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実写版「この世界の片隅に」のこと

前にも引用した細馬氏の論考(現在、11回まで書かれていると思う)の一部を転載。

原作漫画にあってアニメ版からほとんど消えているものが、すずをめぐる男女の葛藤である。簡単に言えば、これは2種類ある。「周作・すず・水原」の三角関係と「りん・周作・すず」の三角関係だ。前者は、初恋的な思慕の情を寄せていた相手と現在の夫の間ですずが悩む、つまり「不倫」をするべきか否かという問題で、しかもその「不倫」は、実は相手はこれから死地(戦場)に向かうということが前提されている。結果的にはすずは、死を目前にしている初恋の人とすずを一夜共にさせようとした夫周作への怒りの気持ちを水原に言うことで逆に現在の周作への愛情を水原に知らせることになり、水原も潔くすずへの思慕や未練をあきらめることになる。こちらは、アニメでも描かれていたのだが、すずと水原の精神的なつながりの描き方が希薄だったため、アニメの中に出てくる白鷺が、水原の象徴、すずの水原への思いの象徴であることが観客に伝わっていない可能性が高いと私は思う。
戦争末期にすずの家に舞い降りて去っていった白鷺は水原の魂だったのである。だから、すずはあの白鷺を追って駆け出したのだが、あの場面で観客の何人が白鷺と水原を結び付けて理解しただろうか。
一方、「りん・周作・すず」の三角関係は、りんが遊女であるために、特殊な三角関係となっている。昔の男たちにとって、独身だろうが家庭持ちだろうが、遊女を買うことはべつに問題となる行為ではなかった、ということが現在の人間に伝わるかどうか、疑問だが、それにしても、夫が遊女と関係を持っているということは当時の妻たちにとっても不愉快だったことは確かだろう。
そして、アニメでは、りんと周作の間に関係があるらしい、ということに関するエピソードはほとんどカットされ、すずが親切な遊女と仲良くなるだけの「微笑ましい」エピソードに見える形で描かれ、それはそれで家族鑑賞アニメとしては正しいやり方だと思うが、それによって原作の複雑さ、「北条すず」の「北条」ではないが、「豊穣さ」を幾分か犠牲にしているわけである。

で、以上、長々と書いたのは、実はほんの少し前にテレビドラマ版「この世界の片隅に」をHuluで見て、これが予想以上に優れた作品、いや、ほとんど傑作だったので、それをお知らせするためである。
主演の北川景子はすず役としては美人すぎるし、「ぼんやり」感にやや欠けるが、好演であり、脇役も脚本も演出もすべていい。特に、エンディングは、原作を少し変えているが、こちらのエンディングのほうが、実写版テレビドラマには合っているな、と思う。なお、篠田三郎が周作の父親役をやっているが、実にぴったりである。いい中年(もう老年か)役者になったものだ。径子役のりょうも、彼女しか適役はいないだろう、というはまり役である。
で、最初に書いた「男女関係の機微」という、アニメからはかなり抜け落ちたものが、この実写版ではきちんと描かれ、しかも、俗な改悪はされていない。見事な脚本、演出である。
なお、最後に出てくる拾い子は芦田真菜である。よく似た顔だなあ、と思ったら本人だったww 晴美をやった子役は、地味な顔で内気そうな感じが晴美役にぴったりで、これも良かった。
映画と違って、こうした「シリーズ物でないテレビドラマ」は、どんな傑作でも多くの人に見逃され、適切な評価をされない可能性があるので、ネットテレビに加入されている方に視聴をお勧めしておく。

なお、幾つかの点で実写版には小さな改変があるが、それは視聴者に納得しやすくするための「合理化」であり、それはそれで、「一回きりで消えていく」のが普通であるテレビドラマとしては「あり」だと私は思う。たとえば、冒頭のすずの幼時の「人さらい」の話は完全に合理化されていて、これは上手い改変だ、と私は思った。もちろん、それによって原作漫画の持つ「不思議な味わい」も消えることになるが、視聴者に謎を残さないほうが、つまり合理性を重視するほうが、テレビドラマではいいと思う。原作ファンの中には小さな改変も許さない「原作原理主義者」もいるだろうが、この脚本は最大限に原作を尊重していることは見ればわかるかと思う。

まあ、原作漫画、アニメ、実写版すべてが傑作、あるいは名作という作品はこれまで「デスノート」くらいしかなかったが、「この世界の片隅に」もそうなったようだ。ただ、実写版の評価をほとんど聞いたことが無いので、ここに書いた次第だ。実写版も劇場公開してもいいのではないだろうか。


(以下引用)




(図1:『この世界の片隅に』 下巻 p. 19)

 だから、周作が「すずさんは小まいのう」「立っても小まいのう」と言うとき、そこに物理的な小ささ以上の意味を読み取ってしまう。それは、しゃがんでも立っても変わることのないすずの属性を指しているようであり、それはかつて径子がすずのことを突き放すように言った「放っとき、まだ子供なんよ」ということばに含まれる「幼さ」に通じているようでもある。義父の円太郎が居なくなったあとに家を三ヶ月空けることになった周作は「大丈夫かのすずさん こがいに小もうて こがいに細うて わしも父ちゃんも居らんことなって この家を守りきれるかの」とすずの手を握るのだが、ここで「細い」という女手を思わせることばと組み合わされている「小まい」にも、ある種の非大人性が表されているように思う。

 そう考えると、周作を見送るすずが唇に紅をさす行為(第7回「紅の器」参照)に、「小まい」ということばに対する対抗を見ることもできるだろう。紅は、女性を強調する化粧であると同時に、子供のような属性を否定してみせる化粧でもある。

 しかし、呉弁に多少触れたことのある人ならともかく、そうでない人にこの「小まい」の感じは伝わるだろうか。まして漢字表記を用いることのできないアニメーションで、「こまい」という音から「小まい」という意味を即座に思い浮かべることができるだろうか。


 周作の「すずさんは小まいのう」ということばをきいて、わたしたちは、確かこれと似た言い回しを前にも見たことを思い出す。それはかつて水原がすずを抱き寄せながら言った「すずは温いのう」である。そしてどちらのことばも、すずの体に触れながら言われていることにも気づく。周作の言う「小まい」は、視覚的な小ささではなく、すずに触れその感触によって実感される体性感覚を言い当てている。それが、水原の「温い」を思い出させるのだ。


(図2: 『この世界の片隅に』中巻 p. 86)

 そしてこの二人の似たことばを並べるとき、わたしたちはもう一つのことに気づく。それは周作がずっと「すずさん」とすずをさん付けしているのに対して、水原が「すず」と呼び捨てにしていることだ。周作にとってすずは「すずさん/あんた」であるのに対し、水原にとってすずは「すず/お前」である。



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