忍者ブログ

絶望の国日本

井上陽水の「傘がない」の歌い出しが「都会では自殺する若者が増えている」だったが、下の記事には地域ごとの傾向は書いていない。全国的に若者の自殺が増えているのだろうか。
まあ、ある意味当たり前である。今の日本のどこに希望が持てるだろうか。
昔の若者の自殺は「自分の無能力さへの絶望」が主だったと思うが、今の自殺は社会への絶望が大きな割合を占めていると思う。ネット情報などで、昔の若者より今の若者のほうがはるかに社会に関する「本物の知識」は増えている。だからこそ絶望して自殺するのである。カネが無く、仕事にも恋愛にも結婚にも希望が持てないのなら、何に希望を持てというのか。





1: 風吹けば名無し 2022/01/08(土) 18:10:08.98 ID:hQEEF8Br0


若者、原因不詳の自殺増加が社会問題に…「スマホつながり」にすがる不安と孤独


中高年の自殺者数が大幅に減少し、昨年の総数は2万1081人にとどまっている。
しかし若者に関しては、相談窓口を増加させるなどの対策はされてきたものの、増加傾向にある。

昨年の10代、20代の自殺者数は3298人となり、前年に比べて2割近く増加した。なかでも深刻なのは、自殺の原因がはっきりしない例が多いことである。

以下引用元より一部抜粋 全文はこちら↓
https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/fuji-kazuhiko/277.html









65: 風吹けば名無し 2022/01/08(土) 18:15:43.88 ID:V9H2Gnab0


単純に生きてて楽しいことが少なすぎる









112: 風吹けば名無し 2022/01/08(土) 18:20:28.87 ID:sbncLSU6r


ネット発達してせっかく一人でも寂しくないようになったのにこうなるんやな
おっちゃんにはわからん





142: 風吹けば名無し 2022/01/08(土) 18:22:56.27 ID:x9tzZ4ax0


>>112
ネットを通して上流から下流まで見渡せるからな
さらにSNSのインフルエンサーや胡散臭いビジネスマン達によって比較を煽られてる
心が疲弊していくのは分かる気がするわ





228: 風吹けば名無し 2022/01/08(土) 18:28:59.70 ID:plYRsswld


>>112
誰かと繋がりやすくなったの自体はいいことかもしれんが悪いこともあるやで
別世代の実態が可視化されて傷ついたり期待を持てなくなった
趣味で繋がった別世代の人らマウントあかんいじめアカンって言いながら自分もそれに近いことしとるし色々しんどいわ
なんか思想も尖っててRT見るだけで疲れるし





143: 風吹けば名無し 2022/01/08(土) 18:23:00.78 ID:hbl1ECMZ0


Twitter覗いたら同年代でもキラキラしている奴ばっかだし





199: 風吹けば名無し 2022/01/08(土) 18:26:43.76 ID:XbSMDZB30


>>143
実際にはそうでもないのにねぇ
ホントに一握りのスーパースターはそうかもしれないけど
全体を俯瞰してみると並の人間の多いこと多いこと
そして自分より下の人間と上の人間もごまんといる
そのことに気づけるかどうかよ





234: 風吹けば名無し 2022/01/08(土) 18:29:18.23 ID:Sjp7lxAb0


SNSの影響はあるんやろうか
他人との差が嫌でも目につく世の中というか







拍手

PR

政党の好感度と党名

信頼度の分からないデータだが(だからと言って新聞やテレビの出すデータが信頼できるわけではない。)、各政党別の支持者の男女比である。これは政党別の男女の好感度と言ってもいいのではないか。人気の無い政党は今すぐに対策すべきだろう。
で、この中で立憲民主党の女性人気の低さがかなり際立っているのだが、これは枝野の党首辞任とその後の党首選のグダグダと、その時に出てきた党首候補たちの情けない姿や党としての無様さなどが影響しているのではないか。まあ、そもそも枝野時代から大衆人気はほとんどゼロだったのだが、「(日本の政治の健全さを守るためには)最大野党を守らねば」という真面目で善良な人々がまだ立憲民主党を応援しているのだろう。だが、女性は逆に「弱い男が嫌い」という、生物的本能がある(赤ん坊や老人は除く)ので、弱い立憲民主党を応援するなど馬鹿馬鹿しいと思うだろう。それが女性の低支持の原因ではないか。小泉進次郎的な言い方をすれば「セクシーじゃない」のであるww
まあ、これはもちろん冗談半分だが、この「アピール力」の問題は政治ではかなり重要なのであり、立憲民主党にもその議員たちにも私はまったく魅力を感じない。男ですらそうなのだから、女性はなおさらではないか。教条主義的に「最大野党を守れ」と支持し続ける人々以外に立憲民主党を応援する理由がある人間はいるだろうか。で、共産党はさすがに「日本が共産主義国家になるのは困る」と最初から問題外扱いだろう。党名が「共産党」なのだから当たり前である。むしろ、女性議員の多さや議員たちへの個人的信頼度では共産党に好意を持つ人も多いはずだから、これは「平和福祉党」とでも名前を変えればいっぺんに支持者は激増すると思う。
「れいわ新選組」も最初の最初から言っているが、やはり名前が悪い。そもそも新選組というテロリスト集団を党名にするセンスが最悪である。幕末関連という意味では「維新」の二番煎じ的でもある。

(以下引用)


自民党支持率男性30.7%、女性19.3%、全体平均で25.9%。


立憲民主では男性12.3%、女性5.3%、全体平均で9.3%。


日本共産党では男性6.5%、女性5.3%、全体で6.0%。


日本維新の会では男性8.1%女性5.3%、全体で6.9%。


上のデータから各党別の男女割合にすると、だいたい


 自民党    男性61.4% 女性38.6%


 立憲民主   男性69.8% 女性30.2%


 日本共産党  男性55.0% 女性45.0%


 日本維新の会 男性60.4% 女性39.6%




拍手

「自己実現」という幻の人参

「シロクマの屑籠」という、或る精神科医のブログの記事の一部だが文中のBOTの意味は知らない。文脈だとロボットと同じような感じに思えるが、それならロボットと書くだろう。ツィッターだと有名人の名言集をbotとしていたような記憶があるが、よく分からないし、それとはこの記事での用法とは違うようだ。
この記事を転載したのは、私も「自己実現」という言葉のうさん臭さを長い間感じていたからである。この筆者はそれを資本主義における「馬(労働者)を走らせる幻の人参」としていて、納得したというか、やっと腑に落ちた。まあ、電通的流行語としてはかなり長期的に機能しているパワーワードだろう。
世界中の潜在的犯罪者やサイコパスが「自己実現」したら世界はどうなるのかねwww

(追記)botとはアプリまで含めた「ロボット」的なもの、と言えばいいようだ。昔なら「組織の歯車」と言ったところだが、今は歯車の現物を見たことのない子供や若者が多いのではないかww


「BOT(ボット)」とは、「ロボット(ROBOT)」から生まれた言葉で、一定のタスクや処理を自動化するためのアプリケーションやプログラムのことを指します。
 
どういうことかというと、人がやると時間がかかる単純な作業をコンピュータが代わって自動でやってくれるということです。
 
ただし、ボットは指定されたことしかできません。
そのため、人と同じように臨機応変な対応や、指定されていない作業をすることはないです。



(以下引用)

自己実現は馬を走らせる幻の人参ではないか

 
まず自己実現、という言葉の定義について。マズローは自己実現について厳密な定義づけはしていないが、おおよそ、以下のような理解で良いのではないかと思われる。
 


 自己実現した人の定義はいぜんとして曖昧であったが、マズローは大まかに次のように記述した。
「自己実現とは、才能・能力・可能性の使用と開発である。そのような人々は、自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる」。
 消極的な基準としては、心理的問題・神経症あるいは精神病への傾向をもたないことがあげられた。自己実現した人は、人類の中の最良の見本、マズローが後に「成長している先端」と名付けられるようになったものの典型である。
『マズローの心理学』より


 
この成長している先端とは、たとえば研究やスポーツなどといったなんらかの分野で先端的技能や先端的業績に辿りつき、さらなる高みを目指している人がそれにあたると思われる。まず、これが難しく、達成したとしても人の一生のなかで先端に居続けること自体が難しい。稀にそうした人生もあるかもしれないが、おおよそ、凡夫が目指せる境地ではない。各方面の秀才ですら、たいていは一時的にしか達成できない状態だろう。
 
"自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる"、というフレーズも厄介だ。この条件を満たすためには、他人と比較して嫉妬するようなキョロキョロしたところがあってはいけない。本当は自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のこととしてしがないサラリーマンをしている人でも、他人と比較して嫉妬してしまい、自分はもっと伸びたのではないか、などと羨んでいてはこの条件には該当しなくなってしまう。*1
 
まあそれでも一時的にしても自己実現にたどり着いたとしよう。
で、置き換え可能なBOT感がなくなったと本当に言えるのだろうか?
 
自己実現について考えた時、私は、マズローの心理学が産業界に受け入れられ、例の、マズローの欲求段階説ピラミッドが今日でもまだ引用されていることに思わずにいられない。欲求段階説のピラミッドが古い古いと誹りを受けてもなお、繰り返し引用されているのは、産業界との親和性が高いこと、労働者や実業家が生産効率を向上させていくのに都合の良い言説だったからでもある。ドラッカーなどもそうだが、産業界がたびたび引っ張ってくる啓発的な言説は、どれほど人間の可能性を謳っているようにみえても、それは資本主義に適合する詩であり、生産性や効率性に貢献する社畜の歌である。ここでいう社畜とは、文字通り会社の家畜という意味だけでなく、社会の家畜という意味を含んでいると付言しておく。労働者は会社の家畜をとおして社会の家畜をやっているし、資本家や経営者はもっと大きな規模で社会の家畜をやっている。いずれにせよ、マズローやドラッカーのいざなう理想には、資本主義のユニバーサルタグがついている。
 
自己実現。至高体験。
しないよりはしてみたいかもしれない。だけど、それらもまた、生産性や効率性を至上命題とする資本主義の、そして現代社会の掌の上でのワンシーンに過ぎず、レアで、一過性に過ぎないものでしかない。なにより、そうした自己実現や至高体験は、ちょっと深く考えてみれば、別に自分がそうならなくっても構わないことでもあったはずなのだ。たとえば蒸気機関のワットやiPhoneのジョブズはそれぞれにたいした人だとは思うけれども、ワットやジョブズがいなくても蒸気機関やiPhoneに相当するものはやはり世の中に現れただろう。よほどの例外を除いて、偉人や有名人すら置き換え可能なBOTではなかったか。椅子取りゲームのユニットではなかったか。芸能人や研究者はどこまで唯一無二だろう。世の中には、自分自身のことを唯一無二だと思い込めている幸福な人もいる。が、その人がいないならいないで、ほんの少しだけ運の悪かった同僚やほんの少しだけ間に合わなかった後輩がその位置を占めていたはずなのだ。
 


自己実現できていない会社員って置き換え可能なbotでしかないわなぁ。むなしくなる。
無私な毎日だわな、ほんと。宇宙人が見たら、あまりの規則性に驚くと思う。人間がアリの習性に驚くように。


 
だから、かりに自己実現したとしても、そんなのは、ちょっと珍しい役割を引き受けた働きアリの匹でしかないのではないだろうか。
今日の発明発見や創作の相当広い領域は、大局的にみれば、一人で作っているというよりみんなでつくっているのであり、時代がつくっているのでもあり、自分がやらなくても誰かが似たようなものを創りだす可能性が高い、そんな何かだ。そのうえグループによる研究や創作もあるわけだから、自分、というものに拘って発明発見や創作を見つめるのは、自己愛を充たすには適していても、事実からは遠い。そうした諸々を承知のうえで、それでも何かに挑む、何かを創るという行為には喜びが、フロー体験が伴うとは言える。文脈によっては、私はそのフロー体験をありがたがってみることもあるのだけど、今日はそういう気分じゃない。脳汁が出てるだけじゃねえか。ずっと出ているわけでもなし。唯一無二の脳汁であるわけでもなし。
 
自己実現も含め、希少で、ありがたいものを夢見て、結局、目の前にぶら下げられた幻想の人参に向かってダッシュし、生産性や効率性を搾り取られて社会のネズミ車を回しているのが私たちなのだから、どこまで行っても社会の掌の上でしかない。そして社会の内部において私たちは常に群体であり、その生態は、ギトギトの個人主義者が思い込んでいるほど個人主義にそぐうものではない、と私なら思う。
 

拍手

教育と「社会的好循環と悪循環」

自由とは何か、と言えば、物事が自分の意のままになることだろう。
では、自分自身は自分の意のままになるだろうか。もちろん、ならない。つまり、完全な自由などありえないわけで、やたらな「自由崇拝」は現実を無視した空想的思想だとなる。
では、自分以外の存在を自分の意のままにできるか、と言えばそちらのほうがむしろ可能である。そこに権力主義が跋扈する理由がある。ついでに言えば、権力と権威の違いは、権力が他者を暴力や金力や地位・立場の力など外的な力で従わせるものであるのに対して、権威は「自ら従う」ものであることだ。これは宗教的権威を見れば歴然としているだろう。信仰者は、きっかけはともかく、最終的には自ら権威にひれ伏すのである。権威が他者を自ずから従わせる力を「威光」と言う。ただし、新興宗教の中には詐欺的手法でその「威光」を演出し、相手の理性的判断力を失わせて信者にするものもあるだろう。この演出的「威光」は旧宗教も当然用いてきたものだ。ただ、最終的には「自ら従う」という点で権力と権威は違うわけだ。

俗な世間の話はここまでにして、ここから、心理学というか、人間の心理についての浮遊思考を追ってみる。
まず、自分という存在の本質は何かと言えば、身体ではなく、その身体の中にあって思考し感じる存在だろう。その思考の器官が脳なので、身体と意識は不可分だ、となる。だが、問題は、その思考し感じる主体として「自我」がある、ということだ。この自我は果たして脳の中に印刻された記憶の連続体なのだろうか。我々はその自我が思考を操縦し、時には感情も操縦することを知っている。もちろん、その思考や感情が自我そのものだ、と仮定してもいい。だが、私の印象では、思考や感情と自我は別存在に思える。別存在だから一方が他方を操縦できるのだ。
その自我を「真我」と言ってもいい。あるいは、自我の中に真我が埋没状態(無意識状態)で存在している、などと言えば、自我と真我を区別する意味などあるか、と言われそうである。まあ、仏教的に、その真我が表面に出てきた状態が「悟り」なのだ、と言ってもいい。つまり、真我とは自我の迷妄の霧が晴れた状態だ、としておこう。我々は自分を取り巻く世界よりもむしろ自分の思考や感情に騙されるものであり、だから私は自我と真我を区別するのである。

ここで「生活技術」的な話をすれば、我々が人生で最初に学ぶべきことは、「我々は自分で自分を操縦しており、その操縦が上手い人と下手な人がおり、下手な人は周囲をも自分をもきちんと見ていない」ということだろう。私など下手な方の代表だ。まあ、とりあえず、「自分の思考も感情も操縦できる」ということを知るのが第一だろう。だが、操縦できることと、操縦すべきかどうかは別の話だ。感情の操縦など、しないほうがいい(つまり「直情径行」がいい)のかもしれないのである。
学校の勉強も運動も、結局はその操縦の上手い下手にすぎない。我々は自分の身体を自分の思う通りに動かせないし、またその動かし方が間違っていることが多いから、運動が下手な人間も多いのである。自分の身体の動かし方など、他人が教えるものではないし、教えてもなかなか理解されないだろう。これは思考だけを動かす場合、つまり勉強も同じで、つまり、教育とは原則として自己教育なのである。

自己教育の一番の障害は、自惚れだろう。自惚れたらそこで自己教育は終わりだ。現在の自分に満足しているのだから、それ以上進歩するわけがない。
その反対に、明確な理想像(尊敬すべき身近な人間など)があると、それに近づこうとして努力する。東大出の家族がいると、子供はそれを目標にするわけだ。だから、高学歴の家からは高学歴の子供が続出する。スポーツも芸能も同じで、身近な目標やモデルがいることは大きなメリットなのである。その反対に、馬鹿しかいない村里では、いかに優秀な素質の子供でもほとんど埋もれたままになるはずである。
日本で、なぜ優れた漫画家が続出するのかと言えば、それは優れた先人が多く、その誰かを理想として後輩たちが続くからである。

これは「社会的好循環と悪循環」という言葉で問題提起してこの文章は終わりとする。













拍手

特攻を命じた人たちwww

「ネットゲリラ」の靖国に関するスレッドの或るコメントがなかなか貴重である。
永久に保存し、戦争扇動者が現れたらその顔に叩きつけたらいいwww
お前らの大好きな特攻隊の実情はこれだよ、と。


(以下引用)




富永恭二:航空部隊の指揮官として息子を特攻死させたが本人は最前線のフィリピンから台湾に逃亡、シベリアに抑留されるが天寿を全うする。 

菅原道大:後で自分も行くからとか言って特攻隊を送り出し、終戦時に部下から行きましょうって言われたら「特攻隊の慰霊するからやっぱ行かない」と却下、養鶏やりながら天寿を全うすry

倉澤清忠:菅原の部下として特攻隊を送り出す。飛行機のトラブルなどで帰ってきたパイロットを監禁するスパルタ施設を運営。 
戦後は印刷会社経営、特攻隊の生き残りからの報復を恐れ常に拳銃を携帯。勿論天寿を全うry

黒島亀人:「変人参謀」と言われ数々のキチガイ作戦とキチガイ特攻兵器を立案。 
戦後は会社社長として何不自由ない暮らしを送る。なお、宇垣纒の手記(後に「戦藻録」として出版)を遺族から借り出し、自分に都合の悪い部分を破棄、「電車に置き忘れた」などと言い逃れる。当然天寿を全ry

源田実:自分の指揮する部隊でも特攻やりたいからよろしくと部下に命じたところ、部下から「私が操縦するから貴方は後席に乗ってください」と言われソッコーで沙汰止みに。 
戦後は航空自衛隊に入り航空幕僚長、自民党から参議院議員に。議員時代、日本全土を無差別爆撃したカーチス・ルメイに勲一等を授与する工作する。 
言うまでもなく天寿をまっry
-----------------------------
大田正一:米軍コードネーム"BAKA"こと人間爆弾「桜花」の発案者。自分が乗るから開発させてくれと上層部に頼み込んだ癖に「適性なし(笑)」とやらで出撃せず。 
終戦直後逃亡、名前と戸籍を変えて暮らす。至極当然に天寿をまry

中島正:現地で全軍特攻を唱え、目を合わせると特攻に行かされると噂される。私も後に続くと言って特攻を送り出したかと思えば、私は内地に戻って君たちの活躍を後世に残すと言って内地に帰り、戦後は特攻を自分に都合がいい美談に変えた著書を発表。天寿をry

真鍋正人:特攻隊員の前で「俺は成績が良かったから早く参謀になれる。だからここでは死ねねえんだよなぁ」と言いながら特攻へ送り出していた。天寿ry

永仮良行:現地で特攻隊員を殴りながら「そんなに命が惜しいか!命のいらない搭乗員は内地にいくらでもいるんだ!」と言って特攻へ送り出す。天じry

坂井三郎:特攻隊員に対し「私も後に続く。遅いか早いか!ごちゃごちゃ言うな!」と言って特攻へ送り出す。戦後は自分に都合がいい話を作り著作活動で有名に。ねずみ講で荒稼ぎしたり原爆投下を賞賛したりと。天ry

拍手

これから起こる日本の滅亡は世界にとっての「一粒の麦」となるか

「世に倦む日々」記事の一部だが、この部分が特に印象深いというか、ここにある「予言」は現実化する可能性が高く、その後半は私も考えていなかった悲喜劇(ここでは喜劇は「喜ばしい結末」を持つドラマの意)を示していて興味深い。だが、それは「日本の悲劇」を前提とした喜劇なのである。

(以下引用)

結局、この国は、長い間、(1)9条の非武装中立の平和主義と、(2)日米安全保障条約の立場と、二つの間で葛藤相克を続けてきた。二つの矛盾する国是を持ち、不断に鬩ぎ合ってきたのである。国の平和を守るためには何より対話の外交が重要で、友好と協調と互恵の関係構築だとする思想と、否、平和を守るためには軍事力こそ必要で、武力優勢な国との同盟強化こそが得策だとする思想と、二つが刺を立てて衝突してきたのだ。後者は常に我こそがリアリズムだと威張り、前者をお花畑の空想的理想主義だと罵ってきた。


平和憲法を守ろう  -  信念を曲げず、先人の決意と覚悟を尊ぼう_c0315619_15265851.pngさて、実は、リアリズムなら私も負けない。中国との戦争は5年以内に起こり、10年後には終わっていると直観する。それくらいの時間軸で予想している。9条改憲のタイミングがどうあれ、アメリカは必ず台湾を口実にして戦争を始め、日本を中国との全面戦争に仕向ける。戦争が回避できれば、それは神の奇跡だ。今、日本の9割くらいが、時間軸はともかく、中国との戦争は必至で確実と想定し、ほとんど前提しているのではないか。マスコミの論調はそうであり、抗う声はなく、日本人全体がそのコンコースを歩いている。列の進行から逃げられない。

この将来の災難については、残念ながら、平均寿命や健康寿命よりも先に来る。中国との戦争を実人生で経験せざるを得ないと覚悟している。戦火に巻き込まれて命を失うか、見終わった老人として果てるか、いずれかだろうと観念している。結局のところ、日本は9条を持っていたけれど、最後は戦争してしまいました、平和を守ることはできませんでしたと、そういう結論になるだろうと悲観する。しかし、それは9条の責任ではない。平和憲法に問題があったわけではない。日本人が9条を守ろうとせず、9条の原則で国家の外交と安全保障の政策を方向づけなかった所為だ。逸脱したからだ。


平和憲法を守ろう  -  信念を曲げず、先人の決意と覚悟を尊ぼう_c0315619_15324636.png現在の日本は、すでにとっくに憲法9条が改訂された後の現実になっている。日本国憲法は生きておらず、殺されてしまっている。死文同然になった憲法があり、それが明文で書き変えられる間際にある。教育基本法や労働基準法の外濠が埋められた後、遂に本丸が炎上・崩壊する段階に来た。その最期は、上皇や上皇后の日本国の終焉でもある。最早、地上に日本人らしい日本人はおらず、司馬遼太郎が28年前に予言したとおりの、蛆虫が這う列島の地上になった。平和憲法は日本国と共に劇的な最期を遂げる。戦争によって燃え果てる。そのようにパセティックに予想する。

だが、9条は生き続けるだろうと思う。第三次世界大戦を経た世界の人々が、9条平和主義を自国の憲法に導入するだろう。日本人ではなく、別の国の人々が、この理想の追求を始め、その地平を広げて行くに違いない。武力放棄の安全保障を虚妄だとせず、夢想だとせず、それこそ真の平和実現の理念だと認め、9条を選択することになるだろう。100年、200年と、9条の理想にチャレンジする人類史を歩むだろう。第三次世界大戦後に主役になる国々が、9条を受け継いで実践に出るだろう。9条は不滅であり、普遍的価値観となる。

拍手

朝鮮半島分断の意味

ウクライナ戦争に関連して、大国の狭間(はざま)の国の悲劇として朝鮮分断の経緯をウィキペディアから転載しておく。面白いのは(という言い方は不謹慎だが)朝鮮分断と朝鮮戦争の真の主役である「米・ソ・中」三国がすべてDS支配国家であったことだ。米国はもちろんだが、ソ連も中国もDSによって作られた国である、という事実はあまり知られていない。それは、DSは常に「隠れた存在」だからである。にも関わらず、政府はDSによって動かされる。それが近現代史の真実だろう。
確か馬淵睦夫氏が言っていたが、当時の米軍の軍事力からすれば、朝鮮戦争を韓国側(国連軍側)の勝利で終わらせるのは容易なことだったが、マッカーサーは米国政府(実はDS)からの指令で停戦に応じざるを得なかったらしい。それはマッカーサー自身が言っているという。つまり、朝鮮半島を南北分断させたままのほうがその後のDSの世界操作に都合が良かったということだ。要は「共産主義」も「反共主義」もDSの手の中で動いていたということである。
小室直樹風の言い方をすれば、DSという「補助線」を入れて見てみることで奇々怪々な近現代史が明瞭に理解できるというわけだ。毎度言うが、DSとはユダヤ富豪である。彼らにとって国や政府とは金儲けの「道具」なのである。その国民など当然家畜以下である。

(以下引用)


第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国カイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表した。1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された[21]


1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍8月13日当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸していたが、ソ連と共に連合国を構成していたアメリカは、1945年4月12日大統領に昇格したハリー・S・トルーマン反共主義の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。


1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し連合国に降伏、朝鮮は解放された。その後8月24日平壌に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領、既存の朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施した。一方、朝鮮半島南部では、9月8日仁川に上陸したアメリカ軍が朝鮮建国準備委員会を解体した後、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を開始。朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたまま、朝鮮半島内で抗日運動を行っていた人士や半島外から戻った左翼右翼が衝突する不安定な情勢を迎えた[22]


その後、米ソ対立を背景に1948年8月15日、南部に大韓民国が建国され、翌9月9日に残余の北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年建国の中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢だった。武力統一支配(赤化統一)を目指す金日成率いる北朝鮮は1950年6月、ソ連のスターリンの同意と支援を受けて、事実上の国境であった38度線を越えて侵略戦争を起こした[15]


侵略を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスフィリピンオーストラリアカナダベルギータイなどの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦。北朝鮮側にソ連が参戦すると米ソ間で第三次世界大戦が起こりかねないので北朝鮮側には抗美援朝義勇軍(実態は金日成に韓国侵略を許可した中国人民解放軍)が加わった。ソ連は武器調達訓練などで支援したほか、戦闘パイロットを秘密裏に参戦させた(後述)ので実際には間接的に米ソが衝突していた。

  • 本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。

拍手

カレンダー

02 2025/03 04
S M T W T F S
10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析