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気の赴くままにつれづれと。
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東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた[1]。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている[2]。しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が10数万人に達したとも伝えられており[3]、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる[4]。
農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていた事も重なり、1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたという[5]。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。
幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。
さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策が打ち出され「商業的農業の公認による年貢増徴策」へと転換され、地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行きすぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。大凶作の一方で米価の上昇に歯止めがかからず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。これは、国内における飢餓輸出と同様の構造である。
またコメを作物として見た場合、本来温暖な地域で生育する作物を寒冷な地域で作付けしたため、気温低下の影響を受けやすく、減作や皆無作などの危機的状況を招きやすかった。さらに栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、安定した収穫は困難であった。
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