私は「和の精神」は非常に素晴らしいものだと思っているが、こと戦争に関しては、それは通用しないのは自明である。あくまでそれは「平和の精神」なのだから、相手が暴力で来たらいっぺんに吹っ飛ぶ。そして、精神の根底に和の精神がある国は戦争には向かないのであり、何としてでも戦争を避けるべきなのであり、やるなら徹底的に残酷になるしかない。つまり、悪魔化するしかないのである。それがユダヤの精神であり、西洋の精神だ。これは現在のガザでの大虐殺を見れば明白だろう。欧米国家はそれを黙認し、協力すらしているのである。
たとえば、喧嘩であなたが勝ち、相手が許してほしい、和解しようと言ってきた時、それを受け入れて握手し、あなたがそこを立ち去ろうと後ろを向いた瞬間、相手があなたの頭を石で殴れば、あなたは即死し、喧嘩は相手の勝ちである。闘争とは本質的にそういうものであり、戦争での終わりは、お互いにとってそれが利益であることが判明した条件でだけ成立するのである。その「利益」の内容はさまざまだ。
以上は前置きで、これから提示するのは(例によって110円で買った)松本利秋という人の書いたSB新書「なぜ日本は同じ過ちを繰り返すのか」(副題「太平洋戦争に学ぶ失敗の本質」)の前書きの一部の要約で、これだけを読めば、この本を読んだ価値は十分にある、と思える内容だ。(私の読書哲学は、その本の中にたった1行でも価値があれば、その本を読んだ価値はある、というものだ。)なお、安本の利点は、興味深い箇所や理解困難な箇所に線を引き、書き込みをすることが平気でできることである。これは定価どおりで買った新しい本では抵抗が大きいが、非常に思考力を高めるものである。
(以下要約)
これらの歴史的事実(夢人注:「旧約聖書」のユダヤのカナンでのミディアン人大虐殺。新大陸での白人によるインディアン殲滅。ボーア戦争でのイギリス人の戦術。太平洋戦争でのアメリカの「東京大空襲」における殲滅手法。などが記述されている。)からもわかるように、彼らの戦争目的は敵(異教徒)を徹底的に叩き潰し、民族を消滅させることにある。したがって、戦争を起こすことと敵を定めて戦うことには、民族の生き残りがかかっており、何が何でも勝たねばならぬという覚悟が必要である。
しかし、日本は戦争の方式がまったく違う。長い歴史の中で民族浄化を行ったことがない。
そういう国である日本が、実質的に初めて異文化圏のヨーロッパと戦火を交えたのは日露戦争であった。
その戦争に、偶然に偶然が重なったこともあってきわどい勝利を収めた結果、日本には珍妙な「戦争哲学」が生まれた。
つまり、古来からの日本の戦争パターン「ある程度まで戦って勝利すれば、有利な条件で和解ができる」という決め込み(期待)が戦争全体に通底するイメージとなって固定してしまったのだ。
(夢人注:つまり、最初から「和平」が頭の中にあるのである。)
この発想の下では、まともな戦争目的を定めることができず、目的が定まっていないから戦略もいい加減なものになる。
「大日本帝国」は植民地を除いて海に囲まれており、(それは防衛には向いているが)その日本が日米開戦に踏み切った場合、たとえ日本軍が太平洋を押し渡ることができたとしても、広大なアメリカ大陸を横断して首都ワシントンを攻略するのが不可能であることは言うまでもない。
太平洋戦争の結末は、この当然すぎる予想が現実になったにすぎなかった。
たとえば、喧嘩であなたが勝ち、相手が許してほしい、和解しようと言ってきた時、それを受け入れて握手し、あなたがそこを立ち去ろうと後ろを向いた瞬間、相手があなたの頭を石で殴れば、あなたは即死し、喧嘩は相手の勝ちである。闘争とは本質的にそういうものであり、戦争での終わりは、お互いにとってそれが利益であることが判明した条件でだけ成立するのである。その「利益」の内容はさまざまだ。
以上は前置きで、これから提示するのは(例によって110円で買った)松本利秋という人の書いたSB新書「なぜ日本は同じ過ちを繰り返すのか」(副題「太平洋戦争に学ぶ失敗の本質」)の前書きの一部の要約で、これだけを読めば、この本を読んだ価値は十分にある、と思える内容だ。(私の読書哲学は、その本の中にたった1行でも価値があれば、その本を読んだ価値はある、というものだ。)なお、安本の利点は、興味深い箇所や理解困難な箇所に線を引き、書き込みをすることが平気でできることである。これは定価どおりで買った新しい本では抵抗が大きいが、非常に思考力を高めるものである。
(以下要約)
これらの歴史的事実(夢人注:「旧約聖書」のユダヤのカナンでのミディアン人大虐殺。新大陸での白人によるインディアン殲滅。ボーア戦争でのイギリス人の戦術。太平洋戦争でのアメリカの「東京大空襲」における殲滅手法。などが記述されている。)からもわかるように、彼らの戦争目的は敵(異教徒)を徹底的に叩き潰し、民族を消滅させることにある。したがって、戦争を起こすことと敵を定めて戦うことには、民族の生き残りがかかっており、何が何でも勝たねばならぬという覚悟が必要である。
しかし、日本は戦争の方式がまったく違う。長い歴史の中で民族浄化を行ったことがない。
そういう国である日本が、実質的に初めて異文化圏のヨーロッパと戦火を交えたのは日露戦争であった。
その戦争に、偶然に偶然が重なったこともあってきわどい勝利を収めた結果、日本には珍妙な「戦争哲学」が生まれた。
つまり、古来からの日本の戦争パターン「ある程度まで戦って勝利すれば、有利な条件で和解ができる」という決め込み(期待)が戦争全体に通底するイメージとなって固定してしまったのだ。
(夢人注:つまり、最初から「和平」が頭の中にあるのである。)
この発想の下では、まともな戦争目的を定めることができず、目的が定まっていないから戦略もいい加減なものになる。
「大日本帝国」は植民地を除いて海に囲まれており、(それは防衛には向いているが)その日本が日米開戦に踏み切った場合、たとえ日本軍が太平洋を押し渡ることができたとしても、広大なアメリカ大陸を横断して首都ワシントンを攻略するのが不可能であることは言うまでもない。
太平洋戦争の結末は、この当然すぎる予想が現実になったにすぎなかった。
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