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恋愛とフェミニズム

娯楽記事中心の私の別ブログに書いたばかりの記事で、ほとんど妄想的推理に基づいた記事だが、書いているうちについ熱中して力が入ったので、せっかくだからここにも載せておく。
記事中で「恋愛批判」みたいなことを書いているが、念のために言えば、私も恋愛の価値は認めている。だが、「フェミニズム」的には問題が大きいということだ。恋愛とは、その本質はスタンダールが喝破したように「結晶作用」であり、自分で作り上げた妄想である。それ以外は「打算」であり、相手を「価値」如何によって選択する「購買行為」だろう。そのどちらも大きな意義があるのであり、問題は、その妄想が当人に破滅的結果をもたらす場合だけだ。男だろうが女だろうが、他者に依存する限り、「板子一枚下は海」なのだが、そのスリルがまた快感だ、という人もいるだろう。

(以下自己引用)
記事中では明言されていないし、ロードムービーだというから、私の予測が間違う可能性もあるが、「誰でも知っている世界的古典」「背筋の伸びた主人公」と、「果てしなきスカーレット」というタイトルから見て、元ネタは「風とともに去りぬ」だろうと私は推理する。
もちろん、「風と共に去りぬ」は現代文学であるが、現代人(あるいは「勘違い男」細田守)にとってはもはや古典の範疇ではないか、ということだ。
まあ、自分では自分をフェミニストだと思っている細田守だから、大いなる勘違いアニメになる可能性もあるが、大きな元ネタ、つまり作品の柱があるから、これまでのような迷走作品よりはまともな作品になるかと期待する。
ただし、「風と共に去りぬ」は、主人公はスカーレット・オハラだが、話を動かしているのは、彼女の愛したふたりの男、アシュレー・ウィルクスとレット・バトラー(高校生のころに読んだ作品の登場人物名を今でも覚えているのだから、それらのキャラの存在感が凄いということだ)であり、そしてスカーレット・オハラは「時代の波に抵抗するヒロイン」であって、「冒険物語のヒロイン」ではない。つまり、細田守の談話の内容だと、話の上面(主要キャラなど)をなぞっても、「風と共に去りぬ」という作品の本質とはズレた内容になる可能性が高い。
話の舞台は異世界で、ヒロインも、スカーレット・オハラではなくナウシカに近くなると予測する。つまり「スカーレット」というタイトルは無意味化するわけだ。

おそらく、ラストシーンだけ映画「風とともに去りぬ」になるのだろうと推理する。つまり、自分の考え間違いから愛する男に去られて一人になり、絶望して丘の上に立った「スカーレット」が、呆然と彼方を見ながら「明日、明日考えよう。明日はまた別の日だ」と呟き、カメラが引いて、夕焼け空を背景にした彼女が大自然の中の点景となって終わり、である。恋愛という他者依存から自分という本来の姿に戻る点では、これこそ本物のフェミニズムである。

まあ、御託はともかく、「面白い」作品になれば、娯楽性が肝心のアニメとしては、それでいいのである。



(以下引用)

細田守監督、最新作『果てしなきスカーレット』は「世界的なとある古典」がモチーフ
細田守監督、最新作『果てしなきスカーレット』は「世界的なとある古典」がモチーフ
© 『果てしなきスカーレット』スーパーティザービジュアル - (c)2025 スタジオ地図



 『竜とそばかすの姫』(2021)以来4年ぶりの新作アニメーション映画『果てしなきスカーレット』(2025年冬公開)を発表した細田守監督が23日、都内で行われた製作発表会見に出席し、謎に包まれた作品の概要を自ら説明した。会見には、スタジオ地図プロデューサーの齋藤優一郎も登壇した。

 細田監督が脚本・原作も手がける『果てしなきスカーレット』は、東宝が日本配給、それ以外の地域はソニー・ピクチャーズが配給する。主人公は「とある国のプリンセス」で、「誰もが知っている、世界的なとある古典をモチーフにした内容。もう一人、彼女と対照的な登場人物が出てくるロードムービーのような作品」であることが判明している。


© 会見の様子
 細田監督は会見冒頭、「『竜とそばかすの姫』はたくさんの人に観てもらえました。また新しい作品を作ることになりました。ぜひみなさんに興味を持って見てもらえば」と笑顔であいさつ。ハリウッド大手のソニー・ピクチャーズによる全世界配給が決まっているとも述べ、齋藤プロデューサーは「『竜とそばかすの姫』以来、世界では歴史の針が逆戻りするような悲しい出来事が起こっている。次の映画をどうするかとなった時に、日本のマーケットを意識した作品というより、最初から世界を視野に入れた作品を作るべきではないかということになった」と細田監督とのやり取りを紹介する。

 そこで細田監督が提案したのが『果てしなきスカーレット』という壮大な作品だったといい、齋藤プロデューサーは「大変な話題を呼ぶ作品になるのではないかという予感がした。どうすればこの力強い、大きな作品を世界で配給できるかを考え、これをグローバルに届けるために日本と世界が手を取り合う新しい仕組みを作らないとダメだと思いました。その後、ハリウッドメジャーのソニー・ピクチャーズさんから一緒にこの作品を作りましょうと声をかけてもらえ、共同出資や共同制作というスクラムを作り出すことができました」と経緯を明かす。


© ティザービジュアルを公開した細田守監督
 壇上には本作のヒントとなるティザービジュアルが紹介され、細田監督は「今まで作品を作るたびに新しいチャレンジをしてきた。一作ごとに壁を乗り越えようと頑張ってきたんです。今回も壁というか、見た目の感じをアニメーションという技法を使いながらも過去の作品を超えたものにしたいと思っている」とアニメ技法に新趣向を凝らした作品となることを明言。「以前から実験を積み重ね、いわゆるセルアニメでも、ハリウッド的なCGアニメでもない“ルック”を目指した、アニメーションの可能性を広げる作品にしたい」と意気込み、「アニメーションの見方が浸透していく中、今までの型を続けるという考えでなく、もっと先に進んでいかなければならないという時代になってきた」とそこにこだわる理由も紹介した。

 ヒロイン像については「今回の映画は今までで一番ハードで困難な作品。これくらい背筋の伸びた主人公像が必要だと思った。そんな彼女と旅をすることで、何か希望を見出すものにしたいと考えています」と述べ、「テーマも(過去の作品と比べ)一番大きなテーマになった。世界の人々の心にある普遍的なテーマをこの映画で表現したい」としみじみとコメント。「生と死みたいなものにも踏み込む大きなテーマになります」と作品の構想、方向性を語っていた。(取材・文:名鹿祥史)

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愛しのリヴィアン(AV女優ではなくEV)

さるアンケートによると、満足度1位で、信頼性22位(最下位)という不思議な車がリヴィアンである。「満足度1位」には何か裏がありそうだ。
少なくとも、美的にはグロなデザインである。亀か河馬かよ。
縦長のヘッドライトが不気味だ。バンパーが口に見える。


10No infomation万国アノニマスさん 
リヴィアンの何に満足してるの?ってのがリアルな疑問だ
※Amazonと提携したことで有名なEVメーカー
2025_rivian_r1t_crew-cab-pickup


↑ unknown万国アノニマスさん 
話を聞く限り、基本的には物理的なボタンがあるテスラらしい
テスラ車オーナーからするとボタンが無いのが最大の不満点の1つだからね
 
11No infomation万国アノニマスさん 
リヴィアンとか聞いたことなかったわ
 

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女王さまのお言葉


いい加減、目覚めなさい。
日本という国は、そういう特権階級の人たちが、楽しく、幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が、安い給料で働き、高い税金を払うことで、成り立っているんです。
そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる?
今のままずーっとおろかでいてくれればいいの。世の中のしくみや、不公平なんかに気づかず、テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら、上司の言うことを大人しく聞いて、戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくればいいの。



        ( 「女王の教室」より   )


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月の「上弦」「下弦」という呼び方

今朝の早朝散歩はいつもより少し早く、午前4時半ごろに家を出て、その時は空の大半が雲に覆われていたが、家に帰った5時少し過ぎにはかなり晴れ、その時、月は天頂ちかくにあった。
その月(旧暦11月23日の月)は半月で、弓で言えば弦の部分が斜め上にあり、それなら「上弦の月」かと言えば、以前調べた時には、月の後半の半月は「下弦の月」だったと記憶する。なぜ、そのようなナンセンスな命名がされたのか、それは日本古来の月の呼び方か、と思って、今調べることにする。

結局、同じ日の月が観察する時間帯によって見え方が違うわけで、実に非科学的な命名である。本当に昔から「上弦の月」「下弦の月」という言葉を使っていたか、怪しいものだ。
月が一番見える時間帯だと、上弦の月の弦が下にあり、下弦の月の弦は上にある、となるのではないか。

(以下引用)




月は約29.5日の周期で満ち欠けを繰り返しており、太陽と月の位置によって、地球からみた時の形が変わります。





上弦の月と下弦の月の見分け方

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見える時間の違い

上弦の月は、昼頃に東の空に昇り、夕方頃に南中、そして真夜中に西の空から沈んでいきます。一方、下弦の月は、真夜中に東の空に昇り、明け方頃に南中、そして昼頃に西の空から沈んでいきます。

なぜ、このようになるのか、下の図を見ながら考えてみましょう。





box2
こちらの図は、上弦・満月・下弦の時の、月と地球、太陽の位置関係を表したものです。

地球は反時計回りに自転しているため、月が上弦の時の位置にある場合、月はD(昼頃)に見え始め、A(夕方頃)に最も見やすくなり、B(深夜)に地平線の下に沈んでしまいます。C(明け方頃)は地球の裏側になるため、全く見ることが出来ません。

同様に、月が下弦の位置にある場合、A(夕方頃)の時間では月が地球の裏側にあるため見ることが出来ず、B(深夜頃)の位置になった時にようやく地平線から月が出てくることになります。

このため、上弦の月と下弦の月は見える時間が異なるのです。





名前の由来は?

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上弦や下弦の名前に使われている弦(つる)というのは弓に張る糸のことで、半月の形が弓に似ていることから、弓の真っ直ぐな部分である「弦」の漢字が用いられたと言われています。

そして上弦と下弦の名前の由来は諸説ありますが、有名なものは下記の2つです。

1つ目は、新月を含む日を1日とし、月の満ち欠けで1か月を定める太陰暦を使っていた時代に、月の前半(上旬)の月を上弦の月、月の後半(下旬)の月を下弦の月と呼んだというもの。

2つ目は、西の地平線に沈む時に、弦(半月の真っ直ぐな所)が上に位置しているか、下に位置しているかでどうかでつけられたというもの。上弦の月は直線部が上で、半円部が下の状態で沈んでいきます。このため弦の部分が上で沈む月を上弦の月、弦の部分が下で沈む月を下弦の月と呼んだというものです。








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乳幼児と経鼻型インフルエンザワクチンのこと

「大摩邇」から転載。
生きたウィルスの接種で免疫を作る」という、なかなか冒険的な手法のようだ。
それなら、単にインフルエンザに罹患しても同じではないか? 「弱毒化してあるから乳幼児でも安全だ」と本当に言えるのか。そもそも乳幼児を使った治験などやったかどうか。まず、100%やっていないと私は推測する。そういう治験に我が子を提供する母親などいるとは思えないからだ。
堤未果が「アメリカでは48人死亡している」と言っているのだから、親は慎重に行動するべきだろう。


(以下引用)


X(旧Twitter)で経鼻型インフルワクチンで死亡した男児のことが話題になっていました。



 


ポストされていた動画がコチラ↓


 



 


ブログがコチラ↓


 

 


 


日本でも経鼻型インフルエンザワクチンは既に使われています。


 

 


こちらのクリニックに分かりやすい解説がありました↓


 

 


 



 



 


 


アメリカでは48人が死亡しているようです。


 

 


 


フルミストは生ワクチンです。


 


従来の注射で打ってきたインフルエンザワクチンは不活化ワクチンです。


 


種類に違うワクチンですので分かった上でご検討下さいね。

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「罪と罰」の「罪」と「罰」は何か

昨日の「『実践理性批判』批判」の前書き末尾に私はこう書いた。

さらに言えば、下のカントの説は、それ自体「証明不可能な断定」そのものなので、それを信じるのは、宗教信仰と同じになる。つまり、それは哲学としてはダメダメだ、と私は思う。

しかし、それは宗教が無意味だということを意味しないのはもちろんだ。私はこの世界からフィクションが消えたら地獄以下だ、ということすら書いているのである。宗教がフィクションだとしても、その効用が素晴らしい(ただし、その悪用の危険性も物凄い)ことを私は当然認めている。カントの説への批判は、「世界の真理を追求するのが使命である『哲学』としてはダメダメだ」、ということだ。

で、昨日だったか、たまたま読んだ小林秀雄の対談集にこういう一節(小林発言)がある。

「罪と罰」は純粋心理批判だよ。心理記述じゃないのだ。カントの意味の批判なのだ。

「カントの意味の批判」とは「分析と考察」くらいに解すればいいかと思う。で、「罪と罰」が「心理記述ではなく心理批判だ」という小林の説は、分かるような分からないような言葉である。「罪と罰」の中にはラスコリニコフの「心理記述」はたくさんあるが、「心理批判」はほとんど無かったように私はうろ覚えで記憶しているからだ。特に最後のラスコリニコフの「回心」あるいは「改心」の内容はまったく記述すらされていないのである。とすると、この作品の最大の問題(謎)は実は「罪と罰」という題名そのものにあると思う。
まあ、私も含めてたいていの人は、

「真の罪とは法的な罪ではなく、『神への罪』であり、その罰も罪びと自体の心に起こる後悔と反省である」

と考えるかと思う。この問題を私はこれまで考えたことすらなかったが、あの作品の末尾(ラスコリニコフがソーニャの前に膝をつき、彼女の足に接吻する行動)を見ると、そうとしか思えないわけだ。つまり、ソーニャこそは彼の回心を告げるべき「神の代理」であるわけだろう。

ということで、いずれまた「罪と罰」を再読する必要性が出てきたわけだが、それまでは生きていたいものである。

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イカ引用

私の別ブログに書いた記事だが、わりとお気に入りなので、こちらにも載せる。
文中末尾の「昇華された」が言葉足らずだが、「人間的次元から神的次元に昇華された」とでも言っておく。母と子の愛、あるいは男と女の愛の究極的な姿、とも言える。世界が真っ暗になっても、相手がそこにいるという愛の絆だ。

(以下引用)

「ハンター×ハンター」の「殺し屋少年」は、作者のキャラ作りの合理性が際立った特徴になっていると思う。殺しに慣れすぎているために他者を殺すことにためらいが無いし、自分の命すら軽く見ている。そのために大胆な行動(傍目には自殺的行為と思える行動)を平気でやるわけだ。
通常の作者のキャラ作りだと、ここまでの合理性はない。(ちなみに、「キルア」の中には「キル」がある。)

他のキャラの「見えづらい」合理性も同じくである。すべて、個々のキャラの独自の行動原理がある。それこそが、見かけだけではない、真の個性である。だから、個々のキャラが際立っている。
たとえば、今回見た話では、「イカルゴ」という名前の敵が出るが、これはおそらく、彼が「イカ」を理想とするタコ怪物であり、狙撃者だから「ゴルゴ13」から名前を借りて「イカ・ゴルゴ」で、「イカルゴ」という名まえになったのだろう。
イカの姿かたちがタコにとって理想であるという哲学は、分かるような分からないような話だが、まあ、どうせタコの考えることである。実際、世間でも「このタコ!」という悪口はあるが、「このイカ!」という悪口はない。なぜかタコは軽視される存在のようだ。せいぜいが「タコ焼き」で売れる程度で、しかも、タコ焼きの中にタコはほとんど入っておらず、詐欺食物だ。

なお、「ハンター×ハンター」の大きな特徴のひとつは、単なる「友情・努力・勝利」ではなく、その「勝利」に健全な少年漫画的道徳性があることだ。それは「尊敬すべき敵への敬意」である。単なる「あいつは敵だ。敵は殺せ」ではない。

「母殺し」をして生まれた冷酷無残なメルエムを、この作品のラブロマンス(おそらく過去のすべての少年漫画史上最大のラブロマンス。いや、「恋愛」ではなく、昇華された一種の疑似的な母と子の愛情か。コムギの膝の上で死んでいくメルエムの姿は、ミケランジェロの聖母子像、「ピエタ」の中のマリアとキリストである。)の主人公としたのも凄い。



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プロフィール

HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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