寝床の中で杉浦明平解説の「歎異抄」を読んでいて、
「弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」
「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと云々。」
と書いてあるのに驚いたのだが、これほど反社会的な言も珍しい。これは、つまり「どのような悪を為しても、阿弥陀仏を信じれば極楽浄土に行ける」という発言である。また、「どのような善行も、阿弥陀仏を信じなければ無意味である」と言っているに等しい。つまり、「極楽往生」という目的にとって「現世」そのものの価値はゼロに近い、という説ではないか? ある意味、究極の反社会・反道徳であり、これに較べれば、現世の道徳が「通俗道徳」視されるわけである。(親子・夫婦その他の恩愛や同胞間の信義や社会の恩も否定され、自分だけが極楽往生すればいいという究極の利己主義でもある。)
現世が苦に満ちていると感じる人たちの「来世への期待」を利用した、「現世(の道徳)は無意味・無価値」という悪逆な思想と私には思えるのだが、それによって精神的に救われる人も多いのだろう。
これは「神の存在」と「神の裁き」だけが唯一の真実であり規範であるというユダヤ・キリスト教に近い思想に思える。
ちなみに、本来の仏教は「輪廻からの解脱」を目的とするので、その目的達成の上で、「現世的思考」を排除する「空」の思想もまた「現世否定」ではあるから、これは仏教そのものの社会的危険性でもある。そういう意味ではオウム真理教も仏教の一種ではある。ただし、それは仏教が宗教である場合の話で、「現世的思考」の陥穽を脱している哲学としての仏教を私は髙く評価している。
(以下引用)赤字は夢人による強調。「悪をもおそるべからず」は「悪を為すことをも恐れるべからず」の意味だという私の解釈は誤りではないわけだ。
一向宗と浄土真宗は、現在では同じ宗派を指しますが、歴史的にいくつかの違いがあります。浄土真宗は、親鸞が創始した宗派で、別名「一向宗」とも呼ばれます。これは、親鸞が阿弥陀仏一仏に専念するように説いたことから、世間では「一向宗」と呼ぶようになったためです。一方、一向宗は、浄土真宗の宗派の一つで、特に戦国時代に盛んになったのが「一向一揆」と呼ばれる蜂起です。
「弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」
「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと云々。」
と書いてあるのに驚いたのだが、これほど反社会的な言も珍しい。これは、つまり「どのような悪を為しても、阿弥陀仏を信じれば極楽浄土に行ける」という発言である。また、「どのような善行も、阿弥陀仏を信じなければ無意味である」と言っているに等しい。つまり、「極楽往生」という目的にとって「現世」そのものの価値はゼロに近い、という説ではないか? ある意味、究極の反社会・反道徳であり、これに較べれば、現世の道徳が「通俗道徳」視されるわけである。(親子・夫婦その他の恩愛や同胞間の信義や社会の恩も否定され、自分だけが極楽往生すればいいという究極の利己主義でもある。)
現世が苦に満ちていると感じる人たちの「来世への期待」を利用した、「現世(の道徳)は無意味・無価値」という悪逆な思想と私には思えるのだが、それによって精神的に救われる人も多いのだろう。
これは「神の存在」と「神の裁き」だけが唯一の真実であり規範であるというユダヤ・キリスト教に近い思想に思える。
ちなみに、本来の仏教は「輪廻からの解脱」を目的とするので、その目的達成の上で、「現世的思考」を排除する「空」の思想もまた「現世否定」ではあるから、これは仏教そのものの社会的危険性でもある。そういう意味ではオウム真理教も仏教の一種ではある。ただし、それは仏教が宗教である場合の話で、「現世的思考」の陥穽を脱している哲学としての仏教を私は髙く評価している。
(以下引用)赤字は夢人による強調。「悪をもおそるべからず」は「悪を為すことをも恐れるべからず」の意味だという私の解釈は誤りではないわけだ。
一向宗と浄土真宗は、現在では同じ宗派を指しますが、歴史的にいくつかの違いがあります。浄土真宗は、親鸞が創始した宗派で、別名「一向宗」とも呼ばれます。これは、親鸞が阿弥陀仏一仏に専念するように説いたことから、世間では「一向宗」と呼ぶようになったためです。一方、一向宗は、浄土真宗の宗派の一つで、特に戦国時代に盛んになったのが「一向一揆」と呼ばれる蜂起です。
一向宗と浄土真宗の関係:
- 浄土真宗は、親鸞が創始した宗派で、別名「一向宗」とも呼ばれます。
- 浄土真宗の宗派の一つである一向宗が、戦国時代に起こした蜂起を「一向一揆」と呼びます。
- 浄土真宗は、江戸時代までは「一向宗」と呼ばれていましたが、明治時代に「浄土真宗」に正式に改名されました。
一向宗と浄土真宗の歴史:
- 親鸞:浄土真宗の創始者で、阿弥陀仏一仏に専念する「一向専念」を説きました。
- 浄土宗:親鸞は、法然の浄土宗の修行僧でした。
- 一向一揆:浄土真宗の宗派である一向宗が、戦国時代に起こした蜂起です。特に、石山本願寺が中心となって、織田信長と対立しました。
まとめ:
一向宗と浄土真宗は、現在は同じ宗派を指しますが、歴史的に一向宗は浄土真宗の宗派の一つであり、特に一向一揆という蜂起で知られています。浄土真宗は、親鸞が創始した宗派で、阿弥陀仏一仏に専念する「一向専念」を説きました。
(追記)半分冗談だが、「弥陀」を「マルクス」とし、「浄土」を「地上の(共産主義)天国」としたら、親鸞とマルクスはそっくりではないか? なお、毎度言うが私は社会主義は肯定するが共産主義は否定している。
さらに、弥陀・マルクスを「キリスト」と換えれば、ドストエフスキーの思想になる。そこがドストエフスキーの思想の分かりにくさの原因だろう。彼は若いころ革命主義者の一員だったが転向した。しかし、その胸の底には、「なぜ地上の悪は存在するのか」という疑問が生涯燃えていたはずだ。
「マルクスの本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」
「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、マルキシズムにまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず。マルクスの本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと云々。」
浄土宗と浄土真宗の主な違いは、往生(極楽浄土に生まれること)の考え方です。浄土宗は、念仏を唱えることによって往生できる「自力念仏」を強調する一方で、浄土真宗は、阿弥陀仏の力によって救われる「他力本願」を強調します。また、浄土真宗は、善人も悪人も関係なく、阿弥陀仏の教えを信じるだけで救われると考えます。
詳細:
- 「念仏を唱えることによって、誰でも極楽浄土に往生できる」という教えを説きます。
- 「自力念仏」を重視し、念仏を唱える行為自体に価値があると見なします。
- 「念仏を唱えることによって、誰でも極楽浄土に往生できる」という教えを説きます。
- 開祖は法然。
- 本山は知恩院。
- 「阿弥陀仏の本願を信じること」が最も重要であり、念仏はその信仰の表れであると説きます。
- 「他力本願」を強調し、阿弥陀仏の力によって救われると考えます。
- 善人、悪人に関わらず、阿弥陀仏の教えを信じるだけで救われると信じます。
- 開祖は親鸞。
- 本山は本願寺。
さらに、弥陀・マルクスを「キリスト」と換えれば、ドストエフスキーの思想になる。そこがドストエフスキーの思想の分かりにくさの原因だろう。彼は若いころ革命主義者の一員だったが転向した。しかし、その胸の底には、「なぜ地上の悪は存在するのか」という疑問が生涯燃えていたはずだ。
「マルクスの本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」
「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、マルキシズムにまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず。マルクスの本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと云々。」
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