私はテレビを見ないので、世間のゴールデンタイム、つまりテレビ視聴の一番多い7時から12時くらいの間は就眠時間だが、そうすると、真夜中に目覚めて、トイレに行った後、やることはベッドに戻って布団か毛布の中で本を読むことくらいだ。老眼だのに、寝転んでいると眼鏡がかけられないので、少し無理して読むような読書になる。少し読んで、目が疲れると、そこでだいたい読書は終わりだ。つまり、断片的読書である。
先ほどまで読んでいたのはトルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」で、村上春樹の訳だが、部分部分を拾い読みするだけで、まだ通して読んではいない。そういう読み方に向いた本だと思う。つまり、詩の本のようなものだ。
そうしていると、幾つも浮遊思考が浮かんでは消えていくので、そこが面白い。
先ほどまでの読書の間も幾つも想念が浮かんできたが、その一部を書く。
まず、一番最後に考えた、「ブラウンストーン」とは何か、という問題だ。これは、昔英語の原書の冒頭部分(そこだけしか読んでいない)を読んだ時にも疑問に思ったことだが、村上春樹はそれを訳さないまま「ブラウンストーン」と書いている。まあズルいといえばズルいやり方である。彼は、日本語に訳すと原意が見失われそうな場合や訳すのが困難な場合はカタカナ英語をそのまま使う性質というか、翻訳方針があるようだ。
たとえば、野崎孝の名訳がある「ライ麦畑で捕まえて」の題名を、英語原題「Catcher in the rye」をカタカナ書きしただけの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」としている。確かに、英語原題は日本語に訳すのが非常に難しい。野崎訳はある意味誤訳であるが、意図的な意訳で苦心の作だろう。実際、その題名だからこそ世間によく知られることになったと思う。村上訳は、訳してすらいない。逃げであると私は思うが、まあ、かえってそれで原作に興味を持って自分で調べる若者が出るかもしれない。
「ブラウンストーン」も同じであり、なぜ中学生でも「茶色の石」と訳せる(実はそうすると誤訳になる。「brown stone」ではなく「brownstone」と書かれているのである。)英語をカタカナ英語にしたのかといえば、これは「茶色の石」という漠然とした、広範囲な意味ではなく、「建築材料として特に多用されている褐色砂岩」であるからだ。しかし、こんな長々しい訳はできないし、「褐色砂岩」と書いても、そのニュアンスは伝わらないという判断だろう。
話が長くなったので、「ティファニーで朝食を」の中の詩的な部分(すべてがそうなのだが)をひとつ紹介して終わりにする。「ドク」は、テキサスかどこかのど田舎の浮浪児(泥棒常習犯らしい)だったホリーをその兄(映画では弟)と一緒に拾って、14歳の彼女を一時期妻(愛人)としていた人間で、家出した彼女に未練を持ち、彼女を探しにニューヨークまで出てきていた初老の田舎者(獣医師)である。ホリーとは再会した後、円満に別れたようだ。
ホリーはマティーニのグラスを上げた。「ドクにも幸運を祈りましょう」と彼女は言って、僕のグラスに彼女のグラスを合わせた。「幸運を祈るわ。そしてね、ドク、ひとこと言わせて。空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消え失せていく場所なの」
まあ、常識だが、宝飾店のティファニー(正しくは「Tiffany’s」)で朝食を食うことはできない。そこで、映画の中では、ティファニーのショーウィンドウを見ながらヘップバーンがベーグルか何かを食っている。しかし、「ティファニーで朝食を(ティファニーでの朝食)」という作品タイトルも実に洒落ている。カポーティは若いころは天才だったと思う。詩想に溢れている。
ティファニーとは、貧乏人が憧れる夢の世界だが、そこは虚飾の王国でもあり、そこで朝食を食う(生きる)ことは、人間が空の上で暮らすようなものだろう。つまり、この題名は不可能性の象徴だ。もちろん、地上で生きることに嫌悪を感じる鳥のような魂もある。だが、その自由にも孤独という代償がある。
先ほどまで読んでいたのはトルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」で、村上春樹の訳だが、部分部分を拾い読みするだけで、まだ通して読んではいない。そういう読み方に向いた本だと思う。つまり、詩の本のようなものだ。
そうしていると、幾つも浮遊思考が浮かんでは消えていくので、そこが面白い。
先ほどまでの読書の間も幾つも想念が浮かんできたが、その一部を書く。
まず、一番最後に考えた、「ブラウンストーン」とは何か、という問題だ。これは、昔英語の原書の冒頭部分(そこだけしか読んでいない)を読んだ時にも疑問に思ったことだが、村上春樹はそれを訳さないまま「ブラウンストーン」と書いている。まあズルいといえばズルいやり方である。彼は、日本語に訳すと原意が見失われそうな場合や訳すのが困難な場合はカタカナ英語をそのまま使う性質というか、翻訳方針があるようだ。
たとえば、野崎孝の名訳がある「ライ麦畑で捕まえて」の題名を、英語原題「Catcher in the rye」をカタカナ書きしただけの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」としている。確かに、英語原題は日本語に訳すのが非常に難しい。野崎訳はある意味誤訳であるが、意図的な意訳で苦心の作だろう。実際、その題名だからこそ世間によく知られることになったと思う。村上訳は、訳してすらいない。逃げであると私は思うが、まあ、かえってそれで原作に興味を持って自分で調べる若者が出るかもしれない。
「ブラウンストーン」も同じであり、なぜ中学生でも「茶色の石」と訳せる(実はそうすると誤訳になる。「brown stone」ではなく「brownstone」と書かれているのである。)英語をカタカナ英語にしたのかといえば、これは「茶色の石」という漠然とした、広範囲な意味ではなく、「建築材料として特に多用されている褐色砂岩」であるからだ。しかし、こんな長々しい訳はできないし、「褐色砂岩」と書いても、そのニュアンスは伝わらないという判断だろう。
話が長くなったので、「ティファニーで朝食を」の中の詩的な部分(すべてがそうなのだが)をひとつ紹介して終わりにする。「ドク」は、テキサスかどこかのど田舎の浮浪児(泥棒常習犯らしい)だったホリーをその兄(映画では弟)と一緒に拾って、14歳の彼女を一時期妻(愛人)としていた人間で、家出した彼女に未練を持ち、彼女を探しにニューヨークまで出てきていた初老の田舎者(獣医師)である。ホリーとは再会した後、円満に別れたようだ。
ホリーはマティーニのグラスを上げた。「ドクにも幸運を祈りましょう」と彼女は言って、僕のグラスに彼女のグラスを合わせた。「幸運を祈るわ。そしてね、ドク、ひとこと言わせて。空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消え失せていく場所なの」
まあ、常識だが、宝飾店のティファニー(正しくは「Tiffany’s」)で朝食を食うことはできない。そこで、映画の中では、ティファニーのショーウィンドウを見ながらヘップバーンがベーグルか何かを食っている。しかし、「ティファニーで朝食を(ティファニーでの朝食)」という作品タイトルも実に洒落ている。カポーティは若いころは天才だったと思う。詩想に溢れている。
ティファニーとは、貧乏人が憧れる夢の世界だが、そこは虚飾の王国でもあり、そこで朝食を食う(生きる)ことは、人間が空の上で暮らすようなものだろう。つまり、この題名は不可能性の象徴だ。もちろん、地上で生きることに嫌悪を感じる鳥のような魂もある。だが、その自由にも孤独という代償がある。
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