第四十四章 悪魔
アンドレのトリスターナへの唐突な求婚は、オズモンドの猛烈な反対の為ばかりでもなく、トリスターナがまだ気持ちが定まらないことと、アンドレ自身スオミラを救う使命が残っていることから、一時棚上げしておくことになった。トリスターナはけっしてアンドレが嫌いではなく、むしろ非常に好ましく思っていたのだが、自分が結婚するということをこれまで考えたことがなかったので、びっくりしてしまったのである。
「スオミラの町を救ってから、必ず戻ってきます。その時はきっといい返事をしてください。オズモンドなんかの言う事を聞かないように」
アンドレはトリスターナの手を取って言った。オズモンドはそれを苦々しげに見ている。
何で、話すのに一々相手の手を取らねばならんのだ……。
マルスはアンドレに同行してスオミラ救出に向かおうと申し出た。マチルダやジーナ、トリスターナは必死でそれを止めたが、マルスの心は変わらなかった。
「アンドレやオーエンだけを死地に向かわせるわけにはいかんじゃないか」
マルスは、理の当然とばかりに言う。
周囲の人間は、マルスを、心の半分では馬鹿だと思いながら、その単純な善良さには心打たれずにはいられなかった。
「その通りだ。僕も行こう。アンドレは気に食わんが、マルスが行くなら僕も行く」
オズモンドが言った。
「なら、私も行くわ」
とマチルダ。
「あのう、私もご一緒していいかしら。多分、足手まといになりますけど……」
と、トリスターナまで言い出し、またしても一同勢ぞろいということになったのであった。こうなると、ジョンも行かざるを得ない。
「やれやれ、こうなりそうな気がしていましたよ。神のご加護があって全員無事に帰れればいいんですがね。まあ、乗りかかった船だから、最後までお供しましょう」
ぼやきながらも、顔は楽しげである。
レントへの船出はそれから五日後であった。その間、レントから来た兵士たちはアスカルファン国王から報奨を受け、あちこちの酒場や宿屋で歓待されてすっかりアスカルファンびいきになったが、肝心のマルスは十万リムの金と勲章を与えられただけであった。
宮廷で、マルスは初めて叔父のアンリと対面した。
「お前か。ジルベールの息子と名乗っているのは。お前がジルベールの息子だというどんな証拠がある!」
アンリは神経質そうな顔をひくひくさせて、いきなり怒鳴るように言った。
「ブルーダイヤのペンダントを持ってましたが、盗まれて、今はありません」
マルスは言ったが、叔父がつまらない人物なので、内心がっかりしていた。
年は四十くらいだろうか、中背で太り気味の男で、何かの病気か、少し眼が飛び出している。おそらく度の過ぎた美食のためだろう。顔じゅう吹き出物だらけであるが、それを白粉で隠しているのがかえって不気味である。
「ふむ、仮にお前がジルベールの息子だとしても、オルランド家はわしが相続した以上、お前にやる物はないぞ。まあ、少しくらいなら金をやってもよいから、二度とわしの前に顔を現すな」
「金は欲しくありません。ただ、父の行方を探しているので、何か手掛かりを教えてください」
マルスが言うと、アンリはぎょっとした顔でマルスを見た。
「ジ、ジルベールは死んだに決まっておるではないか。それとも、生きておると誰かに聞いたのか」
「はい」
「そいつは何者じゃ。そいつは嘘を言っておるのだ!」
アンリのうろたえぶりに、マルスはアンリがジルベールの行方を知っているのではないかと思ったが、それ以上聞く前に、アンリはマルスの前から逃げるように歩み去った。
アンリが去ってすぐ、マルスの前に、一人の男が立った。
五十歳くらいの穏やかな顔の老人である。僧服のようだが、それとも少し違う、変わった服を着ているのがマルスの注意を引いた。
「マルスじゃな。ずいぶん遅かったではないか」
「あなたは?」
「カルーソーじゃよ。ロレンゾから聞いておらぬか」
マルスは思い出した。
初めて山から下りてきた時、魔法使いのような男に遇って、その男の口から、「カルーソーの所に行け」と聞いたのであった。
「聞いています。でも、庶民の私が、どうして宮中にいるあなたにお会いできましょう」
「そう言えばそうじゃな。わしもロレンゾも、時々、普通人の不便さを失念するのじゃよ。許してくれ」
マルスには意味不明の事を言って、カルーソーはマルスを自分の部屋に導いた。
カルーソーの部屋は、四方の壁が本で埋め尽くされ、机の上にはマルスの目には得体の知れない球形の道具や、コンパスなどが載っていた。
「お前は、この前の戦でこの国を救った英雄じゃ。だが、実は、あの戦は、真の戦いの前触れに過ぎん。間もなくこの国に悪魔が現れることになるが、お前はそれと戦う運命にあるのじゃ。しかも、その戦いでお前が勝つかどうかは我々にも予測がつかん。我々の魔力を上回る魔王相手の戦いなのじゃ」
カルーソーは、そう言ってマルスを見た。
「その戦いはいつ頃になりますか」
マルスは少し考えた後、カルーソーに聞いた。
「まだ、だいぶ先じゃよ。一年後か、二年後か。だが、これは苦しい戦いになるぞ。悪魔は人の心を支配する力がある。お前自身、悪魔に心を支配され、極悪非道な悪魔に変わる可能性もあるのじゃ。その時はこの国の、いや、この世界の終わりじゃな」
「悪魔に心を支配されない方法は?」
「神の力を借りることじゃ。祈りと、神具の力があれば……。だが、正直言って、それで完全に防げるとは限らんのだ。一たびお前の心に人や神への疑い、憎しみ、弱さが芽生えたら、祈りの力も神具も役にはたたん。何物にも動揺しない純粋な心だけが、悪魔に打ち勝つのだ」
「悪魔とは一体何なのですか?」
「邪悪な思念の塊じゃ。だから、それが地上に現れる時は、人や獣の姿を借りて現れるのじゃよ」
マルスは、アルカードの山中で見た大猿を思い浮かべた。
「悪魔との戦いがまだ先なら、しばらくアルカードへ旅をしてもいいでしょうか」
「かまわんさ。旅から戻ったら、ロレンゾを探すがよい。ロレンゾは東の大山脈の、ある山の中にいる。これを持っていくがいい。この石は、魔力に反応する力がある。善なる魔力に近づけば白く光り、悪に近づけば赤く光る。常に首に掛けておけば、いい道案内になるだろう」
カルーソーがマルスに渡したのは、瑪瑙のペンダントだった。見たところは、普通の瑪瑙と変わらない。
マルスはカルーソーに礼を言って別れを告げた。
大広間に戻ると、オズモンドが彼を探しているところであった。
アンドレのトリスターナへの唐突な求婚は、オズモンドの猛烈な反対の為ばかりでもなく、トリスターナがまだ気持ちが定まらないことと、アンドレ自身スオミラを救う使命が残っていることから、一時棚上げしておくことになった。トリスターナはけっしてアンドレが嫌いではなく、むしろ非常に好ましく思っていたのだが、自分が結婚するということをこれまで考えたことがなかったので、びっくりしてしまったのである。
「スオミラの町を救ってから、必ず戻ってきます。その時はきっといい返事をしてください。オズモンドなんかの言う事を聞かないように」
アンドレはトリスターナの手を取って言った。オズモンドはそれを苦々しげに見ている。
何で、話すのに一々相手の手を取らねばならんのだ……。
マルスはアンドレに同行してスオミラ救出に向かおうと申し出た。マチルダやジーナ、トリスターナは必死でそれを止めたが、マルスの心は変わらなかった。
「アンドレやオーエンだけを死地に向かわせるわけにはいかんじゃないか」
マルスは、理の当然とばかりに言う。
周囲の人間は、マルスを、心の半分では馬鹿だと思いながら、その単純な善良さには心打たれずにはいられなかった。
「その通りだ。僕も行こう。アンドレは気に食わんが、マルスが行くなら僕も行く」
オズモンドが言った。
「なら、私も行くわ」
とマチルダ。
「あのう、私もご一緒していいかしら。多分、足手まといになりますけど……」
と、トリスターナまで言い出し、またしても一同勢ぞろいということになったのであった。こうなると、ジョンも行かざるを得ない。
「やれやれ、こうなりそうな気がしていましたよ。神のご加護があって全員無事に帰れればいいんですがね。まあ、乗りかかった船だから、最後までお供しましょう」
ぼやきながらも、顔は楽しげである。
レントへの船出はそれから五日後であった。その間、レントから来た兵士たちはアスカルファン国王から報奨を受け、あちこちの酒場や宿屋で歓待されてすっかりアスカルファンびいきになったが、肝心のマルスは十万リムの金と勲章を与えられただけであった。
宮廷で、マルスは初めて叔父のアンリと対面した。
「お前か。ジルベールの息子と名乗っているのは。お前がジルベールの息子だというどんな証拠がある!」
アンリは神経質そうな顔をひくひくさせて、いきなり怒鳴るように言った。
「ブルーダイヤのペンダントを持ってましたが、盗まれて、今はありません」
マルスは言ったが、叔父がつまらない人物なので、内心がっかりしていた。
年は四十くらいだろうか、中背で太り気味の男で、何かの病気か、少し眼が飛び出している。おそらく度の過ぎた美食のためだろう。顔じゅう吹き出物だらけであるが、それを白粉で隠しているのがかえって不気味である。
「ふむ、仮にお前がジルベールの息子だとしても、オルランド家はわしが相続した以上、お前にやる物はないぞ。まあ、少しくらいなら金をやってもよいから、二度とわしの前に顔を現すな」
「金は欲しくありません。ただ、父の行方を探しているので、何か手掛かりを教えてください」
マルスが言うと、アンリはぎょっとした顔でマルスを見た。
「ジ、ジルベールは死んだに決まっておるではないか。それとも、生きておると誰かに聞いたのか」
「はい」
「そいつは何者じゃ。そいつは嘘を言っておるのだ!」
アンリのうろたえぶりに、マルスはアンリがジルベールの行方を知っているのではないかと思ったが、それ以上聞く前に、アンリはマルスの前から逃げるように歩み去った。
アンリが去ってすぐ、マルスの前に、一人の男が立った。
五十歳くらいの穏やかな顔の老人である。僧服のようだが、それとも少し違う、変わった服を着ているのがマルスの注意を引いた。
「マルスじゃな。ずいぶん遅かったではないか」
「あなたは?」
「カルーソーじゃよ。ロレンゾから聞いておらぬか」
マルスは思い出した。
初めて山から下りてきた時、魔法使いのような男に遇って、その男の口から、「カルーソーの所に行け」と聞いたのであった。
「聞いています。でも、庶民の私が、どうして宮中にいるあなたにお会いできましょう」
「そう言えばそうじゃな。わしもロレンゾも、時々、普通人の不便さを失念するのじゃよ。許してくれ」
マルスには意味不明の事を言って、カルーソーはマルスを自分の部屋に導いた。
カルーソーの部屋は、四方の壁が本で埋め尽くされ、机の上にはマルスの目には得体の知れない球形の道具や、コンパスなどが載っていた。
「お前は、この前の戦でこの国を救った英雄じゃ。だが、実は、あの戦は、真の戦いの前触れに過ぎん。間もなくこの国に悪魔が現れることになるが、お前はそれと戦う運命にあるのじゃ。しかも、その戦いでお前が勝つかどうかは我々にも予測がつかん。我々の魔力を上回る魔王相手の戦いなのじゃ」
カルーソーは、そう言ってマルスを見た。
「その戦いはいつ頃になりますか」
マルスは少し考えた後、カルーソーに聞いた。
「まだ、だいぶ先じゃよ。一年後か、二年後か。だが、これは苦しい戦いになるぞ。悪魔は人の心を支配する力がある。お前自身、悪魔に心を支配され、極悪非道な悪魔に変わる可能性もあるのじゃ。その時はこの国の、いや、この世界の終わりじゃな」
「悪魔に心を支配されない方法は?」
「神の力を借りることじゃ。祈りと、神具の力があれば……。だが、正直言って、それで完全に防げるとは限らんのだ。一たびお前の心に人や神への疑い、憎しみ、弱さが芽生えたら、祈りの力も神具も役にはたたん。何物にも動揺しない純粋な心だけが、悪魔に打ち勝つのだ」
「悪魔とは一体何なのですか?」
「邪悪な思念の塊じゃ。だから、それが地上に現れる時は、人や獣の姿を借りて現れるのじゃよ」
マルスは、アルカードの山中で見た大猿を思い浮かべた。
「悪魔との戦いがまだ先なら、しばらくアルカードへ旅をしてもいいでしょうか」
「かまわんさ。旅から戻ったら、ロレンゾを探すがよい。ロレンゾは東の大山脈の、ある山の中にいる。これを持っていくがいい。この石は、魔力に反応する力がある。善なる魔力に近づけば白く光り、悪に近づけば赤く光る。常に首に掛けておけば、いい道案内になるだろう」
カルーソーがマルスに渡したのは、瑪瑙のペンダントだった。見たところは、普通の瑪瑙と変わらない。
マルスはカルーソーに礼を言って別れを告げた。
大広間に戻ると、オズモンドが彼を探しているところであった。
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