る「天皇否定論」の根拠がどうもよく分からないので、その分析と考察をしてみる。ただし、メモ的なものだ。詳しい考察は後に回すつもりである。

最初に、私が考える「天皇否定論」の根拠を箇条書きにしてみる。もちろん、見落としもあるだろう。その中で私が重要と考えるのは「感情的に天皇の存在が許せない」というものだが、「感情論だからダメ」とは決めつけるつもりはない。ある意味では論理よりも強いのが感情だろう。ただ、とりあえず、ここでは「天皇否定論」と「天皇肯定論」を両方並べて、どちらがより合理的か、あるいは正当性があるかの比較をしてみるつもりだ。

Ⅰ 天皇否定論

1:日本国憲法は国民の平等を謳っており、天皇を国民の上位に置くのは許せない。
2:日本は「民主主義国家」であり、本来は君主的存在だった天皇は不要である。
3:天皇を「国民統合の象徴」とする意義はない。
4:天皇やその親族にかかる財政負担が無駄である。
5:昭和天皇のために死んだ無数の国民の死の責任が昭和天皇にあり、その子孫である天皇家自体、否定されるべきである。
6:天皇が神道連盟などの宗教に利用される可能性が大きい。
7:右翼が天皇を担ぎ上げて、日本を全体主義国家にする可能性がある。
8:天皇が存在しなくても、日本国民は何ひとつ困らない。
9:その他

Ⅱ 天皇肯定論(それぞれ「否定論」の否定であるが数字は対応していない。)

1:日本の歴史は天皇が大きな要素であり、天皇は日本文化の伝統であり象徴である。
2:現在の天皇は単なる象徴であり、日本国民の上位にあるわけではない。
3:憲法は天皇の政治関与を禁じており、民主主義と矛盾する存在ではない。
4:天皇に関係する予算は外交儀礼上必要だが、不満なら削減すればいい。
5:祖先の罪は子孫に関係しない。
6:神社等との関係が大きな問題になった事例は敗戦後は存在しない。
7:天皇が「象徴天皇」である限り、政治利用は不可能である。
8:天皇がいなくなれば、他国との違いが無くなり、「日本人」は過去と断絶する。
9:その他



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「自由主義」の極限

石井洋二郎の「フランス的思考」の記述の一部を要約する。

(以下引用)赤字は夢人による強調。

「宗教的拘束にとらわれない十七世紀の自由思想家を『リベルタン』という。」

「美徳は人間において二次的な情動でしかなく、人間の内にある第一の情動は、他のいかなる情動にもまして、誰を犠牲にしてもかまわないから自分の幸福を実現したいという欲求であることは、疑う余地がない」(注:サド作品の登場人物の発言である。)(注2:「一次的」「二次的」を過大に考えていることを除けば、私自身、この発言は正しいとは思っている。ただ、多くの「正常な」人は「他人を犠牲にする」という一点で立ち止まるのである。これは我々の無意識に埋め込まれた第二の本能だろう。我々自身が「親という他人」から生まれた存在なのだから。つまり、この論理は見かけほど堅固なものではない。単に「極限的(数学的論理)思考」なだけだ。)

「自由の享受に限界はないというこの論理をさらに押し進めていけば、最も普遍的でこれ以上に絶対的な準則はないと思われる『人を殺してはいけない』という規範までもが相対化されることになるであろう。この段階にまでたどりついてしまえば、もはやタブーはいっさい存在しない。サドにあって重要なのは、ただおのれの欲求を充足させることだけであり、他者への配慮を前提とした友愛とか憐憫とか隣人愛といった観念は、まったく空疎で無意味な偽善にすぎないのである。」

(以上引用)

あまり誰も言わないことだが、こういう「重要なのは、ただおのれの欲求を充足させることだけであり、他者への配慮を前提とした友愛とか憐憫とか隣人愛といった観念は、まったく空疎で無意味な偽善にすぎないのである」という思想は実は現代世界に底流する観念であって、多くの人はそれに則った行為(経済犯罪などが顕著で、前科持ちがマスコミ、特にテレビで堂々と発言している。)をしながら、それを明確に言語化しないだけである。
これが「自由主義の極限」である。「愚劣な合理主義」と言ってもいい。なぜ愚劣か。それは、この思考が実は自分自身にすら本当の満足を与えないからである。なぜなら人間の欲求は本当はささやかなもので満たされるからだ。
気に入らない人間を殺したいという欲求はよくあることだ。しかし、世界中の「悪人」を殺したいとなれば、「自分」が(他者から見た悪人として)その中に入るのである。この矛盾を解決するのが法であり道徳である。これは「偽善」と言うより、「社会の集合知」と言うべきだろう。

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「革命者キリスト」概説

前書き後書きを除けば全12回の論文で、その第一回だけ載せる。全体は「徽宗皇帝のブログ」に載せてあるが、検索がしにくくなっているようだ。しかし、ここに載せる部分だけでその大要は分かるだろうし、それで十分である。

(以下自己引用)
革命者キリスト
イエスと「キリスト教」(キリスト教の政治的歴史)


概説

最初に中心思想を述べておく。
イエス・キリストと呼ばれた男、ナザレのイエスは、ユダヤ教を改革しようとして当時のユダヤ教指導者たちの手で始末された男である。その思想は当時の厳格な儀式典礼主義のユダヤ教を批判し、より精神的なものにしようとするものであった。
キリストは神の子ではなく、その死後に布教のために神格化された人物である。教会によってキリストの教えも変質した。その過程がここで論ずる事柄の中心であるが、それにはユダヤ教との関連、そしてローマ帝国との関連が重要である。
現在の「キリスト教」の土台は、キリストの死後100年の間に、その教えを元にして形成された。新約聖書の中にある四福音書の中の、キリストの言葉そのものが、純粋なキリストの教えであり、それ以外の記述、たとえば様々な「奇跡」は、キリストの神格化のために、記述者が付加したものである。たとえばキリストの「死後の復活」も伝道のための作り話である。そうした不合理性を除去した後に残るものが真に重要な「キリストの教え」である。(ドイツのブルトマンの「聖書の非神話化」の主張も同じ趣旨だろう。)
キリスト教はさらに「キリスト教(あるいはユダヤ教)」という一神教をローマ帝国の国教に採用しようと考えたローマの手によって変質させられた。つまり、現在の「キリスト教」は、「ローマ化したキリスト教」であり、その土台を作ったのはパウロである。パウロは熱心なユダヤ教徒であり、最初はキリスト教徒を迫害していたが、ローマからの指令によって(?)「新キリスト教」オルグ活動家となった人物である。この人物とローマ帝国の力によってキリスト教の世界宗教への道が開かれた。ローマがユダヤ教ではなくキリスト教を選んだのは、民族宗教色が強すぎるユダヤ教よりも、精神性や内面性を重視するキリスト教のほうが、ローマ人も含めて他民族を折伏し、吸収するのに向いていたからである。大事なのは、「一神教」の持つ「絶対性」であった。あるいはマルクス用語で言う「歴史的必然」と言ってもいい。つまり、「最初から正義はこちらにあり、勝利は約束されている」とする思想だ。なぜなら、他の宗教の神々が「世界内存在」であるのに、一神教は世界そのものを作った神であるから正義と勝利は保証され約束されているのである。(そうした超越神、創造主という存在と、この世の悪の存在の矛盾は、とりあえず無視すれば良い。)
キリスト教がローマ・キリスト教(国教化以前のこの段階ではローマンカソリックとはまだ言わないほうがいい。)となった頃に、キリストの教えがアレンジされ、福音書も作られた。ローマ教会によってそれまでのキリスト伝承が整理され、正典(カノン)と外典が区別された。本来のキリストの教えが正典と外典のどちらにあるかはわからないが、外典を一般大衆が目にする機会はほとんど失われ、「キリスト教」批判の契機も失われた。
ローマ・キリスト教がローマンカソリックとなっていく過程で、さらにユダヤ教への退化が生じ、現在の「キリスト教」に近づいていった。さらに、様々な教父たちによってキリストの母の神格化や三位一体説、原罪説などが加わり、ローマンカソリックという異様な「キリスト教」が出来上がった。その異様さは、かつてイエス・キリストが憎んだ「因習的ユダヤ教」とそっくりである。その因習的な部分とローマンカソリックの腐敗した上層部への反撥が宗教改革を生んだ。しかし、その新教もまた「聖書」に依拠する限りは、キリスト本来の教えと一致することはありえなかった。キリストの教えを純粋化するには、聖書中のキリストの発言のみを抽出する必要があったのである。もちろん、それすらも記述者によって歪められたものではあるが、それでもその教えの革命性は明らかである。
結論的に言えば、世間で言う「キリスト教」は、「キリストの教え」では無い、ということだ。キリスト本来の教えは、共産主義に近いほどに、この世の富と栄華を否定する思想であるから、資本主義社会とは両立できない思想である。その資本主義の牙城のアメリカが「キリスト教」国家であるなら、それは「キリストの教え」とは別のキリスト教でしかない。同様に、「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬をさし出せ」という、許しと寛容の教えがあの残虐な十字軍と両立するはずはない。そこには、ユダヤ教独特のダブルスタンダードの思想、つまり、「自分の民族に対しては倫理を守れ、だが、異民族に対してはあらゆる悪が許される」という選民思想がある。ユダヤ民族を白人種に変えれば、これが西欧国家や西欧人種の気風でもあることは、近世近代現代の歴史に明らかである。
「キリスト教」は、西欧人の考えの土台である。したがって、その思想がキリスト本来の思想といかに異なるものであるかを西欧人たちが知れば、(つまり、自分たちがキリスト教だと信じていたのは実は変装したユダヤ教であることを知れば、)彼らが自らを反省し、あるいは西欧の貪欲によって破滅しかかっているこの世界が救済される可能性への道が開かれるかもしれない。そのためにも、この論が書かれる必要性があると私は信じる。

あらかじめ言っておくが、この論への批判は、その本質的部分への批判のみに願いたい。つまり、現在の「キリスト教」は、はたして聖書の中のキリストの言葉と一致しているかどうかということだ。その点での反論はおそらく不可能だろう。現在の「キリスト教」社会ほど非キリスト教的な社会も存在しないだろうからだ。それ以外の部分は、遥かな過去の時代についての推測にしかすぎない。歴史そのものが、勝者の歴史でしかない以上、後世の人間にできることは、歴史的記述について合理的判断を心がけることだけだ。もともといい加減なものでしかない歴史的記述や資料の細部の取り扱いにいちいち文句をつけられるのは御免である。

                         2008年11月23日記

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一神教の本質

知人から貰った本の中に小谷野敦(「あつし」とも「とん」とも読ませているようだ)の新書がいくつかあって、どれもなかなか面白いので、今、最後の「日本人のための世界史入門」を序論だけ読んだところだ。
彼は論争的(カタカナ語があるが、失念)な精神的体質の人間で、やたらに他人というか他論者を批判し食ってかかっているが、だいたいにおいて他者(他論者)を非論理的だと思っているらしい。特に、途中で持論を適当に変えている人間や、その議論の中の矛盾には我慢がならないようで、私から見ればゴリゴリのリゴリズム(rigorism:厳格主義)人間だが、その自分の論説自体、途中で内容がズレたりしているようだ。まあ、論理への過信だろう。そもそも人文系の議論に論理がどれほど有効か、分かったものではない。一部では通用しても、その一部以外には通用しない論である場合も多いだろうが、それを「論理的一貫性がない」と批判するのは、攻撃自体が愚かなのではないか。世のあらゆる事象は多岐に渡っており、それぞれの境界も曖昧なのである。
だが、小谷野の書く文章は面白いし痛快だから読む価値はある。しかし、その主張をすべて信じるのはお勧めしない。まあ、7割か8割くらいは妥当、という感じか。その主張自体、それほど意義があるようにも見えない。わりとマスコミ論者同志や人文系学問内部の問題なのである。やや右派的思想が感じられるが、「軽評論」と言うべきだろう。根が正直に思えるので、意図的に世間を騙す意図は無いと思う。
要は、「高校教科書や大学教養課程レベルの知識も無い人間が多すぎる」ということへの苛立ちが、彼の論争的体質の中心なのだろう。まあ、それでいくつも本を出せたのだから結構なことではないか。

さて、本題に入る。前書きに小谷野のことを書いたのは、彼が「民主主義」に否定的で、また「民衆史観」にも否定的なようなので、「民主主義」と「民衆をどう見るか」の問題を論じ、ひいては政治体制としての民主主義の是非を考えてみようか、ということだ。

と思ったが、先ほど、「日本人のための世界史」を読み進めて、もっと興味深い問題に出会ったので、そちらを紹介する。この引用だけでもかなり物議をかもしそうな文章である。論争屋小谷野の面目躍如だ。これ(下記引用内容)を言った人を私はほかに知らない。だが、同じ思想を持つユダヤ教については東海アマ氏が何度も書いていて、それは何も「タルムード」を読まなくても、「旧約聖書」を読めば、その思想は明白なのだから、この思想は一神教の本質だと私は思っている。その中でキリスト教だけが異質と言えば異質なのである。だからキリストは十字架で処刑されたのだ。
さてその思想とは何か。前掲の書から引用する。


「『クルアーン』を読んで驚くのは、それが『旧約聖書』とほとんど内容が同じということで、(中略)だからイスラム教は、本来キリスト教徒とユダヤ教徒は『啓典の民』として特別扱いし、言葉をもってイスラム教に改宗するよう説得すべきだとしているが、それ以外の民、つまり仏教徒(無神論)などは、問答無用で殺していいことになっている。


これは大問題の発言で、私は「クルアーン(コーラン)」を読んだことは無いので、この言葉が事実かどうかは分からない。しかし、イスラエルという国の軍隊やイスラム系テロリストの強さや残忍さ、あるいは殺しても死なないようなしぶとさ、執念深さの根底には、この思想があるのではないか、と思われる。日本で言えば信仰をバックボーンとした一向一揆のようなものだ。「厭離穢土欣求浄土」の思想が、戦国最強の織田信長の軍隊をもっとも悩ませたのである。

ちなみに、この文章を読む前に、私は娯楽記事中心の別ブログでこんなことを書いている。

(以下自己引用)注記すれば、キリスト教は「汝の敵を愛せよ」(あるいは「良きサマリア人」のエピソード)に見られるように革命的一神教であるので、ユダヤ教やイスラム教と同列ではないが、そのキリスト教国家が異民族を虐殺し、奴隷化したのは言うまでもない。つまり、キリスト教は彼らに根付いていないのである。これを「偽善的キリスト教」とでも言っておく。「偽キリスト教」でもいい。キリスト教の変質については詳しくは「革命者キリスト」参照。


前に「詩情と笑い」という一文で「ナルニア国ものがたり」をつまらないと批判したが、その理由を作者が詩人でありユーモアが欠如しているから、とした。その部分を後で自己引用するが、その前に、少し考えが深化した気がするので、それを先に書く。それは「一神教には反戦思想は無い」というものだ。
これは当たり前の話で、一神教というのは、その神を信じている者は善、信じない者は悪であるという思想であり、つまり、その神を信じない相手がどういう国や民族であろうと、それは悪なのであり、戦争して国土を奪ってもいいし、その国民を皆殺しにしても奴隷にしてもいい、となる。つまり「帝国主義は一神教文化圏の必然」なのである。




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キリストとサド

石井洋二郎という人の「フランス的思考」の終章を先に読んで、「合理性とは理性を最高の原理とし、それに反するものを否定する思想上の立場」という辞書的定義が書かれているのを見て、「最高の原理とみなすものに反するものを否定する」生き方という点ではキリストとマルキ・ド・サドは双子ではないか、と思ったので、サドについてのウィキペディアの記述を載せておく。
キリストは「神という存在への絶対的帰依」のためにユダヤの民に処刑され、サドは「みずからの欲望を満たすことだけが唯一の『理』であった」と書かれているが、その理に従った一生は刑務所と精神病院が生涯の後半の住居のほとんどである。つまり、どちらも「自分の信条に徹底的に従った」生涯だったのである。言わば、どちらも合理性の極地であったわけだ。言い換えれば、ふたりとも精神世界の英雄だったと言える。(「悪霊」のスタヴローギンにはサドの面影がある。)
なお、論理性で言えば、(神の存在証明は不可能であり、おそらくインチキだから)私はむしろサドに軍配を上げる。だが、キリストにせよサドにせよ徹底した論理は危険なものだ。我々の思考は曖昧さと非論理性に満ちているからこそこの社会で生きていけるわけだ。



(以下引用)


マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族小説家。マルキはフランス語侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。


サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリ刑務所精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄英語版に1年、そしてシャラントン精神病院英語版に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。

生涯

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生い立ちと教育

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父のサド伯爵、1750年ごろ。



母マリー=エレオノール。

マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデフランス語版かつてのコンデ公の邸宅、現在のパリ6区コンデ通りフランス語版ヴォージラール通りフランス語版付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフフランス語版と、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会リセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。


1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]


1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。

牢獄と病院

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サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。


サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌ英語版に収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。


獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。


サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。

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有名思想と、その本質

世界の有名思想、私に言わせれば「ブランド思想」というものは、その本質はひと言で言えるし、ひと言で言えない思想はロクなものではないとすら私は思っているが、「専門家」はその事実を絶対に口にしない。それは彼らの存在価値が、その思想を秘儀化することで守られているからである。

たとえば、マルクスのマルキシズムは、あの膨大な「資本論」を読まないと議論の入り口にも立てないような印象をマルキスト達は世間に植え付けているが、その本質は「資本家たちが民衆から収奪しているから、民衆は常に貧乏で底辺に押さえつけられているのである」という一文で示せる。

キリスト教とユダヤ教はより簡単で、どちらも「創造主(唯一神)へ絶対的に帰依せよ」という命令である。つまり、この両者は本質は同じだと分かる。イスラム教も同じ宗教だ、というのも分かる。その違いは神への「経路」としてユダヤ教は「儀式や宗教的規則」を重んじることで宗教的指導者たちの権威を守ったのに対し、キリスト教は内面での信仰こそを本質として「神との直接の対峙」が可能だとし、それによってユダヤ教から迫害されたわけだ。つまり、その意味ではカトリックによる「教会を神への仲介者とする」やりかたはキリスト教の歪曲だ、となる。イスラム教も、「モハメッド」を神への仲介者とすることや繁文縟礼はキリスト教やユダヤ教の変形にすぎない。
つまり、キリスト教世界とイスラム教世界の対立は愚の骨頂であり、「仕組まれたもの」だと分かる。ユダヤ教とイスラム教の対立も同様の「兄弟げんか」だが、現にガザのジェノサイドという悪魔的行為がこの現代に存在している。

で、いい加減な知識であるとお断りしたうえで言えば、フロイトの「超自我」思想を「集団的無意識」に変形したのがユングで、吉本隆明の「共同幻想」も「集団的無意識が個々に抽象語になったもの」と言えるかと思う。つまり、たとえば「国家」とは「実在物」ではない、つまり物理的存在ではないという点で幻想だが、その幻想は実に巨大な力で全国民を縛っているのだということだ。

ただ、念のために言えば、私は以上に述べた個々の存在が価値がないとは言っていない。価値がないどころかすべて巨大な力を持っているのである。
問題は、上に書いたように、これらの思想の本質は実に単純なのだが、「専門家」がそれを難解にすることで、自分たちの地位や権力や収入の土台にしていることだ。さらには、これらの「本質」が理解されないことで、無数の対立や争闘や殺戮が生じているのである。

楽観的に見るなら、「地球温暖化詐欺」や「新コロ詐欺」で科学者や医学者のインチキぶりと卑怯さが露呈したことで、今後の世界では、多くの界隈での「専門家」が本物か偽物かの人々の判断が厳しくなるだろう。いや、それでないと、これまでの世界が払った膨大な犠牲が報われない。

最後に告白しておくが、私はユングの著作も吉本隆明の著作も一冊も読んだことはない。だから彼らの思想について私が書いたことは単なる想像である。
「資本論」など、覗いたことすらない。読む意義すら認めていない。失礼なたとえで言えば、中身を見なくても、表紙に女性のヌードの絵や写真があればエロ本だと分かるのと同じで、見るまでもないわけだ。ただし、私が「社会主義者(穏健的社会主義者・反暴力革命主義者)」であるのはこれまで何度も言ったとおりである。共産主義は(社会主義全体への偏見まで蔓延させた意味で)社会主義の敵とすら言っていい。



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生と死についてのいくつかの想念

中学生向けの本である「死をみつめて」という哲学書というか、雑文集を読んでいて、いろいろと考えたので、メモだけしておく。これは、この本の内容ではなく、そこから触発された私の想念である。

1:「天上天下唯我独尊」は、釈迦の教義には反する困った作り話というかセリフだが、これが、釈迦が生まれたまさにその時に言われたことを考えると、「この世界で、(私という個人にとって)私という存在、私の生命こそが至上の価値である」という、誰にとっても当たり前の言葉になる。そして、それは「自分が生きているということが自分にとっては唯一の現実である。自分が存在しなければ世界は存在しない」という当たり前の認識になるだろう。人生とは自分の死という唯一の消失点に向かって歩いていくことであり、しかも生きている間、その消失点は(空想として以外)ほとんど見えないのである。

2:死が眼前に見えた時、人は恐怖に襲われ、生命の希少さと貴重さを意識する。これを「生命飢餓感」という言葉で言ってもいい。(岸本英夫という人の用語)

3:キリストが処女から生まれ、死から復活したという「崇高なインチキ」。(埴谷雄高)

そのほかに、地球の生命体の中で自分の同類を殺すのはほぼ人間だけである、ということ(「私は、私達人間ほど、他の生物をやたらにとって食い、そして娯楽のためだけにも殺す地上最凶悪の生物はいないと繰り返し述べてきていますが」埴谷雄高)、そしてそのことをほとんど誰も不思議に思わないということの不思議を考え、そこに政治や組織や権力の発生機序を少し考えたのだが、まだ思想的萌芽にすぎない。手塚治虫の「火の鳥」に、これに近い内容の話があったかと思うが、やはりこれは文章によってこそ明確になる思想だろう。

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