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シン「堕落論」

私の別ブログに書いた記事だが、わりとまともな思想に思えるので、世の批判を顧みず、ここにも載せておく。この思想によって「救われる」人、特に、救われる青少年は多いと思うが、「それこそまさに堕落をもたらす思想である」と、偉い人たちやお堅い人たちには囂々(ごうごう)たる非難を浴びるだろうなあww


(以下引用)
あまり真面目な内容ではないので、いや、書くのは真面目に書くつもりだが、世間的には、不真面目だ、と思われそうな内容なので、この「お遊びブログ」に書くことにする。
テーマは「向上心は人を幸福にするか」というものである。
世界史的というか、歴史的には人類は向上心によって文明を豊かにし、多くの人がそれによって幸福になってきたわけだが、問題は「向上心を持っていた当人は幸福なのか、幸福だったのか」どうかである。もちろん、遊び事ですら向上心があるから上達(向上)してより面白くなる、という事実があるから向上心自体を全面否定するという馬鹿な話はしない。ただ、その本質を「哲学的に」考えてみようというわけだ。
要するに、向上心とは「現在の自分を不満に思うこと」であるのは明白である。幸福とは満足した状態であり、不幸とは不満足な状態なのだから、これ(向上心を持っている状態)は不幸そのものの状態ではないだろうか。
しかも、その「向上した状態の自分」とは「今の自分ではない何か」なのだから、向上した段階でその自分が自分に満足するという保証は無い。まあ、努力次第で勝てる確率の高い賭けだから、やる意味はあるだろう。しかし、その状態に達するまでの苦闘努力は、その成果と釣り合うだろうか。つまり、「努力と成果のコスパ」はどうなのか、ということだ。
ここで、真面目な提言をするが、「不足状態そのものを楽しむ」という生活哲学を持つのは、かなり人生を幸福にするものだと思う。もちろん、これは昔から言われていることで、竜安寺だったかどこかの石に掘られた「吾は唯だ足るを知る」もその思想である。ここでは、それを発展させて、「不足もまた幸福となりうる」という哲学を提唱しているわけだ。つまり、不足があるからその不足を満たすためにあれこれ工夫する、その「頭を使い、身体を使う楽しさ」を不足状態は与えてくれるわけである。
で、これは「向上心」そのものではないか、と文句を言われそうだが、べつに「上に向かえ」と私は言っていない。上に向かおうとするから「自分は今、下にいる」と感じる、その感情こそが実は不幸の根本原因ではないか、と私は言っているのである。向上とは、様々な意味で「重力に逆らうこと」であり、苦しさや不幸の原因である。会社内での出世も政治家の権力争いも学校での成績争いもスポーツの勝ち負けも要は「相手が上か自分が上か」の争いでしかない。「上も下もたいした違いはない」という思想を多くの人が持てば、この世界の争いの9割は無くなるだろう。ただ、「競争がもたらす成果」もかなり無くなるだろうが、人類の文明はそろそろ極限に達しているのだから、人々が争うことで誰かが利益を得る、という思想などもはや人類を幸福にはしないだろう。そんな浅ましい、野獣の思想にそろそろ決別してはどうか。

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東洋の(非「自我中心」的)合理主義

「混沌堂主人雑記」に一部引用されていた「本に溺れたい」というブログの記事で、西洋的な「自我中心合理主義」と対立する「東洋的合理主義」というべき思想が少し面白いので転載する。簡単に言えば、自と他を最初から対立構造とせず、その両者を含む「(問題の)解」を導こうとするのが、「東洋的合理主義」だとまとめておくが、それはもちろん私の解釈だ。
これは私の言う「大和(だいわ)の精神」に近い気もする。

(以下引用)

三、本書に収めた東洋古来の合理思想は欧米流の自我中心的合理主義とはちがって、非自我中心的である。東洋の合理思想も合理思想の一種であり、その限りで矛盾律に従い矛盾を排除するものである(『韓非子』の「矛盾の説」およびインド論理学の「相違」(viruddha)の概念はその端的な表現である)。その点では西洋の合理主義と何ら相違するところがない。ただ、西洋の場合とちがって、東洋では自我中心という条件をつけないのである。


 それは周易の陰陽の弁証法に典型的にみられるように、自我というただ一つの極を立てて、それに背反するものを排除するのではなく、相反し相矛盾する二つの極を立ててその両極の間に補足しあい、相互に相手を肯定する関係を打ち立てるのである。相互に否定するものが相互に肯定するのである。これは矛盾のように見えるが、決して矛盾ではない。たとえば、夫婦の関係を考えてみるがよい。同一人物が夫と妻とを兼ねることはできないので、その限りで(すなわち同一人物に関する限りで)夫と妻という両概念は相反し相互否定する。しかし二人の別人AとBに関して言えば、AがBの夫ならば、BはAの妻となり、またその逆となり、夫と妻のという両概念は相互に相手の必要条件となって相互肯定しあう。これが相互に否定するものが相互に肯定する、ということであって、そこには矛盾は見当たらないのである。つまり、一つの主語に関しては相反または矛盾する二つの概念が、二つの別個の主語に関しては相互に相手の必要条件となり、相互に肯定しあう、という関係である。これは二箇の焦点の結合によって周辺を決定する楕円に似た構造であるから、仮りに「楕円思考」と名づけてもよいであろう。すると、周易の陰陽はまさに楕円思考的な合理思想の典型である。そして本書に紹介した数多くの東洋の弁証法は(仏教であると否とにかかわらず)このような楕円思考的な構造を共有するのであり、それが欧米の自我中心的な合理主義と異なるところである。


 欧米の自我中心的合理主義は自我を独立せる実体と考えることに由来する。デカルトが方法的懐疑の末に到達した「考える我」は一つの実体であって「延長的実体」に依存しない独立せるものである。自我がこのように独立せる実体であれば、自我は自身以外のものに依存するはずがなく、したがって自他二極の間の相互依存のあるはずがなく、つまり楕円思考の成立する余地はないのである。これとは反対に、東洋の合理思想は自我を独立せる実体とは認めない。すべてのものは独立せる実体ではないので、必ず他のものに依存しなくてはならなぬと言う。この非実体的な相互依存の考えは仏教にあって特に顕著であるが、周易の陰陽にも、老子の虚無自然の説にも、たとえ陰伏的にしても、その根底に潜んでいる。そしてこの万物の非実体的相互依存性のうえに非自我中心的な合理思想が成立し、楕円思考的合理思想が成立するのである。そしてこれが欧米流の「万人対万人の戦」を超克する唯一の道を暗示するものと筆者は考えている。


◆目次(文庫版)
増補新版への序文
旧版のまえがき
序論 東洋思想と論理
第一部 悟りへの論理―インドの論理思想
1 初期仏教の合理精神
2 古因明の論理
3 新因明の論理
4 インドの弁証法
第二部 中国仏教の論理思想
1 現実の肯定
2 全体主義の真理観
3 多様性の統一
第三部 合理と非合理―古代中国思想の論理
1 不合理の完全排除
2 合理精神の結晶と矛盾の発見
3 形式論理学の完結
4 調和への弁証法
5 東洋の自然と人間
結論
解説/野矢茂樹


◆紀伊国屋書店WEBサイトの紹介文
東洋の合理思想 / 末木 剛博【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア


東洋独自の合理思想を鮮かに解明し、国際的にも広く影響を与えた名著に、「楕円思考」を論じた書き下しを増補。欧米の自我中心的合理主義を乗り超える可能性を示唆する。


末木剛博[スエキタケヒロ]
大正10年(1921)山梨県甲府市生まれ。昭和20年東京帝国大学文学部哲学科卒業。東京帝国大学副手、電気通信大学助教授、東京大学教養学部助教授、同教授、東洋大学文学部教授を経て、現在、東京大学名誉教授。論理学・分析哲学・比較思想を中心に研究を進め、東洋の精神を生かした新しい合理主義の確立を目指す。なお本書の初版「東洋の合理思想」(’70年)は中国語、韓国語などにも翻訳されて、国際的にも広く影響を与えた。主著に「記号論理学」(’62年)「論理学概論」(’69年)「ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考の研究」全2巻(’76~77年)、「西田幾多郎」全4巻(’83~88年)、監訳に「論理の数学的分析」(’77年)「比較哲学」(’97年)他、論文多数

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仏教の真髄

孔徳秋水氏が(無意味な毒舌、悪口をまき散らすのではなく)珍しくまともなことを書いていて、まあ、まともというのは「私と同じ思想だから」まともと言っているのだが、これは仏教と言うか、和製仏教ではなく、本物の仏教、つまりシャカ、シッダルタの教えの本質、真髄だと私が思っている内容である。
下に書いてあることをひと言で言えば、「般若心経」の一節

厭離一切転倒夢想(漢字はもう少し難しい字を使うが。「厭離」の漢字も違うかもしれない。)
究竟涅槃

ということである。我々を苦しめるすべては、基本的には我々自身が作った妄想だ、ということだ。
もっとも、それで生活苦が消えるわけではないから、私は同時に社会主義者でもあるわけだ。社会の上位層の所有物・財産を半分くらい貧困層に分け与えれば、地上の天国は即座に生まれる。いや、ロスチャイルド家の財産の半分だけで世界のすべての貧困者は救えるだろう。



(以下引用)


さて、きょうの話は、そのような低級低脳には決して理解できない話だ。


 


 


仏教の教えは…


 


「天国も地獄もない」…なのである。


 


 


愚童凡夫にはわかるまい?


 


 


同時にわたしも、


 


「天国も地獄も実在する」と言っているからね…


 


 


しかし、仏の教えをよく聞いてみよう…


 


すると、思わないか?


 


百千万億阿僧祇劫積み上げてきた罪業も


 


念仏で一瞬にして消え去る…とは?


 


それはなぜか?…と。


 


 


つまり、そもそも「ない」のである。


 


 


すべては、人のこころが生み出す「迷い」であり「現実」にすぎないもの…


 


…だからである。


 


 


したがって…


 


テレビのスィッチがOFFになれば音も画像も消えるがごとく…


 


スィッチをONにすれば、そこに「世界」が現れるがごとく…


 


 


創造主が「光あれ」といえば…「そこに光があった」となる…


 


そして、「万物」が作られていく…のでもある。


 


 


もともと、そんなものなどない…


 


「ない」から、突如、現れる…


 


 


「天国も地獄もない」…ということは…


 


「神も仏も悪魔もない」…ということで…


 


さらにいえば、


 


あなたが「ある」と信じているすべてが「ない」ということなのである。


 


 


「格差」もなければ、「不平等」もない。


 


「理不尽」もなければ「差別」も「ない」のだ。


 


 


それらは、そもそもあなたが自分の想念で「でっちあげた」ものである。


 


あなたが、そのような概念形成さえしなければ、そんなものは存在しない。


 


 


「啓蒙」や「教育」とは、思考の「型」を植え付けることで


 


ありもしないものを「ある」と認識するように仕向けることである。


 


カルト宗教は、この原理を熟知して使っている。


 


 


「ポリコレ」も、キモ・リベもまさに、この原理で「運動」している。


 


この「キチガイ」運動は、心理法則を利用しているので、破るのが困難なのだ。


 


 


そもそも「キチガイ」に「なすすべ」などはない。


 


「触らぬ神に祟りなし」…


 


 


「キチガイ」凡夫に、今日の教えの要点をもう一度。


 


「天国も地獄もない」…そう思うか?


 


「神も仏も悪魔もいない」…そう思うか?


 


「イエス」…で、いいね?


 


そうそう…それは「仏の教え」である。


 


あなたが「仏の教え」をちゃんと理解していれば、次に…それゆえに…


 


「格差」も「不平等」も「理不尽」も「ない」とわかるはず。


 


なぜなら、それらは、


 


すべて人が勝手にでっち上げた「想念」であり「区別」だからである。


 


その「作為」を捨てれば、一切は「ない」とわかる。


 


 


ただ、混沌たる、ありのままの世界があるのみで…


 


そこには「無限の解釈」があるということである。


 


 


ポリコレ運動に必死になることこそは、バカの極み


 


だが、そういう愚行を神様というのは面白がるのである。


 


 


あなたがた「キチガイ」は、そういうものが「実在する」と信じる。


 


それは、天国や地獄、神や仏、悪魔が存在すると信じるのと同じこと。


 


 


つまり、あなたがたにとって…


 


天国も地獄も、神も仏も悪魔も存在する。


 


 


ただ、あなたがたは、そのことを認知できないだけなのである。


 


 

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東海アマ氏の反天皇主義

私は東海アマ氏を「独断と偏見の人」と揶揄することが多いが、知識量が膨大で、記憶力が抜群であることは私などが足元にも及ばない。まあ、その知識が独断と偏見で加工されたらまったく無意味になるのだがwww
下の記事は氏の最新の記事の末尾で、自分の思いを正直に書いたものだと思うが、何の根拠も示されていない妄説としか思えない。しかし、そう考える人間がいること自体面白いので転載する。「面白い」という言い方は、死を目の前にした人に対して失礼だが、書いたものをどう読まれようと、それは公開した以上は覚悟すべきである。

ひと言だけ言えば、私には百田一派が騒いでいるわりには今の日本人は天皇崇拝をしていないと思われる。特に若者層はほんの一部を除いて天皇への関心もないだろう。
私自身について言えば、私は「尊皇主義」だが、それは政治システムとして現在の象徴天皇制を尊重し、さらに有益な「天皇という機関」の在り方、はっきり言えば、利用法を考えたい、ということだ。それが、日本国民にとっての利益にもなるという意味の「尊皇主義」である。尊崇するほどでなくても尊重すればいい、ということだ。無視したい人は無視すればいいのである。ロベスピエールではあるまいし、現在何の政治的権力も無い天皇に対し、「天皇一族を殺し尽くせ」というキチガイ思想は、有害無益だろう。
三島由紀夫ではないが、私の「尊皇主義」は「文化防衛論」でもある。文化を守るというより、「文化が国を守る」ということだ。むしろ、文化こそが国の本質だ、とも言える。「今だけカネだけ自分だけ」の新自由主義的資本主義国家に国の個性はあるか?
天皇という存在が日本史の中心だった事実は消しようがない。武家という「暴力支配」の権力だけだったら日本はとっくに滅びていたと私は考えている。明治維新という革命が最小の被害で済んだのも「天皇」の権威を使ったためなのである。
天皇という「権威」を政治的権力と対置させ、政治の安定性と正常性を保つ考えについては別ブログで論じるつもりである。


(以下引用)

 つまり、「人を救う」とオオボラを吹いている世界の宗教は、すべてゴテゴテのウソを塗り重ねた虚構にすぎなのだ。
 真実は、自分の外に教会権力のような宗教的救いは存在しない。救いは自分の内側にしかない。

 それでも、私のように、自分自身の悪い未来しか見えない者にとっては、鬱病になり、ノイローゼになり、のたうちまわって、「誰か助けてくれ!」と叫びたくなる。
 そこで、「自分は特別な人間なのだ」と自分自身を直視することを避けるようになる。
 何か、世間とは別の価値観に逃避するようになる。
 他人と価値観を共有することが、ひどく苦痛になる。他人の価値観でいえば、私は「気の毒な人生」としか判定されないからだ。

 私は、「天皇陛下を敬愛する日本国民」というナショナリズムの価値観を共有する、真っ赤なウソに洗脳されきった人々に囲まれている。
 だが、虚構の権威を必要としない私には、天皇がタダの人にすぎないことを思い知らされている。天皇家の万世一系という幻想も、デマにすぎないことを知っている。

 多くの人が、そんな私を、「排除すべき異端」として敬遠しているから、私のブログ読者も減る一方だ。
 今、韓国国民の愚かな洗脳が問題になり、韓国は、洗脳ゆえに地獄に墜ちる運命が避けられないのだが、日本だって同じだ。

 ユン・ソンソンニョル大統領を「親日」として追放する、反日思想に洗脳されてきった、まるでバイオハザードのゾンビのような韓国大衆が、これから、とんでもない地獄社会に堕とされてゆくのだが、虚構にすぎない天皇を崇拝する日本の人々も、実は同じ運命である。

 まるで合理性のない、百害あって一利もない和暦をありがたく戴いて、免許の更新期日を見失う人々は、「天皇の国に命を捧げる」ことを18歳の若者たちに強要しはじめた。
 これで、再び太平洋戦争の悲劇が繰り返されるのだが、私には、「苦悩から外側に救いを求める」心の法則が再現されているようにしか見えない。

 私は自分の苦悩から自分を救う価値観を求めて、傍目から異常行動に見える生活を送っている。
 一方で、多くの人々は、何かのコンプレックスから救いを求めて、右翼的価値観に走り、暴走を繰り返すようになっている。他人を許さない社会が復活しようとしている。

 私には、日本社会全体が「異端を排除する」同調性バイアスの社会に向かっているようにしか見えない。
 天皇崇拝社会を復活させ、「強い日本」の信仰を全国民に洗脳させようとしているようにしか見えない。
 若者たちは、自分の価値観を放棄し、軍国的な同調社会に向かっているとしか思えないのは私だけだろうか?

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「KAWAII」は世界を救う(かもしれない)

前に「可愛い」と「美しい」について論じたが、この「KAWAII」の概念は日本独自のもののようで、実はそれは「弱者(小さいもの)を愛し、慈しみ、賛美すらする」という感情であり、この感覚は「優勝劣敗」の世界ではありえない感情なのである。あらゆるものに美点を見出すという、ある意味「山川草木悉皆成仏」的な「普遍愛」であり、闘争とも勝利とも無縁だ。

つまり、世界の大半は「優勝劣敗(優るものは勝ち、劣るものは敗ける)の野蛮世界」であり、日本はそれと異なる独自の精神をもっている、と言うとまさに夜郎自大と言われるかもしれないが、この精神こそが今、日本の漫画やアニメを通じて世界に広がり、「KAWAII」という概念によって弱者尊重精神が生まれることで世界は浄土となる可能性があるのではないか。

日本という国は、前に書いた清少納言の言葉や「虫愛ずる姫君」の昔からこういう「可愛さ」の感覚が鋭敏で、それが日本の漫画やアニメの独自性の元になっていると思う。特に「虫愛ずる姫君」など、その時代にあっても特異な人間であっても、そこに「なるほど、こういう『可愛い』もありだな」と思われたからこそ現代にまで残る古典となったのだろう。私なども、ヤモリが大嫌いな人間だったが、小さなヤモリを見て娘が「ヤモちゃん」と言って以来、自分の手でヤモリを殺すのに抵抗が出てきたのである。

つまり、人間の精神は容易に変容するものであり、憎悪や嫌悪の対象をなぜ憎悪し嫌悪するか、当人でも「理屈はない」はずだ。特に、弱者や幼いものを憎悪し嫌悪する理由などありえない。ところが、「優勝劣敗」の世界ではそれも排除対象になるのである。

論議を尽くしていないが長くなったので、とりあえず「KAWAII」は世界を救う、と結論しておく。

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「イデオロギー」という全人類史的な悪の本源

「混沌堂主人雑記」に引用された「蚊居肢」記事の一部であるソルジェニーツィンの言葉のそのまた一部である。ひ孫引きか、やしゃ孫引きかwww

イデオロギーとは「歪んだ政治思想」と言ってもいいかと思うが、政治思想はすべて何らかの歪曲や誇張を伴うもので、すべての政治思想はイデオロギーだ、とすら言えるかもしれない。その考察の際に思考指針として有効なのは「中庸」という哲学になるかと思う。

王政を打倒するのはいい。だが、王や王妃や王子の首を切るのは、「中庸」ではない。これこそまさに「混沌堂主人」その人に考えてほしいことだ。「過つは人の常」である以上、過激な行為が悪への道であるのは明白だ。「悪」を倒した人間が「次の悪」になるのは政治史によく見られることである。

あの「死の天使」ロベスピエールがそのままフランスを率いていたら、はたしてどうなっただろうか。悪は無力化するだけで十分であり、敵に死を与えるのは単なる「憂さ晴らし」でしかなく、それ自体が巨大な悪になる。前の王朝を「族滅」させた王朝は、はたして天下泰平の世を作ったか? 永続したか?


(以下引用)

イデオロギー、それが悪事を働くことの正当性を長年求めてきたものであり、悪事を働く者に必要な不屈の精神と決意を与えるものである。それが、自分の目にも他人の目にも、その行為が悪ではなく善であると思わせる社会理論である。そうすれば、非難や呪いの言葉を聞かずに、賞賛と名誉を受けることができるのだ。異端審問官たちはそのようにして意志を強化した。キリスト教を持ち出して。外国の征服者は祖国の偉大さを称賛して。植民地主義者は文明によって。ナチスは人種によって。そしてジャコバン派(前期と後期)は平等、同胞愛、そして未来の世代の幸福によって悪事を成し遂げた。


イデオロギーのおかげで、20世紀は数百万単位の悪事を経験する運命にあった。これは否定も、見過ごすことも、抑圧することもできない。

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「罪と罰」の「罪」と「罰」は何か

昨日の「『実践理性批判』批判」の前書き末尾に私はこう書いた。

さらに言えば、下のカントの説は、それ自体「証明不可能な断定」そのものなので、それを信じるのは、宗教信仰と同じになる。つまり、それは哲学としてはダメダメだ、と私は思う。

しかし、それは宗教が無意味だということを意味しないのはもちろんだ。私はこの世界からフィクションが消えたら地獄以下だ、ということすら書いているのである。宗教がフィクションだとしても、その効用が素晴らしい(ただし、その悪用の危険性も物凄い)ことを私は当然認めている。カントの説への批判は、「世界の真理を追求するのが使命である『哲学』としてはダメダメだ」、ということだ。

で、昨日だったか、たまたま読んだ小林秀雄の対談集にこういう一節(小林発言)がある。

「罪と罰」は純粋心理批判だよ。心理記述じゃないのだ。カントの意味の批判なのだ。

「カントの意味の批判」とは「分析と考察」くらいに解すればいいかと思う。で、「罪と罰」が「心理記述ではなく心理批判だ」という小林の説は、分かるような分からないような言葉である。「罪と罰」の中にはラスコリニコフの「心理記述」はたくさんあるが、「心理批判」はほとんど無かったように私はうろ覚えで記憶しているからだ。特に最後のラスコリニコフの「回心」あるいは「改心」の内容はまったく記述すらされていないのである。とすると、この作品の最大の問題(謎)は実は「罪と罰」という題名そのものにあると思う。
まあ、私も含めてたいていの人は、

「真の罪とは法的な罪ではなく、『神への罪』であり、その罰も罪びと自体の心に起こる後悔と反省である」

と考えるかと思う。この問題を私はこれまで考えたことすらなかったが、あの作品の末尾(ラスコリニコフがソーニャの前に膝をつき、彼女の足に接吻する行動)を見ると、そうとしか思えないわけだ。つまり、ソーニャこそは彼の回心を告げるべき「神の代理」であるわけだろう。

ということで、いずれまた「罪と罰」を再読する必要性が出てきたわけだが、それまでは生きていたいものである。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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