神か悪魔があなたに才能を与えると言う。
次の中から選ぶならどれか。
1)カネを儲ける才能
2)天才的な芸術的創造あるいは科学的創造をする才能
3)幸福になる才能
まあ、カネが無ければ死ぬしかないから、幸福も何もあったもんじゃない、とも言えるのだが。
(以下引用)SF作家山本弘のブログより。
次の中から選ぶならどれか。
1)カネを儲ける才能
2)天才的な芸術的創造あるいは科学的創造をする才能
3)幸福になる才能
まあ、カネが無ければ死ぬしかないから、幸福も何もあったもんじゃない、とも言えるのだが。
(以下引用)SF作家山本弘のブログより。
2016年07月01日
60歳になっての雑感
少し前、「ハヤカワ・SF・シリーズ総解説」の原稿を書く関係で、昔のSFを何冊か読み返した。
そのうちの1冊がロバート・シェクリイの短編集『宇宙のかけら』。僕としては、収録作の中の「千日手」と「ポテンシャル」が気に入っていたから買ったのだが、今回、読み返していて、「炭鉱者の饗宴」という作品が妙に気になった。
金星の砂漠地帯で金鉱を探す男の物語。1959年に書かれた話だから、金星は大気が呼吸可能、人間が生身で生きられる環境で、原住生物もいる。しかし主人公は乗ってきた地上車のタイヤがパンクしてしまい、途中から砂漠を徒歩で進まねばならなくなる。
彼は携帯テレビ電話を持っていて、いつでも文明社会と連絡が取れる。しかも、この世界には瞬間移送システムもある。生物だけは送れないが、電話で注文すれば、水だろうと食料だろうと道具だろうと、すぐにロボットが届けてくれるのだ。
金さえあれば。
主人公は金鉱探しに財産のすべてを注ぎこみ、今は一文無しである。だから車のスペアタイヤも、食料も水も買えない。金鉱を見つけずに帰っても破滅が待つだけ。だから何としてでも金鉱を見つけなくてはならないのだ。地層の特徴からすると、この先には必ず金鉱があるはずだと信じて進み続ける。
思ったのが、これってまさに現代社会そのものだな、ということ。
携帯電話が普及しているのもそうだが、こちらから店に買いに行かなくても、欲しいものがあれば何でも届けてくれるというのが、まさに現代じゃないか。そう、何でも手に入るのだ!
金さえあれば。
ものはある。食料も余っている。でも、金がないので手に入らず、砂漠でもないのに野垂れ死にしてゆく人がいる。それが現代。
僕の信念は「小説家とは金鉱掘りである」というものだ。
「ここに金鉱があるはずだ」という当たりをつけて探しに行く。ちょこっとだけ金は見つかるが、大当たりとはいかない。しかたなく、そのわずかな金で食いつなぐ。そして新しい金鉱を探す。今度こそすごい鉱脈を掘り当てて、大金持ちになってみせるという夢を抱いて……。
でも、なかなか鉱脈は見つからない。
さて、なぜ今回、「炭鉱者の饗宴」が気になったかというと──
この前、60になったんですよ、60に!
気が遠くなりそうな数字だよ、60。
何よりショックだったのは、映画館に行ったら、シニア料金で入れたこと。普通料金より700円も安いの。
でも安いからって嬉しい気がしない。シニア料金というものはずっと前から知っていたけど、自分がそれで映画を観るようになるなんて、遠い先のことだと思っていた。突然、「僕はもうシニアなんだ!」と実感して、感慨とかいう以前に、軽く絶望を覚えた。
自分はSF作家として新米だと、ずっと感じていた。僕より上には小松さんと筒井さんとか星さんとか、すごいベテランがいっぱいいて、足元にも及ばないと思っていたから。
ところが気がつくと、もう僕より上の人がかなり少なくなってきている。 僕もそろそろSF界の長老グループに入りかけているではないか。
「おお! だったらそろそろ、威張ってもいいんじゃないか?」
と浮かれかけて、はたと気がついた。僕が小松さんや筒井さんとは決定的に違う点があるということに。
長編処女作『ラプラスの魔』を発表したのは1988年。それから28年も作家を続けてきた。
でも、28年間に一度も大きな鉱脈を掘り当ててない。いや、『MM9』は鉱脈かなと思ったことはあったんだけど(苦笑)。
それでも、次こそは鉱脈に当たると信じて書き続けてきた。
でも、当たらない。
他人に恨みをぶつけることもできない。ヒットが出ないのは僕自身のせいなんだから。
現状維持ならまだいい。近年は出版不況で、どこの出版社も本の初版部数を絞っている。毎年毎年じりじりと減ってきて、僕がデビューした当時の1/2とか1/3ぐらいになっている。
つまり、同じペースで本を出し続けていても、収入が半分とか1/3とかになっているのだ。そりゃきついわけだ。
同業者のツイッターとかを読んでいると、しばしば心配になる。あれ? この人、もうずいぶん長く本出してないけど、食べていけてるのかなと。
そして思い出す。そういう人たちはたいてい、他に職業を持っている兼業作家か、夫婦共働きか、独身だということに。
僕みたいに既婚者の専業作家は、実は少数派だ。
家族を養うって、かなり重たいことなんである。
うちは娘が一人だけど、学費やら何やらで、年に100万円以上は軽く吹っ飛ぶ。独身者に比べて、経済的に大きなハンデがあるのだ。娘が社会に出て、自分で稼ぎはじめるまで、まだ何年もかかる。
だから僕は書き続けるしかない。 本を出さないと、妻や娘を養っていけない。でも、同じペースで書き続けていても、収入はじりじり減る一方。今度こそ一発当てたいとあせる。でも、やっぱり当たらない……。
これはね、心理的につらい。
つらくてもやめるわけにはいかないってことが、さらにつらい。
「炭鉱者の饗宴」の主人公の心境がすごくよく分かる。
実は今年の4月から6月ぐらいにかけて、けっこう経済的にきつかった。
どうにか所得税は確定申告で還付金が出たけど、市民税・府民税、国定資産税、国民年金、国民健康保険とかで、ごっそり取られた。娘の大学の学費もあった。そのうえ、病気になって入院したし、冷蔵庫が壊れて買い直さなくてはならなかった。何でそんなに出費が連続するんだ!
自信を失い、夜中に思わず妻に弱音を吐いてしまった。もうだめかもしれない。今はまだどうにか食いつないでるけど、いずれ君らを路頭に迷わせるかもしれないと。
そしたら──
数日後、妻が札束の入った封筒を差し出したのである。貯めていたへそくりだという。
「はい、大事に使ってね」
と笑顔で言う妻。
僕はむちゃくちゃに感動してしまった。何だよ、お前! 山内一豊の妻か!?
誕生日にはケーキを買ってくれた。今年は「60」というローソクのついたケーキだ。妻と娘が「ハッピーバースデー・ディア・パパ♪」とデュエットし、「60歳おめでとう!」と言ってくれた。
涙が出そうだった。
経済的に苦しくなってるからって何だ。僕のことを愛してくれている妻と娘がいるというだけで、十分すぎるほど幸せじゃないか。
くじけかけてたのがバカみたいだった。この2人のために、もっともっとがんばらなくちゃと思った。
そりゃあ、依然としてつらいですけどね。
でも、もう後ろは向かないよ。
カクヨムに投稿しはじめたのも、ちょっとでも知名度が上がることを何かやろうと思ったから。
1人でも2人でもいいから、僕の本を買ってくれる人を増やしたい。この業界で生き残って、家族を養ってゆくために。
そのうちの1冊がロバート・シェクリイの短編集『宇宙のかけら』。僕としては、収録作の中の「千日手」と「ポテンシャル」が気に入っていたから買ったのだが、今回、読み返していて、「炭鉱者の饗宴」という作品が妙に気になった。
金星の砂漠地帯で金鉱を探す男の物語。1959年に書かれた話だから、金星は大気が呼吸可能、人間が生身で生きられる環境で、原住生物もいる。しかし主人公は乗ってきた地上車のタイヤがパンクしてしまい、途中から砂漠を徒歩で進まねばならなくなる。
彼は携帯テレビ電話を持っていて、いつでも文明社会と連絡が取れる。しかも、この世界には瞬間移送システムもある。生物だけは送れないが、電話で注文すれば、水だろうと食料だろうと道具だろうと、すぐにロボットが届けてくれるのだ。
金さえあれば。
主人公は金鉱探しに財産のすべてを注ぎこみ、今は一文無しである。だから車のスペアタイヤも、食料も水も買えない。金鉱を見つけずに帰っても破滅が待つだけ。だから何としてでも金鉱を見つけなくてはならないのだ。地層の特徴からすると、この先には必ず金鉱があるはずだと信じて進み続ける。
思ったのが、これってまさに現代社会そのものだな、ということ。
携帯電話が普及しているのもそうだが、こちらから店に買いに行かなくても、欲しいものがあれば何でも届けてくれるというのが、まさに現代じゃないか。そう、何でも手に入るのだ!
金さえあれば。
ものはある。食料も余っている。でも、金がないので手に入らず、砂漠でもないのに野垂れ死にしてゆく人がいる。それが現代。
僕の信念は「小説家とは金鉱掘りである」というものだ。
「ここに金鉱があるはずだ」という当たりをつけて探しに行く。ちょこっとだけ金は見つかるが、大当たりとはいかない。しかたなく、そのわずかな金で食いつなぐ。そして新しい金鉱を探す。今度こそすごい鉱脈を掘り当てて、大金持ちになってみせるという夢を抱いて……。
でも、なかなか鉱脈は見つからない。
さて、なぜ今回、「炭鉱者の饗宴」が気になったかというと──
この前、60になったんですよ、60に!
気が遠くなりそうな数字だよ、60。
何よりショックだったのは、映画館に行ったら、シニア料金で入れたこと。普通料金より700円も安いの。
でも安いからって嬉しい気がしない。シニア料金というものはずっと前から知っていたけど、自分がそれで映画を観るようになるなんて、遠い先のことだと思っていた。突然、「僕はもうシニアなんだ!」と実感して、感慨とかいう以前に、軽く絶望を覚えた。
自分はSF作家として新米だと、ずっと感じていた。僕より上には小松さんと筒井さんとか星さんとか、すごいベテランがいっぱいいて、足元にも及ばないと思っていたから。
ところが気がつくと、もう僕より上の人がかなり少なくなってきている。 僕もそろそろSF界の長老グループに入りかけているではないか。
「おお! だったらそろそろ、威張ってもいいんじゃないか?」
と浮かれかけて、はたと気がついた。僕が小松さんや筒井さんとは決定的に違う点があるということに。
長編処女作『ラプラスの魔』を発表したのは1988年。それから28年も作家を続けてきた。
でも、28年間に一度も大きな鉱脈を掘り当ててない。いや、『MM9』は鉱脈かなと思ったことはあったんだけど(苦笑)。
それでも、次こそは鉱脈に当たると信じて書き続けてきた。
でも、当たらない。
他人に恨みをぶつけることもできない。ヒットが出ないのは僕自身のせいなんだから。
現状維持ならまだいい。近年は出版不況で、どこの出版社も本の初版部数を絞っている。毎年毎年じりじりと減ってきて、僕がデビューした当時の1/2とか1/3ぐらいになっている。
つまり、同じペースで本を出し続けていても、収入が半分とか1/3とかになっているのだ。そりゃきついわけだ。
同業者のツイッターとかを読んでいると、しばしば心配になる。あれ? この人、もうずいぶん長く本出してないけど、食べていけてるのかなと。
そして思い出す。そういう人たちはたいてい、他に職業を持っている兼業作家か、夫婦共働きか、独身だということに。
僕みたいに既婚者の専業作家は、実は少数派だ。
家族を養うって、かなり重たいことなんである。
うちは娘が一人だけど、学費やら何やらで、年に100万円以上は軽く吹っ飛ぶ。独身者に比べて、経済的に大きなハンデがあるのだ。娘が社会に出て、自分で稼ぎはじめるまで、まだ何年もかかる。
だから僕は書き続けるしかない。 本を出さないと、妻や娘を養っていけない。でも、同じペースで書き続けていても、収入はじりじり減る一方。今度こそ一発当てたいとあせる。でも、やっぱり当たらない……。
これはね、心理的につらい。
つらくてもやめるわけにはいかないってことが、さらにつらい。
「炭鉱者の饗宴」の主人公の心境がすごくよく分かる。
実は今年の4月から6月ぐらいにかけて、けっこう経済的にきつかった。
どうにか所得税は確定申告で還付金が出たけど、市民税・府民税、国定資産税、国民年金、国民健康保険とかで、ごっそり取られた。娘の大学の学費もあった。そのうえ、病気になって入院したし、冷蔵庫が壊れて買い直さなくてはならなかった。何でそんなに出費が連続するんだ!
自信を失い、夜中に思わず妻に弱音を吐いてしまった。もうだめかもしれない。今はまだどうにか食いつないでるけど、いずれ君らを路頭に迷わせるかもしれないと。
そしたら──
数日後、妻が札束の入った封筒を差し出したのである。貯めていたへそくりだという。
「はい、大事に使ってね」
と笑顔で言う妻。
僕はむちゃくちゃに感動してしまった。何だよ、お前! 山内一豊の妻か!?
誕生日にはケーキを買ってくれた。今年は「60」というローソクのついたケーキだ。妻と娘が「ハッピーバースデー・ディア・パパ♪」とデュエットし、「60歳おめでとう!」と言ってくれた。
涙が出そうだった。
経済的に苦しくなってるからって何だ。僕のことを愛してくれている妻と娘がいるというだけで、十分すぎるほど幸せじゃないか。
くじけかけてたのがバカみたいだった。この2人のために、もっともっとがんばらなくちゃと思った。
そりゃあ、依然としてつらいですけどね。
でも、もう後ろは向かないよ。
カクヨムに投稿しはじめたのも、ちょっとでも知名度が上がることを何かやろうと思ったから。
1人でも2人でもいいから、僕の本を買ってくれる人を増やしたい。この業界で生き残って、家族を養ってゆくために。
タグ :作家の日常
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