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少年マルス 40

第四十章 決戦の前 

自宅に戻ったマチルダは、まず、トリスターナに一室を与えて、そこで休ませた。ジョンは執事の服装に戻り、
「やれやれ、この方がずっと気楽です。ずいぶん長い旅でしたなあ」
と、満足そうに溜め息をついた。
マチルダの両親は、マチルダを見て、涙を流して喜んだが、母のジョアンナは、オズモンドが一緒でないことを知ると、それがマチルダのせいででもあるかのように非難した。
「何であの子だけが戻ってこないの。あの子は戦争などできるような子じゃないのに」
わっと泣き伏す妻を、夫のローラン侯は、持て余したように慰めたが、こちらは可愛い娘が帰ってきただけでも満足であった。
熱い風呂に入って長旅の疲れを癒した後、トリスターナはローラン候と面会して、居場所を与えてくれたことを感謝した。
「ところで、オルランド家は、今、どのようになっているのでしょうか」
「確か、次男のアンリ殿が家督を相続して、結婚して子供も嫡出児だけでも五人いるそうだが。……アンリ殿も、この戦に従ってポラーノの戦いに出たようじゃが、どうなっておるかは分からんな。戦死者の中には入ってなかったと思うが。ところで、あんたはオルランド家の娘か。ずいぶん美しい方じゃな。わしが十年若かったら、放ってはおかんが」
「まあ、私はもう、とうが立ってますわ」
「いやいや、シャルル国王の后たちの中にも、あんたほどの者はおらん。あの女好きの国王には顔を見られんようにすることだな。はっはっはっ」

 バルミアの町は、敵の侵攻に備えて、慌しい。
ケインの店は、マルスの作ってあった弓や槍の在庫がすっかり売り切れてしまい、大儲けをしたが、物の価格も跳ね上がっており、今、一番高いのは食物だった。
「なあに、この戦が終わったら、物の値段は元通りになる。そうなれば、我々はしばらく左団扇で暮らせるぞ」
ケインは家族の者にはそう言っていたが、果たしてアスカルファンがグリセリードに勝てるのか、心許なかった。
「ところで、聞いた話だと、あのマルスが騎士の身分になったというぞ。この戦で大きな働きをしていると言うことだ」
実はケインのところには、マチルダが訪ねてきており、何か不自由があったらいつでもローラン家に援助を求めるようにと言われていた。ケインがその事を家族に言わなかったのは、マチルダを一目見た瞬間、彼女がマルスと恋仲であることが分かったからである。
(こんなきれいなお嬢様じゃあ、残念ながらうちのジーナは相手にならん。身分から言っても、マルスはもともと名家の血を引いているからな。ジーナがこのお嬢さんの事を知ったらどんなに悲しむだろう)
ジーナは、マルスが騎士になったという事を無邪気に喜んでいた。
「この戦争で、マルスが怪我しなければいいんだけど。いいえ、少しくらい怪我しても、生きて戻ってさえくれたら」
そう、ジーナは祈るように言った。
そうするうちに、いよいよグリセリード軍が、バルミアの北に近づいてきたと言う情報が流れた。
国王軍はアンドレの率いるレント軍と共に、バルミアの町を出発した。
何百頭もの軍馬の蹄の音がかつかつと町の道路の敷石に響く。その後には弓兵や歩兵の歩むザッザッという音が続く。武器を載せた荷車のガラガラと言う音もする。

アスカルファン軍は、イルミナスの野の南に陣取った。
南側一面に、木の板で作った防御塀を引き回し、弓兵はその陰から敵軍を射る予定だ。
防御塀には細い隙間があって、そこから覗いて弓を射ることができるが、敵の矢の大部分は、塀に当たって、遮られるはずである。さらに、イルミナスの野の中心は、三日前から、近くの川から水を引いて、湿原状にしてある。敵がこの湿原を越えてくるのは困難だろう。右と左に迂回する敵に対しては、それぞれ要所に伏兵を潜ませている。
だが、一番大きな新戦力は、市民である。
市民たちの中の男は皆、戦場の後方で、様々な支援活動を行うことになっている。たとえば、石弓のセットも、弓兵ではなく、市民たちが行い、次々に兵士に手渡していく。兵士はセットされた弓をどんどん射ればいいのである。これだと、飛躍的なスピードで、相手に矢を射掛けることができる。まさしく人海戦術である。市民たちは、戦場で負傷した兵士を後方に素早く運んで、女たちの治療を受けさせる役目もある。そして、いよいよとなれば、市民も武器を取って戦うだろう。これは市民全員の生命を賭けた戦いなのである。
こうした状況を見ても、ゲールのアドルフ大公はまだ、グリセリード軍の勝利を信じていた。彼にとっての問題は、いつ如何なるタイミングで味方を裏切るかであった。
彼は左翼の山の下を任されていた。弓の射撃戦が一段落し、歩兵や騎兵による肉弾戦が始まったら、ここから出て行って戦うのである。しかし、戦う相手はグリセリードではなく、アスカルファンになるだろう。その事は、すでに密使でもってグリセリード軍の総大将、オロディン将軍には伝えてある。その返事によれば、グリセリード軍が勝った暁には、アスカルファン支配の要職を、ポラーノのカルロスと共に与えられるはずである。
とうとう、グリセリード軍の姿がイルミナスの野に現れた。野の一端が埋め尽くされるような大軍勢である。見ていたバルミラの者たちは皆、さすがに恐怖で毛が逆立った。
アドルフは自分の軍勢五百人に向かって大声で言った。
「見ろ、あの軍勢を。あれに勝てると思うか。わしはお前らを無駄な負け戦で殺したくない。わしは、グリセリード軍に味方することに決めたぞ。よいな!」

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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