最近、江戸幕府見直し論が多いので、わざと少し大げさに書いたが、侍の心中に平民などを人間視する意識など無かったのだ。明治維新は、後の薩長支配(特に長州支配)という害悪を産んだが、そもそも明治維新そのものが、西国雄藩(外様)による徳川幕府打倒運動にすぎなかったのであり、権力闘争なのであって革命でも何でもない。ただし、明治政府の打ち出した「四民平等」(まあ、形式的な部分が大きいとは言え)は、日本の近代国家としての最低の条件を整えたと言えるだろう。
江戸幕府の「国家意識の無さ」の例として田沼時代に起きた天明の大飢饉のウィキペディア記事を載せておく。江戸幕府だけでなく、諸国諸大名も侍層のことしか頭になく、領民は「納税機械」であるとしか見做していなかったのが、下の悲惨な事例(略したが、特に東北諸藩の例)からよくわかる。田沼の印旛沼干拓なども、幕府収入を増やすためのものであり、べつに領民のためではない。むしろ、飢饉時の余計な労役で農民は苦しんだのだ。
なお、田沼の「重商主義」を高く評価する声が最近は多いが、これも徳川政権維持のためのひとつの手法でしかなく、安倍総理の経済界との癒着の同類でしかない、と私は思っている。
(以下引用)
経緯[編集]
東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた[1]。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている[2]。しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が10数万人に達したとも伝えられており[3]、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる[4]。
農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていた事も重なり、1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたという[5]。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。
背景[編集]
幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。
さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策が打ち出され「商業的農業の公認による年貢増徴策」へと転換され、地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行きすぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。大凶作の一方で米価の上昇に歯止めがかからず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。これは、国内における飢餓輸出と同様の構造である。
またコメを作物として見た場合、本来温暖な地域で生育する作物を寒冷な地域で作付けしたため、気温低下の影響を受けやすく、減作や皆無作などの危機的状況を招きやすかった。さらに栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、安定した収穫は困難であった。