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達磨と維摩

達磨大師は、私の記憶では(下に書かれているのと少し異なり)「面壁十年」とされていたと思う。その結果、足も血行障害か何かで失った(という伝説・風評)から、我々のよく知る「だるまさんが転んだ」のあの達磨人形ができたわけだろう。
しかし、面壁十年だろうが九年だろうが、それほど長期にわたって座禅しないと悟れなかったというのは、かなりの鈍根というか、愚物だったのではないか。
これと対照的なのが維摩(ユイマ)居士で、まったく修行などしないで即座に釈迦の教えの核心を悟った、つまり、「輪廻の鎖」から脱したという。他の弟子たちはほとんど悟れなかったようだ。だから、あれほど膨大な仏典(釈迦が書いたものは存在しない。膨大な仏典の大半は、愚鈍な弟子たちや孫弟子たちが創作したもの。)が残され、後世を誤らせているのだろう。
山本七平と小室直樹の対談の一部(小室の発言)を引用する。

(以下引用)

小室「維摩は俗人であって、釈迦を尊敬しているが弟子ではない。なんらの戒律を守っているわけではないが、独力で悟りを開いてしまっている。仏教の立場からすれば、これでよいのであって、彼は既に救済されている。」「維摩のほうは、魔王から家来の魔女をもらいうけて妾にしたりしている。こんなことをしても、悟りさえ開いていれば、それでいいわけです。これこそ仏教の真髄。古来、維摩経がきわめて高く評価されてきたのも当然だと思います。」

(以上引用)

何となく、一休禅師(「本物」のほうの一休宗純)のエピソードを想起させる。
魔女を妾にするなんて、羨ましいではないか。むかし、テレビにあった「可愛い魔女ジニー」を思い出す。「奥様は魔女」というのもあったし。奥さんや恋人にするなら聖女より魔女だろう。聖女は畏れ多くて手が出せないwww

ついでに達磨のエピソードも引用しておく。これ自体は悪いエピソードではない。ただ、釈迦の教えは、それほど難しいと印象されているのか、と、アホ臭く思うだけだ。

(引用2)



弟子の曇林が伝えるところ[3]によると、菩提達磨は西域南天竺国において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の時代(遅くとも479年の成立以前)に宋境南越にやって来たとされている[4]


北宋時代の景徳年間(1004 - 1007年)に宣慈禅師道原によって編纂され禅宗所依の史伝として権威を持つに至った『景徳伝燈録[5]』になると、菩提達磨は中華五祖、中国禅宗の初祖とされる。この灯史によれば釈迦から数えて28代目とされている。南天竺国香至[注 2]王の第三王子として生まれる[6]中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで道育、慧可弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗(りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。


普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日10月18日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝はが治めていた。この書では南朝梁の武帝仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。

帝問曰「朕即位已來、造寺寫經度僧不可勝紀。有何功德。」
師曰「並無功德。」
帝曰「何以無功德。」
師曰「此但人天小果有漏之因、如影隨形雖有非實。」
帝曰「如何是真功德。」
答曰「淨智妙圓體自空寂、如是功德不以世求。」
帝又問「如何是聖諦第一義。」
師曰「廓然無聖。」
帝曰「對朕者誰。」
師曰「不識。」
帝不領悟。師知機不契、是月十九日,潛回江北。— 『景徳伝灯録』巻三
帝は質問した。「朕は即位して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。どんな功徳があるだろうか。」
師は言った。「どれも功徳はありません。」
帝は言った。「どうして功徳がないのか。」
師は言った。「これらはただ人間界・天界の小果であって、煩悩を増すだけの有漏の因です。影が物をかたどっているようなもので、存在はしても実体ではありません。」
帝は言った。「真の功徳とはどのようなものだろうか。」
答えた。「浄智は妙円ですが、その本体はそもそも空です。このように功徳は俗世間で求められるものではありません。」
帝はまた質問した。「聖諦の根本的意味はどのようなものだろうか。」
師は言った。「この世はがらんどうで、聖なるものなどありません。」
帝は言った。「では朕と対座しているのは誰なのか。」
師は言った。「認できません。」
帝はその意を理解できなかった。師は機縁が合わなかったと知り、この月の19日にひそかに江北に帰った。

後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。


白隠慧鶴筆『達磨図』

達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている[7]が、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』[8]などに継承されている。


大通2年12月9日529年1月4日)、神光という僧侶が自分のを切り取って[注 3]決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。[10]


永安元年10月5日528年11月2日)に150歳で遷化したとされる[11][注 4]。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう[12][13]円覚大師[14]

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